表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

「一生かけて、君を守る」と口にする王子に対し、私は「嘘つき」と言いたかった。

『王宮とはいえ、婚約者でもない男女が二人きりで過ごすものではありませんわ』


 いっそ、そんなセリフを言葉にできれば、どれほど清々しいことでしょう。残念ながら、それは叶わぬ夢なのだけれど。


 ねえ、こんな「もしも」を考えたことはある?

 もし自分の未来を予知することができたら。

 これから起こる出来事を事前に察知できたなら。


 あなたがそんな「もしも」を妄想したことがあるのなら、私は全力で「やめておいた方がいい」と止めるでしょうね。


 私の手元には、一冊の書物があります。

 中に書いてあるのは、私に関する全てです。

 言葉を話す時、婚約者と出会う日付、そして。


『アイリス・ヴィ・イザナリア!! 貴様との婚約を破棄する!!』


 ――私が婚約破棄される未来。

 ――断罪と称して執り行われる処刑という結末。

 その書物には、私の生涯が記されていました。



 少し、昔話をしましょうか。


 望んでもいない予言を押し付けられ、望んだ自由を奪われた、一人の少女の物語です。


「アイリス、またここにいたんだね。あはは、こらこら。書斎の本を持ち出しちゃいけないって言ってるだろう?」

「はーい。ごめんなさい」


 少女の名前はアイリス・ヴィ・イザナリア。

 公爵邸の庭にある樹木の木陰が特等席。

 たびたび書斎から書物を持ち出しては、日が暮れるまで読みふけるような少女でした。


「もうしませんは?」

「またやります」

「よしよし。素直でいい子だぞ」

「わっ、あはは! パパ、くすぐったいよー」


 ……お父様は、執務でお忙しい方でした。

 けれど、一日の仕事が終わると必ず少女を探しに来てくれたのです。


 少女にとって、親からの愛情を確認する手段だったのかもしれません。「書斎から本を持ち出しちゃダメだ」と注意されるのが、自分に関心が向いているようで、気を引きたかったのだと思います。




「……あら? このような書籍がございましたでしょうか?」


 少女の悪癖は直らぬまま、12才の誕生日を迎えました。少女の考えることはその日も同じ。

 どのご本をもってお外に出ようか、でした。


 目新しい本を見つけた少女が、その本を持ち出すと決めるのに、時間はそう掛かりませんでした。


(もしかしてこれ、私の成長日記かしら?)


 その書物には、少女のこれまでのことが記されていました。


 この世に生まれた日付に体重。

 初めて口にした言葉が「ママ」だったこと。

 書斎から持ち出した本を抱き抱えて、庭木の下で寝ていたこと。


 どれも聞き覚えのあるエピソードばかりでした。


(これを書いたのはお父様かしら、それともお母様? ふふっ。私のこと、しっかり見てくださっていたのですね)


 公爵令嬢という立場は、少女にとって少々窮屈でした。「もしかしたら、愛されていないのでは」と考えたのも、一度や二度ではありません。

 ですから、少女は嬉しかったのです。

 自分をきちんと見てくれている人がいる事実が。


 もっとも、皆目見当はずれで、メイドや執事の誰かが書いている可能性もありました。

 ですが、彼らが自発的にそうしてくれたのだとしても、お父様かお母さまが指示を出してくれていたのだとしても、関心を向けてくれる人がいるという事実が、とても温かかったのです。


 人の日記を盗み見るのはよろしくないことです。

 ですがこれはその少女の成長日記。


 少女は時間を忘れて読み進めました。


「……え? この日記、今より未来のことまで書かれていますの……?」


 人が本来、知りうべからざる、これからのことを。


「殿下が私の婚約者? 男爵令嬢と殿下の逢瀬? 私と殿下の婚約破棄?

