音とはなちるさとの物語 その6
帰りの電車の中で、私は今日の出来事を繰り返し思い出していた。
非日常を求めていった先で、想像を遥かに越える出来事に遭遇するなんて。
あまりにも多くの体験をした反動か、口を開けたままぼんやりとしたまま揺られていた。
ふいに鞄が震えた事に気がつき、中から貸し出されたタブレットを取り出すと、通知が点灯している。
『フィヨン・システム』
ーメッセージが1件届いていますー
タップすると地図のような画面が出てきた。所々青いポインタが見えている。
地図に表示されている地名は見覚えがない。
「メッセージってどこから見るんだろう……」
左にアイコンがあり、メンバー、案件、ポイント確認、ポイント交換と続く。
右上にはメニューと書かれた小さいアイコンがあり、赤い光輪が点滅していたので押してみる。
設定画面のようだが、個別メッセージの場所だけに赤いポインタが付いている。
押すと冬香さんからのメッセージが表示された。
『電車の中でも見えると思いますので、ご連絡させて頂きました。煙を纏っているような白いものは大丈夫です。人に触れても何も奪っていきません。驚くかもしれませんが、襲ってきたりしませんので安心してくださいね』
メッセージを読み終わった私は、車内を見回してみる。
「あ……」
1つ向こうの扉の前に、ゆらりと佇む白い人影。ぼんやりとしていて、輪郭もはっきりしない。
その形状から、人だろうとは思うものの、よく分からない。白い煙のようなものを纏っており、煙が揺れてその人物の輪郭を隠している。
『白い煙が立ち昇っているような人がいますが、それの事ですか?』
送信すると、タブレットを手に持ったまま、再度白い煙に目を向けて注目した。
じっと観察していると、ドア横の手摺りを持ち、景色を楽しんでいる人のように見えてくる。表情までは見えないので気のせいかもしれないが、怖い印象は受けなかった。
タブレットが震えたので、メッセージを読む。
『そうです。私達は”朧”と呼んでいます。朧は問題ありませんが、黒いモノは念の為近づかないでください。自ら近づくモノがいたら、逃げてください。もし対応できない事や、怖い事があったらすぐに連絡してくださいね』
あの泣きそうだった人が、今は頼もしく感じる。何があっても守ってくれそうな気がして、人ならざる存在を見ているのに恐怖心は起こらなかった。
ふいに、冬香さんの唇の感触を思い出して赤面する。唇が当たった首筋に手を当てて、その時のことを思い出す。若月さんの近づいた相貌も、冬香さんの唇も、どちらもドキドキが増す気がして、失恋の痛みなど、すでに思い出す事が困難だった。
***
「どう、音ちゃん大丈夫そう?」
「たった今、家に着いたみたいです」
「ふうん、じゃ、説明してくれるかな」
壁に肘を置いてもたれていた巻毛の男が、若月に怖い笑顔を向けてそう尋ねた。
「違うの、礼。これは事故なのよ」
冬香は巻毛の男を制するため、若月の前に出た。
「事故みたいな事が起きないように、若月がいるんじゃねえの?」
前に出たところで、冬香の身長は男の鎖骨までしかない。その目線を遮ることさえ出来なかった。
「あー、そうよね。ごめんなさい。朝イチで解呪できるよう、礼のスケジュールは開けておいたわ」
諸手を挙げて謝る若月に、礼と呼ばれた男は冷たい視線を送っていた。
「オーナーのせいじゃありません。遠野さまの先輩がいけないんです」
礼に一歩近づき、その腰に腕を絡めた冬香はそう弁明する。
「だから、お願いがあるんだけど」
ついっと胸元に寄りかかり、下から礼を見上げて続ける冬香。
「明日、一緒に来て」
「分かった」
即答した礼に、若月が呆れた顔を向ける。
「せめて、理由を聞きなさいよ。冬香も色々省略して、結論だけ言うのやめなさい」
頷いたのは冬香だけだ。その冬香は首を少し傾げて考え、ややして若月に提案する。
「オーナーもご一緒にいかがですか」
「……まあ、面白そうではあるわね。武あたりを派遣しようと思っていたけど。うーん、そうねぇ……それならあたしの計画聞かない?」
頷いた二人は若月に近寄る。他には誰もいないのに、コソコソと話しが始まった。
***
翌日、通学路を歩きながら、昨日のことは夢だったのかと思い始めた。
一夜明けてしまうと、あまりにも日常とかけ離れている。
夢だとすると、どこまでが夢?
