R市市警事件目録 静
この小説はフィクションです。実際の人物、事件、団体とは関係がありません。
一部テロの描写を含みます。
3月1日 9時
A国R市市警の刑事課第二班の部屋の自分の机にレオンは座っていた。斜め前の机に座っているラッセルとジャックはのんきにマグカップに入った紅茶を飲んでいる。ここ最近R市市内ではこれといった刑事事件が発生していなかった。刑事課第二班の9人の刑事たちは事件が起きるまで待機している。部屋の前の木製の机に座っているリチャード警部は眼鏡を掛けて新聞を広げている。警部は新聞を読むときだけ老眼鏡を掛けていた。レオンの後輩のフィリップは自分の机に置いてあるクリップを繋いで鎖を作るというしょうもない遊びをしていた。
「できた!」
鎖の長さはなかなかのものだ。
「おい、フィリップ。備品で遊ぶな。そういえばスパイク先輩は?」
レオンがそう言った。
「地下の道場で訓練してますよ。そういえばシズカは?」
スパイクは時間が出来れば道場で体術の訓練をしている。
「そっちは射撃訓練してるってさ。」
フィリップはへえ、と言った。オリバーはゴム手袋を嵌めて窓の掃除をしていた。紅茶を飲んでいるラッセルが平和だね、と呟いた。ラッセルの言う通りだとレオンは思った。今年は夏から立て続けに事件が起きていて休まる暇もなかった。その時リチャード警部の机の上の白い内線電話が鳴った。リチャード警部は電話を取った。また、何かの事件が起きたのだろうか。
シズカは黒い拳銃を構えた。10メートル程前には二重円の的が見える。撃鉄を下し、引き金を引いた。発砲時の轟音は耳当てで遮られて聞こえない。銃弾は中央の赤い丸に命中していた。シズカは銃を下した。ここはR市市警地下の射撃訓練場である。灰色のコンクリートで覆われた部屋はひんやりとしている。刑事であるシズカは射撃の訓練を行っていた。先週発生した連続毒殺事件が解決してから、シズカの所属する刑事課第二班は事件が起きるまで刑事課の一室で待機している。A国では免許制による民間人の銃の所持が認められており、シズカは17歳の時に免許を取得し、刑事だった祖父に教えられて射撃の訓練を行っていた。初めはスポーツの一種のつもりで行っていたが、刑事になった今ではこの銃の腕は事件の際に役立つこともある。今思えば祖父はシズカが自分の後を追いかけて、警察官になることを予感していたのかもしれない。再び銃を構え、引き金を引く。銃弾は再び命中した。久々の射撃訓練で感覚が戻ってきたようだ。シズカが銃を下した。足音が聞こえたので振り返った。するとそこにはシズカが見たことが無い30代くらいの男性が立っていた。
「君がシズカさん?刑事課に銃の腕の立つ婦警がいるって聞いたけどなるほど、中々の腕前だ。」
「恐縮です。」
男性も銃を構えて引き金を引いた。その銃弾は正確に丸い円の中央を射抜いていた。―シズカより正確に。
「…すごいですね。お名前は?」
「ルイス。特殊部隊所属のスナイパーだよ。」
ルイスはそう言うと笑った。特殊部隊のスナイパーということはR市市警の狙撃の専門職ということだ。
「噂で聞いたけれど君、暁の教団事件で犯人の腕を狙撃して連続婦女殺人事件では足首を狙撃したそうじゃないか。」
シズカは2件の事件を思い出した。確かにルイスの言う通りだ。
「はい。」
ルイスの目表情が少し険しくなった。
「一つ忠告しておくよ。君は犯人の命を奪わないように意図的に狙撃をしているだろう。二件の事件で犯人は人質を取っていたそうじゃないか。君の中途半端な優しさは一歩間違えれば人質の命を危険にさらしていた。君の腕なら間違えなく急所を狙うことが出来る。今後はその方が良い。生兵法はケガの元だよ。」
ルイスはそう言うと銃を置いて去って行った。ルイスの言うことはもっともだ。2件の事件で引き金を引いた瞬間を思い出した。確かに急所を狙うことはできた。むしろその方が容易だった。だが、犯人とはいえ、他人の命を奪うことを避けている。そして、引き金を引くことを恐れているのかもしれないとシズカは思った。使う必要が無ければ、銃は使わずに済ませたい。それは、危うい甘さでもあると気付いた。深緑色のコートのポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。シズカは電話に出た。相手は相棒のレオンだ。
「シズカ、今すぐ来い。B区の老人ホームで立てこもり事件が発生した。」
シズカは急いでエレベーターで7階まで上がった。廊下を曲がり、刑事課第二班が常駐している部屋のドアを開けるとリチャード警部と7人の同僚が立ち上がり、リチャード警部の机の近くにあるホワイトボードの方向を見ていた。
「すみません、遅れました。」
「よし、全員揃ったな。今から状況を説明しよう。8時30分にB区×番地の××園という私立の老人ホームで男が銃を持って入居者と職員を人質に立てこもっているとの通報があった。通報者は老人ホームの職員の女性だ。今は老人ホームの半径20メートル以内を立ち入り禁止にしている。犯人は職員の女性が通報したことに気付いていないようだ。したがって、まだこの事件は公表されていない。この事件は私たち刑事課第二班が担当する。今から現場に向かおう。目的は人質全員の解放と犯人の確保だ。いたずらに犯人を刺激することないよう、細心の注意を払うように。」