 知らない……っ、私、こんな未来、知らないっ」


 ぼすっ、と。

 その書籍は私の手から零れ落ち、膝の上で止まりました。すぐに乾いた風が庭に吹き込んで、書籍はあるページで止まりました。


 そのページに記されていた文字は、今でもはっきりと思い出せます。


 ――8月15日。

 ――断罪と称して、処刑される。

 ――行年 16歳。



「アイリス、ああよかった! 心配したんだぞ!」

「……お、父様? ここは」

「屋敷の一室だ。すごい熱を出して庭で倒れていたんだ」

「……私が、庭で?」


 上体を起こすと頭がくらっとして、視界が黒くよどみました。右手を当てて頭痛が引くのを待ちます。

 そんな折、視界の片隅に、どこか見覚えのある書物が映りました。


 刹那、彼女の脳裏に未来の出来事がよみがえりました。


 ――4年後には殺されてしまう。


「この、この書籍に、わ、私のこれからのことが」

「アイリス? アイリス!」


 手首をつかまれて、ハッと意識が引き上げられました。顔を上げれば、不安そうに少女を覗き込む父親の顔があります。


「しっかりするんだ。書籍なんてどこにもない」

「……え?」



 ええ、そうです。

 少女、アイリス・ヴィ・イザナリアこそ私です。


 私の手に握られた【アカシックレコード】は、私以外の誰にも見えず、触ることさえできないようです。


「……確かにここに、ありますのに」


 表紙の手触りも、ページをめくる音も、私にははっきり感じ取れます。


 ――いつものように庭で本を読んでいた。

 ――いつものようにお父様がやってきた。

 ――その頭上に、剥落(はくらく)した外壁が迫っていた。

 ――声を上げた時には手遅れだった。

 ――瓦礫はお父様の右肩を打ち抜いた。

 ――悪意が私を(わら)っている。

 ――私のせいだ。私のせいなんだ。


 ――私が日記を無視したせいなんだ。


 ぱたん。

 私は本を閉じました。


『おそらく一時的なパニック症状でしょう』


 お医者様はおっしゃいました。

 すぐに元通りの生活を送れると。


 本当に、幻覚、なのかな……。


「アイリス。やっぱり気分がすぐれないのかい?」

「お父様……!」


 書斎でうんうん唸っていた私は、お父様がやってきていたことにも気づかなかったようです。ですが、これはちょうどよい機会です。


「お父様、大事な話がございます」

「うん? なんだい?」


 口にして、思い止まりました。

 ……私は今、何を言おうとしたのでしょう。

 頭上にお気を付けください?

 屋敷の外壁が老朽化しています?


 根拠をどう説明するつもりでしたか。

 また、存在するかどうかも不確かな日記を引き合いに出すつもりですか。

 お父様に心労をかけてまで。


「……あの、一番上の棚の歴史書を読みたいのです。取っていただけませんか?」


 結局、口をついて出たのはそんな言葉でした。

 お父様の職務は精神的に疲弊しやすいものです。

 余計な心配を掛けたくはありません。


「構わないよ。でもアイリス、その前に一つだけ聞かせてくれるかい?」

「はい。なんでしょう」

「言いたかったのは、本当にそんなことかい?」


 ですが、お父様はお見通しでした。

 敵わないな、と思いました。


「はい。不安をあおるような言い回しをしてしまい申し訳ございませんでした」

「……そうか」


 お父様は手を伸ばすと、分厚い歴史書を自由のきく右手で下ろしてくださりました。私は受け取り、お礼を口にしました。


 お父様は、じっと私を見ています。


「今日はお庭に向かわないのかい?」

「……えっと、それは」


 私は言い淀みました。

 肯定すれば、未だに精神的に不安を抱えていると打ち明けることになり、否定すれば、日記通りのシチュエーションが完成してしまいます。


「いいよ、今日は。外に持ち出しても」


 ……いえ、この日記に書かれたことが現実に起こる確証なんてどこにもありませんね。


「はい。ありがとうございます。お父様」


 いつも通りの私を心がけましょう。

 大丈夫、お医者様も言っていたではありませんか。

 一時的なパニック症状にすぎないと。


 書斎の出入り口に向かいました。

 大きな扉に手を掛けました。

 背後からお父様が「ああ、それからアイリス」と私を呼び止めましたので、立ち止まります。

 振り返った先にいたのは、いつにも増して真剣な顔をしたお父様。


「私はいつだってアイリスの味方だ。不安になったらいつでも頼りなさい」


 ……ああ、本当に。

 お父様には敵わないなぁ。




 少し、歴史書に没頭していました。

 庭の木々の香りが、風の匂いが、肺を満たしていきます。もうそろそろ日も傾き始めるころでしょうか。


「おーい、アイリス。そろそろ日も暮れるよ」

「お父様!」


 声がして、ハッと顔を上げました。

 ゆったりと手を振りながら、お父様がこちらに足を向けています。


 その顔は斜陽で真っ赤に染まっていました。

 伸びる影が屋敷の壁に差し掛かり、上に向かって伸びています。


 ……その先には。


「お父様ッ!!」


 あり得ません。

 そんなはずがないのです。

 だって、だってこれは。


「嘘、嘘よ……こんなの」


 血飛沫の色。

 むせかえるような鉄の匂い。

 鈍い悲鳴が耳を穿つ。


 ――悪意が私を嗤っている。



 お父様は、右肩から先の自由を失いました。

 私はそれを知っていました。

 知っていたのに、伝えませんでした。

 言い訳を連ねて、保身に走って、お父様の自由を奪ったのです。


「――っ!!」


 胸を引き裂いて、うちに湧き上がる黒い衝動をかきむしってしまいたい。逃げ場の無い熱量をどこかに捨ててしまいたい。

 それができずに胸の奥に抱えている。


 ――私のせいだ。私のせいなんだ。


『アイリスが気に病むことは無いわ。あれは事故よ。だれにも止められなかったの』

『私もアイリスも、命に別状はなかったんだ。それを一緒に、喜べないかい? アイリス』


 怯え、引きこもる私に、両親は優しく接してくれました。ただ、それだけのことが、私には、とても、とても――


 とても、辛かった。


 優しい言葉が、こんなにも心を抉るだなんて知らなかった。人に心配をかけているという自責の念が重くのしかかった。いつかこの優しさが枯れてしまうのがたまらなく恐ろしい。


 こんなことなら最初から、愛情なんて、知らなければよかった。


「……こんな日記、無かったら」


 どれだけ気が楽になったでしょう。

 私のせいじゃない。

 ただそう思えれば、どれだけ救われたでしょう。


「うっ……ううっあああああ!!」


 開いたページを乱雑に握り、破る。

 破ったページをさらに引きちぎる。

 破り捨て、引き裂いて。

 済む事の無いと知って、気が済むまで、衝動に身を任せました。


 最後に残ったのは日記のガワ。


 私は部屋の窓を開くと、それを力の限り遠くへ放り捨てました。


(これでよかった。これでよかったんだよ)


