【コミカライズ】その断罪劇、乗っ取らせていただきます。【アンソロジー】
カシャン、と軽い音を立ててグラスが砕け床に飛び散った。
中身のシャンパンはダイナのドレスにかかり、彼女の顔が泣きそうに歪んだ。
「なんてことをするんだ!」
そのダイナの肩を抱いて、私の婚約者のホルスが激高する。
学園主催のダンスパーティーを楽しんでいた生徒たちの注目が一斉に集まり、ざわつき始めた。
「とうとう馬脚をあらわしたなイライザ! ずっとこうやってダイナに嫌がらせをしてきたんだろう!」
「そんなっ、私はなにも……!」
突然の言いがかりに、私は何も言えなくなってその場に立ち尽くす。
「いいんですホルス様! 私、気にしてませんから……」
目にいっぱいの涙を溜めて、ダイナが震える声で言ってホルスに縋りつく。
「ああ可哀想にダイナ……いつもこうやって耐えていたんだな」
それに応えるようにホルスがダイナの潤んだ瞳を熱っぽく見つめる。
婚約者である私の前で堂々と密着する二人。
彼らは衆目の中で、どこか自分たちに酔っているようにも見えた。
「ち、違います。私は何もしておりません」
「嘘をつくな!」
ようやく言葉を発すると、ホルスがキッと私を睨みつけた。
幼いころからの婚約者だというのに、彼は私ではなく今年編入してきたばかりのダイナの味方らしい。
「ではこのグラスはなんだと言うのだ!」
なんだと聞かれても困る。
だってその割れたグラスは私のものではないのだから。
ちょうど私が通りかかったタイミングで、ウェイターがシャンパングラスをダイナに手渡そうとした。
それをダイナがわざと受け取り損ねたのだ。
証言を頼みたくてもそのウェイターはすでに消えている。
おそらく彼もダイナとグルなのだろう。手の込んだことだ。
おまけにダイナのドレスの色はシャンパンゴールドで、おそらくシミになっても目立たない。
それどころか、もしかしたらそもそもグラスの中身はシャンパンですらなかったのかもしれない。
準備がいいとしか思えなかった。
けれどその瞬間を見ていなかったらしいホルスは、心からダイナを信じている。
せめて彼もグルだったなら、もう少し話は簡単だったかもしれないのに。
「俺が何も知らないと思っているのだろう。だがずっとダイナから相談を受けていたんだ。キミは身分の違いを鼻にかけ、男爵令嬢である彼女を見下していたんだろう?」
そんなこと、するわけがないのに。
侯爵家に生まれたことを誇らしく思うことはあっても、驕ったことはない。
その名に恥じないような行動を心がけてきた。
貴族だろうと平民だろうと、関係なく誠実に接してきたつもりだ。
けれどホルスにはそれが分からないらしい。
彼もまた、私に見下されていると思い込んでいるから。
彼は私と同じ侯爵家の生まれだ。
そのせいで「もっと婚約者であるイライザを見習え」と両親に言われ続けてきたらしい。
私に劣等感を抱いているのは気付いていたが、気遣えば気遣うほど反発されてどうにもできなかった。
その不満が、ダイナに同調することによって爆発してしまったのだろう。
ホルスはありもしない私の悪事をなおも並べ立てる。
ダイナの教科書を破り捨てた。
掃除用の汚水を頭から浴びせた。
すれ違いざまに何度も侮辱した。
何一つ心当たりはなかったけれど、すべてダイナがホルスに泣きながら相談してきた内容らしい。
もしそれらが全て本当のことだったとしても、真っ先に頼る相手が加害者の婚約者だなんて、普通に考えておかしい。
そんな度胸と根性があるのなら、始めからやり返せていたはずだ。
それなのにダイナは小動物のように震えながら、ホルスの背に隠れている。
「私……そんな……」
「言い逃れはできないぞ! そろそろ本当のことを白状したらどうなんだ!」
言われっぱなしで俯く私を見て、反論の余地がないせいだと思ったのかホルスがさらに勢いづく。
勝利を確信した顔だった。
私は言い返したいのをグッと堪えて、唇を噛んで俯く。
「――なあ、少しいいだろうか」
唐突に、第三者の声が割り込む。
