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異世界旅行は落ち着かない  作者: 多真樹
第二部 少年時代 一章 大平原の獣人
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閑話 マリノアの苦悩

 マリノアの朝は日が昇るのと同時に始まる。

 肌に触れてくる冷気にぶるりと震え、犬耳をぴくぴく動かすと、くるまっていた毛布の中からずりずりと這い出してくる。


「ふ、ふわぁぁぁぁぁぁ」


 誰にも見られていないと知っているからか、無防備に大きな欠伸を漏らす。

 お尻の付け根から生えた尻尾をぱたりと振る。

 起きてまずやることは、尻尾の毛並みを梳いて整えることだった。

 寝巻きのまま鏡台に向かい、櫛で髪を梳く。

 胸元まで伸びた髪は、癖のないストレートヘアだ。

 黒と白をまぶしたようなマーブル模様は、灰狼族と呼ばれる一族特有の毛色だった。


 寝巻きを脱ぎ、下着もぱさりと落とすと、一糸纏わぬ姿になった。

 暖炉に火は入っていないので身も凍るような寒さが足元から上ってくるが、生憎と灰狼族は寒冷地に適応した獣人族で、寒さ自体には耐性があった。


 鏡台に移った無駄な肉のない肉体は、成長途中の少女と、大人の女のちょうど合間に位置していた。

 胸元は最近富に膨らみはじめ、ここひと月の間にもわずかに重量感を増していた。

 このままもっと育てと、鏡台の前に立って両手で持ち上げてみる。

 もちっとした感触の先端に、ピンクの形のいい突起がついている。

 ふたつの突起も、ここ最近で少し膨らんだ気がする。

 月の物が来るようになってから、女性的な成長が著しいのだ。

 腰の括れもきゅっとしまるようになってきた。

 おしりの肉も厚みを増してきた気がするし、すらりと伸びた太ももは、大平原で奴隷として暮らしていたときより明らかに肉付きがよくなっていた。


「美味しいご飯の所為かしら。太らないようにしないと」


 それは体の成長における女性的な体への自然な変化だったが、マリノアは何を勘違いしたのかぎゅっと拳を握った。

 尻尾がぱたっと振られる。

 というか腹を見ても無駄な肉など乗っていなかった。

 贅肉を乗っけた本当に太ったものからすれば、むしろ痩せっぽちに見えなくもない。

 しかし彼女は思春期特有の思い込みの激しい年頃であり、理想の自分が強く頭から離れないのであった。


 マリノアはぐっと伸びをすると、下着を股に通し仕事着を身につけていった。

 鏡台に映る犬耳の少女は、ごく一般にメイドと呼ばれる姿に様変わりしていた。


 ベレノア領、ベレノア・ボンジュール・ハムバーグという小太りの公爵のもとで生活を始めて、かれこれひと月が経とうとしていた。

 冷たい水で汚れ物を洗い、裏庭に干すのがマリノアの朝の仕事だった。

 本当は客人としてもてなされており、何もしなくていいと言われているのだが、後学のためにとマリノアは自ら働くことを望んだ。


 屋敷には自分と同じ奴隷の境遇だったミルフィとベルナルドも暮らしている。

 ミルフィは牛系獣人の女性で、マリノアにとって姉のような存在であった。

 ベルナルドは熊系の大柄な男性で、普段は穏やかな性格で兄のような存在だった。

 マリノアが想いを寄せるアルという名の赤髪の少年は、ミルフィのことをミル姉さん、ベルナルドのことを熊さんと呼んでいる。


 ふたりはこの屋敷で一緒に過ごしているが、そろそろ新興村に戻ると話し合っていた。

 マリノアは正直悩んでいる。

 この屋敷に入れば勉強に専念できる。

 マリノアが大好きなアルは、旅に出てひと月も戻ってきていない。

 約束の日数はとうに過ぎたが、公爵は往復で三か月はかかると言っていたから、ひと月では無理があったのかもしれない。


 アルと一緒に旅についていかなかったのには理由があり、もっと知識をつけてアルの役に立ちたいがためであった。

 この屋敷にいれば、北のドワーフ語や、南のドラゴニア語、オーガル語も勉強できる。

 アルの傍にいままでいられたのも、すべては獣人族と彼を繋ぐ通訳としての役割が大きい。