 未来なんて、人が知っていいものではありません。

 きっと重圧に押しつぶされてしまうから。


「……ぇ」


 次の瞬間、私は自分の目を疑いました。


「……どうして、どうしてなのよ」


 私の目の前には、一冊の本がありました。

 分厚い背幅、ずっしりとした重量。

 16年の歴史の厚み、人の命の重み。

 その本の名は――


 【アカシックレコード】


 脳のどこかで、火花が散るような音がしました。

 ふつふつとした衝動が胃の底から湧いて出て、喉の渇きをいっそう強めます。


(ふざ、けないでよ)


 私が一体何をした。


「どうすればいいのよ! こんな未来を押し付けて、私に何をさせたいの! どうして私がこんな目にあわなければいけないの!!」


 ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!


 私は何を呪えばいい。

 報われることのない我が未来か。

 実父を救わなかった己の愚かさか。

 生まれてきてすみませんとでも言えば満足か。


 否。


「……許さない」


 呪うとすればただ一つ。


「私をもてあそんだ運命を、私は決して許さない」




 ……ええ、認めましょう。


 私は呪われています。

 それも、特別厄介なタイプの呪いに。


 この本に書かれているのは私の生涯。

 私の人生の終着点は、予め決められていたのです。


 認めましょう、受け止めましょう。

 報われることのない婚約を。

 私が迎える死の結末を。


 ですが、そのうえで。


 否定してあげます、抗い続けてみせます。

 誰が運命の思惑(シナリオ)通りに動くものですか。レールの敷かれた未来なんて捻じ曲げてしまえばいい。


 運命が私をもてあそぶなら、私は運命をあざ笑いましょう。

 これは、戦争です。

 私がおとなしく引き下がるだなんて、思わないで。


 ずっしりと重たい、私の書。

 手に取り、今日までの軌跡をたどります。


 ――何もする気が起きない。

 ――このまま誰にも知られず朽ちてしまえばいいのに。早くゆるされたいのに。


 そんな未来、私は絶対に受け入れない。


 扉の先にあるのがイバラの道だとしても。


「アイリス……」


 私は、部屋を出ました。


「よく、よく顔を見せてくれたね。ああ、こんなに腕が細くなってしまって……」

「お父様、お母様、私、私……っ」

「辛かったのね、頑張ったのね……、アイリス、何も言わなくていいから、よく聞いてくださいね」


 お母様が私を抱きしめてくださいました。

 私の肩に雫が零れていきます。

 母の瞳からあふれたと思われるそれは。


「生きててくれて、ありがとう……っ!」


 とても、とても温かかったです。


 私は、胸が締め付けられるようでした。

 何故って……。


 ――7月15日。

 ――断罪と称して、処刑される。

 ――行年 16歳。


 私は、選択を間違えていた。



 ――私の生涯に、意味なんて無かった。

 ――それならせめて、私の生きた証を記録に残す。

 ――受け取った過去の私の糧になると、信じて。


 再編された未来のレコードは、そう締めくくられていました。奪われたひと月の余命と引き換えにして。


 未来は変えられる。

 それがわかっただけ前進したとも言えます。

 後はひたすら突き進むだけ、この終焉へ続く道を。


 今日のレコードはこう記されています。


 ――夜会で第一王子殿下からダンスのお誘いを受けました。


 殿下から誘いを受ける。

 それはつまり、少なからず殿下にとって重要な人物であることを意味しています。

 いっそ、夜会の参加を見送ってしまいましょうか。


 ですが、いつまで?

 殿下が出席なさるパーティには参加しない?

 それとも殿下が運命の相手と出会うまで?


 いいえ、夜会は貴族社会の縮図です。

 情報交換に手回し、人脈の形成。

 それらを蔑ろにした先に待ち構えるのは、また別の破滅の未来。


 逃げ場なんてどこにも無い。


(……勝手ね)


 ごとごと揺れる馬車の窓から、曇天広がる、窮屈そうな空を眺めていました。


 思い描くのは私の行く末。

 未来のレコードは、婚約を無理に押し付けておきながら、ぽっと出の男爵令嬢にあっさりと心移りする殿下のことを記していました。


 ――信じたのに。

 ――一緒に未来を生きようって、言ってくれたのに。


 ぐちゃぐちゃに書きなぐったような記録からは、私の感情が透けて見えるようでした。


 ――彼女の胸元には、殿下が助けたという、幸せそうな子犬の笑顔。

 ――私の居場所はどこにも無い。


「旦那様、しばし休憩といたしましょう」

「そうだね。もう、走り続けて長くなる」


 爺やとお父様の声がして、思考の海から意識を引き上げると、目の前には湖畔が広がっていました。


「アイリスも長旅で疲れただろう。一緒に風にあたりに行こうか」


 そうすれば、この陰鬱とした気も幾分晴れるでしょうか。


「はい、お父様」


 そんな期待もしていない期待を抱き、お父様と一緒に馬車を下りました。湖畔には波一つなく、まるで鏡で空を切り取ったようです。


 湖畔には桟橋が架かっていて、幾名かの男女が水面をのぞいています。彼らもまた、どこかへ向かう途中なのでしょうね。


『きゃあああぁぁぁっ!

