番外編1
噎せかえるほどの血の臭い。
屋外にある処刑場でありながらなお、血の臭いは濃く漂う。
見守る民衆は惨状に言葉を失い、惨状を作り出した人物を恐怖の目で見つめる。
百以上もの首をその手で切り落とした新しい王を。顔色ひとつかえずに、慈悲をこう声と共に首をたちきり。血にまみれた姿は悪鬼にさえ見えた。
そうして、イグレシアの新しき王の名は国内だけでなく近隣諸国にも、驚愕と恐怖をもって広まることとなる。
首斬りの王、とーー
血の粛清より以前、王宮には貴族による不正が蔓延り、もはや国王は貴族たちの傀儡であり、国民は搾取される存在であった。
そんな時代、彼は北の国境付近で騎士として国境要塞に身を置いていた。時には泥水さえすすって生き抜かなければならないほど、隣国との激しい小競り合いが絶えない環境に身を置いたのは彼が14の年。皇太子の兄がいたが、第二継承権をもつ彼は本来であれば王宮にて勤めを果たすはずだった。貴族たちの甘言に逆らえない父の命により、彼の地へ赴いた。目障りな継承権を持つ彼を、貴族たちは王宮から追い出したかったのだ。
王族とはいえど、14の少年が生き延びるには過酷な環境だった。同情的な周囲の大人たちにより、生き延びることができたといってもいい。その大人たちの大半はすでに隣国との戦いに殉じている。
不思議と父や兄を恨んだことはなかった。少年であった彼は既に諦念を覚えていたのだ。あるいは、相手を殺し自分が生き延びるため、父や兄への憎悪という感情は、彼にとっては荷物にしかならなかったのかもしれない。
ただ必死で生き延びた。
そんな彼が王宮に呼び戻されたのは、24の年。実に十年の月日が流れていた。
父である国王と、兄である皇太子が暗殺された末の、帰還であった。
二人の棺を前に胸に去来するのはどうしようもない虚無感。とうに失ったと思っていた親愛。そして、肉親を奪った貴族たちへの怒り。炎が、ふつりと静かに揺らめいた。
その炎は彼の即位と共に、腐りきった貴族たちの命を燃やし尽くすこととなる。
そうして、首を落とした貴族たちの私兵を寄せ集め、彼が十年の歳月を費やした隣国との戦いを終結させた。
周囲は彼を恐れた。
もちろん、信をおく側近の男たちは彼に恐怖をいだくこともなかったが、妃を望むには彼の苛烈な行いは、結婚適齢期の娘たちを震え上がらせた。
彼の妃選びは難航を極めたが、そんな中ふと目についた、飄々とどこふく風のヴァレンティノ伯爵。伯爵には嫡男の他に十八の娘がいると把握している。
脅える娘を差し出してでも、どうにか新国王に気に入られたい貴族。愛娘を差し出してなるものかと思案する貴族。伯爵は、おもねるでも脅えるでもないふうで。
必要以上に彼を警戒しないーーまさか自身の娘が選ばれるなどと露にも思わず呑気に過ごしていただけであり、彼からの手紙を受け取った伯爵家は阿鼻叫喚であった。彼自身は多くを語る質ではないため、伯爵が事実を知ることはないかもしれない。とんだ喜劇であるーー伯爵に好感がもてた。
中立貴族のどの家から妃を娶ろうとも、その娘に怯えられることには変わりはない。それであればと伯爵家から妃を迎えることとなる。
そうして迎えた婚姻の儀。
ベール越しに見える表情は、かたい。
だというのに、彼がおおむね型通りの誓いの言葉を述べ、次は彼女の番というとき、そっと微笑んだ気配がして、面食らった。首斬りの王に震え上がることもなく、さすが伯爵の娘だと感心さえした。
稀有な存在である。首斬りの王の妃。素朴で華奢な伯爵令嬢の娘が負うには重すぎる荷かもしれない。そんな荷を背負わせてしまったことに今更ながら罪悪感がわく。できうる限り誠意を尽くし、大切に扱おう。そう、心に誓った。
「難儀なお人……」
夢の中で、ぼんやりと半生を思い返しながら、呟き声に意識が浮上していく。目元のこそばゆい感覚に刺激され瞼を開ければ、そこには妃の顔がある。
自身でも自覚しているくまを、エレノアはその指先でなぞっていたようで、視線が合うと同時に指先が離れていく。
「申し訳ありません、起こしてしまいましたね。まだご起床にはお早いですわ」
外は白む前の世界、うすぼんやりとした月の光が、カーテンの隙間から僅かに差し込んでいる。
ジルベルトはエレノアの華奢な体を抱き直し、距離をつめる。真綿にくるまれているような居心地の良さに息をつけば、丁度エレノアの首筋に吐息がかかったのだろう。「んっ…」と何とも悩ましげな声が漏れた。抱き締めたまま目に入る小さな耳は赤く染まっている。その可愛らしい耳に吐息を注ぐように唇を寄せて。
「悪い夢でも見て、目が覚めてしまいましたか?」
「い、いいえっ、誰かさんのせいで夢も見ないくらいぐっすりですわ! というか、陛下っ、耳許でお話にならないでくださいませ!」
「それならば良かった。しかしこのまま二度寝しては、貴女を悪夢に拐われてしまうかもしれませんね……」
「へ、陛下っ、ですから、耳許で喋らないでと、……! この手は何ですか?!」
不埒な動きをはじめたジルベルトの手をどうにか止めようともがくエレノア。けれど鍛えられた彼に抱き込まれては大した抵抗もできず、エレノアが羞恥に半べそをかきはじめたところで、ジルベルトが肩を震わせる。
「……陛下、耳許で笑い声を漏らすのもおやめくださいませ」
「すまない」
「でしたら、早く笑いをお納めになってください」
「……困ったものだ」
「こちらの台詞ですわ!」
暗く湿った半生を送ってきた。折に触れて助けがあり、恵まれてはいたが。その中でもエレノアという光を手にできたことは、今生での最上の僥倖であるに違いないと、彼は密かに思っている。
むすっと不機嫌さを隠しもせずにいるだろうエレノアの表情を覗きこんでみたいが、それをすれば更にへそをまげるだろう。きっと首斬りの王にこれほどまでに素直に感情を表す気の強い娘は他にいないだろうことが可笑しく、内心苦労しながら笑いを納める。
ジルベルトはエレノアを抱く腕に力を込めて、二度目の微睡みに身をゆだねた。