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部屋へ通されると、既に席についていたジルベルトが、エレノアを迎えるためゆったりと立ち上がった。
「お待たせいたしました、陛下」
「こちらへ、エレノア」
エレノアはドレスの裾を摘まんで礼をとり、ジルベルトが鷹揚に頷いてその手をとった。椅子の前までエレノアの手を引いて、自ら椅子を引き座らせる。
「ありがとうございます」
小さく丸いティーテーブルを挟んで向かい合うように二人が座ると、陛下付きの侍従が茶を用意する。
「今日はジャパニヤから輸入した茶葉を用意しました」
「東の島国ですね。リョクチャ、というのでしたか?初めて飲みますわ」
「お口に合うと良いのですが」
用意された茶は、見慣れた赤茶色ではなく、透き通る新緑の色。さわやかな匂いは、初夏の草原で深呼吸をしている気分にさせた。
恐る恐る一口飲めば、ほろ苦く、けれどどこか甘いような、すっきりとした後味が抜けていく。もう一口飲めば、癖になりそうだった。
「おいしい」
ほぅ、と息を吐くエレノア。
「こちらの菓子も、どうぞ」
ティーテーブルの中央に置かれた菓子を、ジルベルトに促されてひとつ摘まむ。実は席についてから気になってチラチラと見てしまっていた。それを間近でじっくりと眺める。
「きれい……薔薇のようです」
薔薇の形に搾られたメレンゲ。白と薄紅の二色には共に銀色のアラザンが朝露のように飾られている。伯爵領でもメレンゲ菓子は食べていたが、これほど繊細ではなかった。美しさにため息が出た。
口に入れれば、それはほろりと舌の上で甘く溶ける。アーモンドの香ばしさと甘さが口の中に広がり、エレノアは笑みを深めた。言葉にならない。
ジルベルトも一口だけ菓子を摘まんだ後は、それ以上は手を伸ばさず、組んだ両手の背に顎を乗せて、幸せそうに頬張るエレノアを静かな面持ちで見つめている。
始めは何を考えているかわからない眼差しで見つめられることに戸惑い、気恥ずかしさも感じていたが、それも二月近く経てば慣れるというもの。エレノアは菓子の誘惑に身を委ねて、さらにもう一口甘く甘い薔薇を口に入れた。その後で緑茶を飲めば、ほろ苦さがこの甘さに良く合っていた。
「ところで、」
ジルベルトの声に、エレノアは持っていたカップをそっと戻した。
「廊下から貴女とベルナルドの声がここまで届いていました。ベルナルドが貴女を不快にさせるようなことでもしましたか」
す、と視線がエレノアの後ろに控えるベルナルドに据えられる。
どうやらその内容までは聞き取られていないようだが、荒げた声を聞かれていたことに青くなるやら赤くなるやら。
「いいえ、陛下。ベルナルド隊長はよくお務めを果たしてくださっています。毎日安心して過ごせるのも隊長のお陰ですもの。先程は、楽しくお話をしていて、いつの間にか声が大きくなってしまったのね。わたくしったら、お恥ずかしいわ」
「そうでしたか……」
エレノアは思わず視線を反らしたため、ジルベルトの視線がベルナルドから反らされないことも、背後に控えたベルナルドが顔色を悪くしていることにも気づかない。
「エレノア。貴女が少しでも快適にここでの生活を送れるようにすることが、夫である私の務め。何かあれば、遠慮なく私に話してください。――いいですね」
普段からあまり抑揚を感じさせない話し方ではあるが、最後の一言は有無を言わせない響きを伴い、エレノアは神妙に頷いてみせた。
その後は穏やかに時間も進み、いつものようにポツリポツリとお互いに話をし、あっという間にお茶の時間が終わりを告げた。
*****
夜も更けて、今夜はジルベルトの渡りがないためゆっくり休むようにと一言二言の手紙を受け取ったエレノアが、すやすやとシーツにくるまって眠る頃。