 あがっ、ぶぐ、だず、げ――』

『だ、誰か! 誰か助けてください! 連れが湖に落ちてしまったんです!! どなたか、どなたか、泳げる方は――』


 空気を引き裂く金切声。広がるしぶき、波紋。

 私は一つ、思い付いたことがありました。


「お父様、困ったときは頼れとおっしゃいましたよね」

「あ、ああ。だがアイリス、何をする気だ」


 瞬きを一つ。

 私は静かに微笑みました。


「アイリス!? 待ちなさい! アイリス!!」


 駆けた、凛とした空気を引き裂いて、桟橋へ。

 傍観者たちの目はみんなよく似ていました。


 誰か助けに行けよ。

 どうして誰も助けに行かないんだ。


 無言を貫く彼らの顔色からは、そんな本心がありありと伝わってきます。


『誰か……っ』


 泣きじゃくる男子の横を走り抜けて、湖に飛び込みました。


『あがっ、ごぶっ』

「大丈夫、落ち着いて。私に捕まって。そう、いい子よ。ゆっくり桟橋に向かうからね」

『あぐ、ひぐっ、ううっ、ああああ……ありがどう、ありがどうございばず!!』


 人一人の重さが加わったうえに、ドレスは水を吸ってその重量を声高に叫んでいます。締め上げたコルセットのおかげで体が思うように動きません。

 それでも、なんとか桟橋にはたどり着きました。


『彼女を助けてくださり、ありがとうございます! その、なんとお礼を申し上げればいいか……』

「意気地なし」

『……え?』


 命がかかった場面では気が回らなかった、といった様子で、私を見つめる水難者とそのお連れ様。私の容姿から、身分の違いを悟ったようにも見えます。

 意気地なしと罵倒した私に、意味を尋ねるように、少年の瞳が揺れました。


「アイリス!!」


 しかし、彼の言葉は後に続きません。

 お父様の怒声が響き渡ったからです。


「なんという無茶な真似を……お前まで溺れ死ぬ危険を考えなかったのか!?」

「申し訳ございません。ですが」


 怒られるのは、想定内でした。

 当然、反論もとっくに考えています。


「その時は、お父様が助けてくださるでしょう?」

「……っ、アイリス」

「私は、お父様を、信じておりますから」


 実際、右腕の自由を失った父が、溺れる二人を助けられたかどうかは分かりません。しかし、どうあっても、私だけは救い出してくれた。そんな気がします。


「……もうこんな真似はしないと、誓ってくれ」

「そう言われて、ご本を持ち出すのをやめる子でしたか?」

「……そうだね。アイリスは、昔からそういう子だった」


 困った子だと、やるせない笑みを浮かべるお父様でしたが、そこにあったのは疲労の色ではなく、安堵の色でした。


「風邪をひくといけない。夜会は諦めようか」


 私だって、善意だけで動きはしません。


(これでしたら、夜会を欠席しても醜聞が広まることは無いでしょう)


 少女の命を救えて、殿下にダンスを申し込まれるパーティも先送りにできる。今回の行動は、そんな複数の打算が積み重なった結果に過ぎません。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 馬車に向かおうとする私たちに、拍手を送る人物がいました。少し苛立ちながら手の鳴る方に視線を送ると、そこに男がいました。


「貴族は民を守るために在れ。そんな言葉を体現するような、素晴らしい行動力だった」


 目を見開く。

 ふざけるなと叫びたくなる。

 どうして、あなたがここにいる。


「ああ、失礼。名乗りが遅れました」


 ……貴族社会において。

 身分の低い者は、身分が上の者が声をかけるまで話しかけてはいけないというルールがあります。


 では、貴族の中で最も格の高い公爵の令嬢である私に声をかける彼はいったい誰でしょう?


「お初にお目にかかります。アルフレッド・ヘイム・イージスラシュと申します」


 問うまでもありません。

 この国の、第一王子殿下です。


「……ご丁寧なあいさつ、痛み入ります。アイリス・ヴィ・イザナリアと申します」

「イザナリア公爵家の令嬢か。驚いた。とても、人としての器ができている」


 彼はおとがいに手を当てると、一人で得心いったように頷きました。

 まずい。


「アイリス嬢、君の民を思う心を私は尊敬する。私のそばで、私を支えてほしいと思う」


 ……どうして、こうなる。

 私が運命に抗おうとしたから?

 決められたレールを外れようとするから、歴史が歪みを修正しようとしているの?