貸し出されたタブレットもあるし、メッセージのやりとりもある。これだけが唯一の、昨日との接点のようが気がする。
そんな事をあれこれ考えながら登校した私は、そこから始まる一日をいつも通りに過ごした。
何事もなく、放課後がやってきて、ふいに冬香さんの言葉を思い出した。
『私、毎日会いに行きますね』
そう言われて タブレットを 貸し出されたのだった。
でも、どこで会うとか、何時に会うとか、具体的な事は何も決めていない。
昨日の会話では、神戸に住んでいる事と、最寄りの駅くらいしか話題に出ていないし、どうするのだろうか。
その場しのぎの言葉だったのか。
……それとも、都合のいい会話を妄想して、それを現実だと思い込んだのかも。
放課後に入り、教室でぼんやりと座っている。ふと時計を見ると、昨日の出来事から、間も無く24時間が経過しようとしていた。
「帰ろ……」
先輩の一件から、部活には行けなくなった。充実した高校ライフから一転、一人帰宅部の私は立ち上がって、誰もいない教室を後にした。
教室の扉を閉めた私に、背後から声がかかる。
「遠野」
突然名を呼ばれたせいで、びくっとして振り返ると、そこには先輩が立っていた。
人生で今、一番会いたくない人物だ。昨日の痛みをまだ覚えている。
痛みと同時に、昨日聞いたY字の金属の残響を思い出す。
すると、ピントが合うように黒いモヤに包まれた、小さな手が見えた。
「怨嗟……」
もうそれを振り払おうとは思わないが、眉間に力が入るのは止めようがない。
「今更こんな事って思うかもしれないけどさ」
そう言うと先輩はやや躊躇いを見せたが、意を決したように口を開く。
「お前、まだ手みたいなやつ、見える?」
眉間に力が入る。
それを確認してどうしようというのか。また馬鹿にしたいのか、それとも罵りたいのか。
いずれにしろ、答えたくはない。
先輩を避けるように右へ踏み出し、通り過ぎようとした。
「待てって」
腕を掴まれたせいで通り抜ける事もできず、話したくもない人物と無言の時間がしばし過ぎた。
「俺が悪かった。俺にも見えたんだ。いや、気のせいかもしれないけど、黒い空気みたいな小さい手みたいなやつを、前の土日で何度か見た」
驚いて先輩の顔を見上げる。
不安に揺れた瞳がすぐ間近にあった。数日前なら、この近距離にドキッとしていたかもしれない。
だが、若月さんの揺れる髪1本にすら、この人は勝てないと思ってしまった。
凡庸な顔立ち。薄っぺらい思考。無責任で軽率。
この人のどこを好きだったのだろうか。
自重的な笑みが溢れる。
「誰に中絶させたんですか」
「そんな事してない」
「じゃあ、先輩だけ知らなかったんですね」
「それは……」
口籠もるところを見ると、心当たりはあるようだ。
昨日の出来事が夢でないとするなら、この人に見えている手はただの思念。
子を産めなかった母の思念なのかは分からないが、ただ纏わりついているだけで影響がない。取り払う時に激痛もなければ、心に影響もない。
そう思って睨むように先輩を見た。
そして、ふいに私に憑いていた腕のようなものを、先輩にも見つけてしまった。
「!」
気がついてしまうと、輪郭がぼんやり見えるようだ。
「そんな……」
はっきりは見えないが、女のようにみえる。先輩の首に両腕を絡めて、顔を舐め回すように纏わりついている。
「は、離して!」
慌てて掴まれた手を強く振り解いて一歩引く。
昨日の出来事は夢ではない。痛みもまだ鮮明に覚えている。
