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獣少年と琥珀少女

作者: 華

 春の柔らかい日差しの下、ティートニア王国の郊外にあるグリセルダの森の中を、一人の少女が歩いていた。

 十五歳くらいの少女だった。

 美しい亜麻色の髪は木漏れ日に照らされて輝き、二つの大きな瞳は琥珀のような色をしている。

 その不思議な色の瞳は好奇心に満ち満ちていた。

 少女は幸せそうな微笑みを浮かべて、光のあふれる木々の間を歩いていく。

 彼女の名前はスウェンディーナといった。

 スウェンディーナはしばらく森を歩いて、花を愛で、鳥を愛で、手に下げたバスケットの中に木の実を詰めながら歩いていた。

 と、ブレーキをかけたように少女の足が止まる。

「あなた、誰?」

 少女が不思議そうに声をかけた先、どっしりと構えた大木の下に、一人の少年が寝転がっていた。

 いや、気を失っていた。

 服は所々が裂け、血がじわじわとにじんでいる。

 荒い呼吸を繰り返している口からは大きな牙がのぞき、頭からは二つの耳が生えていた。

 少女は少年をじっと見つめると、臆することなく近寄って、傷を見ようとその場に膝をついた。

 が、傷口に手を触れようとした矢先、少女の手はパンッとふり払われた。

「……触るな」

 低い声。普通の少女ならば怯えて逃げてしまうほどに恐ろしい声。

 しかし、幸か不幸かその少女は普通ではなかった。

 お構いなしにスウェンディーナは少年の手を取り、指の先についている鋭い爪を一瞥いちべつして、微笑んだ。

「私を遠ざけようとしないで。私は怪我をしている人を放っておけない性格なのよ」

 あっけにとられた少年は、しばし動きを止めて少女を見上げた。

 か弱そうな少女である。爪で、牙で、簡単に切り裂けそうな細い首。一体どこからその勇気が出てくるのかというほどに小さなからだ。

「お前、俺が怖くないのか」

 怪訝けげんそうに尋ねると、傷の手当てを半ば強制的に進めていたスウェンディーナはきょとんとして首を傾けた。長い髪がさらりと揺れる。

「何故?」

 純粋すぎる瞳に見つめられ、少年はたじろぐ。

「普通、人間は自分たちと違うものを見ると怯える」

 少年の牙や爪は人間たちを怖がらせるだけだった。

 少女は一瞬動きを止めると、ふわりと微笑んだ。花のような笑顔に、少年は困惑する。

「ふふ、おかしな人。あなたは私を傷つけなかったじゃない。あなたは優しい人よ」

 鈴のようにきれいな声が響く。

 そうこうしているうちに傷の手当てが終わっていた。あまりの早業に唖然としながら少女を見る。

「……お前のような人間は初めてだ。なぜおれを見て怖がらない」

「あなたが優しい人だから」

「……俺は呪われた子だ。近づいた奴らはみんな不幸になる」

「じゃあ私が不幸になるまで一緒にいましょう」

「……は?」

 意味が分からなかった。この少女といると調子が狂う。

 しかし少女は慈愛に満ちた表情で告げた。

「だって私は今とっても幸せだもの」

 唖然とした少年に構わず、少女は彼の手を指さした。

「あなたは私の手を振りはらう時、爪で傷つけないようにしてくれたわ。私を遠ざけるためには傷つけるのが一番なのに、あなたはそうしなかった。だから私は今とっても幸せよ」

「……そんなのは、小さなことだ」

 ふいっと目を逸らす。が少女は依然として微笑み続けた。

「でも私を気遣ってくれたじゃない。小さな気遣いができる人は優しいってこと、私はよーく知ってるもの」

 少年の黒い眼が揺らいだ。

「だから一緒にいましょう?」

 白い手が目の前に差し出された。

 少年はためらった。少女の手を汚したら、彼女の何もかもを壊してしまいそうな気がした。

 しかし少女はためらわなかった。

 少年に近づいて、血と土で汚れた手を取る。

「っ!」

 振り払おうとした少年は、少女の微笑みにはっと動きを止めた。

「行きましょう?」

「……家なんてないぞ、野宿になる」

「構わないわ」

「お前を不幸にしたくない」

「不幸になんてならないわ。私はずっと幸せよ」

 自信に満ちた表情で少女は告げた。

「私の名前はスウェンディーナ。あなたは?」

 当然のように名を聞いてくる少女に、少年は困惑しながら答えた。

「……イゼル」

「素敵ね」

 スウェンディーナは微笑んだ。琥珀色の瞳が輝いた。

 