灯りの点された文机に向き合い、ジルベルトは頬杖をつきながら、サインのためにペンを動かす。―街道整備に、治水工事、犯罪の取り締まり等々、粛清された貴族たちが本来それぞれ負うべきだった役目。甘い密だけ吸ってそれらの役目を放棄した代償が、今ジルベルトに押し寄せている。粛清から半年以上経つが人手不足が否めず、少しでも早くイグレシア国が善く回るようにとこうして自室に書類を持ち込むのはもはや日常であった。
そんな彼を横目に、王妃陛下親衛隊長ベルナルドはだらしなくソファに寄り掛かっている。家臣である前に従兄弟でもあるベルナルドは、よくこうしてジルベルトの自室に顔を出す。
「ずいぶんと仲を深めているようですね、隊長殿」
「言い方な」
淡々とジルベルトが声をかければ、ベルナルドがうんざりと答える。
「昼間のあれは、少~し護衛内容について言い合いしてたというか何と言うか~……」
「楽しげな声に聞こえましたよ」
「そんなわけあるか」
「そうでしょうか。彼女は貴方の前だと気負わずにいれるのでしょう」
「だーかーらー」
「――私に内緒で、どんな話をされているのやら」
「……勘弁してくれよ、従兄弟殿」
一瞬言葉に詰まりかけたベルナルドは、さりげなく酒の注がれた杯をとりつつ、ペンを動かし続けるジルベルトをこっそりと見た。
男性にしてはやや長めの睫毛に覆われた紫の瞳は、作り物めいて、文面を追う瞳の動きで彼が血の通う人間なのだと見るものに知らせる。その無感情に見える紫の瞳からは、長い付き合いである従兄弟のベルナルドにも何も読み取れない。
「冗談ですよ」
こっそり見たはずだが、ばっちりと目が合う。下手をすればベルナルドよりも腕がたつジルベルトに見据えられると、何だか居心地が悪い。座り直しつつ、酒を煽って気まずさを誤魔化した。
エレノアへの嫌がらせは、エレノア自身のお願いでもあるが、ベルナルドの判断でジルベルトに報告をしていない。
未だジルベルトに難癖をつけたがる者たちは恐れ多くも一定数おり、その一派がまずは様子見にエレノアにちょっかいをかけていると考えているベルナルド。これを機に、今度こそ一掃するきっかけにしようとしていた。今は子供だましのような手しか使われていないが、もう少し過激な手段をとってくれれば都合が良い、と。もちろん護りきる自信はあるし、部下にもエレノアの護衛を徹底するようには指示してある。エレノアの知らぬところで、こっそり護衛を増やしてもいるのだ。
だというのに。昼間のエレノアの態度。嫌がらせについてはジルベルトも恐らく把握しているだろう、端からそう長いこと隠しきれるとも思っていないが。諦めて現段階で犯人を捕らえたほうが良さそうだ。
護衛対象のエレノアに勝手をされてはたまらない。
「ストレス溜まってんだなぁ……」
「こう毎日書類と向き合い続けていると、気も滅入るというものです」
(いや、王妃陛下のことだけど)
確かに、趣味に時間を割くこともできず、遅くまで机に向き合い続けるのは気の毒だ。ベルナルドなどは、部下に仕事を押し付けうまい具合に息抜きをしているが、ジルベルトは立場上難しくもあるだろう。
「じゃ、あの昼の茶会やめたら?」
ベルナルドは事も無げに言う。エレノアのためにジルベルト自ら菓子やら茶やら指示を出し、休憩時間とやらにエレノアと過ごすのを止めれば、少しは時間もできるというもの。
「やめるほど、時間を割いているわけでもありませんよ」
「ふうん」
気のない相打ちをして、ベルナルドはさらに酒を煽る。喉を焼く感覚を楽しんでいると、いつの間にかジルベルトが向かいのソファにやってきて、杯を手に取る。それに酒を注いでやり、お互いの杯を打ち付けた。
そうして男たちが酒を酌み交わした数刻後、エレノアは白む空の気配をカーテンの外に感じて、ぱちりと目を覚ました。