最終話 飛び出す勇気
翌日、ディーボは美湖の元を訪れた。
ただし、今日は派遣労働の打ち合わせではなく、帰郷のあいさつのために。
美湖は昨日のことなど忘れたかのように明るく元気な笑顔で待っていた。
「調子はどう? ディーボ。派遣の仕事もすっかり慣れてきたわね!」
会社の会議室で、膝を突き合わせる二人。
いつもの調子で話しかけてくる美湖に、ディーボは自分が魔族であることを告白した。
「魔族って! ひょっとしてあれ!? 聖書とか絵画とかに出てくるやつ!」
「あんなもの比べ物にならないぜ。実際の魔界はあんな暗いイメージじゃなくて、とんでもなく広い空間に数えきれないくらいの綺麗な場所が…………」
驚く美湖は、魔族のことや魔界のことを色々と質問しては、その都度大きなリアクションをとって目を輝かせていた。
一通りの説明を終えたディーボは、自分が近々魔界に帰ること、そして美湖を魔界に連れて行って、様々な場所に案内してあげたいことを伝えた。
しかし、彼女はすぐにそれには答えなかった。
ディーボは熱心に魔族や魔界の話をしてくれたが、それはまるで映画館のスクリーン越しに見る理想郷のように思えたのだ。
「返事は急がないから、考えてみてくれないか?」
そう念を押すと、彼は会議室のドアを出て行った。
美湖は自宅に帰ると母と父に今日のことを相談した。
魔界を見に来いと言われても、近所に旅行に行くのとはわけが違う。
一度行ってしまえば、恐らくしばらくはこっちの世界に戻ってこないだろうことを、美湖も母も直感で感じていた。
そんな中、母は父と結婚したときのいきさつを話し始めた。
彼女は子供時代から成人になるまで、そのほとんどを教会の中で過ごしてきた。
学校は一般の学校に普通に通っていたが、社会に出て働いたことがなかった。
お世話になった教会のシスターになるのが彼女の夢だったからだ。
やがて、シスターを数年続ける内に母は父と知り合って、後に求婚をされたときには随分悩んだという。
今まで慣れ親しんだ教会を出て、経験したことのない新しい環境で生活を始めなければならないからだ。
そんな母の気持ちを察して、父は自信を持って「どんな時でもお前の力になるから」と気持ちを伝えたという。
それを聞いた母は、新しい世界に飛び出すことを決めたらしい。
話を終えて部屋に戻った後も、美湖は布団の中で眠れない夜を過ごした。
後日、美湖はディーボを教会に呼び出した。
教会の敷地内にある日の光が降り注ぐベンチで、2人はいつものように炊き出しのミネストローネを抱えると、ディーボはそれを口いっぱいに含んで味わった。
(やっぱ、ここのミネストローネは最高だぜ!)
言いかけたディーボはお決まりのセリフを胸にとどめて、まずは気になっていたことを美湖に尋ねた。
「考えてくれたか? 魔界行きのこと」
美湖は伏し目がちに答える。
「うん、でも、まだ迷ってる」
美湖は知らない世界に興味があること、そして何よりもディーボと一緒に旅をしてみたいという思いを伝えたが、同時に初めての場所に不安を感じることも伝えた。
「魔界にも人間はいるの?」
「ああ」
答えるディーボ。
「ねえ、ディーボ。あなたは私が困ったことがあったら、どんな状況でも味方になってくれるって言ってくれたよね。でも……」
顔を上げてディーボ向き直る。
「たしか、魔族って平気で嘘をつくんでしょ?」
ディーボは真剣な笑顔で真っすぐ美湖を見た。
「ああ、嘘はつく。ただし重要な局面では嘘をつかない。何故だか分かるか? それは、ハッタリというのは、ここ一番の決め時に偽りのない本物を見せられる者だけが極められるテクニックだからだ。俺にとって、今はその決め時。お前なら分かるだろ? 今日の俺には一かけらの迷いも無い。だから……」
ディーボは美湖の小さな両肩に手をのせると、ゆっくりと向きを自分に正対させた。
「一緒に魔界に来い! 新鮮で驚きに満ちた毎日を、俺が送らせてやる!」
両肩をゴツゴツとした大きな手のひらで包まれ、驚きで目を見開いていた美湖。
やがてその手の暖かさに気が付くと、伸びていた背筋を戻して答えた。
「送らせてやるって……、そんなの、頼みかたが気に入らないわ」
「そ、そうか? それはすまなかった。じゃあこれでどうだ! 新鮮で驚きに満ちた毎日を、送ってくれてもいいんだぞ!」
「もう一声!」
美湖が自分の鼻先に人差し指を当てると、ディーボはその手を丸ごと握りながらこう言った。
「このやろう、ファミレスでの俺様をマネしてるな? 調子にのるなよ?」
「バレたか……」
恥ずかしそうに唇を結んでうつむく美湖。
彼女は視線だけをディーボに戻してこう言った。
「でも、魔界での最初の食事は、厚切りステーキを食べさせてよね! デザート付きで!!」
力を無くした悪魔、前世を忘れた天使 終わり