老人ホームに乗り込んでかよわい老人を人質に取るなんて、なんて卑劣な犯行だとシズカは思った。犯人の要求は不明だが身勝手な犯行を決して許すわけにはいかない。何としても人質の命を優先しなければならない。8人の刑事たちは了解、と返事をした。
3月1日 10時
刑事たちはワゴン車とセダンに乗り込み、B区まで向かった。通勤の時間帯が過ぎたB区の道路は車が少なく、すぐに事件現場に到着した。事件現場は住宅街に位置し、立ち入り禁止の黄色いテープが張り巡らされた道の外側には何が起こっているか分からない近隣住民が集まり、青色の制服を着た警官に詰め寄っている様子が車の中から見える。ワゴン車の中にはリチャード警部、トム、ラッセル、ジャック、ラッセル、そしてレオンがいる。
セダンにはスパイク、フィリップ、オリバー、シズカが乗っている。
「まずは犯人の要求を待とう。」
警部がそう言った。10分ほど沈黙が続いた。リチャード警部のスマートフォンが鳴る。リチャード警部は電話に出た。
「私はR市市警の刑事のリチャードだ。君の要求を教えてくれ。」
おそらく、市警に来た犯人の電話の回線を回したのだろう。リチャード警部は分かった、と言うと電話を置き、目を伏せ、息を吐いた。
「警部、犯人の要求は?」
レオンはそう尋ねた。
「R市刑務所に収監されている全殺人犯の処刑―それが犯人の要求だ。」
ラッセルがセダンに乗っている4人に状況を伝えるために車から出た。レオンの体は戦慄した。これはただの立てこもり事件ではない。A国では数十年前に死刑制度が廃止され、A国での最高刑は終身刑だ。したがってこれはA国の司法を覆そうと目論む、テロに他ならない。
3月1日 11時
現場の老人ホームから20メートルほど離れた場所には白いテントが設営され、外では楯を持った特殊部隊の隊員が20名ほど待機している。その中にはシズカが朝に射撃訓練場で出会ったルイスの姿もあった。シズカ達刑事課第二班の刑事たちはテントの中で待機していた。リチャード警部、トムは折り畳み式の机に座り、犯人からの要求を待っていた。ラッセルはパソコンを開いて待機している。横に置かれたテレビの画面はR市B区の老人ホームでテロ発生というニュースが報道されていた。空からはヘリコプターの音が聞こえる。おそらくテレビ局のものだろう。このうるさい音はいたずらに犯人を刺激しかねないとシズカは思った。A国の内閣府では閣僚達が集まっている。おそらく殺人犯を処刑するという犯人の要求を呑むことはできないだろう。それは当然のことだとシズカは思った。テロに一度でも屈すれば新たなテロが起こる可能性もある。30分程待機していると、テレビで記者会見の様子が映し出された。刑事たちは皆固唾を飲んでテレビの画面を見つめた。テレビカメラのフラッシの中で何本ものマイクを突き付けられたA国総理大臣は眉間に皺を寄せていた。
「我々は決してテロには屈しません。そして、この犯人の卑劣な犯行を決して許しはしません。」
リチャード警部は顎に手を当てて考え込んでいる。その時テントが開き、黒いスーツを着た10人の男性が部屋に入ってきた。そして50代くらいの髪を整髪料で撫でつけた男性がリチャード警部の目の前で黒い手帳を見せた。
「我々はA国公安部の者だ。この事件はテロと判断し、我々の管轄下に置かせてもらう。ただし、リチャード警部とトム警部補、レオン巡査には犯人の説得のため残ってもらう。以下6人は帰ってもらってよろしい。」
「ちょっと待ってくれ。これはウチの担当だ。勝手な事を言われては困る!」
スパイクがそう言った。
「そうですよ!これは俺達のヤマです。」
フィリップがスパイクを援護するように言った。
「警部殿、部下の教育がなっていないようだな。R市市警の刑事課のレベルも下がったものだ。」
男は吐き捨てるように言った。スパイクの眉間に皺が寄る。リチャード警部は口を開いた。
「二人とも止めなさい。分かりました。部下には市警本部で待機させます。今は事件の解決が先です。お互いにつまらない縄張り意識は捨てるべきだ。」
トムが立ち上がり、公安委員会の黒服の男たちに見えないように一番後ろにいたシズカに囁いた。レオンがシズカの前に出てその様子を隠した。
「後から指示を出す。それまで待ってろ。」
シズカは頷いた。スパイク、フィリップ、ジャック、ラッセル、オリバー、シズカの6人は黒服の男たちに追い出されるようにテントを出た。空には数台のヘリコプターが飛んでいた。スパイクはどしどしと足音を立てて歩いていた。テントが見えなくなった地点でシズカは他の刑事達に声を掛けた。
「先輩達、後から警部が私たちに指示を出すそうです。だから、それまで市警で待ちましょう。」
スパイクは唸った。
「警部にも何か考えがあるってことだな。」
「俺達は蚊帳の外じゃないんですね。」
フィリップはにっこり笑った。
「よし、市警に戻ろう。」
スパイクがそう言い、刑事達は車に乗り込んだ。
3月1日 12時
現場に残ったレオンはテントの中でトムとリチャード警部の横に座っていた。犯人からの追加の要求は無い。公安部の黒服の男達はレオン達を監視するように周りに立っていた。電話が鳴った。リチャード警部が受話器を取る。
