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約十キロほどの距離を、ジャードノスチは二十分かからず駆け抜けた。
初めて見る海は本当に青く、いっぱいに広がっている。「塩気のある風を感じながら、ルミナリエはこんな理由できたくはなかったな」と思う。
その間に友軍の船も観測し、ヴィクトールは目測で「到着まで一時間、かかるかかからないかといったところだな」と告げた。
一時間、何がなんでも足止めしなければならない。
そんな青い海の上で、氷に侵食されながら浮かぶ船が一隻ある。
二十分そろそろ経つからか、周囲の氷が割れ始めていた。
ルミナリエは二発目を海面に打ち込み、足止めを継続する。
ヴィクトールはジャードノスチに「わたしが降りた後は、五十メートルほど離れた位置を保って飛んでいろ」と命じていた。
「ルミナリエ。わたしはグランベル嬢を救出するために降りる」
「……はい。ご武運を」
ルミナリエがぎゅっと銃を抱き締め頷くと、ヴィクトールが頭を優しく撫でてくれた。
「大丈夫だ。でも、周囲の様子を確認しておいてくれ」
「分かりましたわ」
「もし何かあれば、援護を頼む」
「はい」
ヴィクトールはそれだけ言うと、ジャードノスチを船の三十メートルほど上にまで飛ばし、その位置から降り立った。
ルミナリエがジャードノスチの手綱を取ってから下を見たが、ヴィクトールは難なく甲板に降り立ち敵を蹴散らしている。
ジャードノスチが主人の命令通り、船から距離を置くために羽ばたくのを確認してから、ルミナリエは魔石に魔力を溜め始めた。
(ヴィクトール様、必ず帰ってきて……)
――友軍の船が到着するまで、残り五十六分。
*
ヴィクトールが甲板に降り立つと、甲板に出ていた数人が一瞬唖然とした顔をした。
その隙に一人の鳩尾を殴り沈めれば、場はまるで蜂の巣をつついたかのような騒ぎになる。その反応から、ヴィクトールは瞬時に相手が「実践をしたことがない素人」だということを判断した。
初めて見る竜の存在やルミナリエが放った氷魔術の影響も大きいと思うが、今まで潜伏しそろそろ目的を達成できそうだと湧いていたのも悪かったのだろう。彼らは確実に焦っていた。
焦りすぎたのか、一人が甲板から落ちる。
――この分なら、なんとかなるかもしれないな。
そう思いながらも、ヴィクトールは気を抜くことはせず突っ込んでくる敵を一人一人、鞘付きの剣で殴り飛ばし丁寧に気絶させていった。睡眠薬と同様の効果をもたらす意識消失魔術をかけることも忘れない。途中で目を覚ました敵に殺されてきた人間を、何人も見てきたからだ。
六人目を沈めた頃、見知った顔が現れる。
髭面の男、バルフ子爵だ。
彼はヴィクトールの存在を認めると、わかりやすいくらいはっきり顔を歪めた。
「お、王太子がなぜこんな場所に……!」
「それはこちらのセリフだ、バルフ子爵。お前こそなぜ、こんな国境沿いの海をたゆたっている」
「っ!」
「ああ、言わなくてもいい。売国奴の話など聞きたくもない。それよりも言いたいのは、あれだ。――愚かな息子を持つと苦労するな?」
「っ! なんだと⁉︎」
するとドアを蹴破る勢いで、チェルノが飛び出してきた。
バルフ子爵が頭を抱える。
そんな子爵の苦労など知る由もないのか、チェルノが早口でまくし立てた。
「僕のどこが愚かだというのだ!」
「愚かだろう。お前が後宮で下手なことをして捕まったから手間も増えたし、お前がグランベル嬢への手紙で自慢話をしたから、今回の逃走で海路を使う可能性に行き当たったのだから」
「っっ、はあ⁉︎」
「まあ、国を裏切った時点で親子共々愚かなことに変わりはないが」
顔を真っ赤にして地団駄を踏むチェルノを見て、ヴィクトールはなんだか遣る瀬無い気持ちになる。
マクディーン侯爵からしてみたら使いやすい駒だったからこそ選んだのだろう。が、ヴィクトールからしてみたら、彼らに裏切られたことは恥以外の何物でもない。
しかし今反省している時間はない。ヴィクトールがやるべきことは、ただ一つだ。
――最低でも、バルフ家の人間は生かして情報を吐かせてから、死刑にする。
そう思い剣を握り締めたとき、何やらわめいていたチェルノが一際大きな声を上げた。
「ジェイル! ジェイル‼︎ 早くしろッッッ‼︎」
――ジェイル?