 ✡✡✡



 森の中を歩きながら、イゼルはスウェンディーナに尋ねた。どうやら姿かたちは変えられるらしく、イゼルは黒髪黒目の普通の少年になっている。

「お前、どうしてこんなところにいるんだ?」

 少女は一瞬きょとりとして、すぐに悲しげに微笑んだ。

「私、家出してきたの」

 さらりと告げられた内容にぎょっとする。

「家出?」

「ええ。一人で寂しかったけど、今はあなたがいるから楽しいわ」

「家に帰った方がいいんじゃないのか?」

 彼女は悲しそうに首を振った。

「きっと私はあそこにいちゃいけないの。周りの人が悲しむわ」

 あの目は一生忘れられないだろう。憐れむようでいて、蔑んでいる目。自分がいてはいけない空気が、そこかしこにばらまかれていた日々。

 初めて見せた少女の悲しげな表情に、イゼルは頷いた。

「分かる。俺と同じだな」

「そうなの?」

「ああ。俺、こんなだろう? 俺がいると、周りが怯えるんだ。怯えなかったのは、親とお前だけだよ」

 スウェンディーナは不思議そうに聞いた。

「お父様と、お母様は、いないの?」

「殺されたんだよ。俺を生んだせいでな。……火あぶりだった」

 少女は口を手で覆った。

「そんな、むごい……」

「俺に取っちゃあ唯一の理解者だったんだがな。まあ、すんじまったことは仕方がない。でもまあ、俺がいなけりゃ、あの二人は死なずにすんだのかって、今でも思うが……」

 自嘲気味に笑った時。

「いいえ、生まれてこなければよかった子どもなんて、いないわ」

 打って変わってはっきりと、少女が言った。

「だってあなたがいたおかげで、私は今とっても幸せなんですもの。だから、そんなこと思っちゃいけないわ。天国のご両親が悲しむわ」

 あっけにとられたイゼル。

 それを見て、スウェンディーナは悲しげに微笑んだ。

「人間は愚かだけど、あなたのご両親は、とっても素敵な人だったんでしょう。だったら、そんなこと思っちゃいけないわ」

 少年も、つられて笑った。

「ああ、そうだな。すごく優しい人達だったよ」

 ふふ、と、少女は楽しそうに笑う。

 と、その時、スウェンディーナは何かを見つけたようにあっと声を上げた。

「ねえイゼル、あそこなんていいんじゃない? 私たちが寝るところ!」

 彼女が指差したのは、先ほどの大木の何十倍はあろうかという大きさの木だった。そばに小さな泉もある。

「ああ、『ユグネスの木』か。いいんじゃないか、目印にもなるし」

「でしょう? もうすぐ日も暮れるし、そろそろ休みましょうよ」

 意気揚々として、少女はすぐさま木のそばに駆け寄ろうとした。

 しかし、イゼルはその手をパシリと掴んだ。

「いや、ちょっと待て」

 え? と首を傾げたスウェンディーナに、見てみろ、と正面を指さす。

 その声に従って彼女がユグネスの木を見てみると、

「あ……」

 そこには、パコ、パコ、と音を立てて歩く一匹の大きな牡鹿おじかがいた。牡鹿は堂々とした足取りで木の前に歩み寄り、どっかりと腰を下ろして座ってしまう。

 スウェンディーナは、あー、と残念そうな声を上げる。

「さて、どうするか……」

 しかし、イゼルが顎に手を当てて考え込んだとき。

 すっと、隣にいたはずの影が動いた。

「え?」

 スウェンディーナは、牡鹿に臆することなく、一直線にユグネスの木を目指して歩いていた。

「あ、おい!」

 思わず声を上げたイゼルに、彼女はちらりと振り返って、『大丈夫』とでも言うかのように微笑んで見せた。一体何をするつもりなのか。

 心配してハラハラしているイゼルをよそに、スウェンディーナは牡鹿のもとに辿り着くと、微笑んで話しかけた。

「牡鹿さん、牡鹿さん」

 ひざまずいて体をポンポンと叩くと、牡鹿はゆっくりと目を開けた。

 何か用か? と尋ねるようなその瞳に、彼女はゆっくりと言う。

「私と、あそこにいるイゼルが、ここで寝泊まりをしたいのだけれどいいかしら? もちろんあなたの邪魔はしないわ、だからお願い」

 懇願こんがんするように目の前で両手を組み合わせて頼み込む。沈黙がその場を満たした。

 数秒後、牡鹿はスウェンディーナの頬に顔を近づけて、鼻先を擦り付けた。

「え、何? いいってこと? そういうこと?」

「そういうことだろ」

 いつの間にかそばに来ていたイゼルは端的にそう告げると、牡鹿の頭を撫でた。

「ありがとな、恩に着るよ」

 しかし、牡鹿はその行動が気に入らなかったらしい。さっとその手を振りはらうと、イゼルの腕をガジッと噛んだ。

「うおっ!?」

 驚いてイゼルは飛びのく。血こそ出ていなかったものの、歯形がくっきりと残っていた。

「おい!? 何するんだお前突然!?」

 しかし牡鹿は、お構いなしに今度は足をかんだ。鹿とは思えない俊敏しゅんびんな動きだった。

「いてーんだよ! おい止めろ! やめろっての!」

 イゼルは必死らしいが、残念ながらはたから見たらそれはじゃれあっているようにしか見えない。

 少女は、思わずくすくすと笑ってしまった。

 その日は、大騒ぎで夜を過ごした二人と一匹だった。



 ✡✡✡




「はー、さんざんな目に遭った……」

 翌日の朝、イゼルはげんなりとした顔で食事をとっていた。目の前に座っているスウェンディーナの隣に、付き従うように牡鹿が座っている。

 その鹿を恨めし気に睨み付けた。

「何でその鹿はお前にばっかり懐くんだ。俺なんか初対面でかじられたってのに」

 スウェンディーナがくすくすと笑う。

「遊び相手がほしいのよ、きっと」

「そんなんで噛まれるおれの気持ちにもなってくれ……」

 一晩で三キロは痩せた気がする。

 その時、ふと、イゼルは思いついた。

「おい、そういえば……」

「ん、なあに?」

 首を傾げるスウェンディーナに一言、

「そいつ、名前とか決めなくていいのか?」

「あ」

 沈黙が落ちる。

「……忘れてたのか……」

 少女が慌てたように首を振る。亜麻色の髪が宙に舞った。

「そ、そうじゃないわ! ちょっと、ちょっと頭から抜けてただけ!」

 それを世間一般には忘れていたというのではないのだろうか。

 怪訝そうなイゼルの瞳から逃げ出すように目を逸らし、少女は考え込んだ。

「うーん、名前、名前……」

 牡鹿が期待するような目線でスウェンディーナを見ている。

「あ、そうだ! しーくんってどう!?」

「……一応聞くが、理由は?」

「鹿だから!」

「安直だな!?」

 純粋すぎるのも考え物だった。

 さすがの牡鹿もちょっと引いている。

 しかしその時、イゼルはふっと思いついた。

「セレス、ってのはどうだ?」

 それは、この国における動物の神の名前だった。

 その提案に、スウェンディーナは目を輝かせる。

「それ、それいいわね! ねえ、これでいいかしら?」

 鹿は不承不承といったふうに頷いた。

「よし」

 これで決定だというようにイゼルは立ち上がり、「そろそろ行くぞ」とスウェンディーナに声をかけた。

「どこへ?」

 きょとんとする彼女にふっと微笑みながら、少年は言う。

「狩りだよ」



 ✡✡✡



「ねえ、本当にやらなくちゃダメなの?」

 スウェンディーナはプルプルと震えていた。

 左手にはYの形をした木の棒にゴムをゆわえたものが握られている。右手には石だ。

 パチンコである。

 二人が隠れている茂みの先には、二、三匹の兎が草をはんでいた。これらをパチンコで打ち、食べるというのである。

 それを提案した張本人は、真剣な瞳で頷いた。

「こういうことをして獲物をとらないと、ここでは生きていけない」

「ううっ……」

 スウェンディーナは意を決したように石をセットして狙いを定めると、目をぎゅうっとつむって、ぱっと手を離した。

 ビシッ、という音がして、数匹の足音が遠ざかって行った。

「よしっ!」

 隣から気配が消え、がさがさという音がする。

 恐る恐る目を開けると、一匹の兎が草の中に倒れているのが見えた。それの手足を起用に太い棒に括り付けているイゼルの姿が見える。

「よし、よく出来たな、スウェンディーナ……っておい!?」

 作業を終えて棒を肩に担いだイゼルは、振り向いた先にいる少女が涙をぼろぼろと流しているのを見てぎょっとした。

「おい、大丈夫か?」

 呆然と兎を見上げる少女。随分とショックを受けたらしい。

「あー、ごめんな。急にこんなことやらせて、つらかったよな」

 棒を草むらに降ろして、イゼルは座り込んでいる少女の頭を抱いた。

