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わけが、分からない。
いや、言っている言葉の意味はちゃんと分かっていたが、脳がそれを理解することを拒んでいた。
『ベルナフィス嬢。――どうかわたしと、一戦交えてくれないか?』
頭の中で何度もその言葉を反復する。
(えっと、つまり……決闘しろってこと、よね……?)
ますますわけが分からない。というか、理解したくない。
ルミナリエは今自分ができる最高の笑みを浮かべ、全力で逃避することにした。
「何をおっしゃるのです、王太子殿下。私と決闘したいだなんて……そんな……ご冗談でしょう? 私は女ですよ? 殿下と相見えるだけでも光栄ですのに、戦うだなんて……できませんわ」
「だが朝の一件、あなたが解決したというではないか。それほど鍛えていないとはいえ、相手は男だ。それを難なく沈めるなど、生半可な実力ではない。その武技、是非とも拝見したい」
「ふふふふふ、大したものではありません。護身術の一種ですわ。数多の逸話をお持ちの殿下に見せられるようなものでは、とてもとても……」
先ほどとは違った意味で冷や汗が流れる。
(王太子殿下と戦う? そんな楽しそうなこと……じゃなかった、畏れ多いこと、できるわけないじゃない!)
母親から結婚するまでの苦労話を聞かされていたルミナリエは、表ではお淑やかな令嬢でいると決めている。
だがヴィクトールと決闘をしてその話が広められてしまえば、今までの努力が水の泡だ。どうにか避けなくてはならない。
しかしヴィクトールは、ここで実力行使に出る。
「ならば命令だ、ベルナフィス嬢。わたしと一戦交えよ」
(最高権力者なのに横暴よ! 鬼畜の極みだわーーーー!!!)
――結果。ルミナリエの決死の努力も虚しく、ヴィクトールと決闘をすることになってしまった。
*
場所は変わり、現在いるのは王宮内の軍用訓練所だ。ルミナリエとヴィクトールの他にはレレリラと、軍服を着たミルクティー色の髪と飴色の瞳をした青年、白衣を着たミントグリーンの髪に翡翠色の瞳をした男性がいる。どうやら、彼らが今回の決闘唯一の立会人のようだ。後者は、格好と瞳の色から予想するに王宮治癒魔術師だろう。優秀な治癒魔術師は国の至宝とも言える存在なので、目にするのは初めてだった。
一番小さいサイズの軍服を貸してもらったルミナリエは、訓練用の刃が潰された剣を持ちながら黄昏ていた。
(ほんと私、なんでこんな場所にいるのかしら……)
しかしヴィクトールの方はストレッチを終え既に臨戦態勢に入っており、何をどう足掻いてもやらないという選択はなさそうだ。
ルミナリエはぎゅっと剣の柄を握り締め、開き直ることにした。
(そうよ。どうせ逃れられないのだから……久々の模擬戦、楽しみましょう)
しかも相手はあのヴィクトールだ。戦えることなど、このタイミングを逃せば金輪際ないだろう。
ルミナリエはスゥと、瞳を細めた。
全身に魔力を循環させ、全身を強化する。ついでに剣の方にも強化の魔術を付加した。
剣を振るうのは久々なので、素振りをして慣らす。
(私が普段使っているものよりも、重たい)
ならば、その重さに合った使い方をすれば良いだけだ。
ストレッチをしたり何度か飛び跳ねたりして調整を終えたところで、ヴィクトールが口を開く。
「準備は良いか?」
「はい」
ヴィクトールの眼差しが獰猛な獣のように鋭くなるのを見て、背筋がぞくりと震えた。
それは、相手の性別なんて全く気にしていない、正真正銘の真剣勝負をしようというときの目だ。
(――嬉しい)
自然と唇が持ち上がり、頭の芯が冴えていく。
「今回は、なんでもありの模擬戦だ。魔術を使っても構わない」
「承りました」
「怪我をしたとしても、あそこにいる治癒魔術師が治せる。四肢が千切れても、心臓が止まっても治療できる優秀な男だ。本気でかかってきて構わないぞ」
(それって、国宝級の治癒魔術師なのでは……)
そんな人がこんな場所にいてもいいのかとか、色々言いたいことはあったが、ルミナリエは全てを飲み込み「はい」と頷いた。
「戦闘開始の合図は、このコインが落ちたときだ」
「はい」
両手で剣を持ち構えたとき、コインが宙を舞った。
きゅう。
ルミナリエの氷のような碧眼が、くるくる回るコインを凝視する。
投げ出されたそれがやがて重力に負け、ゆっくりゆっくりと落下し――
――チャリーン。
コインが落ちるのとほぼ同じタイミングで、ヴィクトールが目の前に迫ってきていた。
剣が炎の渦で覆われており、当たっても受けてもただでは済まない。
それは間違いなく、この一撃で仕留めようという類いの攻めだ。
(それだけの魔術を無詠唱とか……ほんっと、あり、得ないッ!)
