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『約束もない、通り雨』・短編集  作者: 仁志 ま乃
2/2

『水平線がひかる 夜に』

深夜のエクササイズジムで知り合った青木恭平(27)と宮園結(32)。

恭平は結に頼まれて、夜になると彼女の部屋で過ごす。結に頼まれた「仕事」をこなすために。


オトナな女性・結ちゃんと、クールすぎる年下男子・恭平くん。二人が深夜の部屋にいるのはシンプルな恋愛事情ではなく……?


全4話。

ちょっと切ない恋物語と、クールな男子が世界に向かって一歩踏み出す瞬間をご覧ください。

「第1話 どうしようもないほど寂しい隙間」


 深夜のエクササイズジムにやってくるひとは、それぞれが形の違う寂しさを持っている。

 たとえば27歳になる青木恭平あおききょうへいでいえば、だれに対しても恋心を持てないことが寂しさの形だ


 恭平はエクササイズマシンで身体をいじめ抜きながら、ふと自分の周りを見渡した。大きな金属のマシンと無駄に格闘している男女の姿を眺めつつ、自分の手をみて息を吐いた。

 ゆっくりと身体を止め、機械から離れる。ジムの端にあるベンチに座った恭平の目の前にすっと水のボトルが差し出された。


「はい、今回は私がおごる番よね?」


 恭平が視線を上げると、そこには小柄な女性が立って笑っていた。

 32歳でフリーの翻訳者をしているという宮園結みやぞのゆいだ。


「結さん。ありがとうございます。ん? 今回は僕がおごる番じゃなかったですか」

「……そうだったかしら。じゃあ、1回分、損をしたわ」

「つぎは、僕が2本おごりますよ」


 恭平が笑ってそういうと、結はかるく頭を振って笑った。

深夜でも軽くメイクをしている華やかな顔がほころび、結の周囲にぱっとピンクとオレンジ色の光が散った。


「お水は2本もいらない。飲みきれないもの」

「じゃあ、他のものを。なんでも、結さんが欲しいものを」


 恭平がそういうと、結は笑ったまま恭平を見た。この小柄な人は身長が150センチしかないらしい。以前そんなことを結自身が言っていた。

 恭平はゆっくりと立ち上がった。


 恭平の身長は170センチもある。結との身長差は20センチだ。

 二人で並んで話していると、ちょうど恭平の胸のあたりに、つやつやとゴールドがかったブラウンに染めた結の髪がくる。

 まるで、男に撫でてもらうためにあるような髪。


 しかし結の髪がこの3年、ずっと誰からも触れられていないことを、恭平は知っている。

 その理由も、結が恋に踏み切れない理由も、知っている。

 恭平はボトルの水を半分ほど一気に飲んでから、声を低めて結に尋ねた。


「今日は――僕の“仕事”がある日ですか?」


 結も水を飲みながら、そっと切れ長の目を伏せた。ふっくらした顔に不似合いなほどに、するどく切れあがった目だ。

 まぶたが伏せられているから、結の瞳は恭平には見えない。


 しかし誰にも恋をしたことのない恭平は、結がかくしたがる瞳の奥を、見たいとも思わない。

 見ても理解できないからだ。

 そこに、青木恭平の寂しさがある。


 そして恋を知らない恭平にさえ瞳の奥を見せられないところに、宮園結の寂しさがある。