 背をさすってやると、小さな声で「ごめんなさい」と言っているのが分かった。

「いや、これは俺がわるかったよ。俺は、これをいつも当たり前にやってたから……」

 次はやらなくていいから、と告げると、少女は弱々しいながらもはっきりと、首を横に振った。

「ううん、自分でやるわ……じゃないと意味ないもの。家にいた時と何も変わらなくなっちゃう。ここで生きるって決めたんだから、こういうこともやらなくちゃ」

 決意を秘めたその声音に、イゼルはふっと笑った。

「……えらいな、お前。無理しない程度にがんばれよ」

 うん、と頷いて、少女は泣きながら笑った。腕の中にいる少女の微笑みは、泣いているというのにひどく嬉しそうに見えて、少年はドギマギしたのだった。




 ✡✡✡




 イゼルとスウェンディーナが暮らし始めて、一週間ほどたったある日のことだった。

「ちょっと、ちょっとイゼル起きて!」

 興奮しきったスウェンディーナにたたき起こされたイゼルは、ねぼけた瞳をこすりながらむっくりと起き上った。

「なんだよスウェンディーナ……俺はまだ寝てたい……」

「いいから! いいからこれ見て!」

「だからなんだって……」

 イゼルは重い瞼を開く。

 瞬間、叫んだ。

「お、わっ!?」

 目の前には、家ができていた。

「な、なんだこれ?」

 木や草で出来ている家だった。ところどころに花で装飾がしてある。

「ふふ、すごいでしょ?」

 隣から聞こえてきた声に目を向けると、はにかんだスウェンディーナの姿があった。

「これ、お前がやったのか?」

 あっけにとられつつ聞くと、少女は誇らしげに胸を張った。

「そうなの。こうやってね」

 そう言ってスウェンディーナが地面に手を向けると、瞬く間に芽が出てそこに一輪の花が咲いた。

 ぎょっとする。

「やっと制御できるようになったのよ。今まではあっちこっちに草とか木とか生やしちゃって大変だったんだから」

「いや、何のことだかよく分からないが……つまりお前は、その、こういう能力があるってことなのか」

 少女は嬉しそうに微笑んだ。

「ええ。あんまり知られたくなくて隠してたの」

「何で隠すんだよ。すごいじゃん」

 素直に褒めると、スウェンディーナは驚いたように目を見開いて、頬を赤くした。

「あ、ありがとう」

 なんだかイゼルのほうまで照れてくる。

 二人で顔を赤くしている様は、モテない男子から「このリア充め! 爆ぜろ!」といわれるような雰囲気を放っている。

 実際、そんな様子に耐えかねた者が乱入してきた。

「うわっ!? おい、なんだよ!?」

 やっぱりというかなんというか、セレスだった。

 前足を振り上げて、敬愛する主人をたぶらかした不届き者を成敗するかのごとくイゼルを蹴りつけている。 スウェンディーナが慌てて仲裁に入った。

「ちょ、ちょっと待ってセレス、落ち着いて!」

 セレスとイゼルの間に割り込んで、セレスの興奮した心をなだめる。

 主人を蹴りつけてはいけないという理性が働いたのか、セレスはすぐさま攻撃をやめる。イゼルが肩で息をしながら険悪な瞳で睨み付けた。

「あのな、俺の一挙一動に反応して攻撃するの止めろよ! 命が持たないだろ!」

 今回はスウェンディーナも加勢した。

「そうよセレス。あんまり危ないことをしないで。心臓に悪いから」

 そう言ってこれ以上攻撃をしないように釘をさす。

 そしてイゼルのほうを振り仰いだ。

「えっと、私は今日は木の実を取りに行くけど、イゼルはどうする?」

 座って休んでいるイゼルは太い棒を手に取って振って見せた。今日は狩りに行くらしい。

「じゃあ、そろそろ動きましょうか」

 朝食の準備をしながらそう言ってイゼルのほうを見ると、感慨深げに家を見つめていた。どうやらこういう屋根のあるところに住むのは初めてらしい。そう思うと、なんだか褒められているように感じて嬉しかった。


 だから、きっとあれを見てしまったのも、環境が変わったせいなのだろう。



 ✡✡✡



「ん……」

 少女は唐突に目覚めた。

 ベッドからゆっくりと体を起こし、すぐ近くにある窓を見る。

 真っ暗だった。

「夜だもの、当然よね……」

 寝ぼけ眼で目をこする。もう少し寝ようと思って、草やわらで出来た保温性抜群の布団を手に取った。

 しかし。

「……ん?」

 気のせいだろうか。

 今、何か叫び声のような音が聞こえたような--------

「----! --------!」

 がばっと起き上った。

 間違いない、だれかの声が外からしている。

 ……でも、誰の?

 まさか、泥棒だろうか…………盗んで価値のあるものなど、ここにはないのだが。

 一度気になると眠れたものではなかった。スウェンディーナはゆっくりとベッドから降りて、家の外を見てみることにする。

 まるで自分が泥棒であるかのようにゆっくりと、抜き足差し足で外へと続くドアを目指す。ドアにぴったりと耳をくっつけてみると、やっぱり叫び声が聞こえてきた。

 ごくりとつばを飲み込んで、ドアノブを回してみる。

 あっさりと開いたドア。その向こうには確かに人が一人いた。

 月明かりが照らし出す空の下、怒り狂ったように叫びながら、ユグネスの木を蹴りつけている。誰だろうと思い、恐る恐る近づいてみると、

「イゼル……?」

 呆けたような声が漏れた。目の前の人影がはっとしたように揺らぐ。

「イゼル、何してるの?」

「っ!」

 逃げようとする彼の腕を慌てて掴み、スウェンディーナは微笑んだ。そしてその場に座り込む。

「ね、座って?」

 再度微笑むと、少年は恐る恐るという風にその場に座った。

「大丈夫? 汗びっしょりよ、どうしたの? 何か、嫌なことでもあった?」

 イゼルはハッとしたように目を見開く。

「俺……」

 彼の口が一瞬開き、すぐ閉じる。そんなじれったい時間がずっと続いた。それでもスウェンディーナは文句ひとつ言わずに目の前に座っていた。

 しばらくたって、イゼルは意を決したように口を開いた。

「夢を、見るんだ」

「……夢?」

「父さんと母さんの、処刑の日の夢」

 そう告げたイゼルの顔は、青を通り越して白くなっている。彼は手を震わせながら、顔を少女に握られていない方の腕で覆った。

「……俺、俺も見てたんだ。処刑の日」

 スウェンディーナは黙って聞いていた。

「俺は目の前で二人が焼き殺される様を、縛られながら見させられてた。逃げることができなくて、口も塞がれてたから叫ぶことすらできなくて……父さんと母さんは、最後までおれの名前を呼んで、笑ってた。歯を食いしばって悲鳴を上げないようにして、俺に、俺に言ったんだ」

 一筋、彼の目から光が落ちた。

「生きろ、って」

 握っている手に、力がこもったのをスウェンディーナは感じた。

「けど、俺はそんなに強くないんだよ。だからこうやって、毎晩のように夢を見る」

「いつも、やってたの?」

 何を、なんて、言わなくてもユグネスの木の幹で分かりきっていることだった。

 イゼルは自嘲気味に笑う。

「ああ、ほとんど毎日、こんな感じだ。はは、情けねえだろ。十年も前のことだってのに、よ……」

 そう言って、彼はガクッと首を垂れた。

「せっかく生かしてもらったけど、俺、そろそろ壊れそうだ……」

 憔悴しょうすいしきった声。その声に、スウェンディーナは動いていた。

 少年の体を抱きしめる。

 ハッと息をのんだことがすぐわかるくらいに、近い距離。

「一緒に、眠りましょう」

「……え?」

「だれかと一緒にいれば、悪い夢も見なくなると思うの」

「いや、でも俺……」

 慌てたような声。しかしそれをさえぎって、少女は言う。

「いいから、一回やってみましょう」

 地面に手を向けると、たちまち木が生え草が生え、そこにベッドが出来上がった。

 スウェンディーナはイゼルと視線を合わせる。

「ね、いいでしょ? 毎晩うなされてるかもしれないなんて考えながら眠るの、無理よ」

 悲しげな少女の瞳に、イゼルはそれ以上何も言えなくなる。

 そろそろと、ためらいがちにスウェンディーナとベッドに寝転ぶ。

 しかしこちらはためらうことなく、イゼルの胸にしがみつくスウェンディーナ。

 一瞬ぎょっとしたイゼルだったが、スウェンディーナに離れる気がないのだと知ると、恐る恐るその背中に腕を回した。

 細い肢体は満足げにイゼルにすり寄ってきて、イゼルは困惑した。

 自分は何故、この少女の近くにいるのだろう?

