プロローグ
今宵の月は美しすぎて、星の瞬きが霞む。
とろりと濃密な蜜を溢すのではないかと思えるほど、濃い色をした月。世界が終わるとしたら、きっとこんな夜かもしれない。
そう思わせる月の光に魅了されて、思わずバルコニーの手摺から身を乗り出した。
不意に腕を掴まれて、驚いて振り返る。
そこには先ほど初夜を終えたばかりの夫の姿が。気だるげに首をもたげて、目元に掛かる黒髪の間から感情の窺えない眼で覗き込んでくる。
緩く腕を掴まれているように見えてその実、振りほどけないほどの力が込められている。ただの男女の差ゆえか、それとも意図的に力が込められているのか。
形の良い唇が、静かに開く。
「ここから飛び降りても、何の解決にもなりませんよ」
紫色の瞳は昏い感情を湛えて見下ろしてくるが、訳がわからなさすぎて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまう。
「何をおっしゃっていますの? ここから飛び降りるだなんて、そんな狂気の沙汰、なぜわたくしが?」
ずいと顔を寄せれば、戸惑う雰囲気がありありと伝わってくる。
「身を投げようとしていたのでは……?」
「……」
あまりの月の美しさに、少しでも近くで見たくて身を乗り出してはいたが……
確かに、何も知らずにその様子を背後から見れば、世を儚んだ姿に見えなくもないかもしれなかった。
―――首斬りの王。
半年前にそう渾名されるようになった、夫となったばかりの人を、片眉を上げて挑むように見上げる。
恐ろしい王に逆らえず、大人しく嫁ぐしかなかった伯爵令嬢。世間の多くの目は、この婚姻に悲劇を見ているのは事実。そして王自身もそう考えていることが窺えた。
なるほど。それでは何か。自分はやはり王の恐ろしさに堪えきれず、自ら命を絶とうとしたように見えたと。神の前で夫婦の誓いをした舌の根も乾かぬうちに? 恐ろしいも何も、夫となった人のことをほとんど何も知りもしないのに? 王妃という立場を一度は受け入れたというのに、その責任をひとつも果たすことなく、遺される一族がおうだろう末路を考えもせず。感傷に浸って逃げ出す無責任の臆病者に見えたと?
首斬りの王という恐ろしい渾名を持つ目の前の夫に、怒りが湧いてくる。
しかし、月に照らされた夫が途方に暮れた迷子のような目をしていることに気づいてしまい、ふっと目許から力が抜けた。
「あまりに月が美しくて、思わず身を乗り出してしまっただけです。ご心配をおかけして、申し訳ありません、陛下」
「そう、でしたか……」
納得していない眼差しをしていることに、やっぱり何か一言申しておこうかと瞬巡したところで、くしゅんと小さくくしゃみが出た。
薄い寝間着にストールを羽織っただけの自分の頼りない姿に今さら思い至り、頬が赤くなる。気づいてしまえば、身体の節々も痛むし、色々と思い出してしまいそうな自分を気合いで押し込む。
「冷えたでしょう。ホットワインを飲んで、暖かくして眠りましょう」
そう言って手を差し出す夫もまた薄着だ。もう少し月を見上げていたかったが、夫に風邪をひかせるわけにはいかない。素直に手を引かれてバルコニーを後にする。
夫が窓とカーテンを閉める隙間から、未練がましく覗けば、くすりと笑われた。表情が乏しく暗い雰囲気の夫の、初めて見る笑顔に呆けてしまう。笑みはすぐに消え、元の表情へと戻る。
月への未練はどこへやら。その笑みをもっと見ていたかったと思う。
世間は悲劇として見ている始まったばかりの結婚生活に、恐れはなく、胸に芽生えた微かな予感を大事にするように、そっと胸に手を当てるのだった。