音とはなちるさとの物語 その2
「どうぞ。カモミールが苦手じゃないといいんですけど」
シャラ、と優しい金属音が鳴り、陶磁器の食器がカタリと音を立てる。
鼻腔を花の香りがくすぐり、私は食器と、それを出してくれた女性を交互に見た。
黒いシャツに黒いエプロンの女性は、邪魔にならない様に髪を纏めてアップにしている。大きな目に漆黒の髪が艶やかで、食器と同じくらい白い肌に、ほんのりピンクの艶やかな頬。なによりもその華やかな顔立ちは女性目線でも色気を感じた。
しっかりメイクをした、私が思い描く”働く大人の女性”って感じ。
長いチェーンを襷掛けしており、チェーンの先はエプロンポケットの中で見えない。胸元にネームプレートがあり、『メイク 冬香』と書いてある。
「ありがとうございます……」
オーナーも美形だが、冬香さんも美人だ。
こんな素敵な人達には、私みたいな人間の惨めな気持ちは分からないだろう。
だけど、中途半端に同情されるより、分からないと笑い飛ばされた方がマシかもしれない。
そんな事を考えながら、良い香りのハーブティーを飲んだ。
鼻腔を通って広がる香りに、心が解れる。
「音ちゃん。何があったのか、話したくなければ聞かないわ。今日はこの空間を楽しんでいってね。改めまして、今日はあたし"若月"と……」
若月さんはそう言って、冬香さんをチラリと見てから続ける。
「冬香で担当させていただきますね。こだわりがなければ、お任せになりますけど、どうします?」
「あの、よく分からないので、お任せでお願いします」
「かしこまりました」
柔和で嫌味のない笑顔が私に向かっていた。
「じゃあ、お茶を飲んでからメイクしましょうね」
若月さんはそう言って、ドレスを選定し始める。
「本来なら好きな色とか聞くんだけど、そこもあたしのイメージでいいかしら」
「あ、はい」
黄色いドレスが視界に入る。好きでも嫌いでもないが、今の私には眩しい色だ。
泣いたから、ビタミンカラーで元気出して、とか言われるかな。そんな事をぼんやり考えていると、冬香さんが近づいてきた。
「メイクは私が担当いたしますね。こちらにどうぞ」
緊張からか、泣いたからか。ぼんやりドレスを選ぶ若月さんを見ていた私は、飲んでいたハーブティーが殆ど残っていない事にようやく気がついた。
思い返せば、飲む毎に癒されて、落ち着きを取り戻していた。
案内されるまま、ドレスの波を越えて奥に進む。
ハリウッド女優がロケで使っていそうなメイク台が現れ、その前に座る。
メイク台の両サイドに4つずつある電球が点灯されると、泣いたせいで赤くなった瞼が際立って見えた。
「今、お化粧していますか?」
冬香さんはそう問うと、私の頭上に手を伸ばして何かを振り払った。
その動作に固まって冬香さんを見てしまう。
「あ、小さい虫がいたもので。嫌ですね。さっき窓を開けた時に入って来たのでしょうか」
「虫……」
本当に虫だったのだろうか?
自分も同じ事を過去、別の人にやった事がある。
でも、とても口にだせる内容ではないため、気を取り直して質問に答えた。
「メイク、ですよね。実はあまり詳しくなくて、特になにもしていません」
「かしこまりました。では、スキンケアから始めますね」
そう言って、冬香さんは化粧水をコットンにとって、私の顔に丁寧に乗せていく。
泣いたから、目元が特に気持ちいい。
よく見るコットンをパタパタさせる動きで、すっと顔の温度が下がっているような気がした。
「まぶた、少し腫れているので、コットンをしばらく置きますね」
顔を少し上に向けた状態でしばらく待つ。
冬香さんの気配が消え、声が少し遠くから聞こえてくる。若月さんにメイクのイメージについて聞いているようだ。
これって、私の事だよね?
