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時はエレノアの就寝前に遡る。
「エレノア様。親衛隊長様の仰るように、危険な真似はやめてください」
侍女コレットにそう言われて、エレノアは寝台の上で瞬いた。既に就寝の準備は済み、緩く三つ編みにした栗色の髪の毛を右肩から流し、楽な寝衣へと着替えている。
今日はジルベルトの渡りがないと、コレットの隣で目を伏せている侍女サシャから手紙を受け取ったため、あとは灯りを消してもらい眠るのみであった。
「サシャから聞いたの?」
「ええ、情報共有は大切なことですから。」
サシャは、昼間のベルナルドとのやり取りを終始見ている。羽毛と格闘していたコレットにサシャが伝えたことを、もちろん責めるつもりはエレノアにはない。ただ、少しばかりバツが悪い。
コレットは伯爵領からついてきた侍女で、エレノアが十三の時から、当時は侍女見習いとして伯爵家にやってきた二つ歳上の侍女。それから早五年、短くない付き合いになるため、あれやこれやとお小言をもらうことも少なくない。
「ここは伯爵領とは訳が違います。そしてエレノア様は王妃陛下になられたのですから、伯爵令嬢時代のような真似は許されません」
そうしてコレットが隣のサシャに聞かせたのは、伯爵領でのある日の出来事。
コレットが侍女見習いとしてヴァレンティノ伯爵家にやってきて、まだ日の浅かった頃。嫡男ルチオが誤って馬の機嫌を損ね、背に乗るルチオを馬が振り落とそうとして猛スピードで伯爵家の乗馬場を走り回る出来事があった。
もともと気性の荒い扱いづらい馬であり、何がきっかけか興奮しきっており誰も近づけない中、止めるコレットを振りほどいてエレノアが猛然と走る暴れ馬の前に飛び出したのである。
コレットは思わず顔を覆ってしまったが、両手を広げたエレノアの前で暴れ馬は前足を高く上げて急停止したのだ。
何が起きたのかコレットには理解ができなかったが、後でエレノアに聞けば、以前それがここでの馬への停止の合図だと聞いていたそう。だからと言って、あんなに興奮しきった馬の前に飛び出すなど、自殺行為である。
「悪い子ね」と平然そうに馬の顔を撫でるエレノアの姿に、肝を潰したコレットは脱力した。
急停止の際に結局ルチオは振り落とされて腕にひびを入れていたが、他に怪我人も出ず、乗馬場の柵が一部破壊されただけで被害は最小限で済んだ。
それからもコレットは時折、エレノアの突拍子のない無謀な行動を目の当たりにすることになり、だいぶ肝は据わったと自負している。
サシャは口許に手を当てる。
「よくご無事で……」
「エレノア様は意外と――でもない気もしますが、向こう見ずなお方なんです……。まだありますよ、サシャ。あれはエレノア様が十四の秋」
「もう、コレットったら!向こう見ずだなんて失礼だわ。ちゃんと馬だって止まってくれたじゃない。怪我人だってお兄様だけで済んだのだから」
「馬が止まらなかったらどうしていたのですか! とにかく、絶対に危険な真似はやめてくださいと、何度でも言います。宜しいですね!」
「……わかっていますわ。ここは伯爵領ではないのですから」
コレットの言葉を神妙に繰り返すエレノアに、コレットもサシャも胡乱な目を向けてくるが、ひとまずは納得したようで、二人は就寝の挨拶をして灯りを消し、退室するのだった。
そんなやり取りがあった夜が明け、エレノアは目を覚ます。
悪質な悪戯の犯人を取っ捕まえるとベルナルドに息巻いたはいいが、王宮に来たばかりのエレノアに頼れるツテも術もない。父と兄が王都で仕事をしてはいるが、いつぞやの悲嘆に暮れる父の姿が思い出され、相談する気は端からない。
ねちねちと嫌がらせをしてくる相手を炙り出すにはどうすればいいのか。