それなら私は、ただ見えるだけで人に憑いているものは祓えない。
背中を見せるのが怖くて逃げる事も出来ず、じりじりと先輩から距離を取った。
「や、やっぱり何か見えるんだな。教えてくれ!どうしたらいいのか」
せっかく距離を取ったのに、それを詰めてくる先輩。まとわりついている女の手が、私に伸びようとしている。
「あのぉ」
不意に先輩の背後から女性の声。
先輩が振り向くと同時に、私の視界にも声の主が見えた。
「彼女に急ぎの用事がありまして。少しだけ、お時間よろしいでしょうか」
今日ずっと考えていた人物が、着物姿で立っている。藤色の無地の着物に、黄色い帯が校舎には異質で、昨日は見えなかった光る薄金の膜に包まれている。金の膜は馴染むように消えたが、この状況でその疑問を口に出している余裕がない。
「冬香さん!」
なぜ学校の中にいるのだろうとは思ったが、今は先輩から伸びている女の事を伝える方が先決だ。
「冬香さん、逃げてください!」
慌てて言ったが、冬香さんは先輩を一瞥すると、首を傾げて花のように笑った。
「今日は大丈夫です」
冬香さんは声を掛けようとした先輩を待たず、その横をすり抜けるようにして目の前に来た。
先輩に絡んでいる女の手は、輪郭が動いたように見えたが、冬香さんには届かなかったようだ。
「よかった……」
そう呟くと、冬香さんは魅惑的に微笑む。
「私もよかったです、間に合って」
その背後に、手のようなものが見えた。少し身を乗り出してみると、先輩に絡んだ女が腕を伸ばしている。その長さは人の3倍はある。
警告を発する時間もなく、冬香さんに到達した。
危ないと冬香さんに告げようと開いた口は、勢いよく弾かれた手を見て言葉を飲み込んだ。
「遠野さまに保護と呪いをかけに参りました。切れた直後のようですが、なんとか間に合って良かったです」
そう言って微笑む冬香さんに、背後の先輩から声がかかる。
「誰ですか?部外者は校内への立ち入りを禁止されているはず……です、が……」
避難するような声色から始まった言葉は、振り返った冬香さんによりその色を薄めた。冬香さんの美貌が成せる技か、先輩の頬が赤く染まっている。
「あれからどうですか?痛いところはないですか?」
先輩の存在などまるで無視したような冬香さんは、そう言いながら私に一歩近寄る。
「だ、大丈夫です」
首筋へのキスを思い出した私もまた、先輩の存在など忘れかけていた。
「よかった」
ふわりと微笑む冬香さん。開花と同時に芳香を放つ薔薇のような笑み。その花の香りが虫を寄せ付けるように、先輩はふらりと足を踏み出した。
冬香さんの肩に手がかかりそうだ。
「少し、お待ちくださいね」
冬香さんは先輩を振り返って言う。
ピタリと動きを止めた先輩を確認した私は、自分の首に冬香さんの手がかかるのをぼんやり見ていた。
冬香さんは私を引き寄せ、首筋に顔を寄せると一度先輩を見た。
その頭頂しか見えていない私は、冬香さんがどんな表情で先輩を見ているのか分からない。
先輩の表情は、例えるなら【戸惑い】だろうか。
くすりと、小さな笑い声が聞こえた直後、先輩の目が見開かれた。それと同時に、チクッとした痛み。
「あ……」
自分でも驚くほど、艶かしい声が漏れて脱力した。
崩れ落ちる私を支えるようにして、廊下に座り込む冬香さん。
私はしばしの脱力を、冬香さんの太腿の上で過ごした。
先輩が何か言っているが、よく聞こえない。