しかしルミナリエの瞳はそれをギリギリのところでとらえ、剣先を振り上げた。
「ッ! 氷結ッッ‼︎」
剣が冷気をまとう。
ガキィン!
鈍い音と凄まじい水蒸気を立て、剣同士が擦り合った。
だが力勝負ではヴィクトールの方が上だ。
それを一瞬で理解したルミナリエは、瞬時に一歩下がり斬撃をやり過ごす。
まともに斬り合えば負けることは分かったので、ルミナリエは相手の呼吸に合わせ受け流し続ける方を選んだ。
後ろに下がりつつも軽快なステップでヴィクトールの剣技を受け止めていると、ダンスを踊っているような気分にさせられる。正直なところ、押されているのが気に食わなかった。
だがルミナリエだって負けてはいられない。ヴィクトールの斬撃の隙を縫い急所を狙ったり、小さな氷の刃を頭部めがけて投げたりした。
そのどれも防御魔術で防がれたり床石に突き刺さったりしてしまったが、別に構わない。本命は別だ。
もちろんヴィクトールの方も火の玉を当ててきたり、割と容赦なく打ち込んでくる。
だけれど、開始と同時に当ててきたそれとは比べ物にならないくらいぬるかった。
(殿下のほうも、タイミングを図っているってわけね)
ならば今度は、こちらから攻めてやる。
ぎりっと歯を食いしばったルミナリエは、ヴィクトールが足をつこうとしている床石めがけて下位の氷魔術を無詠唱で放った。
「ッッ!」
つるりと足を滑らせたヴィクトールは、大きく体勢を崩す。そのとき初めて、彼の顔に驚きの表情が浮かんだ。
(今しかない!)
ルミナリエは背後に飛びながら高らかに叫ぶ。床に突き刺さっていた氷の刃が、淡く光を放ち始める。
「貫き穿て! 女神の氷華ッッ‼︎」
――ヴィクトールのいた場所を中心に、氷の華が咲いた。
ルミナリエが使える攻撃系氷魔術の中でも最も強い魔術だ。狙った対象を凍りつかせるだけでなく、体の芯まで冷気を浸透させ蝕む凶悪な氷魔術である。
あらかじめ床に魔術で作った氷を展開しておくことで、詠唱を短縮化させることに成功したとっておきだ。
ぜいぜいと息を切らせたルミナリエは、美しく咲く氷の華を凝視する。
魔術は上手く展開できた。王太子を傷つけたのではないかという恐怖心もあったが、一撃目からあれだけの魔術を打ち込んできた相手だったためこれくらいやらないといけないと思ったのだ。余裕がなかったとも言える。
しかし、背筋を這うような嫌な予感は拭えなかった。
その予想違わず。
――じゅう、と。
氷が、とろけた。
「――吼えよ、光雅の獣」
ぞわりと、今まで感じたことのない悪寒が背筋に走った。
ルミナリエは咄嗟に、展開していた氷の刃に命じる。
「 来 て っ ‼︎ 」
呼び寄せた氷の刃と、光をまとう刀身がかち合ったのは、ほぼ同時だった。
だがルミナリエが放った刃だけでは、ヴィクトールの一撃は受け切れない。一瞬だけ勢いが削がれたが、直ぐ光に飲まれて霧散してしまった。
(でも、これだけの時間あれば――!)