 口の中に、鉄の味が広がった。


「ではもし私より無垢なご令嬢が現れれば、あなたは私を捨てますか?」


 彼の問いかけに、私は問いをもって答えとしました。


「それは――」


 彼が答えに困窮するのを見ました。

 少しばかり、溜飲が下がる思いです。


「いずれ答えが出ましたら教えてくださいませ」


 空に広がる曇天が、雨の匂いに湿った気がした。



 ――9月21日。

 ――断罪と称して、処刑される。

 ――行年 15歳。


 あれからおよそ2年。

 アイリス・ヴィ・イザナリア14歳。


 私はたびたび運命に抗った。

 だけど、歴史は一定の流れから大きく外れませんでした。

 ただ(いたずら)に、終わりの日だけが近づいてくる。


『お嬢様、花束とメッセージカードが届いております』


 爺やからそんな言葉を聞いたのが今朝のこと。

 メッセージカードの中身を知ったのが、1週間前のこと。


 破滅に繋がる未来日記は、一言一句違えることなく、手紙の中身を記していました。


『王宮のバラ園が最盛期を迎えるから見に来てほしい』


 一輪のバラとともに、要約するとそのような内容の手紙が届けられました。


「やあ、よく来てくれたね。アイリス嬢」

「この度はご招待いただき、誠にありがとうございます。アルフレッド第一王子殿下」


 差出人はアルフレッド第一王子殿下。殿下から誘われてしまえば、私に断る選択肢など無いに等しいです。


「さて、君はアイリス嬢の侍女だね。少し彼女と二人で話がしたい。下がってくれるかな?」


 彼の言い分に、私は歯噛みしました。

 公爵邸ならいざ知れず、ここは王宮です。

 彼の発言力には重みがあります。


 仕えるべき相手と、より強い権力を持つ相手。

 板挟みになった、まだ若い侍女が泣き出しそうな目で私に縋ります。


「……殿下の仰る通りにしてください」

「かしこまりました」


 心底助かったと言った様子でその場を離れる侍女に、なんだか裏切られたような気がしました。

 所詮、私と彼女の間柄なんてそんなもの。

 いえ、そもそも私に、どれだけの価値が。


「バラ園を見せたいとは、ただの口実だったのですか?」

「ははっ、それもまぎれもない本心だよ。でも今日は、それ以上に、君に伝えたいことがあるんだ」


 案内するよ。

 殿下はそういうと、私をバラ園に連れ出しました。


「君は前に言ったね。もし君より無垢な令嬢が現れれば、私は君を捨てるのかと。その答えをずっと、考えていた」


 彼は私に向き直りました。

 瞳に闘志を燃やしながら。


「手放さない。私は君を手放さない」


 彼は言いました。彼は続けました。


「君と会ってからの2年間。私はいつも君を目で追っていた。そのたびに君は、いろいろな面を私に見せてくれた」


 小さな体の内に秘めたお転婆な一面。

 難解な本と向き合う時の真剣な表情。

 人に本をお勧めするときの熱量。

 パンケーキを食べているときの幸せそうな顔に、ピクルスをつまんできゅっと口を結ぶ様子。


「そのどれもが、脳裏に焼き付いて離れない」


 だから、と。

 彼は騎士の礼を私に捧げました。

 首を差し出すその構えを、王族は好みません。

 あえてそれを選んだ理由は明白でした。


「私と婚約してほしい。私の隣を歩いてほしい。これからずっと、死が二人を分かつまで」


 気持ちに嘘偽りがないことの意思表示。

 この言葉が本心なんだという主張。

 そして、この告白に対する思いの丈。


 ――嘘つき。


 口をついて出そうになった言葉を飲み込みました。


 現時点における彼の言葉は真実なのでしょう。

 それが翻るのは、おそらく少し先のこと。


(……どうして、こうなるのよ)


 散々抗った私が、どうやっても変えられなかった歴史のターニングポイント。

 その一つが、殿下との婚約です。


 形は私への嘆願ですが、相手が王族である以上、その強制力は言うまでもありません。


 愛のある結婚ができるだなんて夢は見ていませんでした。政略結婚の道具に使われることも想定の内でした。

 ですが、ですが。

 これはあんまりにも、あんまりではないですか。


「……殿下は、卑怯者ですね」

「恋と戦争においてはいかなる手段も許される。誰に後ろ指さされようと、君を手放すつもりはないよ」


 煮え切らない私に、殿下は言葉の追い打ちを掛けます。やめてください、私が聞きたいのは、そんな言葉じゃないのに。


「一生かけて、君を守る。だから」


 どうせ私を捨てるくせに。


「私のそばで私を支えてくれ。アイリス・ヴィ・イザナリア」


 バラ園には、真っ赤なバラが咲き乱れている。



 ――いよいよあの女が現れた。

 ――私からすべてを奪っていく、あの男爵令嬢が。


 日記をめくると、そんな記述が目に入りました。

 心の内を満たしているのは、決戦を前にした闘志……ではなく、諦めにも似たそら寒い何かでした。


(どうすれば、良かったのよ)


 2年と少しの間。

 私は運命に抗った、抗い続けた。


 だけど、結果として殿下との婚約を未然に防ぐことはできず、断罪の日は刻一刻と迫るばかり。


 脳裏に浮かぶのは一つの仮説。

 私が運命に逆らうたび、歴史は、私の余命を代償にあるべき形へ戻ろうとしているのではないかしら。

 ならば、私がしてきたことは、すべて……。


「バンドリリス男爵。ご壮健そうで何よりです」

「はっは。これはアルフレッド殿下。殿下もご婚約なされたと耳にしております。心よりお喜び申し上げます」

「耳が早いですね」

「バンドリリスの血筋は、それだけが取り柄ですので」


 無駄、でしたの?