――いっそ一人で出歩いていれば接触があるかも。
ポッとそんな考えが閃いた。
冷静に考えれば王妃がひとり歩きなど許されるものではないが、ヴァレンティノ伯爵領でのんびりと穏やかに過ごしていたエレノアは、慣れない生活と嫌がらせでじわりじわりと追い詰められていたのかもしれない。
コレットに向こう見ずだとたしなめられていたが、早速実行に移すことにした。
侍女たちが部屋を尋ねてくるにはまだ早い。エレノアはさっと比較的簡易なドレスを身に付けて、部屋を脱け出した。もちろん、扉の前には寝ずの番をする護衛がいるため、見回りの騎士の隙を見て窓からだ。
バルコニーの手すりに、いくつか結んだカーテンをくくりつけ、邪魔なドレスの裾など構いもせずに、するりするりと降りていく。途中、びりりと嫌な音もしたが、これまた最高級の布で作られたカーテンである。簡単に破けはしないはず。そう判断して聞き流す。
王宮は周囲を高さのある壁で覆われており、建物自体はそう高くない。そのためエレノアは部屋にあったカーテンだけで降りることができたのだが、さすがに長さが足りず、最後は半ば飛び降りるような形で着地した。尻餅をついて痛む臀部をさすりながら、エレノアはひとまず木陰に身を寄せた。
庭園は季節ごとに色鮮やかな花々が咲き誇り、今は朝露で濡れて、昼間とはまた違った趣の美しさを醸し出す。緑豊かな木々はそれらの花の邪魔をしないように計算されて植えられており、思いの外、脱け出したエレノアの身を隠してくれる。
さて、問題はこの後である。どこを出歩けば遭遇できるのか。早朝の時間であればエレノアは行動しやすいが、果たしてこんな時間に、運よく遭遇できるのか。
エレノアは急に冷静になり、自分の行動に呆れた。王妃の窓からカーテンが伸びているなど、あってはならない光景だ。見回りの騎士が、少しもしないうちに気づくだろう。
ジルベルトにだって伝わるだろうし、一体どんな反応をされるのか。エレノアは自分の肩を抱いて項垂れた。
「わたくしったら、何をしているのかしら……少し散歩でもして、頭を冷やさないと……」
その間に、コレットに大目玉を食らう覚悟を決めよう。ジルベルトへの言い訳も、できれば考えたい。
エレノアが立ち上がった時、不意に影が濃くなった。
振り上げられた刃が朝日に反射して、エレノアは理解が追い付かないまま固く目を閉じる。一瞬のうちに自分は斬りつけられようとしていること、痛みが襲うだろうことを理解した。
(親衛隊長殿、命を護る自信はあると言ったではありませんか)
などと、自分の行動は棚に上げ。
しかし、痛みは一向にやって来ず、代わりに生暖かい飛沫が全身にかかった。
――雨?
ぱちりと瞼を開けば、刃を振り下ろそうとしていた人物の身体が倒れるところであった。
エレノアはその光景を、目で追った。
つい数瞬前までその身体にあったであろうはずの、首が、無い。
耳に入った地面に衝突する音はふたつだったので、きっとどこかで首も地面に転がっているのだろう。
みるみるうちに足元の芝生が血で染まり、エレノアの爪先を鮮やかに汚した。
両手が自然と頬に伸び、ぬるりとした感触を伝えてくる。血だ。つん、と噎せてしまいそうな嫌な臭いがする。
首と胴体が断ち斬られた顔も知らない人物の血が、自分を染めている。
理解が追い付かず、さ迷わせた視界に、ジルベルトが血に染まる剣を握っているのが見えた。こんなに近くにいたのにすぐに気付かなかった上、その表情がよく見えない。混乱しているのだ。
ぼんやりとした思考の中で、やけにハッキリと浮かぶのは
――首斬りの王
「エレノア、いけませんね。王妃である貴女が、首斬りの王の城で一人で出歩くなど。だから、こんな目に遭うのです」
いっそ慈愛を込めて紡がれているような、憐れみを含んだ声がする。
エレノアはか細い悲鳴をあげて、意識を手放した。