9
月は薄ぼんやりと夜空に浮かぶ、夜明けにはまだ早い時刻。エレノアは不意に眠りから覚めた。
体は怠く、意識もまだぼんやりとしていたが、目の前にある夫の寝顔に驚き覚醒する。思わず声を出しそうになるが、咄嗟に口許に手を当てることで悲鳴を飲み込む。
ジルベルトは身動ぐこともなく、静かな寝息が聞こえてくる。
エレノアよりも先に起きている姿しか見たことがなかったため、物珍しさにまじまじとその寝顔を観察してしまう。
普段の彼は美しく整った顔立ちをしているが、纏う空気は陰鬱なもので、美しさよりも危うさが目立ち、近寄りがたい。しかし寝ていると陰鬱な雰囲気は霧散し、どこかあどけなさが残る。
穏やかな寝息にエレノアは微笑むが、すぐに微笑みを消して、口許に当てていた指先をジルベルトの目許に伸ばした。指先は長い睫毛の下にあるくまをなぞる。
エレノアが嫁いだ時にはすでに王宮は人手不足で、国王であるジルベルトは忙しかったが、先日のエレノア暗殺未遂のごたごたで更に忙しさに拍車がかかっている。お茶の時間をとることさえできなくなってしまった。
それでも数日に一度はこうしてエレノアが悪夢を見ていないか気にかけて――もともとはジルベルトのお陰で見るようになった悪夢であり、今ではすっかり鳴りを潜めている――彼女の元へ渡ってくる。
一度、執務が落ち着くまで大丈夫だと伝えた際には、「貴女が悪夢に苦しめられていないかもちろん心配ですが。私が貴女の傍にできる限りいたいのです。いけませんか……?」などと寂しげに言われては強くも言えない。いつか倒れてしまわないかと、心配であるが。
「難儀なお人……」
ポツリ呟き、エレノアは思わず苦笑を浮かべた。
ジルベルトの長い睫毛が震え、エレノアは目許を撫でていた指先を離す。紫の瞳に彼女が映し出されるまで、あと数秒。
難儀なのは自分こそである。ジルベルトを心配していると嘯きながら、本当は彼が気にかけて傍に居てくれることが嬉しい。だからこそ、自分を気にかける必要などないのだと強く言えないのだ。
この紫水晶のような瞳に自分が映ることが、存外嬉しいのだった。
…
「王妃陛下、勘弁してくださいって」
王妃親衛隊隊長のベルナルドが眉毛を下げて対峙するのはエレノアである。
「あら、今日の午後に孤児院を訪問するのは前々から決まっていたことではありませんか」
ヴァレンティノ伯爵領でも孤児院の訪問など慈善活動を積極的に行ってきたエレノアである。王妃となってからも王妃教育の合間をみて慈善活動を行っていた。
国王であるジルベルトがなにぶん血生臭い渾名を持っている人物だ。戴冠後は堅実に国政を進めてはいるが、今はまだ、いたずらに民を恐がらせる必要はないとエレノアは考えている。他に活動できる王族もいないため、そういった方面の活動はエレノアが積極的に行えばいいのだ。そもそも慈善活動までジルベルトの仕事としてしまえば、本当に倒れてしまいそうである。
「それはそうですけど、件の暗殺者はどこのどいつが差し向けたのか確定はしてないんですよ。王宮から離れれば危険も増えます。あれから何もないですが、今はまだ王宮の外に行くべきじゃない」
ベルナルドの言うように、実は件の真犯人は未だ捕らえられていない。関係者を何人かは捕らえたが、人を多く介する手を使われており、真犯人と呼べる者を捕らえることができていないのだ。
「陛下からは止められていませんわ。それに――」
エレノアは頬に片手をあてながら小首を傾げ、にこりと微笑む。
「わたくしを護る自信がある親衛隊長殿がついているのですもの。一体何の心配がありましょうか?」
ベルナルドの目が死んだ魚のようになっていく様を見ながら、エレノアは微笑を崩さない。
言外に含まれる意味をベルナルドは十分に理解してくれたのだろう。彼は口許をひきつらせながら、降参の意を示すしかなかった。
「もちろん何一つ心配しておりません。頼りに、しておりますわ、親衛隊長殿」
がくりとベルナルドが肩を落とす。闘いにもならないやり取りの勝敗がついたと察したコレットが、エレノアの外套をその肩に手早くかける。サシャは気の毒そうにベルナルドを一瞥するも、すぐに出発の準備にとりかかった。
「……御随意に、王妃陛下」
素早く仕度を終え、王宮の廊下を行く。明かり取りの大窓から差し込む日差しは穏やかだ。青空に浮かぶ雲の流れもゆるやかで、こんな日に外でお茶が出来れば気分も良いだろう。
次にジルベルトとの茶会をする時には、外に誘ってみよう。そう考えながら窓から視線を前に戻すと、向こうから歩いてくる人物に気づく。
すっきりと短く整えられた銀髪は、窓からの陽光を受けても冷たい印象を受ける。目元は鋭く、唇は薄く酷薄そうだ。高い鼻にかかる銀縁の眼鏡が、その神経質そうな顔立ちをさらに引き立てていた。
中立貴族筆頭のマクミラン侯爵家を若くして継ぐナガート・マルケーゼ・マクミラン侯爵だ。
「マクミラン侯爵」
「これは王妃陛下、ご機嫌麗しく」
その顔に意外にも人好きのする笑みを浮かべて、ナガートが恭しくエレノアの手を取った。鋭い顔立ちであるが美丈夫であるため、その笑みに黄色い声を飛ばすご令嬢は多いと聞く。しかし、笑みを浮かべるその目の奥に何故だか不快なものを感じて、エレノアは思わずふらつく。後ろに従えていたベルナルドがその背を支えた。
ナガートに取られていた手は、ふらついた際にほどかれ、今は額に。その手の影から窺うナガートは、心配げにエレノアを見ている。
「いやだわ、日差しが強くて……」
「……エレノア様、お部屋に戻られますか?」
気遣うコレットに、エレノアは頭を振る。
「馬車の中で少し休めば治まりますわ。
お見苦しい所をお見せ致しました」
「いえ、王妃陛下。王妃教育に合わせて慈善活動にも精を出しておいでと聞き及んでおります。どうぞご自愛下さりますよう」
「ええ、ありがとうございます。それでは、失礼致しますわ。ご機嫌よう、マクミラン侯爵」
優雅に礼をするナガートに見送られ、エレノアは再び歩き出す。
少しわざとらし過ぎたのではと不安になったが、振り返ってナガートの様子を確認する勇気はなかった。