「…分かった。今すぐ向かおう。」
「犯人の要求は?」
黒服の男がそう訊いた。
「老人ホームの外に投げたシーツを拾え。余計なことをすれば中にいる老人を殺害すると言っている。」
「それでは特殊部隊に拾うように指示する。」
黒服の男はそう言った。一番若く見える公安部の男がテントの外に出た。10分ほど経つと、男がシーツを持って戻ってきた。そのシーツは真っ赤な血に染められていた。レオンは驚いた。老人ホームの中では既に誰かが殺されたのだろうか。
「中にこの紙が入っていました。」
公安部の若い男はその内容を読み上げた。
「我々の要求を呑まなければ、一人ずつ殺していく。殺人犯の命と無辜の老人の命、どちらが重いか考えろ。」
リチャード警部は目を伏せた。一人ずつ殺していく。犯人は人質の命の重さを何とも思っていない。要求が通らない限り一人ずつ殺していく。間違いない、冷酷で残忍な正真正銘のテロリストだとレオンは思った。
「…このシーツを市警の鑑識に鑑定させてくれ。」
黒服の男は分かった、と言った。鑑定の必要があるのだろうかとレオンは疑問に思った。
3月1日 13時
市警に戻ったスパイク、フィリップ、ジャック、ラッセル、オリバー、シズカはリチャード警部の指示通りに刑事課の一室で待機していた。電話が鳴り、スパイクが取る。しばらく応対し、受話器を置いた。
「犯人が血の付いたシーツを投げてきたそうだ。今、ウチの鑑識が調査している。」
「…誰かが殺されたのかもしれないな。」
ジャックがそう言った。
「殺人犯の命と無辜の老人の命、どちらが重いか考えろという紙が挟んであった。」
「…ひどい。」
シズカはそう呟いた。殺人犯の処刑のために人質を殺す。犯人の男のやっていることは収監されている殺人犯と何も変わらない。どちらも他人の命を身勝手な理由で奪う、殺人だ。ドアをノックする音がして、中年の眼鏡を掛けた鑑識官が部屋に入った。
「これが鑑定結果です。リチャード警部殿にも同じものを郵送しました。これはそのコピーです。」
スパイクはわざわざありがとうと言い、受け取った。そしてその鑑定書を見てスパイクは黙った。
「何が書いてあるんですか?」
フィリップがそう尋ねた。
「…鑑定の結果、血液はニワトリの血だったそうだ。」
「ニワトリの血?」
ジャックが訝しげな表情を浮かべた。シズカは安心した。人間の血ではない。いや、だとすれば犯人は人質を殺すつもりではないということになる。
犯人は一体何を考えているのだろうか。
現場のテントの中では鑑定結果を知った全員が驚いていた。
「ニワトリの血ということは犯人は人質を殺すつもりがない。突入した方がいいだろう。」
公安の黒服の男はそう言った。
「いや、逆上すれば人質は死ぬかもしれない。」
リチャード警部は釘を刺した。人質は死ぬ。レオンは警部の言葉に違和感を覚えた。人質を殺す、ではないのだろうか。トムは市警本部に連絡を取るためにそっとテントの外に出た。
市警本部では刑事達がラッセルのパソコンの画面を見ていた。トムからメールが来たのだ。
現在の老人ホームの入居者と職員のリストがある。調べてほしい。リストは22人の人間の名前と個人ナンバーが羅列してあった。
「まずは市警のデータベースと照合してみよう。あと老人ホームの関係者をここに呼ぼう。」
スパイクがそう言った。ジャックが電話を掛けた。ラッセルは一人一人の個人ナンバーを市警の検索システムに入力していった。もし前科者や事件の関係者であれば市警の検索システムに引っかかるはずだ。該当した検索結果は2件グリーン個人ナンバーC34955、ミカエル J23441
「まずは、グリーンの方から見てみましょう。」
グリーンは現在老人ホームに入居している70代の女性だ。
「…グリーンは強盗殺人事件で殺害された女性の母親です。」
ラッセルはそう言った。
「15年前に発生した強盗殺人事件で女性は犯人に殺害されました。犯人は終身刑で服役中です。」
シズカは驚いた。人質の女性の娘は強盗事件で殺害され、犯人は終身刑で服役している。犯人の要求は全殺人犯の処刑だ。
「ちょっと待ってくれよ。それじゃあ犯人の要求と人質の利害は一致している、ということじゃないか。」
スパイクはそう言った。
「もう一人のミカエルは…20年前に起きた殺人事件のデータに名前が残されています。彼は被害者の父親で殺されたのは、彼の息子です。犯人は現在終身刑で服役中。」
少なくとも二人の人質の家族は殺人事件の遺族だ。そして、犯人の要求は全殺人犯の処刑。スパイクの言う通り、犯人と人質の要求は一致している。そもそも犯人はどういう人間なのだろうか。職員の女性の通報では銃を持った男が立てこもっていたという内容だったことをシズカは思い出した。
「犯人と人質はグルかもしれないな。」
スパイクがそう言った。犯人と人質が共謀してこの立てこもり事件を演じているということだ。だとすれば、ニワトリの血液を使い、人質を殺害したように見せかけたことも頷ける。その時、テレビの前で女性のリポーターが興奮気味でマイクを持っていた。
「たった今、老人ホームに立てこもっている男が姿を現し、特殊部隊に向けて銃を乱射しました。」