「そびえ立て! 白銀の無限要塞‼︎」
ルミナリエは、最高位の防御魔術を展開した。何枚にも重なり咲き誇る花のように美しく、ベルナフィス領一高いペツェル氷山のように堅牢に。絶対に自領を、ひいては国を守ると誓った、先人たちの思いの全てだ。
それは言わば、一枚一枚がダイヤモンドのように硬く、使用者の魔力が続く限り再生し続ける最強の盾。
何重にも張り巡らされた氷の防壁が広がり、光の剣とかち合う。
砕けた。
砕けたのだ。
その度に防壁が展開される。
何度も何度も重なっては砕け、重なっては砕け、重なる。
この防御魔術は、辺境で国を守ってきたベルナフィス家がありとあらゆる知識と経験を総動員させて作り上げた至高の魔術だ。そう簡単に壊せるものではない。それがガラスを砕くかのように壊されているのだから、恐ろしい。
一体どれだけ強い魔術なのだろうか。
甲高い悲鳴のような音を立てて防御魔術が壊れるのを、ルミナリエは胃が縮むような思いで聴いていた。
自身の魔力が続く限り展開し続けるつもりだが、これはいつになったら終わるのだろうか。
(だけ、ど……負けられない、負けたく、ない……っ!)
「ぁぁぁああああああッッッ‼︎」
目の前が光で包まれるのを、ルミナリエは見た。
視界が真っ白になる。強烈な光だった。
――ふっと。光の剣が消える。
「はぁ、はぁっ……」
大粒の汗を流しながら腕を突き出していたルミナリエの目の前には、最後の一枚の防御魔術が残されていた。
――ぱきん。
それも、一呼吸置いた後に壊れる。
(……終わった?)
防ぎきったことに対する喜びよりも、安堵の方が勝った。
足から力が抜けたルミナリエは、ぺたりと床に座り込む。
今までにない、凄まじい疲労感だった。
だからだろう。目の前に迫る足音にも、降りた影にも気づかなかったのは。
「素晴らしい腕だった、ベルナフィス嬢。まさかあの一撃を防ぎきるとは」
顔を上げれば、そこにはヴィクトールがいた。汗こそかいているものの、飄々とした態度はそのままだ。
それを見たルミナリエはむうっとする。だけど再度戦闘を再開する気力も湧かず、ガックリとうなだれた。
「……お褒めいただきありがとうございます、殿下。ですがこの模擬戦、私の負けです」
(……というかそもそも、今回の模擬戦の勝利条件って何でしたっけ?)
なし崩しの状態で始めてしまったので、頭からすっぽり抜けていた。
「いや、わたしの負けだ。……というより、この一撃を防いだ女性はあなたが初めてだ。剣技も素晴らしかった。まるで舞を踊るかのように戦うベルナフィス嬢は美しくひたむきで、つい本気を出してしまったのだ。戦闘をしていて楽しかったのは、今回が初めてだったよ」
「あ、左様ですか……ありがとうございます……」
赤面するようなことを言われているはずなのだが、あまりときめかない。状況が状況だからだろうか。もうどうでもいいから、部屋に帰ってお風呂に入り休みたいのだ。
そう思っていたルミナリエの眼の前で、ヴィクトールが跪く。そして床についていたルミナリエの左手を、彼が取ったのだ。
手の甲にキスするまでの流れはものすごく自然で、抵抗する間もない。
ルミナリエを見てくる王太子の表情は、今までにないくらい柔らかくとろけるようだった。
「あなたに惚れてしまった。だからどうか、わたしの妃になって欲しい」
予想してなかったタイミングでの求婚に、ルミナリエは思わずぽかーんとしてしまった。
――美しい殿方に跪かれ、手の甲にキスをされて甘い甘い求婚を受ける。
それが、貴族令嬢たちにとって最上の求婚方法だ。
それはおてんば令嬢と言われるルミナリエにとっても同じだった。
そして彼女は今、そんな夢のような求婚を受けている。しかも、それはそれは美しい王太子殿下からだ。
なのに――なのに!
(なんでこんなにも嬉しくないのッッ⁉︎)
人生初の求婚に対して何を返したらいいか分からず、ルミナリエは遠い目をしたのだった。