音とはなちるさとの物語 その4
付き合い始めてからも、先輩の周りは相変わらず女性で溢れている。
何度かデートして、幾度か唇も重ねたが、徐々に手がはっきり見えるようになっていく。
特に首に食い込んでいる時がよく見えた。
虫だと言って慎重に振り払っていたが、甘いムードなどその動作で壊れてしまう。
『キスから先に進めないじゃないか。それってわざとやってんの?虫が集るような男だって言いたいわけ?それとも臭いって遠回しに言ってんの?』
そうではないと弁明したが、しまいには誤魔化しきれなくなり、すべてを白状させられた。
変なものが見えるなど喜ばれるはずもなく、子供の手の話はトドメだった。
『はぁ?なんだよそれ。俺に何か言いたいことがあるならそう言えよ。回りくどい言い方しなくても聞いてやるよ』
先輩が何に怒っているのか、分からなかった。
ただ心配だっただけだ。何を言えば正解なのかも分からないまま、おろおろしていると先輩はついにあの言葉を吐き出した。
『お前、ちょっとキモいよ』
「見えたものをそのまま告げると、キモいってふられました」
「何、その男!」
どんっという、若月さんの拳が机に叩きつけられる。
「どうせその手なんて、ご多分に漏れずアレでしょ?音ちゃん、よかったわね。手遅れになる前にそんな男と切れて」
「アレ?」
私と冬香さんは同時に首を傾けた。
「え、やだ。冬香までやめてよ。あたしが汚れた大人みたいじゃない!」
若月さんはそう言って、私と冬香さんを交互に見た。
その言葉に冬香さんはじっと若月さんの胸元を見つめ、ややして真剣な眼差しで答える。
「大丈夫です。オーナーの魂は汚れていません」
「……ごめんなさい、音ちゃん。冬香は天才でね。ゆえに、天然だから許して」
額に手を当てて呆れる若月さんに、何も分かっていないような冬香さん。
その様子が可笑しくて笑ってしまった。そして若月さんが言いたかった事もなんとなく分かった。
霊的な存在、小さい手。
私が考えないようにしていた可能性の一つ。水子なんじゃないかって、若月さんは言いたかったのだろう。
「そう思うと……先輩の周りってもしかして」
「ほぼ全員と付き合っている可能性もあるわね。そんなに頻繁に見えるって事は、思念の数が多いのよ。あるいは……」
「それは……ずいぶん、不誠実な人、なんですね」
訝しげな冬香さんから避難めいた声が上がり、若月さんは何か言いかけていたのを止め、苦笑しながら私に言った。
「ようやく冬香が話に追いついてきたわね。それじゃあ、もう少し音ちゃんにレクチャーするわね」
若月さんはそう言って、私の横を指差す。
「まず、あなたの先輩についてだけど、話を聞いた限りは放っておいて大丈夫よ。あなたに憑いているのは霊的存在だけど、その先輩に見えるのはただの怨嗟だと思うの」
私は少しだけ首を傾げた。怨嗟とは何かを問いかけたかったが、若月さんの薄い唇が開いたので黙って続きを聞く。
「怨嗟は思念の一種なの。陰の気って言われる事もあるわね」
陰の気……思念?
質問の余地をくれるように、若月さんは言葉を切る。
「それって、何か悪さするんですか?」
「怨嗟単体では何もできないわね。首を絞めているように見えても、実際は苦しくないし。見え方は恐ろしいけど、体に及ぼす影響力は微々たるものよ」
色んな人が私みたいに泣かされているのなら、少しくらい影響があればいいのにと思ってしまった。
「子供の手をまとわり憑かせているのは、亡くなった子供自身ではないのよ。たぶん母親の思念の方ね」
「亡くなった、子供?」
冬香さんから訝しげな声。
「酷い男ってことよ。女を侍らせて、良い気になって、責任も取らないで」
ショックを受けたような顔の冬香さん。これで本当に話に追いついたようだ。
「でもね、その男よりあなたに憑いているモノの方が危険なのよ。世の中って不公平よね」
「え、私ですか?」
若月さんはゆっくり頷くと、続きを話し出した。
「思念なんて優しいモノじゃない。魂を持った怨霊と呼ばれる存在が、あなたにがっちり憑いている。その気になれば触れる事もできる。だから、ふんわり消えたりしない」
「じゃ、じゃあ、私はどうしたらいいんですか。このままにしておくと、どうなるんですか」
縋るように質問する。
「無自覚なまま落ち込むような状況が続くと、心が弱って霊体が病むわ。そこから侵食が進むと、最悪の場合乗っ取られる」
「の、乗っ取られる?」
「そう。あなたではない人物に、体を明け渡すことになるのよ」
そう言うと、若月さんは冬香さんを見た。
次は冬香さんが口を開く。
「ここに入ってから、猫の鳴き声は聞きましたか?」
ふと、入り口で金色の尾を見た事を思い出す。
「やっぱり猫だったんですね。声は聞いていません。金の尾っぽだけ、ちらりと見ました」
冬香さんは頷いて若月さんを見た。
「なるほど、目のほうがいいのね。じゃあ、そっちを伸ばしましょ」
「よかったですね。声は聞こえない方がいいと思います」
嫌そうな表情の冬香さんに、同意する若月さん。その怨霊は何を言っていたのだろうか。
「とても口に出せる内容じゃないから、聞かないでね」
若月さんが牽制するように言うので、思わず頷いてしまった。
「今は静かだけどね」
画面を指差してそう言う若月さん。
「あの、これは気絶している状態なんでしょうか」
「まあそうね。冬香だと思うけど……」
若月さんは冬香さんに目を向ける。冬香さんはそれを受けて、恥じるような顔で頷いた。
「メイクの時に邪魔だったんです。ずっと顔を覗き込むようにしてくるし、近寄ってきては小声で……それで、ちょっとペシっとやっちゃいました」
虫を追い払ったような調子で言う冬香さん。そんなに大層な事でもないのかもしれない。
「鏡の中の自分に見える黒いモノって、いつ頃から自覚したの?」
若月さんの質問に、私は過去を振り返る。
いつからだったかな。
街中の黒い煙は、幼い時にも見たことがある。
金縛りも、人が居たり居なかったりするが、最近多いだけで昔からだ。
では、鏡の影は?