映像は上空から撮ったものに切り替わった。老人ホームの入り口から男が出てきた。男は黒い服に覆面をしていて顔は見えない。男は黒い銃を取り出し、何発か発砲した。銃声が轟く。男は建物の中に戻った。
「…犯人は相当興奮していますね。」
オリバーが呟いた。例え犯人と人質が共謀していたとしても、早く事件を解決しなければ人質にも特殊部隊にも犠牲者が出るかもしれないとシズカは思った。部屋の扉が開き、婦警に付き添われた一人のふくよかな中年女性が現れた。ジャックが女性に歩み寄った。
「わざわざすみません。老人ホーム××園の園長殿でいらっしゃいますね。」
「ええ、園長のキヨコと申します。私どもの園でこんなことが起きて、いてもたってもいられなくて…先程連絡を受けて飛んできた次第です。」
キヨコは憔悴した様子だった。自分の経営している老人ホームでテロが起きたのだ。気が休まらないのは当然だとシズカは思った。
「どうぞ、お座りください。」
シズカは入口の近くにあるくたびれたソファに座るように勧めた。キヨコはソファに腰を下ろした。シズカはソファに近くに折り畳み式のパイプを広げて座った。シズカはトムから送られてきた入居者と職員の22人の名簿を印刷したものをキヨコに見せた。
「現在老人ホームにいるのはこの22名ですか?」
キヨコは名簿を見つめて頷いた。
「ええ、入居している利用者様はこの20名で昨日夜勤に入ったのはエルカノとフィナの2名です。」
通報した職員の女性とはフィナのことだろう。
「テレビに映っていた覆面の男に見覚えはありますか?」
「…いいえ。分かりません。顔が見えませんもの。お願いです、どうか人質に取られた皆を助けてください!お願いだから…」
キヨコはそう言うとシズカの肩をゆさぶった。
「落ち着いてください、大丈夫ですよ。今市警と公安部が全力を挙げて捜査を行っています。」
シズカはキヨコの背をさすった。キヨコは落ち着き、ごめんなさいねと言うとバックからティシュペーパーを取り出して洟をかんだ。
「キヨコさん、一つ聞きたい事があります。××園の全職員及び関係者の中で銃の扱いに長けている。あるいは銃の使用免許を所持している人物はいますか?」
するとキヨコは首を横に振った。
「私どもを疑っているんですか!?私たちの中に利用者を人質に取り、危害を加えた者がいると言いたいのですか?」
「現状ではまだ分かりません。キヨコさん、今一番大切なことは一刻も早く人質に取られたお年寄りを助けることです。そのために私たち刑事はあらゆる可能性を考えなければならないんです。ですからどうかご協力願います。」
シズカはそう言い、頭を下げた。浮上している利用者と犯人が共謀して立てこもり事件を演じているという仮説はまだ話すわけにはいかない。その仮説が真実であるとすれば、キヨコにとってあまりにも残酷な事実だ。
「…一人、います。」
「一人?」
「エルカノです。彼はウチに来る前に18歳から22歳までA国国軍で兵士として働いていました。」
エルカノは今老人ホームにいる職員だ。兵士として働いていたなら、銃の扱いには慣れているはずだ。
「でもこれだけは聞いてください。彼はとても心優しい介護士でした。…特にミカエルさんとは本当の祖父と孫のように仲が良かった。彼が利用者を人質にとって銃を乱射したとは思えないんです。私はそう信じています。」
キヨコはそう言った。
「分かりました。御協力ありがとうございました。」
「お願いです。どうか、人質に取られた22人を救い出してください。」
キヨコは一礼すると去って行った。ドアが閉まる。
「国軍の元兵士なら銃の扱いには慣れているだろうな。」
スパイクが言った。ラッセルはパソコンのキーを叩いた。
「皆さん、見てください。ミカエルは5年前までA国死刑制度復活のための市民運動をしていたみたいです。ほら。会員にグリーンの名前もあります。」
刑事達はラッセルのパソコンの画面を見つめた。表示されたホームページは「A国青葉の会」という名前だった。その概要のページにはA国における司法の問題点が挙げられ、死刑制度が存在した数十年前に刑法を改めるべきだと書いてあった。そして、会長のミカエルの写真が添付されていた。白髪のミカエルは穏やかな表情を浮かべていた。活動内容は月に2回ほど全国で署名活動を行っているという内容だった。
「この会は今でも活動を行っているみたいですね。」
オリバーがそう言った。
「ミカエルは息子の死を願って死刑制度の復活を強く望んでいたのかもしれない。…俺ももし自分の娘を殺されたら、その犯人を殺してやりたいと思う。親なら、そう思うだろう。」
スパイクが息を吐いた。幼い娘のいるスパイクはミカエルの気持ちが少し理解できるのだろう。
「…よし、この情報をリチャード警部に伝えよう。ラッセル、メールで連絡してくれ。」
「了解です。」
ラッセルは返事をするとパソコンに向かって情報を入力していた。
「返信、来ました。現場に戻って来いと。」
フィリップが驚きの表情を浮かべた。
「ええ、今度は戻るんですか?ややこしいな。」
「これで俺達も現場で捜査できるな。よし、行くぞ。」
スパイクはにやり、と笑った。