 それでも寂しさと寂しさがかさなると、そこには小さな抜け道ができる。結が必要としているのは、その抜け道だ。


 この夜を乗り越えるために、どうしても必要な抜け道。

 明日になればまた別の道があるのかもしれないが、今この一瞬、この長い夜を無事に抜け出すために、結は恭平を必要としている。

 ふわっと、結の小さな頭が揺れた。


「このまま。うちに来てくれる、恭平くん?」


 恭平は手に持っていた水のボトルのふたをきゅっと閉めた。


「結さんに、それが必要なら。あなたが決めることです」


 結は何も言わずに、恭平の手のボトルをとって後ろも見ずに歩き始めた。

 その後ろを、170センチの青木恭平がついてゆく。


 人の気配がなくなりかけている深夜のエクササイズジムの玄関を、どうしようもないほど寂しい二つの隙間が、わずかに重なり合って歩いていった。



「第2話 夜寒(よさむ)の部屋で、恭平の“仕事”」

★★★

 結のマンションはジムから歩いて5分だ。

 (ゆい)の3LDKの部屋はいつもきれいに片づいており、きれいという以上に肌寒かった。

 部屋に入った恭平は、ぶるっと体を震わせた。それをみて、結が笑う。


「いま、暖房を入れるから」

「まだそんな季節じゃありませんよ」

「11月も終わりよ、寒くて当然だわ——ねえ、お風呂に入ってきてもいいかしら」


 恭平は肩をすくめた。


「どうぞ。僕、なにか飲んでいてもいいですか」

「いいわよ、そのへんに昨日もらったラムがあるはずだから。封を切って飲んでもいいわよ。じゃあ——これ」


 そういうと結はバッグに手を入れ、スマホをふたつ取りだした。

 黒いカバーが付けられたものと、真っ赤なスマホカバーのもの。黒いカバーのスマホは、結がふだん仕事でもプライベートでも使っているものだ。

 

もうひとつの赤いカバーのスマホは、恭平の知る限り、一度も使われたことがない。少し古い機種だが、毎日きちんと充電され、いつでも使える状態にはなっている。

 恭平は赤いほうを受け取る。


 結は一瞬だけ恭平の手に乗ったスマホを見つめた後、マンションの奥の部屋に消した。恭平は知らないが、奥に結の寝室があるらしい。

 結は外から帰ってきたら部屋で着がえてから風呂に行く。


 そのあいだに、恭平は預かったスマホをジッパー付きのビニール袋に入れ、丁寧に空気を抜いてから密閉した。ビニール袋に包み込まれたスマホは、「通話する、発信する、受信する」という機能をはぎとられて、呆然としているようだ。


 恭平はそのまま結の部屋のすみにある小さな金庫にスマホを入れると、ロックをかけた。

 今夜のナンバーは、281。金庫を開錠できるナンバーは、今夜このまま恭平の頭の中だけにある。ほかには誰も知らない。

 とりわけ、結は知らない。


 時間は、23時。

 ここから24時半までが、青木恭平の“仕事”の時間だ。


 結が風呂に入っている間、恭平はぼんやりと外を見た。

 ベランダ越しに見える夜景はつくりもののようで、手を伸ばすだけで、ひゆりと崩れてしまう砂糖菓子に似ている。


 いつもなら恭平はすぐにソファに座り、飲みなおす。

 しかし今夜の恭平はリビングの窓を開け、ベランダに出てじっと一点を見た。

 無人のアスファルト、いつものように路上駐車が並ぶ住宅街の道路。白っぽい街灯と晩秋の乾いた空気、銀色の筋のような細い()(づき)