私たちに集まっていた視線が、いっせいにそちらへ向いた。
「皆に少し確認をしたいのだが」
その声の主が誰か気づいて、女生徒たちの間から小さな歓声が上がる。
レナート・アスキス。
アスキス公爵家の嫡男で、現在のこの学園で一番身分が高く、また生徒からの人気も高い。
そんな彼が、明らかな揉め事に興味を示したのが意外だったのか、みんなが困惑したようにざわついた。
ホルスもクラスの中心的存在ではあるが、騒がしいグループを疎む生徒たちからは密かに嫌われていた。
その点レナートは人格者で、どんな生徒からも好かれ、また教師からの信頼も厚い。
誰に対しても親切だが、ホルスのように群れたりはせず、一人の生徒に肩入れはしない。
それは公爵令息という彼の立場がそうさせるのかもしれないけれど。
そんな彼がなぜ。
事の成り行きを最初から見物していた生徒たちが不思議そうに顔を見合わせ、首を傾げる。
その反応は当然のものと言えた。
彼らが知る限り、レナートはホルスやダイナはおろか、私ともほとんど接点がないのだから。
「ああ急に割り込んですまない。だがどうにもしっくりこなくてな」
苦笑しながらレナートが騒ぎの中心である私たちのそばへと進み出る。
何も言わずとも彼の前にいた生徒たちが道を空けるのが、そんな場合ではないというのになんだかおかしかった。
「そこの女生徒の……ダイナといったかな」
「はっ、はい! やはりご存知でしたのね!」
レナートに名前を呼ばれて、ダイナが喜色満面で頬を赤らめた。
彼女の涙は速乾性らしい。
その様子を見て、ホルスがムッとした顔になる。
どうやらレナートに嫉妬しているようだ。
「いや……大声で怒鳴っていたのが聞こえただけだ。君のことは今初めて知った」
レナートがやや申し訳なさそうにダイナの誤解を訂正する。
「そう、ですか……」
ダイナがあからさまに不満そうな顔をした。
同じ学園に在籍していても、公爵令息と男爵令嬢だ。接点なんて侯爵家の私以上にない。
それでもダイナはそれなりに有名人なので、自分がレナートに認識されていてもおかしくはないと思ったのかもしれない。
「だが君は俺のことを知ってくれていたようだな」
「それはもちろんです! この学園でレナート様のことを知らない人はいません!」
どうやらダイナは私からホルスを奪うだけでは足りないらしい。
ここぞとばかりにレナートにアピールするのを見て、人前だというのに眉をひそめてしまう。
「そうか。ならば俺の父がこの学園の理事を務めていることも知っているだろう」
「へ? あ、はい」
予想外の返しだったのか、ダイナが気の抜けた返事をする。
「なら話は早い。父は人使いが荒くてな。俺を使って学園内の平穏を保とうとしているんだ」
「……それは、具体的にはどういうことでしょうか……?」
「主に学園内に揉め事が起きていないかの調査だな。もちろん俺一人では無理だから、協力者がいる。友人や先輩後輩、それに先生方の中にもね。ちょっとした隠密部隊といったところか」
子供の真似事だが、とレナートが冗談めかして笑う。
その朗らかな口調に反するように、ダイナの顔色がじわじわと青ざめていく。
「もちろんプライバシーに踏み込むようなことはしない。校内や庭をパトロールして、困っている生徒がいたら助ける。そのためのものだ」
ざわつき始めた生徒たちを安心させるように、レナートが会場内を見回しながら言う。
それでにわかに高まり始めていた緊張感がフッと緩んだ。
「彼らの報告によれば、現在学園内に揉め事はないはずなんだが……」
そこまで言ってレナートがダイナに視線を戻す。
「果たして君はいつ、イライザ嬢から嫌がらせを受けていたのかな?」
にこやかに問いかけるレナートの視線を受けて、ダイナの笑顔が引き攣った。
そこからはレナートの一人舞台だった。
彼はいじめの証拠がないこと、実際に現場を見た者がいないことを淡々と説明して、ダイナの言い分には客観性が欠けていることや一貫性がないことを指摘した。