 自分がいたら、この少女も周りから疎外されてしまうというのに……。

「……もう、終わりにしなきゃな」

 ぽつりとつぶやいたその言葉は、すでに眠っていたスウェンディーナには届かなかった。



 ✡✡✡



「ん、ううん、ん……ん?」

 スウェンディーナはまたしても唐突に目覚めた。

「あれ、ここ……」

 まぶしいくらいの日差しが降り注ぐユグネスの木の下。そこに一つのベッドが置かれていて、スウェンディーナはそこに横たわっていた。

 周りを見渡すが、誰もいない。

 記憶はだんだんと戻ってきたが、その記憶が正しければそこにはイゼルがいなくてはおかしい。

 先に起きたのだろうかと思ったが、これまたおかしいことに気が付いた。

 人の気配がしなかった。

 妙な胸騒ぎがして、スウェンディーナは急いでベッドから飛び降りた。

「イゼルー?」

 彼の名前を呼びながら周りを歩く。が、少年の姿はそこにはない。

 ならば家の中だろうかとドアを開けて探してみる。キッチン、リビング、はたまたトイレまで探したが、どこにもいない。

 最後に彼の部屋を見る。

 がらんどうだった。きれいに整理整頓されていて、なにもなかった。昨日まで人が住んでいたという事実が、嘘のようだった。

 ずるずると、その場にへたり込む。

「イゼル……?」

 その呼びかけに答えるものはいなかった。



 ✡✡✡



 なぜだろう、どこへ行ってしまったのだろう。

 スウェンディーナは森の中を歩いていた。唇を噛みしめていないと、涙があふれてきそうだった。

 どうして急にいなくなってしまったのか、どうして何も言ってくれなかったのか。分からない、何も分からなかった。

 だからスウェンディーナはひたすらに足を動かした。迷わないように目印のユグネスの木を時々振り返ってみてみる。

「イゼル、どうして……?」

 自分の中でイゼルがとてつもなく大きな存在になっていた。つい昨日、あの腕に抱かれて眠ったことを思い出す。

 すごく、嬉しかったのだ。あの時、イゼルが自分を受け入れてくれたような気がして。

 離れたくなかった。もっと一緒にいたかった。

 胸が締め付けられるように痛い。涙がぽろぽろとこぼれる。

 それをぐしっと腕で乱暴に拭うと、スウェンディーナは再び歩き始めた。

 しかし、その時。

 ぞわ、と背中に鳥肌が立った。思わず立ち止まる。

「え……」

 この感覚、この恐怖。あの家にいた時と、そっくりなこの雰囲気。

「嘘……」

 あの人がここにいるはずがない。こんなところに、あの人たちが来るはずが--------。

 がさり、と音がした。

 ばっと振り向いたその先、草むらの奥から。

「やあスウェンディーナ、こんなところにいたのか、探したんだぞ」

 そう言って出てきたのは、きらびやかな服を身にまとった貴族のような男だった。腹が豚一匹を飲み込んだように出っ張っていて、同じように丸々とした顔からはいやらしい目をのぞかせている。

 後ろからは、十数人の護衛たちがぞろぞろと出てきた。少女の顔が瞬く間に青ざめる。

 思わずよろよろと後ずさった。が、その分男が近づいてきているため、離れられていない。

「お父様……」

 喉の奥から絞り出したその声に、少女は自分で震え上がった。

「そうだよスウェンディーナ、我が娘よ。さあ帰ろう。君は王女だ、いい縁談がたくさん来ているのだぞ?」

 全然嬉しくなかった。首を必死で左右に振り、きびすを返す。しかし、そこにも護衛たちがいて、逃げ道を完全に封じていた。

「い、いや……」

 少女の叫びが聞き入れるはずもなく、護衛たちは無遠慮に少女の腕をひっつかんだ。

「ひっ……!?」

 ひきつったような悲鳴が上がる。

「いやあっ!」

 振り払おうとするも、護衛たちの腕は当然のようにびくともしない。

「さあ、帰るんだ、父さんのために隣国の王子に嫁いでおくれ。そうすれば国の者たちはこれから何年も、食料に困らず生きてゆける」

 少女は首を振った。そんなのは戯言ざれごとだ。そんなことをしなくとも、この森のように豊かな場所は国の至る所にあるのだ。目の前の男のとる税が重いだけで、自分が隣国に嫁ごうが何をしようがそれは変わらない。

「いやっ!」

 ポケットに入っていた狩りをするとき用の石を取り出し、護衛に投げつける。

 ビシッ!という音がして、護衛の腕が緩んだ拍子、スウェンディーナはするりと猫のように拘束から逃れていた。そのまま一心不乱に走り出す。

「おやおや、悪い子だな。お仕置きをする必要があるかね?」

 少女の足と護衛の足の差は大きい。スウェンディーナはあっという間に追いつかれた。一本の木を背にして立つが、護衛たちはその周りをぐるりと取り囲む。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ!

 心の叫びは届かない。

 護衛たちの中から、一人の男の手がぬうっと伸びてきた。

「いやああああああああああっ!!!」

 刹那。

 ザシュッ!!

「ぐわああっ!!」

 ………………え?

 自分を追いつめていたはずの護衛の悲鳴に、呆けて思わず目を開く。

 まぶしい日差しの下、きらりと光る鋭い爪を前に構えた一人の少年が、そこにはいた。

 黒い、背中。

「イ、ゼル……?」

 ぽかんとして声を出すと、その顔がこちらをひたと見据えた。

「待ってろ」

 黒い双眸に、取り込まれたように体が動かなくなる。

 少年はひらりと片足で踏み切ると、鮮やかな手さばきと足さばきで護衛たちを切り裂いていった。

 黒と赤が、視界を縦横無尽じゅうおうむじんに駆け回る。

 一通りの護衛たちを倒した後、少年は半ば強引に少女を横抱きに抱え上げた。

「行くぞ!」

 イゼルは両足でだんっと足を踏み鳴らすと、スウェンディーナを抱えたままにものすごい勢いで地を駆けた。

 しかし、後ろからも追手の足音がする。

 唐突に、ザシュッという音が空気を切り裂いた。

「くっ!」

 イゼルの顔が歪む。

 スウェンディーナは息をのんだ。

 矢が、彼の肩をかすめて行ったのが視界の端に見えたのだ。

「イゼル、血が……」

「気にするな、こんなのかすり傷だ」

 しかし、言葉とは裏腹にイゼルはその場に膝をついた。

「ぐ……ぅ……」

「イゼル? イゼル!?」

 どうやら矢じりには毒が塗ってあったらしい。少年は苦しそうにあえいでいた。

 男たちが追ってくる。

 スウェンディーナは据わった目で彼らを睨み付けた。

「来ないで!」

 振り払うように手をぶんっと振るうと、ざざざっとそこに植物が生え、バリケードが出来上がった。

 最初からこうすればよかった、と遅ればせながら気づく。しかし今はイゼルだ。

「イゼル、イゼル!?」

 横たわったイゼルの肩を必死で押さえるが、何故か血が止まらない。

「イゼル!」

 少年は、小さく口を開いて呟くようにそれに答えた。

「なあ、スウェンディーナ」

「な、何?」

「お前、王女だったんだな、知らなかった……」

「そんなのどうでもいいわ! あなたがいなきゃ……」

 イゼルは、そんな今にも泣きそうなスウェンディーナに微笑むと、ぐいっとその身を引き寄せた。

 唇が重なる。

 少女は目を見開いた。

 柔らかな感覚は一瞬で過ぎ去り、少女は耳元でその声を聞いた。

「好きだ」

 端的で素直なその告白は、確かにスウェンディーナの心を打った。

 涙が流れる。

「私も好きよ、イゼル」

 少女が微笑むのと、男たちがバリケードを破って入ってくるのはほぼ同時だった。

 イゼルの瞳は完全に閉じられた。

「イゼル? ねえイゼル? 目を開けてよ、ねえ!」

 少女は泣きながら懇願した。

 その体に、ふっと影が落ちる。

「ああ、騎士ナイトはもういないんだね、さあ帰ろう」

 依然としていやらしく笑っている父の姿があった。手首を握られて、悪寒が背中を走り抜ける。

「いや、やめて!」

 もう嫌だった。さんざんだった。

 誰か、誰でもいい、ここから逃げたい。

「助けて!」

「うん、いいよ」

 --------え?