 問いの答えを見つけられないまま、ターニングポイントに差し掛かったのを肌で感じました。


「バンドリリス家については私も噂を耳にしている」

「ほう。それはどのような?」

「なんでも、新たに養子を迎え入れたと」

「……おみそれいたしました。ルージュ。挨拶なさい」


 大柄なバンドリリス男爵の後ろから、おずおずと、小動物のような少女が顔をのぞかせました。


「お、お初にお目にかかりますっ、ル、ルージュ・バンドリリスと申します!」


 右も左もわからない。

 緊張で石になってしまいそうな少女。

 それが彼女に対する第一印象でした。


「こちらこそお初にお目にかかります、ルージュ嬢。緊張することはございませんよ」

「きょ、恐縮です!」

「はは……慣れないこともあるでしょう。私でよければ、いつでもご相談に乗りますよ」

「本当ですか!?」


 そんな彼女に、殿下は微笑みかけた。


 貴族は民を守るために在れ。

 それは王族である殿下にも言える言葉です。

 ですが、しかしです。

 平民に取るべき対応と、貴族に取るべき対応というのは、本来異なるはずなのです。


 殿下が直々に相談に乗るというのは、その貴族を特別扱いするという意味です。

 この場にその意味が分からない愚か者はいません。

 特にルージュ嬢は、目をキラキラ輝かせて殿下に熱いまなざしを送っています。


 心にわき上がるのは黒い感情。

 あわてて心に蓋をして、鍵を掛けました。

 復讐心に駆られて動くのは得策ではありません。


「で、でしたら、その……ダ、ダンスのお相手を、一曲お願いしてもよろしいでしょうか?」

「……えっと、それは」


 殿下はすいと、私に視線を送りました。


 通常、ダンスの一曲目は婚約者同士で踊るという決まりがあります。今日は夜会が始まったばかりということもあり、まだ私は殿下と踊っていません。


(踊りたければ踊ればいいでしょう)


 なんですか、その目は。

 罪悪感を覚えるならやめてしまえばいい。

 性欲に負けるくらいなら溺れてしまえばいい。


 私に許しを求めないでください。

 自分の行動に正当性を持たせようとしないでください。


「踊ってあげてくださいませ。アルフレッド第一王子殿下」

「し、しかしアイリス!」


 殿下は食い下がろうとしました。

 ですが、その先の言葉が形になることはありませんでした。


 うるうるとした瞳で見つめるルージュ嬢を前に、殿下が折れたからです。


 ……最初から、分かっていました。

 いくら睦言めいた言葉を口になされても、最後は捨てられることなんて、最初から、全部。


『あら? 殿下が踊ってらっしゃる令嬢はどなた?』

『今日一曲目なんだ。婚約者のアイリス様――ではない?』

『アイリス様、一人ぼっちでかわいそう』


 ……辛かったのは、憐憫の情。


(どうして私が憐れまれなければならないの)


 泣き出してしまいたい。

 逃げ出してしまいたい。

 ですが、公爵家の愛娘として育てられてきた矜持が、それを許すことはありませんでした。


 思いは心の箱に封じ込めて。

 平然を装って。

 ついに出会った恋人たちの逢瀬を傍観します。


 やがてダンスが終わりを迎えました。


「すまないアイリス! 次こそ私と――」

「殿下! とっても楽しかったです! 私、うまくやれるかなって不安だったのですが、殿下のおかげで自信を持てた気がします!」

「あ、ああ。わかった」

「それで、もしよければ、もう一曲ご一緒いただけませんか?」


 殿下は、酷く狼狽した様子でこちらに助けを求めるようでした。


(……断るのが筋だとわかっているなら、自分の口で断りなさいよ)


 貴族は通常、同じ相手と二曲続けて踊りません。

 例外があるとすれば、婚約者のみ。


 男爵令嬢が婚約者である公爵令嬢を差しおいて、二曲続けて踊るなど言語道断です。現に、バンドリリス男爵はどんな処罰が下されるかと気が気でなさそうです。

 ああ、ですから最初、挨拶させずに隠していたのですか。

 彼女に貴族社会は荷が重いですものね。


(……未来の日記には、彼女の頬を平手で打つとありましたね)


 まるで二人の恋路を邪魔する試練そのもの。

 それができれば、どれほど清々しいことでしょう。


(思い通りの行動なんてしてあげませんけど)