「誰かいじめを目撃した者は? あるいはそれに近いことでもいい。心当たりがある者は名乗り出てくれ」
そう言って周囲の意見を求め始める。
「にわか仕込みとはいえ、俺の密偵たちの目を掻い潜って彼女をいじめたのだとしたら、イライザ嬢は大したものだ」
笑いながら言うけれど、きっとレナートの協力者というのは将来的に騎士や王族の側近として働くことが約束されている優秀な生徒たちばかりだろう。
彼らがそういった仕事に就くための実践訓練の意味合いもあるのだろうと簡単に予想がついた。
そんな彼らが「いじめはない」と証言しているのなら、噂を聞いた程度の生徒では下手なことは言い出せないだろう。
ダイナはあちこちに私の悪事を捏造して言いまわっていたようだけど、その卑怯な裏工作が功を奏すことはなさそうでホッとする。
「あの……実際に見た、わけではないのですが」
そんな緊迫した空気の中、数名の女生徒がおずおずと進み出た。
彼女たちには見覚えがあった。ダイナとよく一緒に行動している生徒たちだ。
高位貴族の圧力に怯えて黙り込んでしまったように見えるダイナの代わりに、意を決して声を上げてあげたのだろう。
「ダイナさんはよく一人でどこかへ行ってしまうことがあります。その時の表情がとてもつらそうで……」
「ほう? どこか、とはどこへ?」
注目を集めて緊張しているのか、青い顔で言う女生徒にレナートが優しい口調で問う。
「聞いても答えてはくれませんでした。『言ったらもっとひどくなるから』と」
その柔らかい口調に励まされたのか、正義感のきらめきを見せながら女生徒がきっぱりと言う。
「目に涙を浮かべて、『行かなくては』って怯えた顔で」
ちらりとその視線が私に向けられる。
きっとその呼び出した相手が私だと言いたいのだろう。
「それは具体的にどの時間帯だ」
「大抵は昼食を終えた後の、昼休憩の間です」
はっきりと自信を持った声で女生徒が言う。
それは私がいつも友人たちから離れ、一人で教室からいなくなる時間でもあった。
クラスメイトたちならそれを知っている。
幾人かの不審げな視線がこちらに集まるのを感じて俯いた。
「なるほど……それで、君はどこへ行っていたんだ?」
レナートが女生徒からダイナへと視線を戻す。
証人を得て気を取り直したのか、ダイナの顔には血の気が戻り始めていた。
「それは……」
ダイナが泣きそうな目をして私を見る。
まるで本当のことを言えば恐ろしいことが起こるかのように。
「もうここまで公になってしまってるんだ、言っても問題ないだろう」
なおも躊躇するダイナの肩を優しく抱き込みながら、訳知り顔でホルスが言う。
けれどダイナはふるふると力なく首を振って、身体を震わせながら私から目を逸らした。
「可哀想に、こんなに怯えて……それほど酷い目に遭わされてきたんだろう」
ダイナの気持ちを代弁するかのようにホルスが言って、意を決した顔でレナートを見た。
「ならば僕から言おう。彼女はイライザに呼び出されていたんだ」
きっぱりと言い放った途端、疑惑が確信に変わったとでもいうように周囲が大きくざわつき始める。
「そうだよな? ダイナ。キミはそう言って何度も僕に相談してきた」
「え、ええ」
ダイナは小さな声で、けれどハッキリと肯定した。
「イ、イライザ様は誰にも見られないように来いと……怖くて私、誰にも言えなかった……っ!」
ダイナが両手で顔を覆い、わっと泣き声を上げる。
きっとその顔には涙どころか笑みが浮かんでいるはずだ。
「人目につかないところに呼び出しては彼女にひどい言葉を投げて、挙句には暴力まで。なんて最低な女なんだ」
「そんな! 決してそのようなことはしておりません!」
必死に否定する私の声に、ダイナが怯えた顔でホルスの袖を掴んで背後に隠れる。
「ではおまえが昼時にどこへ行っているのか証言できるのか」
「それは……」
ホルスの問いに勢いを無くした私を見て、彼は勝ち誇った顔になった。
きっとダイナも彼の背中で似たような表情をしているのだろう。
「ほら見ろ。何も言えないことが何よりの証明だ。大方人気者のダイナに嫉妬して嫌がらせをしたのだろう」