 この空気には似合わないほどにあっけらかんとした声が響き、一人の青年がゆっくりとその空間に足を踏み入れた。

 少女の手首から圧迫感が消える。

「馬鹿な……ここは魔術師たちの魔法でだれも入れないようになっているはず……」

 何者だ、と聞かれた青年は呆れたように首を傾げて、言った。

「僕のことも知らないなんて、案外王ってのも大したことないんだ。残念」

 やれやれ、とでも言うかのように首をすくめて、青年は優しい微笑みをスウェンディーナに向けた。

「君は、僕のことが分かるかい?」

 言われて、スウェンディーナは訳も分からぬまま青年の姿を見た。

 落ち着いた雰囲気の漂う茶髪に、赤みの混じった黒っぽい瞳。敬愛しているようなその視線。

 まさか。

「セレス……?」

 青年は嬉しそうに微笑んだ。

「やっぱり覚えていてくれたんだ。とっても嬉しいよ」

 どうやら正解らしい。これは一体どうしたことか。

「な、セレス……どうして?」

 困惑気味の瞳を向けるも、青年はただ微笑むだけだった。

「後で説明するよ。今はそこの馬鹿を救うのが先じゃないかい?」

 言われて、ハッとする。

「どうしよう、イゼルが、イゼルが!」

「大丈夫だよ。--------後は頼んだからね、フィオナ」

 その言葉とともに、少女の隣に一人の女性が現れた。

「行きましょう」

 言うなり、女性の姿が掻き消えて一匹の女鹿になる。

 あっけにとられた少女の体が、ふわりと浮いた。

「え? え?」

 宙に浮いている自分の姿を、信じられない心持ちで見つめる。

 スウェンディーナは、イゼルとともに女鹿の体にまたがった。

「行っておいで。希望を失うんじゃないよ」

 その言葉を聞き終えるか聞き終えないかのうちに、その場に疾風が吹き荒れ、女鹿は二人を乗せたまま森の奥へと駆けて行った。

「--------さて」

 使命を果たした青年は、最後の仕事をするべく現王を振り返った。

「お、お前、何者だ……」

「僕? 僕はセレスだよ。それ以外の何物でもない」

 嘲笑うように唇をゆがめる。

 現王は数人の護衛を前に出しながら、震える指をセレスに突き付けた。

「馬鹿なことを言うな! 自然の神の名をかたるなど、傲慢にもほどがある!」

「だから僕がその神なんだよ。理解するのが遅いなあ」

 心底つまらないという風に目を眇めて、青年は何もない空間をひと睨みした。

 すると、たちまちそこに獰猛どうもうな動物たちが現れた。

 獅子は唸り声をあげながら牙をむき出しにし、虎は油断なくこちらを見ながら爪を研いでいる。イゼルと同じように真っ黒な体毛で体を覆った狼は、全身からあふれ出る残酷なオーラを隠そうともしていなかった。

 悲鳴が上がる。

「スウェンディーナは僕を大切にしてくれたし、イゼルはむかつくけど僕の名前を見抜いたからね。二人を切り裂くものはなんでも僕が消し去るよ。さあ、どれがいい? 特別に、選ばせてあげよう」