立てこもり事件の起きている老人ホームの近くに設営された白いテントの中でリチャード警部が市警から送られてきた情報を読み上げていた。トムとレオンはリチャード警部の隣の椅子に座っている。先ほどリチャード警部が公安部に交渉し、本部に戻った6人を現場に戻す許可を得たところだ。リチャード警部の説明を聞き、公安部の黒服の男はため息を吐いた。
「つまり、立てこもっている男は職員のエルカノである可能性が高く、全員でテロのふりをしている。そういうことか?」
「可能性がある、ということです。ただ、銃を持った男を刺激すれば、何が起こるかわかりません。突入は避けるべきです。入居者の全員が計画に加わっているかはまだ判断できません。一部の入居者とエルカノの計画に巻き込まれた。その場合、彼らは本当に人質だ。」
リチャード警部はそう言った。
「何が起こるか分からない、とはどういうことだ?」
特殊部隊の隊長、セルバが尋ねた。
「エルカノや計画に関わっている入居者が抗議の自殺をする。あるいは先程のように銃を乱射する。入居者全員を殺害する。まずは説得を試みるべきでしょう。」
リチャード警部は犯人も含む老人ホームにいる全員を救い出すつもりなのだとレオンは思った。先ほどリチャード警部が言っていた人質は死ぬかもしれないという言葉を思い出した。血液がニワトリの血だと分かった時点で警部は立てこもりが老人ホームの人間が演じている芝居だということに気付いていたのだろう。いや、血の付いたシーツを見た時点で既に警部は本当に人質が殺されていないと察していた。―警部の勘は時々恐ろしいほどよく当たるときがある。
「リチャード警部、君は何か勘違いをしていないか?これは死刑制度復活を目論んだA国へのテロ行為だ。よってテロリストの命がどうなろうが我々の知ったことではない。」
公安部の男は吐き捨てるように言った。A国公安部の仕事はA国に反逆する思想を持つ危険人物を監視し、テロ行為に立ち向かうことだ。ただこの男の言い方は、腹が立つ。
「テロリストとおっしゃいますけどね、今銃を持っているのは介護士のエルカノだ。そして計画に加わっているのもただの老人だ。」
レオンはそう言った。黒服の男は眉間に皺を寄せた。その時、テントの外から特殊部隊の青年が走ってきた。
「大変です、銃を持った男が老人に銃を突き付けています!」
3月1日 15時
スパイク、ジャック、ラッセル、オリバー、フィリップ、シズカの6人はスパイクの運転するワゴン車で再び現場に戻った。KEEP OUT 立ち入り禁止 の黄色いテープの外側には事件を知って押し寄せた一般市民やカメラを持った報道陣が集まっていた。それを青い制服を着た警官がテープの内側に入らないように注意をしている。スパイクを先頭にシズカ達は押し寄せた人たちの間を歩いてテープを潜った。現場の様子は騒然としていた。テロリストを殺せ、と誰かが叫んだ。老人ホームが見えた。その周辺には楯を持った特殊部隊の隊員が集まっていた。
「様子が変ですね。」
シズカはスパイクに話しかけた。
「ああ、とりあえず俺達も行ってみよう。」
特殊部隊の隊員たちがひしめく向こう側では、老人ホームの庭で銃を持った男が老人、ミカエルに銃を突き付けていた。近くにはリチャード警部、トム、レオンの姿が見えた。リチャード警部は拡声器を持っている。レオンはスパイクを見つけて歩み寄った。
「見れば判るでしょうけど、エルカノがミカエルの銃を持って立てこもっています。R市刑務所に収監されている殺人犯の処刑を要求しています。…今、狙撃手がエルカノを狙っています。」
シズカは当たりを見渡した。遠くの植え込みの陰に、銃口が見えた。このままではエルカノが狙撃され、ミカエルも重傷を負う可能性もある。どうすれば、計画を企てたエルカノやミカエルも、建物の中にいる老人全員を救い出すことが出来るのだろう。シズカは唇を噛んだ。
「すぐに我々の要求を呑め、さもなくばこの老人の頭を銃で撃つ!」
エルカノは黒い銃をミカエルの頭に突きつけた。そして撃鉄を下し、引き金に手を掛けた。
「エルカノ君、やめなさい。ミカエルさんを殺したとしても何も変わらない。」
リチャード警部の声が拡声器で広がった。リチャード警部の横で公安部の男は眉間に皺を寄せている。
「園長さんが言っていたよ。ミカエルさんと君は本当の祖父と孫のように仲が良かったと。」
すると、エルカノは力なく銃を捨て、覆面を取った。
「…ミカエルさん、俺には、できない。あなたを殺すことなんて、やっぱり、できません…」
「いいや、君ができないなら、私が、やる。すまなかった。」
ミカエルはそう言い、上着を脱いだ。その体にはダイナマイトが巻きつけてあった。ミカエルは爆弾のスイッチを掲げた。
「…よく聞きなさい、私の要求を呑まなければ、この爆弾のスイッチを押す。この爆弾の威力は半径20メートルの範囲を消し飛ばす威力を持っている。」
リチャード警部は目を伏せた。
「皆、今すぐ付近に集まっている野次馬や報道陣を退避させるんだ!」
スパイクが分かりました、と言いフィリップ、ジャックと共に走って行った。シズカも後に続こうとし、振り返った。シズカは植え込みの影の狙撃手を見た―ルイスだ。彼は銃口をミカエルの頭に向けている。この位置から狙撃すれば間違いなくミカエルを射殺することができるだろう。建物の中にいる老人とここにいる特殊部隊、R市市警の警官、そして離れた場所にいる報道陣や付近の住民。このすべての人間を巻き込んで死ぬ。それが本当のミカエルの望みだろうか。本当にスイッチを押すつもりなのだろうか。―いや、そんなはずはない。シズカは腰のホルスターの銃をレオンに渡した。