「そんなこと、私は……」
「レナート、キミの密偵も大したことないようだな。女生徒一人の行動すら監視できないのだから」
黙って俯いてしまった私にこれ以上言う必要はないと判断したのか、矛先をレナートに変えてホルスが得意げに言う。
「ふむ……」
けれどレナートは気分を害した風でもなく、冷静にその挑発を受け止めた。
「たしかにイライザ嬢の報告は上がってきていない」
「ほら見たことか」
「だが、彼女の動向なら聞くまでもないのだよ」
馬鹿にしたように言うホルスに、レナートが不敵な笑いを返す。
「……どういうことだ」
「その時間帯にイライザ嬢が彼女をいじめていないという証人ならここにいる」
「なんだって!? それは一体誰だ!」
「俺だよ」
レナートがそう言った瞬間、周囲のざわめきがぴたりと止まった。
「彼女が昼休みにどこにいたか? 彼女は裏庭に花を愛でに来ていた」
「なんだと……?」
「レナート様……」
真実を語り始めたレナートに、私は躊躇いながらも窘めるように名前を呼ぶ。
けれど彼は「任せておけ」とばかりに私に笑いかけた。
「知らぬ者がほとんどだろうが、校舎の裏にはガゼボがある。人の来ない奥まったところだが、日当たりの関係でその一角だけ花が咲き乱れているんだ」
校舎裏は木々が生い茂り鬱蒼とした雰囲気がある。
そのせいか、近づく生徒は極端に少ない。
けれど勇気を出して足を踏み入れれば、その最奥にはレナートの言う通りの場所があった。
「あそこはいい昼寝スポットでもあってね。ガゼボの裏で寝ているのを見つかってしまったが、イライザ嬢は黙って見ないふりをしてくれている。公爵家嫡男がみっともなく寝こけているのを、彼女は隠そうとしてくれたんだろう」
醜聞とまではいかないが、昼休みごとに校舎を抜け出し裏庭の日向で寝ていれば邪推する人間も出てくるはずだ。
彼は家柄のおかげで発言力も強く、欠点らしい欠点のない信望篤いリーダー格だ。
足を引っ張りたい人間にとっては、火のないところに煙を仕込む絶好の機会になりかねない。
きっと後ろ暗いことがあるから隠れているのだとか、違法薬物を使っていたとか、いくらでも言いがかりをつけられる。
「自分が不利になると分かっていても俺の名誉のために黙っていてくれた彼女と、証拠もなくいじめを吹聴してその婚約者を寝取る女と。どちらが誠実だろうか」
レナートの視線はホルスに向けられているが、その問いかけは周囲の生徒全員に向けられている。
実のところ証拠のなさで言えばダイナたちと似たり寄ったりなのだが、「婚約者を公衆の面前で罵る男とそれに縋りつく女」の構図より、「親しい訳ではないのに互いの名誉を守るために庇い合う二人」の方が衆目には好ましく映ったようだ。
何より、ホルスとレナートでは人望の差が歴然としていた。
「確かにそうね……」
「私も、イライザ様がダイナさんに冷たく振る舞っているのを一度も見たことありませんわ」
「いじめられている割には毎日お元気ですしねぇ」
「男子生徒たちに構われて嬉しそうにしておいでですわ」
「一体何人の殿方が彼女に『相談』されているのやら」
せせら笑うような女生徒たちの揶揄を受けて、ダイナの頬がカッと赤く染まる。
「あいつ、婚約者がいる身でダイナに親密過ぎるとは思っていたが」
「そういやイライザ嬢が自分を頼ってくれないって愚痴ってたよな」
「ダイナの儚げで頼りないところがたまらないとも言ってたぜ」
追従するようにニヤニヤしながら男子生徒たちがホルスに向けて言う。
「わたし……わたしはただっ、……!」
分が悪くなったと悟ったのか、ダイナがはらはらと涙をこぼし始める。
「ああ泣かないでくれダイナ……世界中が敵になったって、僕だけは君の味方だよ」
オロオロとダイナを慰めた後、ホルスが立ち尽くしたままの私に憎々し気な視線を投げつけた。
「本当にひどい女だ。泣いている彼女を見て何も思わないのか」
彼は私に一体何を期待しているのか。
怒りよりも呆れてしまって、今までなんとか保っていた被害者の表情が抜け落ちる。