「お待たせいたしました」
そう言われてコットンがなくなる。ゆっくりと目を開けると、まぶたの赤みは消えていた。
「え、すごい!」
「ふふ。ありがとうございます」
その後からは、何をどうしたらこうなるのか、よく分からない技術で、自分の顔が変わっていく。
「…………私じゃ……ないみたい」
出来上がった自分を見て、そう呟いた。しかし冬香さんは首を傾げて言う。
「そんなに変わっていませんよ?各パーツを少し強調しただけです。私が頑張ったのは、赤みを消したくらいですから」
謙遜しているのか、喜ばせようとしているのか分からなかったが、元がそんなに悪くないと言われているようで嬉しかった。
「ここから少しイメージメイクに移りますね」
アイシャドーが顔の外に向かって、ぼかす様に乗せられていく。
赤みを消した目蓋には、再び赤い色が薄く入っている。斜めに伸びるチークが入ると、いつもより大人っぽい、見慣れぬ人物が鏡に映っていた。
「わあ……」
言葉を失って自分を見ていると、ドレスを抱えた若月さんが鏡に映りこむ。
「このドレスに決めたわ」
鏡越しに、私と目を合わせてくる。
「着替えは冬香が補助するわね」
若月さんはそう言って、ドレスだけ置いてカーテンを閉めた。
「脱いだものはこちらのカゴに入れてください。時計とか、アクセサリーも一緒に」
そう言いながら、冬香さんはドレスをかき分けるようにして床に置き、私が入れるくらいの穴のようなスペースを作った。
「ここに入って、ドレスを胸元まで引き上げたら呼んで下さい」
冬香さんは説明が終わると、若月さんの後を追ってカーテンの向こうに消えた。
床に置かれたドレスをマジマジと見る。
そこには、コバルトブルーの豪華なドレスがあった。
黄色いドレスなんて、選ばれなかった。
自分では買ったことのない色だ。似合うのか不安になってきて、もう一度鏡を見た。
見知らぬ人物が見つめ返している。
うん、いつもの私じゃないし、私を見て選んでくれたんだもん。きっと大丈夫。
そう自分に言い聞かせて、着替えを始めた。
「冬香さん、お願いします」
言われた通り、ドレスを胸元まで引き上げた。
重い布を頑張ってキープしながら、冬香さんが背後に回るのを待つ。
「ドレスって重いんですね」
「そうなんです。布の量が多いから重たいんです。では後ろ、締めていきますね」
胸のすぐ後ろが、ぎゅっと締まって肺が苦しくなった。
「大丈夫ですか?」
ゆっくり深呼吸してみると、大丈夫そうだったので無言で頷いた。
「では締めますね」
次は腰の辺りがぎゅっと締まった。
肺よりは我慢できる。
「最後に編み上げを締めていきます」
背中の真ん中から腰にかけて、ぎゅ、ぎゅ、と締まっていく。
「オーナー、準備出来ました」
しゃっ、とカーテンが開いて、一眼レフを構えた若月さんが現れる。
「うん、イメージ通りね!かわいいわ」
じゃあ、と言ってカメラを構える若月さん。それを見て、頑張って笑顔を作った。
「光のテストね」
そのままシャッターを切った若月さんは、カメラに目を落としてデータを確認している。
ややして私に告げた。
「うん、光は問題ないわね。あぁ、音ちゃん。無理に笑わなくていいのよ」
「え?」
写真を撮るのに、笑わないなんてあるだろうか。
「スナップじゃないし、いいの。悲しみももそのまま吐き出して」
驚いた顔をしていると思う。でもその顔を、若月さんは撮った。
「あなたは綺麗よ。鏡見た?顔ってね、事故とか特殊な遺伝子でも持たない限り、性格が反映されているって、あたしは思ってるの。性格が歪んでる人は、表情も歪んでくるのよね。どんなに化粧を重ねたって、どんなに素敵な衣装を着たって、心根の美しくない人を、写真に収めるのは嫌なのよ」
カメラを下ろし、両眼を見せて微笑む若月さん。
「だから、あなたはあなたの魅力で溢れていて、とっても綺麗よ。それにあなたには、特別なインスピレーションを感じるわ」
若月さんの背後に控えている、冬香さんも同意するかのように頷いている。
「それじゃあ床を人差し指だけで触れて。屈んで……そう。左手だけでいいわ。目線は左に向けて、さっき泣いた原因になった事を思い出して」
言われるままに原因を思い出す。
『お前、ちょっとキモいよ』
胸に鈍い痛みが走り、少し悲しくなったが、涙はでなかった。
カメラが向いているからだろうか?
「いいわ!素敵よ、綺麗……」
シャッターを切る音の直後に鳴る、ストロボのピピピという電子音。
「次は顔ごと左を向いて、そう横顔を撮りたいの。目は伏目気味で。うん、いいわね」
冬香さんが近づいてきて、白い薔薇の造花を私に差し出した。
「いいわね、そのチョイス!」
興奮気味の若月さん。そのまま私への指示に変わる。
「薔薇の匂いを嗅ぐようにして」
カシャ……ピピピピ…………
「今度は喉元に薔薇を当てて天井を見て」
カシャ……ピピピピ…………
「カメラを見て」
カシャ……ピピピピ…………
「窓に流し目」
カシャ……ピピピピ…………
「花をコチラに差し出して」
カシャ……ピピピピ…………
「能力のかけらもない、あいつを思い出して」
カシャ……ピピピピ…………
え?
「あなたは落ち込む必要ない。女性にそんな事言える男なんて、こっちから願い下げだわ」
知って、いる?
「あ!いいわね、その表情。素敵よ、綺麗!」
カシャ……カシャピピピピカシャ……カシャ……
「やだ、かわいい!いい写真が撮れたわ」
そう言ってはしゃぐ若月さんは、カメラに目を落としている。冬香さんもカメラを覗き込んでいた。
「まぁ……本当に、とっても素敵ですね」
従業員が自分の事で盛り上がっている姿は、なんか悪くない。
どんな感じに撮れているのだろう?
「じゃあ次は立ち上がって窓に寄りかかって」
そう指示がきたので、言われた通りにする。
「手を窓ガラスに置いて、外のなるべく遠い所を眺めて」
それも言われた通りに動く。
カシャ……カシャカシャ……カシャ……
先ほどまで聞こえていたピピピと鳴る電子音がなく、シャッターを切る音だけが、聞こえていた。不思議に思い、若月さんを見る。
「今ね、自然光で撮影しているの。柔らかい、良い絵が撮れるのよ」
どんな写真になるのか、とても楽しみになってきた。
そう思った私は、自然に微笑みを浮かる。そして、若月さんはそれを見逃さなかった。
カシャ、カシャ、カシャ……
「いいわね!」
そんな感じで撮影は続く。
そして、長いような短いような撮影が終わった。