「先輩、これを預かっていてください。」
「分かった。頼んだぞ。」
レオンはシズカの銃を受け取った。シズカは歩き出した。何としても、ミカエルを止めなければならない。爆弾が爆発すればこの老人ホームの中にいる人間、周辺の住民、大勢の警官、そしてエルカノが死ぬことになる。そして、憎しみの連鎖からミカエルも救い出さなければならない。楯を持った特殊部隊は自然とシズカに道を譲った。
「リチャード警部、一体どういうことだ!」
公安部の黒服の男が叫んだ。リチャード警部は黙っていた。シズカは一歩ずつミカエルに近づいた。二人の距離は5メートルほどあった。
植え込みの影で照準を合わせていたルイスは舌打ちをした。―これでは狙撃した時に彼女の頭も打ちぬいてしまう。あの女、それを計算してあの場所に立っている。一体何をするつもりなんだ。
シズカは息を吸った。
「…ミカエルさん、あなたは20年前の事件で息子さんを殺人犯に殺されていますね。」
「そうだ、私は悔しかった…息子を殺した殺人犯は刑務所の壁に守られて、ぬくぬくと生きている。終身刑となれば、仇を打つこともできない。息子の仇を取るための方法は、一つしかない。死刑制度の復活だ。…私はそのために長年署名活動を続けてきた。…それを人々は嘲笑った。そして、A国政府は死刑制度の復活を議題にもしなかった。…私は5年前にこの老人ホームに入り、余生を送ろうとした。だが、息子のことを忘れられなかった…!このまま息子の仇を打たなければ、死んでも死にきれない。」
ミカエルはスイッチに手を掛けた。
「ミカエルさん、あなたはそのスイッチを押せるはずがありません。遺された者の心の痛み、苦しみを誰よりもよく知っているあなたが、建物の中にいる老人ホームの仲間達、孫のようにかわいがっていたエルカノさん、そして私たちを殺すことが、できるはずがないんです。あなたが誰よりも一番憎んだ殺人犯に自ら成り下がることが、できるわけがない。私はそう信じています。」
シズカはそう言い、ミカエルを見つめた。シズカはミカエルを信じている。殺人犯を誰よりも憎んだミカエルが同じ殺人犯に成り下がるわけがない。
ミカエルは膝から崩れ落ち、スイッチを置いた。エルカノがミカエルに歩み寄る。シズカはゆっくりミカエルに近づき、膝を折り、座った。
「…私は、私は…」
「ミカエルさん、もういいんです。もう休みましょう。…あなたがこれ以上罪を重ねることを、息子さんはきっと望んでいません。」
ミカエルは声を上げて泣いた。エルカノはその背をさすっていた。
3月1日 17時
老人ホームにいた娘を強盗事件で失っていたグリーンと他の18人の入居者、そして通報した職員のフィナは全てを知って計画に参加していた。言い方を変えれば共犯であった。ミカエルとエルカノを確保したのち、特殊部隊が老人ホームに突入すると老人達は皆静かに広場の椅子に座っていた。しかし、ミカエルが服の下に爆弾を隠していたことはエルカノも含む21人は知らなかった。取調室の椅子にはミカエルが座っていた。その向かい側にはリチャード警部が座っている。シズカは部屋の隅に立っていた。記録員としてオリバーが座っている。
「ミカエル、年齢79歳。個人ナンバーJ23441。今から老人ホーム立てこもり事件の被疑者として事情聴取を開始する。あなたには黙秘する権利も弁護士を呼ぶ権利もあります。」
「…はい。」
「あなたは3月1日9時30分にB区の××園で20人の入居者と職員のフィナ、エルカノと共謀してA国政府に死刑制度復活を要求するために立てこもり事件を企てた。」
「…はい。」
リチャード警部は少し体を前に乗り出した。
「この計画は誰が考案したものなのですか?」
「…私とエルカノです。私は息子を殺人犯に殺され、長年A国で廃止された死刑制度を再び復活させるために市民運動を行ってきました。A国政府に6000人分の署名を提出したこともあります。しかし、A国政府は一度も私に何の連絡もしなかった。歳を取った私は5年前に××園で余生を送ろうと決め、入所しました。その時はもう息子の仇を取ることを諦めました。だけど、1年前に気付きました。このまま私が死ねば、誰も息子の仇を討つ人間はいません。私の息子が殺されているということを××園の仲間は知っていました。そして、グリーンも娘を強盗に殺されている。だから、私とグリーンはよく話しました。なぜ、私たちの子どもは殺されているのに刑務所の塀の向こうで犯人達は守られているのか。眠れない夜に夜勤だったエルカノにそのことを話しました。エルカノは私と一番仲の良い介護士です。エルカノはだったらこの園でテロを起こそうと言いました。そして、R市刑務所にいる私とグリーンの子どもを殺した殺人犯を処刑させよう。それが終われば、テロを終わりにすればいい。誰も傷つけずに済む。と言いました。それから、私たちはエルカノとフィナが夜勤になる度に計画を立てました。入居している仲間達も私たちの計画に参加してくれました。そして、今日の朝、エルカノとフィナがいる時間帯を狙い、私たちは決起しました。」