 言葉とは裏腹に、その声音はどこまでも穏やかだった。逆にそれが王たちの恐怖心をあおる。

 しかし我慢することが出来なくなったのか、獅子が護衛の一人に飛び掛かった。

 悲鳴が上がる。

 それを皮切りに、次々と他の動物たちも護衛たちに襲い掛かる。

「あ、あああ!」

 王は狂ったように叫びながら、その場を走り去った。

 後ろから聞こえてくる断末魔の叫びを無視して足を懸命に動かす。

 走って走って森の出口を目指した。

 足が動かなくなる直前になって、開けた場所が見えてきた。王は安堵の溜息をつきながらそこを一直線に目指す。

 しかし、そこはさっきと同じ場所だった。

「……!?」

 すぐさまそこを走り抜け、また出口を目指す。そんなことが何度も続いた。

 しかし、王が出口を見つけられることは二度とないのだった。

「あーあ、あそこにいれば痛みも感じずに一瞬でけたのに」

 青年が、迷路のごとき森の中を走っている王を見下ろして、ため息をつく。彼は死ぬまでこの森から出ることは許されない存在となった。いつか彼は狂うのだろう。

「さて、あの二人はどうしたかな」

 すでにセレスの中では王はどうでもいいカテゴリに分類されていた。

 自然の神であるセレスは、いつものように牡鹿に変化して、その場を立ち去ったのだった。



 ✡✡✡



「ここ……」

 女鹿に乗せられて着いた場所は、ユグネスの木のそばだった。近くに小ぢんまりとした家が見える。

 女鹿は二人を下ろすと、森の奥へと去って行った。

 それを呆然と見て、腕の中にイゼルがいることを思いだす。

「イ、イゼル?」

 少年は動かない。

「イゼル、ねえイゼル」

 少女の顔がくしゃりと歪んだ。

 どうして。

 一緒にいようって、約束したのに。

「私のことが好きなら、目を開けてよ……」

 手はまだ暖かった。これがじきに冷たくなるなんて、想像できない暖かさだった。

「嫌、死んじゃうなんて、死んじゃうなんてっ……」

 彼の笑顔が好きだった。声が好きだった。射抜くような瞳が好きだった。

 すべてが、好きだった。

「目を、開けて!」

 涙が流れた。頬を伝って、あごから滴り落ちたしずくが、少年の顔にぱたりと落ちた。

「どうして、どうして!」

 ぱたり。

「一緒に暮らそうって、言ったじゃない!」

 ぱたり、ぱたり。

「あなたがいない世界に生きていたって、しょうがないの!」

 ぱたり--------

 と。

「っ!?」

 光があふれた。

 スウェンディーナが目を見開いた先、ユグネスの木の枝が。

「な……」

 枝がざざっと周りを駆け巡り、二人をあっという間に包み込んだ。

 悲鳴すら上げられぬまま、スウェンディーナはイゼルと抱き合うような格好で、彼の胸に顔をうずめる体制になる。

「な、何、これ……」

 何が起きたのか全く分からずに硬直した。これはどういう状況なのか。

 しかし、その困惑は瞬く間に消え去った。

 背に回された腕が、かすかに動いたような気がしたのだ。

「え……」

 --------とくん、とくん。

 自分のものではない鼓動が、耳に響いた。

「そんな悲しいこと、するなよ」

 ゆっくりと、顔を上げる。

 背景が緑に染まった世界で、黒い少年が微笑みを浮かべていた。

「お前がいなくなったら、俺だって生きていけないんだからな」

「……イゼル?」

 思わず聞いてしまった。少年は笑う。

「ああ、俺だよ」

「…………生きてるの?」

「生きてるよ、ほら」

 スウェンディーナの手を引き寄せて、イゼルは自分の頬にそれを当てる。

 生者の、温度だった。

「なんでだろうな、お前の声が聞こえたんだ」

 ろくに身動きすら取れない中で、少年は少女に言った。

「暗闇の中で、お前の声のするほうだけが、光ってたんだ。だから、そっちを辿っていったら、なんかここに着いてた」

 彼の声が、脳髄のうずいに染み渡っていくような気がした。

 呆然としているスウェンディーナに、イゼルはゆっくりと聞いた。

「あのさ、お前の身分とかおれの正体とかそういうの全部取っ払って、一つ言いたいことがあるんだけど、いいか?」

「……なあに?」

 やっと、それだけ発することができた声。

 少年は笑った。

「お前のことが、好きだ」

「……」

「お前が微笑むのが好きだし、お前が救ってくれたのが嬉しい。できることなら、ずっと一緒にいたいと思う」

 そして、イゼルは返事を待たずに少女の細い肩を抱きしめた。

 静かに、彼の顔が近づいてくる。

「嫌なら拒め」

 答えなど分かりきっているくせに、わざとそんなことを言う。

 しかしスウェンディーナは何も言うことなく、少年の唇を受け入れた。

 さっきとは違って、長いキスだった。

 頭の芯から痺れるような感覚。

「……っは……」

 唇が離れた瞬間、少女は肩で大きく息をした。

 再び、痛いほどの力で抱きしめられる。

「イゼル……」

「ん?」

「私、あなたと一緒にいても、いいの?」

「何だ、珍しく弱気だな」

 からかうような声音に、「だって」と反論する。

「こんなこと初めてで、どうすればいいのか、分からないの」

「そんなのは、お前の好きなようにやればいいさ。誰も責めたりしないから」

 優しい声に、顔を上げる。

「じゃあ、私と一緒に、いてくれるの?」

「当たり前だろ。さっき言ったとおりだ。俺はお前と一緒に居たい。……お前は?」

「一緒に、居たい」

「よし、決定」

 少女ははにかんだ。少年は笑った。

 枝が、ゆっくりと開いた。

 柔らかく地面に降ろされた二人は、目の前に人が立っていることに気付く。

 長身痩躯の青年だった。

「ん? 誰だ、お前?」

 一瞬で警戒心をまとわせたイゼルに、青年は眉をひそめる。

「相変わらず生意気だね君は」

「何?」

 なんだか険悪な雰囲気なので、スウェンディーナは慌てて二人の間に割り込んだ。

「ち、違うのイゼル。この人、その……セレスなの」

「……はあ!?」

 少年の叫び声に、少女は身をすくめる。

「あ、悪い……」

 罰が悪そうにしたイゼルは、後ろでにやにやと笑っているセレスを睨み付けた。

「なんでお前、人間になってるんだよ」

「そりゃ、神だからね。人間になることぐらいはできるさ」

「……は?」

 ぽかんとしたイゼルに、セレスはやれやれと首を振った。

「僕は神だって言ってるの。すっごく不本意だけど、お前がつけた僕の名前、正解なんだよ」

「……てことはお前、自然をつかさどる神だっていうのか?」

「だからそう言ってんじゃん。全然気づかなかったわけ? スウェンディーナは気づいてたみたいなのに」

「そうなのか?」

 突然話を振られて、少女は面食らった。

「え、ええ。なんか、普通の鹿じゃないのかなっていうのは、薄々……」

「……世界って案外狭いんだな」

「ええ、私も、そう思う」

 二人の話を黙って聞いていたセレスが、ふっと笑う。

「それはそうとスウェンディーナ、君には色々とやることがあるんじゃないのかい?」

「え?」

 きょとんとした少女に、セレスは続けた。

「君の父は結構な下種げすだったから、この森に閉じ込めて一生出られないようにしておいたよ。それでよかったかい? この国の統率者がいなくなっちゃったわけだけど」

 スウェンディーナはそれを聞いて少し思案し、こくりと頷いた。

「ええ、それでいいわ。これからは私が王としてこの国を引っ張っていきます。手伝ってくれる? イゼル」

「当たり前だ」

「よかった」

 さらりと二人が重要な約束を交わす。

 ふわりとしたスウェンディーナの微笑みに、イゼルの体が一瞬固まった。

 しかし、そのほのぼのとした光景に痺れを切らしたものが一人。

「さて、じゃあ、そろそろ王城に二人を送らないとね」

 きょとん、とした二人の前で、青年はパンッと手を打ち鳴らした。

 瞬間。

「!? きゃあああああっ!」

「うわっ!?」

 ぶわり、と吹いた突風にいざなわれるまま、二人の体は宙に浮き、森を抜けて彼方へと飛び去って行ったのだった。



 ✡✡✡


 

 ドサッ!

「っ~~~~~~!」

「イ、イゼル、大丈夫!?」

 ふわり、と優しく地面に降ろされたスウェンディーナとは裏腹に、イゼルは思いっきり背を地面に打ち付けられて悶絶していた。

「お、お前、本気でおれに殺意抱いてるだろ!」

 目の前に音もなく着地した青年を真正面から睨み付けたイゼルに、セレスは冷ややかに笑う。

「おやおや、僕がそんなにお前に興味があるわけないだろ? うぬぼれるのもいい加減にしてくれ」

「全くもって説得力皆無なんだよ!」

 ギャーギャーワーワーと言い争いをしている二人を見て、スウェンディーナは頭を抱えた。この二人が仲良くできる日は来るのだろうか。

 ちょっと無理そう、と考えたところで無意識に辺りを見渡した。

「あ……ここ……」

 思わず声が漏れる。

 そこは、色々な花々がひしめくように植えられた中庭だった。自分が王城で一番好きだった場所である。

 嫌なことがあった時は、大抵この場所で本を読んでいた。

「ん? どうした、スウェンディーナ」

 すっと目線を上げると、いつの間にかイゼルがそこに立っていた。

 不思議そうにあたりをきょろきょろとみている。

「ここ、王城っていうのか? 来たことないからわからないが、お前の父親が住んでいた場所にしてはすげえ綺麗だな」

 少女は頷く。

「ここは、唯一私が管理を任されていた場所なの。私の父はお金になることしか積極的にしようとしない人だったから、私はこれくらいしか出来なかったけれど」

「いや、俺は好きだけどな、こういう場所」

 え、と振り仰ぐと、少年は笑っていた。

「森で神経張りつめてるせいだろうな、ここはなんか……安心する」

「イゼル……」

 嬉しくて、頬が染まる。

 と、そのとき。

「おいお前ら、そこで何をしている!」

 鋭い声が、空気を一閃した。

 見れば、向こうから衛兵が駆けてくるところだった。

 思わず盾になろうとしたイゼルを押しのけて、スウェンディーナが前に出る。ここでは、自分が前に出ていたほうが都合がいい。

「スウェンディーナ……」

 彼女の決意に満ちた表情を見て、イゼルは動きを止めた。

「お前ら、ここにどうやって入ってきた。ここは王家の敷地内だぞ。どれだけ無礼なことなのかわかっているのか!」

 ものすごい形相で詰め寄り、槍を突き出してくる衛兵をまっすぐ見る。

 私は、もう逃げない。

 少女は口を開いた。

「おやめなさい」

 威圧感のあるずっしりとした声音に、衛兵が思わず口をつぐんだ。

「わたくしは、この国の第一王女、スウェンディーナ・リリス・ティートニア。無礼なまねは即刻おやめなさい」

 ハッと、衛兵が息をのむ。

「わたくしは父に代わり、この国の王となります。すぐに王城の中の者たちにこの事を伝えてきなさい。それと、この方に無礼を働くことは、わたくしに無礼を働くことと同義だと思いなさい」

