はじまり
我が家には長い間猫が住んでいる。
由緒正しい日本家屋に居を構える本家から外れ、分家も末のうちはマンション暮らしだ。が、ペットを飼うのはOKの建物だった。
「ナオー、こっちにおいでよ」
長い尾をぴくりと動かして、リビングの隅っこで眠りかけていた仔猫が振り返った。
全身真っ黒い体に、夜闇で光る緑色の瞳の仔猫、ナオはカーテンの下に隠れるようにして陽の光を浴びていた。
フローリングに敷かれた淡い色のカーペットの上がよほど気持ちいいのか、「にゃあ」と一声鳴いただけでこちらに向かってくる素振りはない。
「ナオ―、ナオさーん。おやつにしませんかー?」
おやつというワードに再びしっぽがピクリと反応する。そして「にゃあ」ともう一声。「良いよ、付き合いましょう」と言ったように聞こえた。
私がテーブルに宿題を広げてうんうん唸っているのを尻目に、今度は仔猫とは思えない優雅な仕草で立ち上がる。そのままトテトテトテ、とやってきて、宿題の脇に置いた煮干しをつまみにやってきた。
にゃむにゃむと齧る。そのつやつやな毛並みにそっと触れると、滑らかで柔らかく温かい感触が伝わってきて、ちょっとした至福を味わえる。
『アンタのとこって、いっつも猫に「ナオ」って名付けるよね。なんで? 何か思い入れでもあるの?』
ナオの背を撫でていると、友達の声が耳の奧に蘇ってきた。そうなのだ、うちで飼う猫の名前は代々「ナオ」一択だった。
質問をしてきた友人には「親が好きな名前ってだけだよ」とお茶を濁したけれど、実はれっきとした理由がある。
「ナオ、美味しい? もっとあるよ」
「にゃあ」
そうだね、もう少し貰えるかな? と言っている気がする。
「ナオは本当に煮干しが好きだねぇ。おばあちゃんの言っていた通りだ」
追加で袋から出してやった煮干しを、目を細めながら旨そうに頬張る姿が微笑ましくて、ついつい、いつもあげ過ぎては母親に注意されてしまう。
でも、いくら怒られたってこのクセは直せない。だって、至福の時だから。
にゃあ。宿題はどう? 進んでいる?
「う~ん。難しくって、なかなか」
XやYといった、私にはチンプンカンプンな記号が書面を踊っている。ぼんやり眺めていると、今度は頭の中でも踊り始めて私を翻弄する。あぁ、駄目だ。
またしても混乱し始めた私を見かねたのか、テーブルの上に乗ったままのナオが参考書のある部分を眺めて鳴いた。
「にゃあにゃあ」
「え、何? これ?」
あっ、そうか。この問題はここの応用かぁ。じゃあこの公式で解けるかも!
「……解けた! わぁ、ありがとう、ナオ!」
一緒に喜んでくれるように、ナオはまた「にゃあ」と甲高い声をあげた。
我が家にはずっと猫が住んでいる。今はまだ仔猫だけれど。