リチャード警部は頷いた。××園入居者全員がミカエルとグリーンの子どもたちの無念を晴らすために1年間にわたり、テロを計画していたのだ。この事実を知れば、入居者の身を案じていた園長のキヨコは驚き、深く傷つくだろう。ミカエルは市民活動という正しい方法で死刑制度を復活させるために司法に訴えかけていた。A国政府はその声に耳を傾けようとしなかった。そして、ついにミカエルは間違った方法を選択してしまった。
「爆弾はどのようにして作りましたか?」
「インターネットのサイトでダイナマイトを購入し、起爆装置を組み立てました。私はかつて高校の理科の教師でした。化学的なことは少し分かります。爆弾は最後の手段で脅しのために使おうと思っていました。スイッチを押すつもりは、ありませんでした。」
シズカの思った通り、ミカエルは爆弾のスイッチを押すつもりは無かったのだ。狙撃せずに済んだことは良かったとシズカは思った。
「分かりました。…あなたはこれまで市民運動で正しい方法で司法に訴えかけた。しかし、その小さな声はA国には届かなかった。そして、今日テロを起こすという間違った手段を取った。例えあなたが誰も傷つけるつもりが無かったとしても爆弾が誤爆するなどの事故が起きれば、多くの人間が死んでいました。そうすれば、あなたもあなたやグリーンの子どもを殺した殺人犯に成り下がっていた。あなたの穏やかな日々を、あなたは自ら壊してしまった。そして、園の仲間達、そしてまだ若いエルカノとフィナを巻き込んでしまった。それを忘れてはいけません。」
「…はい。」
ミカエルは力なく頷き、済まない、エルカノと呟いた。
第二聴取室の椅子にはエルカノが座っている。聴取を担当するのはレオンだ。記録員はラッセルで、ジャックが横に立っていた。先ほどエルカノは事件の全容を自白した。レオンには一つ気になることがあった。なぜ、エルカノがミカエルたちの計画を提案し、銃を乱射する暴挙に出たということだ。
「一つ教えてくれ。あんたはどうしてそこまでミカエルたちのために働いたんだ?」
エルカノはうつむいてた。
「俺には祖父も祖母もいない。父親は酒を飲んでは俺と母親に暴力を振るいました。そんな生活が嫌で俺は18歳の時にA国国軍に就職しました。国軍の過酷な訓練にも耐えました。ここ100年は大きな戦争が起きていないから、国軍は実際には災害救助のための部隊です。同僚は皆、家族が暮らす国を守るために戦うと言っていました。だけど、俺には守るべきものが思いつかなかった。俺には家族がいた。だけど、とても家族と呼べるものではなかった。訓練の後に考えるんです。俺は、何を守るために、誰のために戦うのだと。それが分からなくなった時、国軍の仕事がつまらなくなって辞めました。それから仕事を探していた時に、××園の介護士募集の張り紙を見て応募しました。力仕事には自信がありましたから。そこでミカエルさん達に出会いました。初めは拒絶されたりすることもあったけど、時間が経つにつれ入居者さんと仲良くなれました。給料は国軍の時よりもずっと安かったけど俺は楽しかったです。そして、特にミカエルさんとよく話すようになりました。ミカエルさんはたまに俺に理科の話をしてくれました。俺は高校はサボりがちだったし両親にも勉強をしなくてもいいから働けって言われてたけど俺は小学校の時、理科が好きでした。こういう人が、俺のおじいさんだったら、お父さんだったら良かった。そう思うこともありました。ミカエルさんは事件で殺された息子さんのために署名を集めていました。一度、駅前で俺とミカエルさんで署名を集めたことがあります。多くの人は無関心に通り過ぎたし俺達を罵倒する人もいました。だから、もう普通の方法では殺人犯を罰することはできないと思いました。俺はミカエルさんと出会い、A国の法律について考えるようになりました。やはり、殺人犯を刑務所で保護する制度はおかしい。いや、それだけじゃない。ミカエルさんに残された時間は少なかった。時間が無くなるまで、最後の願いを叶えたかった。」
エルカノはずっと孤独な人生を送っていた。そして、祖父のように優しいミカエルに出会った。孤独な青年と息子の死を悼む一人の老人。二人が出会い、心の傷を埋めあう。それだけで、良かったのではないかとレオンは思った。こんなバカげたことをしなければ、二人の穏やかな日々は続いたはずだ。
「…あんたのやり方は間違っている。でも、今回は幸い誰も負傷した人間はいなかった。」
エルカノは顔を上げた。
「また、罪を償えばやり直せるさ。あんたも、ミカエルも。」
エルカノは消えりそうな声ではい、と返事した。エルカノは歯を食いしばり、うつむいた。
「…ごめんなさい、ミカエルさん…」
3月3日 17時
老人ホーム立てこもり事件は首謀者のミカエルとエルカノの逮捕で収束した。捜査本部では1日掛けてミカエルとエルカノの計画に共謀した19人の入居者とフィナを聴取し、裁判の準備のために資料作成をして捜査本部は解散した。その後にシズカはリチャード警部に呼び出された。理由は分かっている。リチャード警部と公安部の隊員の許可を取らずに勝手にミカエルを説得したことだ。結果的に犯人と機動隊の双方に一人の犠牲者も出さずに済んだものの、特殊部隊の狙撃作戦も中止されたのは事実だ。どんな処分が下ったとしても、シズカは受け入れるつもりだ。それを覚悟した上でミカエルを説得したのだ。刑事課第二班の部屋の自分の机の前でリチャード警部は振り返った。