「……なぜ自分を陥れようとしている女性の涙に胸を痛めなくてはならないのです?」
心底不思議に思って首を傾げてみせると、ホルスが唖然とした顔になった。
「まったくだ。その濁った涙が有効なのはお前だけだよ」
口元を手のひらで覆い、微かに肩を震わせながらレナートが言う。
勝敗は誰の目から見ても明らかで、ダイナとホルスの周りからさざ波のように生徒たちが離れていく。
対する私とレナートは、同情的な言葉と互いの思いやりを称える温かい微笑みに囲まれ、一連の騒動は幕引きと相成ったのだった。
◇◇◇
「思っていたより上手くいきましたわね」
「やつらが浅はかで助かった」
裏庭の一角、鬱蒼と繁った手入れ不足の木々の奥。
唯一陽の射すガゼボのベンチで、レナートと向かい合って話す。
「これであなたは女生徒を庇ったヒーロー、私は悪役から一転して悲劇のヒロインへ。なかなか愉快な茶番劇だったのではなくて?」
「まさしく茶番だったな」
だらしなくテーブルに肘をついて、レナートが笑う。
他の生徒の前で見せるしっかり者の顔とはだいぶ違っていた。
二人きりだから油断しているのだろう。
「おまえ最後の時、ちょっと地が出ていたぞ」
「あら嫌ですわ。ついうっかり」
自分こそ普段よりも荒い口調になりながら、私の可愛い失敗をあげつらう。
「笑い堪えるの大変だったわ」
「だってホルスったら、あまりにもおかしなことを言うのですもの」
ばっちり肩が震えていたしあまり堪えられていたとは思えないけれど、聞き流してあげることにしよう。
だって彼にはとても助けられたから。
「私も反撃の衝動を堪えるのが大変でしたわ」
「よく耐えてくれたよ。しかしよくあのタイミングで来ると分かったな」
「事あるごとに私を悪役に仕立ててきた方だもの。ダンスパーティーなんて大イベントで動かないはずがないじゃない」
感心したように言うレナートに肩を竦めてみせる。
普段制服の学生たちが、競い合うように着飾って誰よりも輝こうとする華やかな場。
そんな日に、注目を浴びることが大好きなダイナがこれまでの集大成を披露しようとするのは明らかだった。
だから彼に協力を頼んだのだ。
憎きダイナを返り討ちにするために。
レナートの昼寝を見かけるだけなんて大嘘だ。
彼と私は先月から協力関係にあり、密約を交わす仲となっていた。
「あんな素敵なご友人にすら見放されるなんて、馬鹿なことをしたものだわ」
視線に怯えながらもダイナを擁護しようとした女生徒たち。
あのパーティーのあともダイナを慰め励まそうとしたのに、彼女の八つ当たりに辟易して、さすがにもう近づくのをやめていた。
「簡単に婚約者を裏切る男なんかよりよほど価値があったのに……っ」
他人の悪口を言うなんてはしたないと気づいて口をつぐむ。
けれど話すようになったきっかけがそもそもはしたないことこの上ないのだ。
今更取り繕っても手遅れなのだけど。
「……本当に、恥ずかしいところを見られたわ」
自分の失態を思い出して頭を抱える。
あの日私はダイナの策略にハマり、二人の逢瀬を目撃してここに逃げ込んだ。
ガゼボを囲むように咲き誇る花々が、みじめな私を隠してくれる。
そう安心して、その花々の裏でレナートが寝ていることにも気づかず、泣きながらダイナとホルスに呪詛の言葉を吐いてしまったのだ。
そんな最悪のシーンを目撃されたのだから、もはや印象回復なんて諦めている。
「それにしても、よくあの状態の女性に声をかけようなんて思いましたわね?」
「なんの話だ」
「初めてここで話をした日のことよ。泣きわめいて取り乱して、我ながらおよそ淑女の振る舞いとは思えなかったもの」
「ああ」
言われてレナートが思い出したように目を細めて笑う。
「実はあれ、学園七不思議の怪異かと思ったんだ」
「七不思議?」
「イライザはそんな俗っぽい話知らないか。この場所には噂があるんだ。恋に敗れて自殺した女生徒の霊がすすり泣いていると」
言ってレナートがにやりと笑う。
その瞬間冷たい風が吹いて、ぞくりと背筋が震える。
