音とはなちるさとの物語 その7
「ん…………」
不意に浮上する意識。
冬香さんの手が、私の髪を優しく撫でていた。首に手をあてて、上体を起こす。
「先輩は……?」
「ご自分に纏わりついている女性が見えたようで、慌ててどこかに行ってしまいました」
立ち上がりながらそう言った冬香さんは、藤色の着物についた塵を払う。
私もそれに倣って立ち上がり、制服についた塵を払った。
「そういえば、住所とか何も言ってなかったのに、どうして分かったんですか?」
窓に目を向けていた冬香さんは、私の質問にこちらを見た。
「大まかな場所はタブレットの位置確認で。この学校に入ってからは呪いの気配を辿ってきました」
私は驚いてその言葉を繰り返した。
「気配を辿ってって、そんな事できるもんなんですね……」
「まあ、自分で付けたものですし」
さも当然の事のように言うが、そんなモノなのかな?それとも、常識外れなのだろうか。
もしかすると、昨日からの冬香さんの発言は、とんでもなく非常識な事なのでは?
呪いとか怨霊とか見える人達の中でも、飛び抜けている気がする。
若月さんも、天才だと言っていたし。怨霊を写真に撮るなんて、非常識な事ができる若月さんが天才だと言うのだから、私の感覚なんかでは計り知れないのだろう。
「もう効果の切れる時間でしたし、勝手に学校の中に入ってきてしまいました。明日からは校門の外で待ちますね」
「あ、ありがとうございます。この時間までには、必ず学校から出るようにします」
わざわざ来てくれるなんて申し訳ないが、この時間帯に効力が切れるのだとしたら、こちらから店に行っている時間がない。せめて、こんなところまで入ってこなくても良いように行動しなきゃ。
その思いが強く出たのか、自分で思っている以上に勢いよく言った。
冬香さんはそれに微笑むと、人差し指を顎に当てて口を開く。
「今日はオーナーも来ていますので、お茶に行きませんか。お薦めのカフェがあると嬉しいのですけど」
「あ、それなら国道沿いに、ケーキ屋さん併設の可愛いカフェがありますよ。プチ・トリアノンってお店です」
「かわいい名前ですね。オーナーも好きそう」
「内装もかわいいんですよ」
「ふふ、楽しみですね」
若月さんとの合流も心が躍るし、冬香さんと楽しく話している今のこの空気感も幸せ。
まだ先輩が校内を彷徨いていて、待ち伏せでもされたらどうしよう。
今日はもう、先輩に遭遇しませんように、そう考えながら階段を降りる。
数分後にこの思考を後悔することになるのだが、そうとも知らず幸福感に浸っていた。
悪い予感は当たる。
いや、考えてしまったから現実になったのかも。
校庭で先輩と取り巻きの女性が2人、待ち構えていた。
校門のすぐ傍にある桜の木に隠れるようにして立っていたため、直前まで気が付かなかったのだ。
「ちょっと、遠野さん」
取り巻きの一人が発した声で、ようやく人が居ることに気がつく。
先輩に最も近い取り巻きの中心人物で、同じ部の3年生でもある。
さっと顔から血の気が引いたのが、自分でも分かった。
私と冬香さんの前に躍り出てきた3年の女子部員は、腰に手を当てて仁王立ちで行方を阻む。
「部活どうするの?辞めるなら、ちゃんと辞めるって言いにきなさいよ」
「そうよ。みんなに迷惑がかかるじゃない」
もう一人も同じように出てきて仁王立ちする。こっちは2年生だ。
先輩は桜の木から離れようとせず、その表情は影になっていてよく分からない。
だが、守ってくれる気などない事だけは明確だった。
そもそも一度も守られた事などない。上手い事逃してくれたり、回避させてくれたりした事も、今思えばなかった。
傍観し、我関せず。
お互い空気を読み合い、ただの先輩と後輩を演じて。
ゲームみたいに感じ、それなりにスリルを味わっているつもりだった。
だがそれは、都合よく私が立ち回れるように、先輩が敷いたレールだったのだ。
冬香さんが来てくれて、守られて、ようやくその事に気がついた。
「退部届は部長と顧問に出しました」
「そんなの聞いてないわ。どうして直接私達に言わないのよ、辞めたいですって。許可取ってからでしょ。順番間違ってるわよ」
片手でこちらを指差す3年の女子部員は、私の背後の人物に目を向ける。
まさか、冬香さんに失礼な事言わないでしょうね。
「部外者を勝手に入れたの?校則違反よ!」
私をさしていた指が、冬香さんに向かう。
やめてほしかった事が、あっという間に現実になって吐き気がする。
「あの」
後ろから冬香さんの声。私は申し訳なさから、振り返って謝ろうとした。
しかしそれよりも早く、冬香さんは先輩女子部員に言う。
「遠野さまが入れたのではなく、私が勝手に入ったのです。それが校則違反だとしても、生命の危機なら学校も許してくださると思います」
私は冬香さんの「それから」という言葉に、開きかけた口を閉ざして女子部員に視線を戻した。
「許可は同時進行で行っておりますので、今頃は終わっているでしょう。それよりも、あなた方の部は、顧問や部長より部員に決定権があるのですか?入退部は部長や顧問を蔑ろにしても良いという事でしょうか?」