 アルが獣人語をマスターしたいま、自分には何の価値もなくなってしまっている。

 それが嫌で、マリノアは再び語学の勉強に勤しんでいるのだ。

 他にも算術や商術を学び、少しでも役に立つことなら手当たり次第に手を出しているといった有様であった。


 午前は屋敷で働かせてもらい、午後いっぱいをすべて勉強の時間に費やしている。

 このひと月、そのサイクルを休まず続けていた。

 屋敷の主であるベレノア公爵は獣人に寛大な人物で、いくらでも屋敷で過ごすことを許可してくれている。

 獣人があまりに好きすぎて、人間の正妻とは別に獣人の愛人を三人も囲い、七人の子どもを作っている。

 この屋敷はそもそも獣人専用に建てられたものらしく、正妻は別の屋敷にいるんだそうな。

 冬の折り返しであるこの時期、天気のいい日は中庭で公爵の子どもたちと無邪気に雪合戦をして遊ぶこともある。


 獣人愛に溢れた人物だが、それが行き過ぎてマリノアの主人であるアルに不要な疑いを掛けられて、制裁を受けた。

 二週間ほど前まで寝たきりだったのだが、いまは元気に領主としての職務を果たしている。

 しかしどうやら、アルに男の種を潰されてしまったようで、もう子作りができないのだとか。

 屋敷で働くメイドの格好をした獣人こと、公爵の愛妾たちが教えてくれた。


「ねえ、マリー、いるかしら。あら、今日も読書なのね。ちょっとお話があるの。ご本を閉じて話しを聞いてくれないかしら」


 午後になり、マリノアが出入り自由の許可をもらった書斎でひたすらに読書をしていると、ミルフィがお腹を撫でさすりながら現れた。

 彼女のお腹にはどうやら子どもがいるらしい。

 ベルナルドとの子どもだ。

 ふたりはいつの間にか好き合って、結ばれていた。

 新興村で林を切り拓いている頃には、すでにお互い心を許し合っていたらしい。


「どうかしたんですか?」

「この前話したことは覚えている? マリーもいったん村に戻ってみないかしら? そろそろ村も落ち着いた頃だと思うし」

「覚えてますよ。その話なんですけど、いまのわたしには行って帰ってくる時間も惜しいというか……」

「でもでも、アルくんの家を守るのもわたしたちの役目だと思うの。村に着いたらわたしと旦那で綺麗にするけど、一度はマリーちゃんも見ておいた方がいいかなーと思うの」

「ふむー。それには一理ありますがー……」


 心の両天秤に、勉強時間とアルの家を守るという義務感が載る。

 どちらともなく揺れていた。

 子どもを産むなら村の方がいいと、ミルフィたっての願いでもあった。

 新興村は、野を切り拓くところから始められたが、冬を迎える頃にはあっという間に村の体裁を整えていた。

 まだ十歳にもならないアルが率先して指示を飛ばし、千人近くいる獣人たちを総動員して家を建てたのだ。

 村の周りの強力な魔物をアルが自ら排除したおかげで、安全はほぼ保障されている。

 それに建物ひとつひとつにアルが魔術をかけて、冬の寒さを乗り切れるように工夫を施していた。

 奴隷として野良で生活してきた自分たちにとって、アルの用意してくれた村はまるで天国のように思えた。


「ちょっとだけでいいの。お願い、付き合ってくれないかしら」


 ミルフィが近寄ってきて、ぎゅっと手を握った。

 ミルフィの種族は仲間意識が強い牛系である。

 仲間に囲まれた安心した状態で出産したいらしい。

 公爵の屋敷にも獣人はいるが、牛系はいない。

 侯爵の屋敷が安心できないとは言わないが、お腹が大きくなって身動きが取れなくなる前に、やはり村に戻りたいとの希望だった。


 マリノアはミルフィのことを尊敬している。

 彼女みたいな落ち着いたお淑やかな大人の女性になりたいと常々思っていた。

 なんといっても張り出した乳房。

 アルが巨乳好きだというのは共通認識だ。

 ミルフィの胸から目を剥がすのもやっとという素振りを見せられては、誰も疑い様がない。


「わかりました。そこまで言われて断れません」

「ほんとう? きゃー、ありがとう!」


 ミルフィにぎゅっと抱き付かれた。


「むぎゅ」


 その豊満な乳房に顔が埋まってしまう。

 窒息する前に乳をタップすると、タップタプと波打つ巨乳。

 むしろ超乳。