「はっ!」

 打って変わって従順な態度で敬礼した衛兵は、くるりと踵を返して駆けて行った。

 その姿が十分遠くに過ぎ去った後、スウェンディーナはふうっと力を抜く。

「どうだったかしら、私、王女らしくできてたかしら」

 しかし、振り向いた先のイゼルはぽかんとしていいた。

「イゼル?」

「……すごいな」

「え?」

 小さくて聞き取れなかったスウェンディーナが首を傾げると、イゼルは感極まった表情でふわりと少女の体を持ち上げた。

「え? え?」

「スウェンディーナ、すごいな、お前!」

「え、えええ?」

 空高く持ち上げられてドギマギする少女をよそに、少年はその体をくるくると回し始める。

「え、ちょ、ちょっと!」

 世界がくるくると回転し、中心にいるイゼルしか見えなくなる。彼の顔があまりにも綺麗に微笑んでいたので、スウェンディーナはたまらず頬を赤くした。

 色々な意味で恥ずかしすぎる。誰か助けてほしい、と全力で願った時。

「おいお前、何してるんださっきから」

 セレスがその手をがっちりととめた。

「あ、おい、何するんだよ」

「お前がスウェンディーナを振り回してるせいで彼女の目が回るんだよ、もう少しつつしみを覚えろ!」

「いやそれ、お前にだけは言われたくないぞ!」

 とりあえず地面には降ろしてもらえたものの、二人の間ではまたぞろ喧嘩が勃発ぼっぱつしていた。

 もうそろそろ諦めようかしら、と遠い目になる。

 その時だった。

「スウェンディーナ……?」

 驚きに満ち溢れた、ひどく儚い声が聞こえた。

「え……?」

 その声には何故だか聞き覚えがあって、スウェンディーナは困惑する。

 ゆっくりと振り返った先、夕日が傾いた空の前に。

 一人の女性が、立っていた。

 亜麻色の髪は風にたなびき、美しい金のような瞳は琥珀を思わせる。

 手首にはまった綺麗な腕輪に彫られているのは、王家の紋章だ。

 呼吸が止まる。

 痩せ細った手足はスウェンディーナの記憶とはずいぶん違っていた。

「お、母様……?」

 呆けたような声を出したスウェンディーナに、女性は一歩一歩近づいた。ゆらゆらと揺れるその足取りは危なっかしい。

 それでも女性はスウェンディーナの目の前に立つと、その頬に触れた。

「……スウェンディーナなのね」

「お母様? お母様よね……?」

「そうよ。大きくなったのね」

 スウェンディーナは零れ落ちそうなほどに瞳を見開いた。

 口を何度か開閉させてから、何とか声を発する。

「だって、だってお母様は、病気を煩わせて死んでしまった、って……」

 それを聞き、女性はゆるゆると首を横に振った。

「あなたを生んだ後立て続けに流産したせいで、もう子供が産めなくなってしまったの。そのせいで塔に閉じ込められて……でも不思議ね、今日は塔の中に見張りが一人もいなかったのよ。鍵が開いていて……そのおかげで外に出られたの」

 まだ三十代前半と思われる若い女性は、スウェンディーナと同じ、美しい微笑みを浮かべた。

「あなたと出会えて、本当に良かった……」

「お、母、様……」

 しずくが、はらり、と零れ落ちた。

 ぎゅう、とその体を抱きしめる。痩せ細った体は小さくて、それでもどうしようもないくらいに、それは自分の母だった。

 ポンポン、と頭を撫でられた少女は涙を流した。それは、解放された者の心からの安心だった。

 その光景を見つめ、一時休戦する男性二人。

「おい、おまえだろ、セレス」

「ん? 何のことだい?」

 これ見よがしに肩をすくめるセレスを見て、イゼルは呆れたように半眼になる。

「とぼけんな。お前にしかできないだろ」

「僕は、ただ彼女の笑顔が見たいだけだよ」

「よく言うよ」

 感動の再開を、じっと見つめていた二人だった。



 ✡✡✡



 数分後、感動の再開を終えて、スウェンディーナは今の現状を母に説明していた。

 母の名はシレーネといった。

「父様は、イゼルの住んでいた森から出られないようにしてくれたの。セレスがね」

「イゼル? セレス?」

 首を傾げた母親に、スウェンディーナはそのことを説明していなかったと思い出す。慌てて隣にいる男性たちを手でさし示した。

「こっちの人がセレス。森の神様なの。で、こっちがイゼル。私の好きな人」

 はにかんだ娘を見て、シレーネは少し目を見開いた。

「……あらあら、よろしくね、イゼルさん」

 敬称をつけて王妃に呼ばれることなど想像していなかったイゼルは、少しばかり面食う。

「ああ、いや、こっちこそ……」

 少し頭を下げたとき、隣にいたセレスから頭を小突かれ睨まれた。

『お前、敬語ぐらい使ったらどうなんだ』

 小声で言われ、顔をしかめる。

『俺はそういうの使ったことないから使い方が分からない』

 途端に憐れむような目で見られた。やめろ、みじめすぎる。

 敵に憐れまれることほど悲しくなることはない。

 しかし気を悪くするかと思われたシレーネの顔は存外穏やかなもので、手を口元にあててコロコロと笑っていた。

「素敵な人を見つけたようでよかったわ。ああ、そうそう、セレスさんが森の神っていうのは、何かの比喩?」

「いえ、私は正真正銘森の神です。ほら、この通り」

 パチン、と彼が指を鳴らすやいなや、そこに猫やリスなど、多くの小動物たちが現れた。

「あらあら、可愛い。どうやら本当のようね」

「ちなみに、こいつもあまり大差ないです」

 セレスが笑ってイゼルを指し示すと、イゼルの黒髪から耳が生え、手には爪が出現した。

「あ、お前、何してる!」

「いや、僕は動物の本性を示すことが出来るからね」

「動物と一緒にするな!」

 しかし、激昂する少年とは裏腹に、シレーネは普通に笑っていた。

「あらあら、不思議な人なのね」

 逆にイゼルが困惑する。

「驚かない、のか」

「別に何をするわけでもないのに、どうして驚く必要があるのかしら。それに、あなたはスウェンディーナが選んだ人じゃないの。ちっとも怖くないわ」

 面白そうに笑うシレーネを見て、イゼルは確信した。

 スウェンディーナの怖いもの見たさは、きっとこの女性からきているのだろう。

「お母様は私の能力のことは知っているの?」

 その時、スウェンディーナが口を挟んできた。

 シレーネが微笑む。

「もちろんよ。事あるごとに部屋を花だらけにされたんですもの」

 その反応を見るに、どうやらこの能力はランダムに人の子に現れるらしい。

 それを聞いたスウェンディーナが目を見開く。

「じゃあ、私やイゼルみたいな人が、もっとこの国にいるかもしれないってこと……?」

「そうかもしれないわね」

 おっとりと言った彼女の言葉に、少女は目を輝かせた。

 自分のような能力を持った人間がいるとしたら、自分はその人たちを救えるかもしれない。

「イゼル、行きましょう!」

 嬉々として立ち上がった少女を前に、イゼルは面食らう。

「行く、って、何をしに」

 素朴な問いかけに、少女は笑った。

「もちろん、この国の人たちを救うのよ!」




 ✡✡✡



 王女が戻って一ヶ月、国の雰囲気は随分と変わり始めていた。

 スウェンディーナはまず、重い税をなくして、父の周りにたむろしていた貴族たちから爵位を剥奪した。

 そのあと、自分とイゼルのことを話し、国の中にそのような事情を抱えた者がいるのならば名乗り出てほしいと言った。

 調べると、主に千人に一人、そういう能力を持った者たちがいることが分かった。

 ティートニア王国は約一千万人の人口の国だ。つまりそのような能力を持った者たちは約千人。スウェンディーナは考え、イゼルが住んでいたグリセルダの森に、一つの村をつくることにした。