「……知らなかったわ」
思わず自分の身体を両腕で抱きしめるように触れた。
それから周囲になにか別の気配がないか素早く確認する。
「だからこのガゼボは不人気なんだ」
おかげで昼寝が捗る、とレナートが笑う。
なるほど。不人気なのは鬱蒼としているからというだけではなかったのか。
あるいは、鬱蒼としているからこそそんな噂が作られたのかもしれないけれど。
それにしても不人気の理由を知っていて、これ幸いとばかりに昼寝スポットにするなんて怖いもの知らずにもほどがある。
何事にも動じない人だとは思っていたが、これほどまでとは。
「……それで私を幽霊だと思ったのに、なぜ話しかけたの? 余計に不思議だわ」
面白がって近づいたのだろうか。
彼ならありえない話ではない。
「だって見ないふりをして恨みを買ったら怖いじゃないか」
真面目な顔で予想外なことを言われて、ぽかんとしてしまう。
レナートでも一応幽霊は怖いらしい。
「だったら未練を晴らす手伝いをして、さっさと成仏させた方がマシだろう」
「ふふっ、なぁにそれ」
現実的なのか夢見がちなのか分からないことを、当然のように言われてつい笑ってしまう。
「イライザだと分かった時は心底ホッとしたよ」
私の笑いをとれたことが嬉しいのか、レナートもつられたように笑顔になる。
それがなんだかとても嬉しかった。
「でも、これで無事に周知ができたようね」
「ああ。おかげで卒業後も組織として成立させられそうだ」
ありがとう、とレナートに握手を求められ、素直に応じる。
レナートが今回の件に協力してくれたのは、彼にもそれなりに利があるからだ。
大問題を起こしているわけではないが、ダイナは学園内の風紀を乱す存在としてマークされていたらしい。
あちこちの男子生徒に粉をかけては自分を奪い合う様子を楽しむのだとか。
今まで目立たないようコソコソやっていたのに、数をこなしたことでどんどん大胆になっていった結果が今回らしい。
男女間のいざこざには基本立ち入らないが、今回の件が特に悪質なので一度お灸を据える必要があると判断した。
それに、密偵をきちんと組織化すべく存在を表沙汰にするいい機会でもあった。
そんな時にタイミングよく私が飛び込んできたのだ。レナートはそれを絶好の機会だと思ったのだろう。
泣き乱れた私から理由を聞き出すと、彼はすぐに「何か役に立てることはないか」と協力を持ち掛けてきた。
そのためにこの場所で落ち合って打ち合わせを重ねた。
本当はもっと私自身の手で徹底的にやり返したかったけれど、大人しく悲劇のヒロインをしていた方があちらの印象が悪くなるからとレナートに助言を受けて不服ながらも我慢することにした。
正しい者には救済があるのだと、他の生徒に印象付けておきたいとも言っていた。
こうして無事お披露目も済んだので、レナートが卒業したあとも機能するように、正式に人員募集をかける予定らしい。
「もうこれであの二人に振り回されずに済むのかと思うとせいせいするわ」
「俺もだよ」
そう言って晴れ晴れとした顔で笑い合う。
レナートの助言通り、何も言わないのが正解だったと今なら思える。
もし感情のままに二人を罵倒していたら、侯爵家の人間として恥ずべき行為をしてしまったと今も後悔の気持ちを引きずっていただろうから。
それからレナートがふと真剣な顔をして、「そういえば」と切り出した。
「あいつとはどうなってる」
嫌そうな顔でレナートが言う。
あいつとはホルスのことだろう。
もともとレナートはホルスのことをよく思っていなかったらしいが、私への扱いを知ったせいで余計に嫌いになってしまったようだ。
「どうって? 無事婚約破棄が成立しましたけど」
ご存知でしょ? と問い返す。
あの後私たちが婚約を破棄したことは周知の事実だ。もちろんホルス側の有責でだ。
「ヨリを戻そうとしていると聞いたぞ。あの女とは関係が破綻したとか」
「ええそのようね。あの御令嬢がか弱くも儚くもないと分かれば、彼の興味は薄れるでしょうから」
予想通りすぎてため息も出ない。