 代わりに私は深く頭を下げました。


「お二人とも、とてもお似合いでした」


 空々しい、セリフとともに。


「アイリス――っ」


 殿下が私の手を取りました。

 私は笑顔で、その手を下ろしました。


「私、気分が悪いので本日は帰らせていただきます。殿下はどうぞ、お好きな方をお送りください」


 当て馬なんてまっぴらごめん。

 恋がしたいなら、二人の内で完結させてください。



 ――8月31日。

 ――断罪と称して、処刑される。

 ――行年 15歳。


「やっぱり、余命は削られているのね」


 乗り込んだ馬車でアカシックレコードを開き、独り言ちました。車窓からは、霞がかった月が浮かんでいるのが見えます。


 元の未来において、私が処刑されたのは、究極的に言えば、私が殿下の恋路を邪魔したからでした。


「私が被害者だと周りに印象付けられれば、そう思ったのですが、うまく行きませんか……」


 運命に逆らえば、命日が迫る。

 予想していたことではありますが、私にとっては最後の切り札でもあったので、さすがに気も落ち込みます。


「ここからの日記の流れは、最悪ね……」


 ――ルージュ様が使うはずだった馬車に細工を仕掛けました。明日の夜会には参加できないはずです。

 ――茶会にやってきたルージュ様のドレスに紅茶を掛けてあげました。いなくなってしまえばいい。

 ――王宮とはいえ、婚約者でもない男女が二人きりで過ごすものではありませんわ。


 読んでいるだけで、心が苦しくなる。

 これではただの嫉妬に狂う女ではありませんか。

 そんなの、私のプライドが許さない。


 加えて言えば、その謀計の全てがことごとく失敗するとも書かれていました。


 ――馬車の使えないルージュ様を、殿下が馬車で迎えに行った。二人一緒のひと時を過ごしたらしい。

 ――汚れてしまったドレスの替えを買いに、二人で町に出かけたと聞きました。

 ――二人ののろけ話を延々聞かされる羽目になった。どうしてこんな役回りばかり……。


 私が行動を起こすたび、二人の絆はより強く固く結ばれていく。


(でしたら……っ)


 ぽつ、ぽつ、と。

 未来を記した書物が、大粒の雫で湿っていくのが分かりました。


(どうして、私にこんなものを与えたんです……!)


 時のうねりの中で、私という個体はあまりにも虚弱でちっぽけでした。牙をむこうが爪を立てようが暖簾に腕押し。


 ごと、ごと。から、から、きぃ、がた。


 緩やかに体に慣性が働いて、次第に馬車が止まるのが分かりました。

 何かあったのでしょうか。

 そんな疑問はすぐに解消されることになります。


「邪魔をするぞ」

「……え?」


 外側から開かれた馬車の扉。

 そこに、夜の景色を背負った男性がいました。


「殿下、こんなところで何を」

「前にも言ったはずだ」


 一歩、車内に足を踏み入れた殿下が、慟哭を上げるように声を絞りました。


「恋を、してるんだよ……っ!」


 思考が、止まる。

 夜の森のざわめきだけが、やけに耳に残る。


「で、ですから、殿下はお好きな方をお送りくださいと――」

「だから! 私はここに来た!」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃でした。

 鬼気迫る様子の殿下を前に、声が出なくなります。


 殿下の言葉の意味は、わかります。

 あの男爵令嬢ではなく、私を選んだその意味を理解しろ、そう言っているのも分かります。


 けれど、けれど……っ!


「でもあなたは! あのご令嬢のお誘いを断らなかったではありませんか! 私を後回しにしたではありませんか! それがあなたの本心でしょう!? 嘘偽らざるあなたの心なんでしょう!!」

「違うッ!」

「違いません! どうせ今回追いかけてきたのも体裁を気にしてのことでしょう? だってあなたは、二度目のお誘いすら断らなかったのですから!」


 馬車に一歩踏みかけたままの殿下に、明確な拒絶の意思を示します。それ以上近づくな。そんな意志を込めて。


 肺に溜まった空気を押し出すと、やけに熱い呼気が零れました。ゆっくり、思考の粗熱が取れるのを待ち、それから一つ一つ、言葉を選び、紡ぎました。


「最初から、わかっていました。あなたがいつか私から興味を失うことも、あなたと過ごす時間に、意味なんて無いことも……」

「君には、私がそんな薄情な男に見えているのか」


 肯定も否定もしてあげません。

 視線も合わせてあげません。

 ただひたすら、沈黙を貫くだけです。


「……思えば、君は最初からそうだった。まるで今日のことを予見しているかのような言動を繰り返していた」


 ぴくり、と。

 肩が動いてしまったのを自覚しました。


「君にはいったい、何が見えている」


 自然と、閉ざした口が開かれて、でも、どう言葉にすればいいかわからなくて閉ざされて、だけどやっぱり、この日記を一人で抱えるには重すぎて、誰かに知ってもらいたくて、それで、それで……。