「セレス、この人たちのことを取り仕切るのを任せてもいいかしら」

「ああ、構わないよ」

 こうして、セレスは、永久にこの村の長になった。

 そして一通りのことが終わり、少女はイゼルと共に王の部屋にいた。

「まさか俺たちみたいなやつらがあんなにいるなんてな。あいつらの家族も、大体は殺されてたみたいだし」

「ええ。兄弟すら殺されたって子も、多かったわね」

 その力は、制御することが出来るようになれば脅威にはなりえない。しかし、重い税と苦しい王の支配下の中で、国民たちは理性というものを失いかけていた。千人も生きていたことのほうが奇跡に近い。

「あのさ、スウェンディーナ」

「ん? なあに?」

 少女が微笑むと、少年は逡巡したように視線をさまよわせてから、ゆっくりと口を開いた。

「結婚、しないか」

 少女が、驚いたように身を起こす。

「いいの?」

「悪いわけないだろ。ただ、お前は辛そうだし、俺もまだまだ王の器じゃない。それでもいいか?」

 少女は此処までのことを思い出した。大臣たちは二人の能力に怯えた。イゼルは敬語すら使ったことがない。二人はまだ子供だ。

 それでも、彼は結婚したいのだという。

 ならば。

「ええ、しましょうか、結婚」

「え?」

 すぐさま返事をもらえると思っていなかったらしい。口をぽかんと開けて呆けている。

「い、いいのか?」

「あなた何歳?」

「じ、十七だが」

「あら、もうちょっと上かと思っていたわ。私は十五よ」

「……もっと年上かと思っていた」

 二人の容姿は年齢に対して酷く大人びていた。間違うのも無理はない。

「まあ、とりあえず結婚できる年齢ではあるわ」

 王族は政略結婚などもあるため、普通の人は十七にならないと許されない結婚の年齢も、十五と少し低めに設定されていた。十分結婚できる。

「じゃあ結婚しましょう。お互いがお互いのことを好きなら、それで構わないでしょう?」

「お前、そんな安直な」

「いいじゃない。私は今とっても幸せだけど、それ以上の幸せがあるのならそれがほしいわ」

 彼女らしからぬ強欲な発言に、イゼルはふっと彼女の顔を見た。

「だめ?」

 だめなわけがなかった。結婚を申し出たのはイゼルのほうだ。

「これから大変になるな」

「それでもいいわ。あなたと一緒にいられるなら」

「ああ、ずっと一緒だ」

 イゼルがスウェンディーナの頭を撫でる。

 スウェンディーナは彼のもう片方の手を握って、幸せそうに微笑んだ。


 

 ✡✡✡



 リーンゴーン、リーンゴーン……

 深い鐘の音がした。

 国の中央に位置した王城のチャペルで、二人の男女が真っ白な衣装に身を包んでいた。

 周りには、多数の国民が二人を見物しにきている。

「スウェンディーナ様、これ、あげる!」

 元気に走り寄ってきた小さな女の子に、美しい腕輪を渡される。ピンクのバラがちりばめられた、綺麗な花の腕輪だった。

「あら、私に?」

「うん!」

 頭から白い猫耳をぴょんと出した少女はそのまま通りを駆けていく。今日来ている子供たちはグリセルダの森の中に住んでいる子たちが大半だった。

 スウェンディーナは手首にその腕輪をつけてみた。

「綺麗じゃないか」

 ふっと影が落ちる。顔を上げると、鳥に異常に懐かれている男の子を肩に二人ほどのっけたイゼルが立っていた。

 そのうちの一人が、頬を膨らませてイゼルの髪の毛を引っ張っている。

「ねえねえイゼル様ー、耳出してよー!」

「いやだ。お前らが引っ張りすぎたから抜けたんだ」

「ええ!? ご、ごめんなさい!」

 謝り倒す少年に、もう一人の少年が年の割に達観した目を向けた。

「そんなわけないだろ。狼一族は耳が抜けたら死んじゃうんだよ。僕らに耳を引っ張られないようにするための方便さ」

「お前、年齢にあった喋りをしろよ……」

 胡乱な目を向けて少年たちを下ろすイゼルに、少女は笑った。

「あらあら、にぎやかねえ」

「本当に、全くお前の周りは騒がしいな」

 そこに、二人の男女が現れた。

「あ、お母様!」

「あらスウェンディーナ、綺麗ねえ」

「ふふ」

 和やかな母娘たちとは反対に、険悪な雰囲気の青年二人。

「セレス、お前なあ、もうちょっと素直になれよ」

「耳出されたいのか?」

「はいはい、俺が悪かったよ」

 勘弁してくれと降参したイゼルを前に、優越感に浸りきるセレス。しかしそのせいで後ろから近づいてくる気配に気づくのが遅くなった。

「わーいっ! セレ様だー!」

「あっ、おい君たち! やめろ、服を引っ張るな! それと私の名はセレスだ!」

「セレ様ー!」

 たちまち身動きのできない状態に陥ったセレスだったが、もちろんイゼルが助けるわけはない。

「あ、よかったなセレス。子供は無邪気で可愛いぞー」

「棒読みで言われて安心できるか! あ、おいこらボタンをちぎろうとするな!」

 そんなセレスは置き去りに、母親と談笑しているスウェンディーナのもとへと向かう。

「行くぞ、スウェンディーナ」

「あ、分かった。それじゃあね、お母様」

「ええ、行ってらっしゃい」

 スウェンディーナは言葉の変わりに微笑みを返し、イゼルに手を引かれて神父のもとへと向かう。

 騒がしさに困惑していた神父も、二人の姿が見えるとすっとその困惑を内に収めた。

 厳かな声で聖書を読みだした神父に、周りの喧騒がだいぶ落ち着いていった。

「それでは、誓いの言葉と、キスを」

 二人の前に、男性用の腕輪と女性用のティアラが差し出された。

「スウェンディーナ・リリス・ティートニア。ここに誓います」

「イゼル・ガルアス・グリーディル。ここに誓う」

 腕輪とティアラにそれぞれ額を付けてから、それをあるべき場所に収める。

 何かがはまったように、それらはぴたりと二人の体になじんだ。

 一瞬の間の後、二人の体が音もなく近づく。

 唇が重なった直後、歓声が沸き起こった。

「おめでとう! スウェンディーナ様!」

「イゼル様がかっこいいよ、ねえ!」

 色々な声は、主に子供たちだった。

 顔を離しても、その歓声は止まない。

「大人気だな」

「あら、それはあなたも同じじゃない?」

 二人は、顔を見合わせて、笑う。

 少女は、キャーキャーと騒ぐ子供たちを、慈愛に満ちた表情で見た。

「この国が、幸せになると、いいわね」

「同感だ」

 イゼルは子供たちがはしゃぐ姿を見て、目を細めて笑う。

 スウェンディーナも、微笑みながら精いっぱいの声を張り上げた。

「ありがとね、みんな!」

 瞬間、何もなかった虚空に、色とりどりの花が舞う。

「セレス!」

 イゼルが叫ぶと、セレスは苦々しげな顔をしながらも手を高く上げた。

「これっきりだからな!」

 セレスがひゅんっと手をふるうと、一瞬でそこにグリセルダの森の住人たちが勢ぞろいした。

 歓声が、いっそう大きくなる。

 二人は、顔を見合わせて、ふわりとした春の日差しの下で、もう一度笑った。

「幸せね」

「幸せだな」

 心地の良いそよ風が吹いて、鐘のがなる。

 祝福の時間は、まだまだ終わりそうにないのだった。


ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。

いつも書いている小説そっちのけでこれを書いてしまいました。ほぼ衝動的に、です。しかしスウェンディーナとイゼルがくっつくところをどうしても書きたかったのです。ごめんなさい。

それでは皆様、またどこかで会える機会がありましたら、その時はどうぞよろしくお願いします。

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