 そのどこかに、恭平の意識に引っかかるものがあった。恭平がそれを確かめようとベランダの手すりに手を置いたとき、背後から結の声がした。


「恭平くん、どうかした?」


 結に向かって振り返った時、恭平はもう(たい)らな笑いを取り戻している。


「ううん。なんでもない。お風呂、終わったんですか」


 恭平は結に話しかけながら部屋に入り、鍵をかけた。今夜はなぜか、結の部屋中の鍵をきちんとかけたほうがいい気がする。

 結はのんびりした声で、


「恭平くんもお風呂に入る? 私、お風呂は入浴直後に洗うから、きれいよ」


 恭平は首を横に振った。


「いえ、うちに帰ってから入りますよ。結さん、今夜は何をするんですか?」




「第3話 たすけてたすけて。たすけて」

★★★


結は恭平の質問に、簡単に答えた。


「仕事するわ。終わってない分を持ち帰ってきているの」


 その声がまだ冷静なのを恭平の耳は聞き取る。今夜のスタートはそれほど悪くないようだ。そこで、尋ねかえす。


「どこでやります? ここ? それとも作業部屋?」

「作業部屋で。ちょっと集中したいのよ。ほうっておいて、ごめんなさいね恭平くん」


 結いの言葉に、恭平はおもわず笑いをこぼした。


「結さんが()()()()()()()()()()。それが一番いいんじゃないですか」


 すると結はすうっと目を細めて笑った。華やかに笑っているようでいて、本当は秋の夕暮れほどの痛みを隠している目だ。


「――そうね。じゃあ、仕事してくるから」


 結がリビングから出ていくと、恭平はソファに座り、さっき封を切ったラムをちびちびと飲みだした。何度か、壁に掛けられた時計を眺める。

 今夜の結は、どれくらい持ちこたえられるだろうか。


 結ひとりが住むマンションは冷たいほどに静かで。

 だからこそ、朝と昼の間は身体のどこかに置き捨てられているものが夜になるとざわめく。

 23時になると、結の中のどうしようもないものが音を立ててはじけだす。それを止めるために恭平はいるのだ。


 かたん、という音が聞こえて、恭平はソファではっとした。うっかりソファで眠り込んだすきに、結がリビングに入ってきていた。

 結は部屋の隅の金庫の前で、うずくまっている。恭平は立ち上がり、そっと結の肩に手を置いた。


「結さん、仕事しようか」


 結は恭平を振り返り、まるでいたずらを見つかった子供のように笑って見せた。


「ごめん、そうよね」


 そう言って作業部屋に戻る。しかし10分もしないうちに、またリビングに舞い戻ってきた。


「あのね、恭平くん、ちょっと金庫を開けてみようかしら。ううん、あの、ちゃんとビニールで包んであるか、心配だから」

「僕が包みました。大丈夫です」


 恭平は冷静に答える。結はしおれた表情になり、それでもうなずいてリビングを出ていった。

 それが5回目になると、もう結には冷静さがない。小さな金庫の前に座り込み、子供のように泣き出した。


「恭平くん、開けて。お願い、金庫を開けてよ。電話が、かかってきているかもしれないじゃない」


恭平はおだやかな声で冷静な声で結に話しかける。


「どこからも、かかってきませんよ。このスマホは、結さんの元カレ専用だ。

別れるときに、そいつは自分からかけない。結さんの電話を待っているって言ったんでしょう。

そしてあなたは、あの男はもうあきらめたって言ったはずだ」


 恭平はちいさな結の身体を抱きしめながら、なだめるような声で言った。まるで、長い長い歌をうたってあげるように。


「今だけは我慢しましょう、結さん。朝が来れば冷静になれます」

「……恭平くん、助けて。ひとりに、しないで」


 そのまま結は泣き崩れる。恭平は男の力で結をきつく抱きしめつづけた。

 傷だらけの時間が、ゆっくりと過ぎてゆく。

 そして深夜24時半。結の身体から力が抜けてゆく。ぐったりと恭平にもたれた結の、口紅を落として青白くなった唇がかすかに開いた。


「きょうへい。なんじになった?」


 恭平は腕の腕の力を抜き、結の乾ききった唇にキスをしてから時計を見た。


「12時半です。よくがんばりましたね」

「うん……今日はもう、ねます」


 結はふらりと立ち上がり、寝室に向かう。恭平はその薄くはがれてしまいそうな後ろ姿に向かって言った。


「金庫のナンバー、メモに書いて冷蔵庫に貼っておきますから。朝、見てくださいね」

「ありがとう、恭平」


 最後にかすかな声でそう言って、結は部屋に消えていった。

 ぱたん、という音を確認してから、恭平は自分の唇をひっかいた。