「そ、そんな事言ってないわ」
背後にいた冬香さんは、一歩前に出て私と並んだ。首を傾げて女子部員に質問する。
「そんな事とは、どの部分でしょう?蔑ろにしていない、の部分でしょうか?」
「そ、そうよ。もちろん最後は顧問に提出だけど、普通はまずみんなに言って、それから部長でしょ!」
「明確な規定があるのですか?部の規定を記したモノがどこかに存在するという事でしょうか」
「それは……」
たじろぐ女子部員に冬香さんはさらに質問を飛ばす。
「さきほど、普通とおっしゃいましたが、どの部もそうなのでしょうか?それなら円満に退部できるように、相談できる体制は整っておりましたか?」
「…………」
女子部員と違って、冬香さんは声を荒げる事もなく、かといって辛辣な声色でもなかった。
ただ、疑問を口にだしているだけだ。
「反証も反論もないようですので、私達はこれで失礼致しますね。遠野さまと楽しいティータイムが待っていますので」
そう言って微笑んだ冬香さんは、魅惑的な笑みを見せて私に言う。
「さあ、参りましょう。遠野さまの好きなケーキを教えてくださいね」
冬香さんに背中を押されて、女子部員の横を通りすぎる。
「ま、待ちなさいよ!」
振り返ると、最初に仁王立ちで立ち塞がった3年の女子部員が、顔を真っ赤にして冬香さんを睨んでいた。
「逃げるつもり!?」
私と違って冬香さんは完全に振り向いてはいない。少しだけ顔を後ろに傾け、目だけを向けていた。私に合わせて立ち止まったのか、一応は足を止めて相手の出方を伺っている。
「……うっ、かはっ」
遠くから呻くような声が聞こえる気がした。声の主を探して目だけを動かし、桜の木に隠れるようにして立っている先輩に目を向ける。
木に手をついて苦しそうな先輩。どうしたのだろうかと見ていると、木にもたれ掛かる。そしてすぐ、ずり落ちるようにして倒れた。
何事かと目を凝らして見ていると、陽炎のような揺らめきが空気中に現れる。それがこっちに向かってくるような気がした。
私の前に、冬香さんが庇うように出てきた。
しかし得体の知れない恐怖に晒された私は、思わず冬香さんの肩を校門の方へ押して言った。
「逃げて下さい!これ以上、巻き込んでしまったら、私……」
申し訳なさと恐怖で泣きそうだった。しかし冬香さんはその場から動かず、仁王立ちの女子先輩から目を離す事なく言った。
「遠野さまは我々が守ります」
「我々って?……あ、オーナーさんが来てるって……いや、でも!」
逃げてと言いたかったが、声が出てこなかった。写真に撮る事ができるのなら、私よりも見えているし経験もある。少しくらい頼ってもいいだろうか。そんな考えが瞬時に脳裏を駆け巡る。
「オーナーも来ておりますが、もっと攻撃型で頼り甲斐のある人も連れてきましたよ」
冬香さんがそう言った時だった。桜の木から黒い歪んだ手のようなモノが出てきて、こちらに向かってくるのが見えた。そして女子部員の黒い笑み。陽炎は女子部員の前にも現れている。
「まあ、2方向から。どうしようかしら」
呑気な口調でそう呟いた冬香さん。私は見る以外、何の力もない。だが、冬香さんに迷惑をかけたくない。
冬香さんがものすごい能力者だということは、なんとなく理解していたが、なにぶん外見がか弱く可憐な女性に見える。あの空間の歪みが、物理的にどう影響するかも分からない。変な手と空間の歪みのどちらかが、冬香さんの綺麗な頬に傷でもつけたら一大事だ。
「冬香さん!」
冬香さんの顔をぎゅっと抱きしめるようにしてかかえ、体を硬らせた。痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じる。
バチッと大きな弾けるような音が響く。あまりにも力を入れていたので、痛みを感じないのだろうか。
「礼……」
私の腕の中で冬香さんが何事か呟いた。
いつまでも訪れない痛み。うっすら目を開ける。
「オレの女に手をあげたら、たとえ高校生でも殺す」
見知らぬ男の声。目の前には誰かの衣服。それが背中だと気がつくのにしばし時間を要した。
私と冬香さんを、庇うようにして立っている人物。
見上げると巻毛の後頭部。訳がわからず冬香さんを解放して、その目を見る。
「大丈夫。彼、強いから」
冬香さんはそう言って男を見上げた。
男の手元から、何かが立ち昇っている事に気がつく。
ゆらりと見える白い煙。あれはなんだろう。
疑問に思って見ていると、手を軽く振り払うような動作。白い煙は塊となって男の手から離れ、凄い勢いで3年の女子部員に直撃する。
断末魔のような声。
女子高生の声とは思えぬ悲鳴の後、3年の女子部員は倒れ伏し、2年の女子部員は尻餅をついて恐怖の眼差しを男に向けている。
それで終わりかと思ったが、巻毛の男は桜の方へ向かって足を進めている。
「な、何……?」
その手は青い光で満ちていた。
「ここでは目立ちますから、外に行きましょう」
冬香さんはそっと私の背中を押し、校門の外へ誘う。
振り返りながら私が見た光景は、うつ伏せの3年女子、逃げ出す2年女子、そして桜の下で疼くまる先輩に歩み寄る、男の後ろ姿と青い光だった。