 なんとか窒息から逃れるマリノアだった。


 一週間後、マリノアたちは馬車に乗り、公爵の屋敷を後にした。

 公爵の子どもたちが泣きながら見送ってくれた。

 ミィナと仲の良かった幼い彼らは、知らぬ間にミィナが旅に出たことを知ってひどく悲しんだ。

 自分だけはまた戻ってくるが、こんな面白いことも言えない自分に少しでも懐いてくれていたのだと思うと、悪い気はしなかった。


 姿が見えなくなるまで手を振り、マリノアたちは領主邸を後にした。

 馬車の中にいるとはいえ、街中ではローブを深く被り、耳が出ないようにしなければならない。

 いくら領主のお膝元でも、外を歩くには獣人であることを隠さねばならなかった。

 いくら領主の意向でも、変えられないものはある。

 彼らが信仰する宗教を簡単に改宗できないように、獣人に対する差別は深く根付いていてなくなりはしないのだ。


 一週間ほどの予定で村に到着する旅の合間、マリノアは公爵から借り受けた本を開いて読書に勤しんでいた。

 対面に座る新婚夫婦は、お互いの体を気遣い、とても仲が良かった。

 しかし仲が良すぎるのも考え物で、早晩ふたりだけで木陰に向かったと思えば、何やら濃密な交わりの音が聞こえてくるではないか。

 耳が特にいい灰狼族である。

 肌と肌を打ち付ける音、甘くとろけるような嬌声を耳にして、耳まで熱くなった。

 マリノアは頭の上にぴょこんと立った犬耳を両手で抑え込み、顔を真っ赤にしながら毛布に潜り込んで聞こえないふりを決め込んだ。


 何をしているのか、マリノアだっておおよその見当がついている。

 自分もいつかそういう経験をすると思っていたし、できれば好き合っている相手がいいと思っていた。

 そうすると自然に思い浮かぶのが、十歳にも満たない少年魔術師の顔だった。

 子どものような無邪気な顔をするときもあれば、びっくりするほど大人びた冷徹な大人の顔にもなる。

 そんなアルという少年のことを思うと、マリノアは顔が火照って仕方なかった。

 毛布に潜ったまま、マリノアは自分の体を掻き抱いた。

 触れるとぴくんと気持ちよくなる部分に自然と手が伸びてしまうのは、性徴期の少女には抗いがたい魅力であった。

 そもそもが年若い少女の傍でまぐわり合う大人たちがいけないわけで、自分は悪くない。

 そう言い聞かせつつ、きゅうんと甘く鳴きながら、愛する少年の顔を思い浮かべて自分を慰める夜がしずしずと更けていった。


 村には特に問題なく到着した。

 雪が深くなっていたので村までの道は雪で閉ざされていると思っていたが、街道からの道は馬車が通れるくらいの道幅を確保してあり、雪が横にうず高く積み上がっていた。

 どうやら村の獣人が定期的に雪を掻いているらしかった。


 村に到着すると、懐かしい匂いが冷たい風の間から鼻をくすぐった。

 獣臭いと言うかもしれない。

 しかし、自分の巣に戻ったような安堵感が村全体に漂っていた。

 自分が村を出るときにはなかった木の柵が村をぐるりと取り囲んであり、入り口には馬を繋ぐ厩舎まで建てられている。

 門番には犬系獣人がふたりほど小屋に詰めていて、三人の到着をいち早く村に報せて回っていた。

 広場には何百人という獣人が詰めかけ、三人の戻りを歓迎してくれた。


「お帰りなさーい!」

「いやあ、人間の町はどうだったね。ひどいことされなかったかえ?」

「マリノアねーちゃんだー。ミィナはー?」

「みぃにゃーみぃにゃー」

「おや、救世主様はおられんのかい?」

「きゅーせーしゅたまー」

「たまー」


 老若男女獣人たちの人いきれで広場の雪も解けようというものだ。

 いちいち説明するのも大変だった。

 アルとミィナが別の用件で旅に出ていることを知ると、一同は途端に悲しみを浮かべる。

 獣人たちは義理人情に厚い。

 自分たちをたったひとりで助けてくれたアルは、この村では尊崇の対象だった。

 アルは信仰心を持ち合わせない獣人たちの神様にまで祭り上げられそうな勢いだ。


 ベルナルドは村の屈強な戦士たちの輪に入っていき、ミルフィは女衆に屋敷での土産物を配り始めていた。

 村に到着した馬車は二台で、後ろの一台は公爵からの土産を積載していたのだ。