「シズカ、今回の君の行動により結果的には一人の犠牲者も出さずに済んだ。しかし、上司である私や公安部に何も言わずに勝手な行動を取ったことはあきらかな命令違反だ。刑事部長と相談した結果、君に処分を下す必要がある。」
「はい。分かっています。私のやったことは、命令違反です。…ただ、あのままミカエルを狙撃することは、納得いきませんでした。彼が本気でダイナマイトを爆発させるつもりは無いと思いました。」
リチャード警部は目を伏せた。
「それは私も同じ気持ちだった。ただ、やり方というものがある。あの事件は例えアマチュアの人間が起こした。それでも自分達の要求をA国に通そうとしたテロであることには変わりはない。本来は公安部が指揮を執るべきものだった。それでも今回は公安に随分こちらの要望を聞いてもらった。大切なのは各部署とコミュニケーションを取り連携し、事件解決に向けて協力することだ。分かるね。」
リチャード警部の言葉はシズカの胸にすんなりと届いた。シズカは反省した。
「申し訳ありませんでした。…勝手な事をしました。」
シズカはリチャード警部に頭を下げた。
「刑事部長と話し合った結果、君の処分が決まった。」
「はい。」
―もう警察官ではいられなくなるかもしれないとシズカは思った。行動にはかならず責任が伴う。それは当然のことだ。それを分かった上でシズカは行動した。例え警察を去ることになったとしても自分のしたことに後悔はない。
「減俸だ。2カ月間給料50%カットだ。部署の異動もない。以上。」
「…え?」
シズカは顔を上げた。
「もう帰っていい。君も疲れただろう。」
リチャード警部はそう言い、机に座った。クビは免れたようだ。まだ、警察官でいられる。シズカは胸を撫で下ろした。
レオンは屋上に向かい、歩いていた。リチャード警部はミカエルとエルカノを含む全員を無傷で逮捕するつもりだった。そして、シズカもミカエルへの狙撃を阻止した。言葉を交わしてはいなかったものの、リチャード警部とシズカの目指す事件解決への道は同じだった。育ちが良く、少し世間知らず。それでいて、時に大胆で予測もつかない行動に出る。シズカはだんだんリチャード警部に似てきているのではないかと思い、レオンは思わず吹き出した。レオンが屋上に出るとベンチには深緑色のコートを着たシズカが座っていた。事件が終わるとシズカとレオンはどちらともなく屋上に集まるのが習慣になっていた。
「よう、呼び出しどうだった?」
レオンはシズカの隣に座った。シズカは顔を上げた。
「減俸2カ月です。」
言葉とは裏腹にシズカはすっきりとした顔をしていた。
「減俸2カ月?生活どうするんだ?」
「貯金を崩します。」
レオンはふーん、と言った。シズカは趣味が少ないように見える。それに高い服や化粧品を買っているようには見えない。金は貯まっているのだろう。それはレオンも同じだ。
「…なんだか悲しいですね。ミカエルとエルカノは祖父と孫のように仲が良かった。孤独な二人が穏やかに過ごす。それだけで十分じゃなかったんでしょうか。大切な物は、すぐ隣にあったのに。」
「それでもミカエルは息子の仇を討つという20年来の目的を忘れた日は一日も無かった。自分の命が残り少なく、少しずつ毎日死に向かっている晩年の老人の気持ちは、お前にも俺にも完全に理解することはできないだろう。後悔を残さないように、ミカエルは入居者とエルカノ、フィナを巻き込んで人質立てこもり事件のテロを演じることを決めたんだ。」
人間は毎日少しずつ死に向かい、歩んでいる。それが人生だと中学校の頃の国語の先生が言っていたことを思い出した。残された時間がもうほとんどないミカエルの気持ちを想像した。だが、やはりミカエルとエルカノのやったことは犯罪だ。許すわけにはいかない。それでもシズカはどうしても彼らが悪人に思えなかった。
「…犯人に同情してしまうなんて、警察官として未熟でしょうか?」
「この世に100%完全な悪人なんて存在しないさ。今までの事件だってそうだろ?だが俺達は奴らのやった犯罪行為を許すわけにはいかない。」
「そうですね。」
レオンの言う通り、事件の関係者は皆鬱屈とした思いを抱えている。だからと言って人を傷つけたり、殺したりしていい理由にはならない。それだけは忘れないでいようとシズカは思った。
「それにしても今回はお前相当な無茶したな。よく減俸2カ月で済んだよ。」
「はい。クビになると思っていました。」
レオンは立ち上がり、手を叩いた。
「よし、今日は飯おごってやるよ。減俸じゃ財布が寂しいだろう。どうせお前のことだから米さえあれば生きていけるんだろうけどたまには肉食わせてやるよ。」
「え、いいんですか?」
シズカは立ち上がった。
「ほら、ついてこいよ。俺のとっておきの店に連れてってやるからさ。フィリップには言うなよ。あいつは口が軽いからな。」
シズカはレオンの後に続いた。レオンがドアの向こうに歩いて行った。振り返ると空は夕焼けに包まれていた。
ありがとうございました。