 冷蔵庫に数字を書いたメモを貼ろうと、手近にあったマグネットをつかむ。ふと、恭平は手の中を見た。

 マグネットは、黒いオープンカーの形だ。その流線型の車体は、恭平の1時間半前の記憶へ飛んでカチリとはまった。


 黒いユーノスロードスター。

 恭平が1時間半前に、ベランダから縦列駐車を眺めていて見つけた車だ。毎晩、道のわきに並ぶ路上駐車の列では、一度も見たことのない車。

 あの時は黒い幌が下げられていた。晩秋の夜は、オープンカーの幌を開けたままにしておくのにふさわしい気温ではない。

 恭平はマグネットをつかんだまま、じっと考え込んだ。


 それから部屋の隅に行き、金庫を開錠してビニールで密閉されたスマホを取り出した。

 上着を着て、結の部屋を出ようとする。そこで、立ち止まった。


 結のマンションはオートロックだ。いちど出てしまうと、恭平はもう戻ってこられない。今夜は結がもう寝てしまったから、絶対に戻れない。

 だから、一瞬だけ考えた。


 しかし手にスマホを持って、青木恭平は出ていった。

 外は、晩秋の深夜だ。

 風は乾ききっていて冷たく。

 青木恭平は、ひとりで世界と戦うしかない。

 そして恭平は、自分以外の男をこの戦場へ送りたくないと思った。


 結を助ける男がいるとすれば。それは青木恭平だけで十分だ。



「第4話 

★★★

 深夜の路上には、結の部屋を眺められる場所に黒いユーノスロードスターがとまっていた。

 1時間半前に恭平がベランダからみて感じとった違和感は、この小さな車だったのだ。いつもの路上駐車の車列では、見たことのない車。

 恭平はゆっくりと車に近づき、しばらく眺めていた。すると車のドアがあき、男がでてきた。170センチの恭平と、ほぼ同じ身長の男。こちらのほうが少し大きいかもしれない。

 大きすぎる身体を、やすやすと使いこなしている印象がある男だ。

 恭平はじっと男を見て、言った。

 

「秋山慎吾さん、ですか」

 

 男が黙ってうなずく。

 恭平はだまって男に持っているビニール袋を差し出した。

 真っ赤なスマホカバーに包まれた小さな機械。

 それをながめて、男は静かに口を開いた。


「きみが結の、今の男なのかな」

「そうです」


 それきり恭平が黙っていると。男は太い指で恭平の手からスマホが入ったビニール袋をつまみあげた。


「結の答えか」

「どう判断されても自由です。でも、()を——」


 と、恭平は言葉を切り、男の目をまっすぐに見た。


「結を自由にしてください。別れてもう3年だ」

「まだ、3年だよ」


 男はそっとビニール越しに結のスマホを撫でた。その瞬間、恭平の目の前に男と結が笑いあっている場面が見えた。

 部屋のなかでカフェの一角で、旅先のベッドで、結はやわらかく微笑んでいた。

 青木恭平はまるでスノードームの中の天使像を見るように、結と男が白い雪の中で笑っているのを見ていた。


 やがて。

 ドームの中の雪が鎮まる。

 深夜の街灯の下で男はビニール袋のジッパーを開け、スマホを取り出した。自分の上着のポケットにしまう。

 それから恭平を見た。


「きみみたいな男がいるなら、安心してもいいんだろうね」

「僕はあなたより、ましな男です」


 恭平の言葉に、男は笑って答えた。


「そのとおり。いま結がそばに置いている男はきみであって、おれではない。だが、おれがきみになる可能性はある」


 男は空っぽのビニール袋を恭平に渡して、車に乗り込んだ。エンジンがかかると、車は一瞬のたわみもなく走り去っていった。

 あとには、恭平がひとりで夜の路上に立っていた。


 ひとが、おかしくなりそうなくらいに恋をするっていったい何だろう。


 恭平はこれまで、人にも物にも強く気持ちを持っていかれたことがなかった。

 しかしいま初めて、胃の中が泡立つ不安を味わっている。

 笑う結を包み、泣く結を守るのは恭平だけでいい。他の男の手はいらない。


 晩秋の路上で恭平は空っぽのビニール袋を握りしめ、世界が変わってゆく瞬間に立ち会っていた。

 恭平の目の前で、見慣れた風景が結のいる世界に組み立てなおされてゆく。

 夜の水平線が、ひかる。

 恭平は路上に立ったまま、マンション3階にある結の部屋を見上げる。


 足元から、風がたつ。

 手の中にあった空っぽのビニール袋が夜の空に舞い上がり、するどい受け月を一瞬だけ包み込んでから、そのままどこかへ消えていった。


 恭平はまだ、ひとりで路上に立っている。



 2020年11月27日 初稿脱稿


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