すると開いていたドアの奥から、真っ黒いフード付きローブをかぶった人物が出てきた。いかにも魔術師といった格好だが、不思議と性別が分からない。
黒の魔術師はしわがれた声を発する。
「はい、チェルノ様。すでに用意は整っております……」
ヴィクトールは一瞬、目の前にいるのが老人なのかと思った。
しかし魔術師の背後から歩いてくる人物を見て、眉を寄せる。
「……グランベル嬢?」
出てきたのは、エドナ・グランベルだった。
だが呼びかけても応答しなければ、瞳は焦点を結んでいない。極めつけはその手に、剣が握られている。
明らかに様子がおかしい。
そう思い、警戒していたときだ。
黒魔術師の足元に、紫色の魔法陣が広がった。
そこを中心として、紫色の光を放つ球体が船を覆うように広がる。
「舞台、展開――開幕せよ、滑稽な人形劇」
――……さあ、お行きなさい。
くいっと。魔術師が、骨のように細く白い手を指揮者のように振る。
瞬間、エドナが剣を振り抜いた。
さほど速くなかったので受け止めたが、思いの外打撃が重かったため驚く。
後ろに下がり体勢を立て直そうと思ったとき、今まで怯えているばかりで使い物にならなかった船員が襲いかかってきた。
一番驚いたのは、沈めたはずの者たちまで動き出したことだ。その動きは先ほどとは比べ物にならないくらいキレがあり、重い。
そのとき、ヴィクトールはある情報を思い出す。
――ベーレント帝国の軍隊は、一人の魔術師によって統率された人形集団である。
新王になってからベーレント帝国が各地を侵略していった理由の一つが、それだという。
曰く、ひどく統率の取れた集団である。
曰く、味方が死んでも怯えることのない鉄の精神を持った生き物である。
曰く――いくら怪我をしようとも心臓が止まるまで動き続ける、意思のない人形である。
「……なるほど、これがその、人形魔術とやらか」
展開した範囲にいる自分よりも弱い人間を操り配下にする、傀儡魔術の一種だ。
その中でも特出している点は、配下にできる対象の広さである。たとえ意識がなかったとしても、その対象の能力値を最大限まで引き出し操ることができるのだ。
それを止めるためには、統率主である魔術師を倒すか傀儡たちの命を狩るかである。
つまり黒ローブを着た魔術師は――ベーレント帝国の人間だということだ。
そのことに、今まで落ち着いていたはずの心がざわつく。ここ最近はめっきり戦場に出ることもなくなり、王宮にいることばかりだったヴィクトールが忘れていた感情だ。
それは、ルミナリエが現れるまでほぼ無感情だったヴィクトールにとって、唯一感じ取れることができた感情である。
それは――『悦び』だ。
強敵に出くわしたとき。また、自分の思う通りにことが運びそうなとき。それはヴィクトールの胸に水滴のように落ちじわりと広がっていく。
今回は後者だった。
にい、と。ヴィクトールが嗤う。
「――ありがとう。お前のおかげで、ルミナリエとの婚約が上手くいきそうだ」
バルフ家とマクディーン家を捕らえ、情報を吐き出させてから死刑するだけではルミナリエに対する風当たりは完全にはなくならない。
しかしベーレント帝国の魔術師を捕まえ、各国脅威とされている魔術を解明したとなれば、話は別だ。
成功すれば、一気に追い風となって二人の背中を押してくれるはず。
「足掻いて足掻いて足掻いて、手の内を見せてくれ。必ず暴いてやるから。――せいぜい俺を愉しませてくれよ?」
ヴィクトールはそうつぶやき――ルミナリエがいる前では絶対に見せない、獰猛な笑みを浮かべた。