「何も」

「そんなはずがないだろう! 私を疑うなら構わない! だけど一度だけでいい! 私を、信じてくれ」


 力無い声で「頼む」と口にした殿下の声が、耳の奥で反響する。私は、私は――


「……信じても、信じなくても構いませんが」


 心に落としたはずの錠。

 封じ込めたはずの感情。

 それは内で飽和して、今、決壊したダムのように、とめどなくあふれ出て、止められ、ませんでした。


「少し、昔話をしましょうか」


 望んでもいない予言を押し付けられ、望んだ自由を奪われた、一人の少女の物語です。



「……私が、日記を軽視したから、お父様は右腕を失いました。私のせい、私のせいなのです」


 あの日、私には、お父様が負傷する未来を回避する手段が何通りもありました。


「直接口にして伝えればよかった。本を庭に持ち出さなければよかった。そもそも、もっと早くお父様の言いつけを守っていればよかった」


 過ちに気づくのはいつだって過ぎてからです。


「そのレコードは、殿下と出会う日付のことも、婚約が決まることも、ルージュ男爵令嬢が現れることも、すべて記していました。それから――」


 息をのむように、口をつぐんだ私に、殿下は続きを催促しました。


「――殿下が私に婚約破棄を告げ、断罪と称して私を処刑することも」


 息をのんだのは、殿下の方でした。


「私は抗った。抗い続けました。たった一人で、誰に相談できずともッ、よりよい未来を求めてッ!」


 かろうじて思考の隅に残った理性的な私がその辺にしておけと制止を呼びかけていました。ですが、一度あふれた感情を止める術はありませんでした。


「あなたのせいだ! あなたが私の人生を振り回した! 何が『一生かけて、君を守る』ですか! あなたさえいなければ、あなたさえいなければ!!」


 全てを吐き出した後に残ったのは、死んだ大地のようなむなしさでした。悲壮の雨が降り注いでも命が芽吹くことはなく、曇天が晴れることもない。

 未来の無い荒野が心の中には広がっていました。


「もう、放っておいてください……」


 最後に呟いた言葉は、自分でもわかるくらい、情けない声でした。


「……ずっと、君に憧れていた」


 殿下が口を開いても、顔を上げる気にはなれませんでした。月明かりが映す影法師と、私は睨めっこ。


「身を挺して湖に飛び込むなんて、誰にだってできることではない」

「……まだ、善意からの行動だと思っていらっしゃるのですか? 違いますよ。あの日夜会を欠席したくて、その口実に都合がよかっただけです」

「それでも私は憧れた。ほかならぬ君に憧れたんだ」


 空気が緊迫した。

 理由はすぐに分かりました。

 殿下が、もう一方の足を馬車に乗せたのです。


 距離が詰まる。息が詰まる。

 殿下がまた一歩近づいてくる。


「さきの話だってそうだ。ルージュ嬢のわがままに、君ならどう対処するのか考えた。憧れた君に近づきたかった」

「……嘘です」

「嘘じゃない」


 殿下がまた一歩、こちらの様子をうかがうように歩み寄った。影法師が導く先を、目で追った。


 怯えた表情をした彼の顔が、浮かんでいた。


「アイリス。きっと、私たちは間違え続けるだろう。これまでの君がそうだったように、今日の私がそうだったように」

「わかったようなこと、言わないでください」

「いいや。一つだけ、はっきりと言えることがある」


 殿下は、私の前にひざまずき、手を差し伸べた。


「私たちは、手を取り合える」


 そんなの綺麗ごとだ。

 未来はどうあがいても変えられない。


「私が、その手を取るとお思いで?」

「ああ」

「馬鹿らしいですね。いったい、何を根拠に」

「……泣いていた」


 殿下の言葉の意図がわからず、眉をひそめる。


「過去を打ち明ける君は泣いていた。辛い思い出を私に話してくれた。それは君が、未来をまだ諦めきれていないからだろう!」

「ちがっ、私は、ただ」

「御託はいらない! 私が問うべきは一つで、君が答えるべきは一つ! アイリス、君はいったいどうしたいのかってことだ!!」


 そんなの、そんなのっ。


「私だって、普通に生きられればって、何度だって考えました……!」

「だったら! それでいいだろう!」


 それができれば――。


「一生かけて君を守る。僕の毎日を君に捧げる。

 未来が僕に君を斬り捨てさせようとするのなら、

 僕は君とともに運命に抗い続けてみせる!

 ……だから、アイリス」


 もう一度、見た、殿下の顔は。


「私のそばで、私を支えてくれ」


 一世一代の大勝負に出る、男の顔をしていました。


「……なんですか、それ」

「私は真剣だ」

「ふ、あはは。途中まで格好良かったのですが、最後の最後に『私を支えてくれ』だなんて、ふふ」

「わ、笑うことはないだろう!」


 ……ずっと、一人で未来に抗い続けてきました。

 ですが、もしかすると、二人でなら。

 そんな希望に縋ってしまうのは、甘えでしょうか。


「……信じても、いいのですか?」

「信じてもらえる男になるよ」


 何度となく繰り返した、絶望に続く明日。

 それでも、いつかこの心も晴れる日が来るんじゃないかって期待してしまうのは、いけないことなのでしょうか。


「――――」



 少し、昔話をしましょうか。


 望んでもいない予言を押し付けられ、望んだ自由を奪われた、一人の少女の物語です。


 破滅に繋がる未来を予知した少女は、運命に抗い続けました。それでも過酷に変化し続ける未来に、心が折れそうになることもありました。


 そんな彼女に手を差し伸べた人物こそ、第一王子であるアルフレッド・ヘイム・イージスラシュです。


 さて、未来のレコードはどうなったのでしょう?


「おーい、アイリス。こんなところにいたのか」

「陛下。どうなされました?」

「どうなされましたじゃない。また王宮の書物を勝手に持ち出しただろう」


 ふふ、ごめんなさい。

 それはもう、わからないの。

 だってあの日以来、見えなくなってしまったから。


 ですが、きっとそれでいいと思うのです。


「だって、もったいないではありませんか。こんな良く晴れた日に屋内で過ごすだなんて」


 未来はわからない方が、きっと楽しいから。


「陛下もそう思いますよね?」

「……そうだな」


 王宮の庭から見上げた空は、清々しいくらいによく晴れていました。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


もし、本作を気に入っていただけましたら、↓にあるブクマや☆☆☆☆☆から評価・応援のほどよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
応援は↑の☆☆☆☆☆を★★★★★にしていただけると
筆者の励みになります!


フル版(ルート分岐)は↓から
「一生かけて、君を守る」と口にする王子に対し、私は「嘘つき」と言いたかった。
「一生かけて、君を守る」と口にする王子に対し、私は「嘘つき」と言いたかった。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