『この唇に、狂へ』
喪服をまとった女たちは、黒い波のようだ。
同じような喪服を着た小柄な深雪が歩くたび波が割れる。女たちの声がひそやかに立った。
『あれが本家の嫁? 若すぎるわね』
『十二歳も年下だったんですって。みっともない話よ』
ささやきが黒い絹を揺らす。深雪は唇をかんだ。ぷっくりした唇に小さな歯が食い込む。
いま、このホールの中で借り物の喪服を着ているのは、喪主である自分だけだろうと思う。
名門・多田家の女たちは、みな十八歳になると母親から染め紋の喪服を受け取る。五つ紋の喪服には、女紋がついている。多田の女たちはみな、母親から娘だけに伝えられる女紋をもって誇りやかに他家へ嫁いでゆく。
深雪は嫁に来た女だ。だから自分の紋が入った喪服など持っておらず、三日前に突然夫が亡くなったいま、借り物の喪服を着せられている。
借り物の絹、借り物の喪主、借り物の嫁。
二十七歳の多田深雪は、借り物でできあがっている。
深雪は祭壇の上の遺影を見た。銀髪まじりのおだやかな顔。亡夫は感情の波が少なく、目元をとがらせることさえめずらしい人だった。
深雪が大きな二重まぶたの目を凝らしていると、白と黒の制服を着た女性が近づいてきた。
「奥さま、ご参列の皆様がお帰りになります。ご挨拶を」
弔いの場から出てゆく人たちは軽い会釈をする。深雪はただ、足元の黒い草履と白い足袋をながめていた。
葬儀場には、通夜のあと遺族が泊まる部屋がある。
深雪は髪をほどいてヘアブラシをもつ。深夜の鏡には小さく骨細な体がうつっていた。
ハート型の顔、くっきりした二重の目、厚みのある唇。深雪は自分の顔をラブドールに似ていると思う。男の欲望を受け止めるだけの人形。シリコンと人工毛髪でできた、限りなく人間に近いが意志のない人形。
実際、結婚するまでの深雪はラブドールに近い存在だった。年上の裕福な男たちを見つけては庇護を受ける。仕事もしていたが、足りない分は男たちから受け取る金で補充した。
二十五歳の、若く美しいだけの女。ほかに何ができただろうか。
深雪が髪にブラシをかけていると、鏡の中に十五歳くらいの少女があらわれた。
十五歳は、深雪が初めて自分の体を男に貸した年齢だ。
相手は年上の塾講師。男はしだいに妄執に駆られて酒に耽溺するようになった。ついには仕事もやめ、酒を断つために入院することになった。
入院の直前、男は深雪の前に姿を見せた。
深酒で目がにごり、すべての毛穴が開いたような顔だったが、無精ひげのある顔で笑った。
『二度と、お会いすることはないでしょう。どうかお元気で。
そして僕は、これからあなたが狂わせる男たちに同情する。それから、めまいがするほど嫉妬する。
その男たちには、あなたに恋する時間が許されているから。
僕にとってはもう、失われてしまった喜びが残されているから』
深雪は、男の言っていることが分からなかった。搾取されるのは女であって、男は傲慢にむさぼる立場だ。あの男の言葉は、今も理解できない。
鏡の中には少女と深雪がいる。
やがて。
別の女がやってくる。少女の倍ほどの年だ。
彼女は金属質の濃灰色だった。冷たく輝き、強力な磁力をもつ姿。
濃灰色の女は、これから自分が浴びる男たちの恋情と執着だ。そう気づいた瞬間、深雪は手にしたヘアブラシをバットのように持ち替え、渾身の力を込めて鏡に振りおろした。
鏡はこつん、という頼りない音を立てた。女は声をあげて笑い、。鏡の奥から手を伸ばしてくる。
『あなたはこちらに来る。世界は平穏になる。それが正しい』
目の前に濃灰色の手があらわれた。深雪は息をのむ。
消えろ、という声が聞こえる。
おまえはひとりだ。この世に在る理由はなんだ?
女が手まねきする。鏡の向こうから、風が吹く。
深雪の髪をほどき、耳をふさぐ風が吹いてくる。このまま風に呑まれたくなる。
手を取ろう。これが唯一の道だ。
深雪が手を伸ばしかけたとき、パリッという音がして鏡にヒビが入った。鏡の真ん中に、少女が立っていた。
「ダメ。あなたにはまだやるべきことがある」
「ない。あたしはひとり。ここにいる理由はもう、ない」
「この世には、男を狂わせる女がいる。それだけのこと。
黙って受け入れて。 あなた自身と、手をつないで」
少女はいつの間にか黒い絹をまとっていた。左右の胸と袖、背中に白く染め抜いた紋がある。少女は風にあおられ、しだいに小さくなってゆく。かすれた声が聞こえた。
「認めて。あたしはあなた、あなたはあたし。そしてこの世にはひかりがある。
あたしに――あなたの紋を、ちょうだい。
おかあさん」
少女がそう言った瞬間、ブガンっと大きな音がして、一切の光が消えた。
そこに、この世の底の底があった。
この世の底からは、せつない匂いがした。生まれたばかりの赤ん坊の匂いが、した。
深雪は目を閉じる。
「あたしはあたし。あなたはあなた。そしてこの世には――光がある」
ひかりがある。
深雪がそう言ったとき、鏡が風を止めた。世界の隙間からのぞいた一瞬の亀裂は、静かに閉じた。
翌日。
葬儀のあいだ、深雪はそっと帯の下あたりに手を添え、微動もせずに立ちけていた。化粧をしない顔には、有無をいわさぬ美貌。
その姿に男たちはひそかに首筋を震わせる。静けさは、人を飲み込む直前の池に似ていた。
女たちは疑わしげな視線を投げる。凪のような黒い着物が不安げに動いた。生まれてしまった魔物に、もう手が届かぬことを悔やむざわめき。
ひとり、かすかに笑った深雪の唇からは、男を狂わせる女の覚悟がこぼれ落ちていた。
「ありがとう、ございました」
さあ。
この唇に――くるえ、男ども。