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「何ということだ!!」
その日、ヴァレンティノ伯爵領の城は上へ下への大混乱に陥った。
フェデリコ・コンテ・ヴァレンティノ伯爵は、自身の手の中で思わずぐしゃぐしゃにしてしまった書簡をもう一度拡げ、血走った眼で穴が空くのではないかというほど内容を確認する。何度確認しても、その内容が変わらないことに愕然とし、両手で顔を覆って崩折れた。
執務机に放り出された書簡は、最高級の紙が使われており、淡い紫色をしていた。紫は高貴な色とされ、この時代、王族のみに許された色である。
そんな恐れ多い書簡を、こんなにぼろぼろにして、と呆れと焦りをにじませて、父の補佐をする伯爵家嫡男ルチオは恐る恐る書簡を拾い上げた。
「……なっ!?」
書簡の内容を理解するのと同時に、書簡をぐしゃぐしゃにして顔を覆って天を仰いだ。伯爵と似たり寄ったりな反応は、血のなせるわざか。
伯爵親子のあんまりな行動に、側近たちはそっと目を反らして、見ないふりをするのだった。
その日の晩餐の終わり。
「わたくしが、王の妃に?」
普段は王都の王宮で仕事をする父と兄が、休暇のため揃ってヴァレンティノ領へ帰って来て数日になるが、今日はずいぶんと騒がしく忙しそうにしていた。そんな父から重々しく告げられた言葉を反芻し、エレノアは瞬いた。
「お父様、いったい何のご冗談です? そのようにご自分の首をかけてまでわたくしをからかうなんて、ついに耄碌されてしまったのかしら? ねえ、お兄様。わたくし、さすがにそんなわかりきったご冗談に、素直に驚けませんわ」
時々、エレノアの気を引くためにとんでもないことをしでかす父であるが、さすがに王の名を使うなど、不敬である。
しかも王は、つい先日政敵貴族ならびに関係者を何の躊躇いもなく、ご自身の剣で悉く首を跳ね粛清した容赦の無い冷酷なお方である。その数は百をくだらない。あまりの光景に、民衆たちの中で気絶する者が続出したとか。
いくらここが自領の城で、家族だけの私的な空間であるからと言っても、万が一王の耳に入った日には、一族もろとも仲良く血の海を泳ぐことになるだろう。しかも首なしで。
「いや、お前が選ばれたんだ……」
くだらない、と一蹴するエレノアであったが、なぜか兄まで父と同じようなことを言う。
「まさか、本当に?」
怪訝そうに眉を寄せて二人を問い詰めるが、よくよく見れば二人とも朝食の席で見たときよりもやてれた気がする。その後やけに城が騒がしいとも感じていた。たった半日程度でこのやつれようも、なるほど首斬りの王から娘(妹)を妃にと請われれば、それも頷けた。
エレノアの前に、父からくたびれた紫色の書簡が差し出される。
高貴な色の書簡に、いよいよ真実なのだと語るが、なぜこれほどまでに草臥れているのか。物問いたげに父と兄に視線を向けるが、男二人が目許を覆って小さく嗚咽を漏らしている姿を認め、引いた。
しち面倒くさそうな男たちから仔細を聞くよりも、この書簡に自分で目を通したほうが早い。そう判断して書簡を拡げた。
―――ヴァレンティノ伯爵令嬢エレノアを正妃に請う許しを。
若干癖のある硬質な文字は、確かにそう綴られてある。簡潔だがエレノアが選ばれた理由も。それはある程度予想できる理由でもあるため読み流す。文末には急な話で申し訳ないこと、色好い返事を期待しているというようなことが書かれている。最後に、同じ字体のサインで締められていた。
―――ジルベルト・レ・イグレシア
一国の主という多忙な立場上、書簡は代執されることも多いとは思うが、どうやらこの書簡は王自ら筆を執ってくださったようだ。
「書簡には、二月後に式を挙げるとあります。急いで準備をしなければなりませんね」
エレノアの冷静な態度に、ヴァレンティノ伯爵が泣き崩れた。
「う、嘘だと言ってくれエレノア! これは何かの悪夢だと! 目が覚めれば変わらずに平穏な日常を迎えられるのだと……!!」
何が悪夢だ。いい歳をした父である伯爵のみっともなく泣き叫ぶ姿を見ているほうが悪夢だ。
「往生際が悪いですわよ、お父様! 陛下自ら筆を執ってくださった。式の日取りも概ね決まっていて、式の準備も王宮が全ておってくださる。わたくしが陛下の元へ嫁ぐのはすでに決定事項なのです」
ここで王の要請を退けるなど、反意ととられて伯爵家一家国外追放ならまだいいが、処刑されてもおかしくなさそうだ。これまで伯爵家はことなかれ主義で平和に過ごして来たが、それもこの書簡ひとつの存在で終わりを迎えるだろう。
「悪戯に争わず、陛下をお支えしながらも平穏に過ごすため中立の立場を貫く。確かに我が伯爵家はそうしてのらりくらりとやってきて、イグレシア王国でも長い歴史を残してきました。数か月前の血の粛清だって、そのお陰で危機を免れたと言えるでしょう。けれど、そろそろ年貢の納め時ですわ、お父様。どうぞ、覚悟を決めてくださいませ」
首斬りの王の側で、キリキリと胃を痛めながら生きていくか。
一族を道連れに血の海を泳ぐのか―――
エレノアは男たちにとどめを刺して、退出するのだった。