要するにホルスは、可愛げのない婚約者からの逃避のため、正反対に見えるダイナに癒しを求めていたのだ。
それが実際のところは彼女が図太く陰険だと判明して、私の方がマシだったと思い直したのだろう。
だけどそんな消去法みたいな選ばれ方はごめんだった。
「未練はないのか」
レナートが窺うような目で私を見る。
心配してくれているのだろうか。
今回の件では散々な思いをしたけれど、得難い友人ができたことだけはありがたく思う。
「……そりゃ最初にキスしているのを見た時は一日寝込むくらいショックだったわ。彼女の言い分ばかり信じるホルスにも絶望したし」
あの時のことを思い出しながらぽつりぽつりと語る。
幼い頃から親同士に決められた婚約相手。
当時はそれなりに仲は良かったし、結婚することに抵抗はなかった。
入学してからは少し距離ができてしまったけれど、きっとすぐに修復できると思っていた。
ホルスは私との成績の差が開き始めたことで、露骨にいじけてしまったのだ。
その差を埋めるために手伝うという提案は拒絶され、彼は勉学に励むどころか私の足を引っ張ろうとした。
一緒に頑張ろうと励ましても、私だって一生懸命努力していると伝えても、彼には何一つ響かなかったのだ。
それでもいつかは分かってくれる。
そう寄り添おうと努力していたのに、ダイナが編入してきて全てが変わってしまった。
彼女はいつの間にかホルスに近付いていて、私の存在を知っても身を引くということをしなかった。
むしろ余計に燃え上がってしまったように思う。
ホルスもまんざらではないどころか嬉しそうだった。
そのうちに「ダイナに意地の悪いことを言っているそうだな」とか「わざとぶつかるなんてひどいじゃないか」とか、やってもいないことを責められるようになった。
訳が分からないままに日々が過ぎて、ある日匿名の手紙に呼び出された。
嫌な予感がして向かった場所で、ホルスとダイナのキスシーンを見せ付けられ声もなくその場を逃げ出したのだ。
「いつか信頼関係を築けると思っていたのは私の勘違いだったの。きっと私の努力が足りなかったのね、今からでもやり直せるかしら、なんて考えたりもしたわ」
「それは……」
自嘲しながら言う私に、レナートが気遣わしげに眉尻を下げる。
そんな表情でも情けなく見えないのが不思議だ。
「けれどすぐに考え直したの。あんな性悪に引っかかる人なんてこっちから願い下げよって」
「ぶはっ」
きっぱり言い放つと、レナートが品なく噴き出した。
人によっては眉をひそめる笑い方かもしれないけれど、私はこの飾らない笑顔を結構気に入っていた。
ダイナとホルスの関係を知って、落ち込み過ぎずにいられたのは彼が真剣に話を聞いてくれたおかげだ。
常に人に囲まれていて、一人になれる唯一の憩いの場を邪魔されたのに、嫌な顔ひとつせず。
私はずっと、彼の存在に救われていたのだ。
「じゃあもう本当にいいんだな?」
落ち着いた声でレナートが問う。
協力関係にあるからというだけでなく、友人として私のことを心配してくれていたのだろうか。
その気持ちが嬉しくて、微笑みながら頷く。
「ええ。もうちっとも落ち込んでいないわ」
「そうではない」
「え?」
レナートの問いに胸を張って答えると、彼が苦笑しながら首を横に振った。
「あいつのことはもう、なんとも思っていないのか?」
「ええ、だからそうだと言っているでしょう?」
そうではないと言ったくせに、再度同じようなことを問われて首を傾げる。
「なら、これで心置きなく口説けるな」
「……はい?」
安堵したようにさらりと言われても、傾げた首が戻らない。
「婚約者がいるのなら秘めておこうと思っていたが。もう遠慮はしなくていいようだ」
「なにを言っているのかちっとも理解できないのだけど」
本気で分からなくて眉根を寄せながら問うと、レナートも同じくらい眉間に深いシワを刻みながら深い深いため息をついた。
それから気を取り直したように真剣な顔をして、まっすぐに私を見る。
「初めて会った時から惹かれていた。気高く聡明なおまえに」