いつから認識したのだろう。
「昔から影みたいなものは見た事がありました。でも、鏡に映っているのを認識したのは……多分、部活を始めてからです」
「やだ……」
若月さんがそう呟き、冬香さんと私は何事かと若月さんを見た。
「その先輩、関係してそうで嫌ね。しかもそこ、他にも能力者がいるかもしれないわ」
「あの、オーナー」
冬香さんは軽く片手を挙げて、若月さんに顔を向けた。
「遠野さまの学校へ一度、調査を送ってはいかがでしょうか」
「そうね、あたしもそれは考えていたの。音ちゃんに憑いているソイツが、意図的なものだとしたら、自ら追い祓ってもまた憑くかもしれないし。こちらで無理に引き剥がしたら、それこそ餌食だしね」
頷き合った若月さんと冬香さん。
何の話が纏まったのかよく分からなかったが、何か協力してくれるらしいことは分かった。
「あら、マイカ。良いところに」
冬香さんはそう言って足元を見た。私もつられて冬香さんの足元を見るが、そこには何もなかった。
しかし冬香さんはそのまま抱き上げるような動作をして、何かに微笑みかけている。
「と、冬香さん、何かいるんですか?」
恐る恐る問いかけると、冬香さんはにっこり笑って、襷掛けのチェーンを引っ張った。
エプロンのポケットから、不思議な形の金属が現れる。
Y字の金属だ。
なんだろうと思っていると、それを指で弾いた。
キンと小さな金属が鳴る。冬香さんが金属を私の耳に近づけると、ポーッと芯の太い、清浄な音が聞こえた。空間を美しく震わせる音。
なんだろうと冬香さんを見つめていたが、その胸元に何かの輪郭が浮かび上がった。
「え?」
目を2〜3度瞬いたが、輪郭が消える気配はない。
じっとそれに注目していると、徐々にはっきり見えてきて、いつの間にか全貌が露わになっていた。
「ね、猫!」
驚いてそう叫ぶと、猫は鳴き声を出さずに口を開けた。鳴いているような動作の後、冬香さんにもたれかかる。
「マイカがよろしくって」
「あ、こ、こちらこそよろしく。あ、あの、マイカには触れますか?」
「触れてごらんなさい」
若月さんに言われて、そっと手を伸ばした。
しかし私には触れることができないようだ。見えているのに、私の手はマイカをすり抜けてしまう。
「見えるだけでも充分よ」
若月さんはそう言ってくれたが、触れられないのが残念だし不思議で、何度もその輪郭に手が伸びた。何度目か、手が空を切った後、ふと疑問に思った。
見えるだけでも充分ってことは……
「見えると、祓えますか?」
「自分に憑いているモノはね。まあ、訓練は必要だけど」
では、他人のは祓えないのか。
「今はチューニングが合っているので、見えますよ。今日は夜中まで気絶していると思います」
冬香さんに言われて、自分に憑いているだろうモノを確認しようと辺りを見回す。
「ちょっと、あっちの鏡を借りてもいいですか?」
店の奥にある撮影用の鏡を指差す。
「ええ、もちろんよ」
若月さんの了承を得た私は立ち上がり、お触りから解放されたマイカは大きくあくびをする。
冬香さんがお茶のカップを下げようと、マイカを若月さんに託しているのが見えた。
後にして思えば、この時好奇心に負けて無理に憑いているモノを見ようなんて、止めておけばよかったのに……