「どっ、なん、ぅえ?」
私にも分かるような言葉で改めて告げてくれただろうその言葉に、動揺のあまり一瞬で混乱の極致に達する。
全身が沸騰しそうに熱くて、今にも倒れそうだ。
「……抱きしめたくなるほど可愛らしい、も追加するか?」
「なんっ、かっ、からかっているのね!?」
にやりとして言う彼に、ようやく意図を悟って憤然と言い返す。
「心外だ。本気で言っている」
けれど彼は本当にからかっているつもりはないらしく、やや不機嫌にそう言って微かに唇を尖らせた。
「ご、ごめんなさい……」
謝りながらもドキドキと心臓がうるさくて、今にも逃げ出したくなる。
ここまで取り乱したのは、ホルスとダイナのキスシーンを目撃した時だけだ。
「正直に打ち明けると、今回のことは下心と私怨が多分に含まれていたんだ」
「私怨……?」
「イライザを蔑ろにするホルスへのな。長年雑な扱いをした上に下衆な行いまで」
不機嫌そうに言って、それから気を取り直したように「すまない」と言って私に頭を下げる。
「だからイライザは黙って見ていろというのはただの建前だった。俺が徹底的に懲らしめてやりたかっただけなんだ。機会を奪ってしまってすまなかった」
「それはもう別に……気にしていないけど……」
レナートはどうやらホルスの私への扱いに対して怒っているらしい。
今までそんな素振りは一度も見せなかったから、驚いてしまう。
「あなた……本当に私のことが好きなのね……」
「分かってくれて良かった」
なかば茫然と呟くと、レナートが満足そうに目を細めて言う。
その表情にぎゅっと胸が引き絞られて、泣きたいような笑いたいような不思議な気持ちになった。
だけどやっぱり信じられない。
初めてちゃんと話をしたのは、涙と鼻水でグチャグチャの時だ。
「あんな顔をした女性を好きになるなんてこと……」
「あれはあれでそそられたが、その前からだ。何度か社交の場で顔を合わせただろう」
もちろん覚えてはいる。
レナートとは入学前から何度か貴族同士の付き合いで顔を合わせたことがあった。
だけどあれは自己紹介と挨拶くらいのもので、あとは親を交えての社交辞令に終始していた。
その時すでに婚約済みだったから異性と二人きりで話すのは控えていたし、彼ともそれ以上の会話をしなかった。
まさかその時から好きでいてくれていたなんて。
「……けど、それは私が必死に作り上げた偽物だわ」
力なく首を振りながら言う。
本当の私は、レナートの言うように気高くも聡明でもない。
侯爵家の名に恥じぬよう、優等生でいるために泥臭い努力を重ねた結果だ。
ホルスはそれを生まれながらの資質だと思って私を妬んでいたようだけど、本当は違う。
「昼休みに抜け出して、誰もいない教室で懸命に勉強していることなら知っている」
「えっ!?」
誰にも秘密にしていたことをすんなり言い当てられて頭が真っ白になる。
なぜそれを知っているの。
「……密偵の仕業ね?」
すぐに思い当たって恨みがましい目で睨みつけても、レナートは曖昧に笑うだけだ。
そう、ここで彼と邂逅するより前に、昼休みに教室から抜け出していた理由。
成績上位をキープするために、空き教室で隠れて授業の予習と復習をしていたのだ。
その不在の時間をまんまとダイナに利用されるとも知らずに。
「その努力も見栄も含めて、イライザが好きだ」
ストレートな告白に、胸が熱くなって頭がふわふわしてくる。
今までも彼と話していると、そういう感覚になることはあった。
けれどこんな強烈なのは初めてだ。
ホルスといてもこんな気持ちになったことはない。
彼と仲が良かった子供時代は楽しかったけれど、他の友人といるときと大差なかったように思う。
だから、こんな感情は知らない。
「これからは本気で口説きにいくから、覚悟しててくれ」
彼の微笑みはこんなに魅力的だっただろうか。
今更そんなことに気付いて見惚れてしまう。
「ええと、どうぞお手柔らかに……?」
そしてどこか間の抜けた私の返事にも、彼はただ幸せそうに笑うのだった。