 わらわらと獣人の子どもたちが物珍しそうに馬車に集まっている。

 マリノアはというと、同年代の獣人たちに囲まれていた。

 下は七、八歳から上は十五、六まで。

 三十人以上はいる。

 一様に好奇心に彩られ、マリノアの土産話を心待ちにしているのだ。


「その恰好は何だい? ひらひらして動きにくくないか?」

「これはメイド服と言って、アル様にお仕えする正装です」


 マリノアは胸を張って答えた。

 マリノアの格好はメイド服だった。

 屋敷のお姉さん獣人から、メイド服は主人への忠誠心の表れだと聞かされて以来、アルへの奉仕の心を忘れずに持つために常にこの格好をしていた。

 着替えの服まですべてメイド服で揃えていた。

 周囲が引くほどの徹底ぶりであった。

 アルが戻ってくるまでこの格好でいようと決めたのだ。

 数着、メイド服以外にアルと旅をしていた頃の服があるが、これは思い出の品として大事にしまってある。

 最近背も伸びてきつくなっているので、もう着られないだろう。


「なんだかふわふわして綺麗ね」

「人間の作るものはやっぱり手が込んでるわ。すごい」

「でもそれじゃあ狩りに行けないじゃないか」

「動きにくいんじゃだめじゃん」

「でも可愛らしいと思うなー。わたしもほしいなー」


 口々に喋るので収拾が付かなくなっている。

 公爵が土産として持たしたものの中に、たくさんの古着があったはずだ。

 古着とはいえ、村で獣人たちが着ている動きやすさ重視の、冬でも腕を出すつっかけるだけの服を思えば、町で着られているしっかりとした材質の服飾はたとえ中古でも喜ばれることだろう。


「でもなんだかマリノア、とっても綺麗になった気がする」

「もしかして救世主様に子種をいただいちゃった?」

「救世主様ってまだ子どもじゃない」

「でもでも、もしかして?」

「「「きゃー!」」」


 獣人とは言え女の子である以上、姦しさは変わらない。

 男の子たちはどうでも良さそうに鼻を鳴らしていたが、ちらちらとマリノアを見る目が怪しかった。

 村を出るときはまだ子どもの域を出なかったマリノアだが、数カ月経って月の物がくるようになり、日々アルに焦がれる毎日を送る所為で雰囲気が女性らしくなっていたのだ。

 そして悲しいかな、獣人族は性的な交わりができるようになると、途端に獣性が顔を出す。

 獣人が人間よりも獣寄りに思われる最大の理由は、性的な面で人族よりも理性のブレーキが利かないことにあった。

 年若い男の獣人たちは、マリノアの女としての魅力をすぐさま五感で感じ取った。

 鼻をくすぐる女の匂い、防寒着の上からでもわかる女性らしい凹凸のある体、そして理知的な目に一度でも留まれば魅入ってしまう美貌である。


 他にも適齢期に入った少女はいるが、毎日魔力で成長を磨かれた賜物だろうか、アルと出会ってから一年足らずの間に魅力的な美少女になっていた。

 村にいる獣人の子どもたちは、ここでは男女ともに大人たちから戦闘の訓練を受け、身体強化のために魔力の扱いを覚えさせられていたが、マリノア以上の美少女は数えるほどもいなかった。

 アルから教わった身体強化術を教わった大人たちは、その経験を次世代の子どもたちに伝えているのだ。


 マリノアが特別だとすれば、それはアルが手ずから魔力の扱いを教えたことだろう。

 毎日アルと手を繋ぎ、身体の中に巡る魔力の操作を行ったことで、同年代の獣人より格段に上達が早かった。

 今では獣人の中でトップクラスの身体強化ができるほどになっているが、獣人たちはベルナルド(愛称・熊さん)や黒豹種、獅子種といった歴戦の戦士に目が行きがちで、誰も十二歳のマリノアにそんな実力があるとは思っていなかった。


 魔力は体の成長に多大な影響を及ぼす。

 魔物が普通の動物ではあり得ないような四本腕や多眼になったりするのは、濃い魔力の所為であった。

 魔力の扱いが優れているマリノアは、成長にも魔力の影響が出ているのだ。

 さすがに腕が新たに生えることはないが、マリノアがこうありたいと理想にする自分に、成長とともに近づいているのだ。

 胸の著しい成長も、きっとそのおかげだ。


 まだ十二歳で大人たちの目に留まることはないが、年齢の近しい若い獣人からしてみれば、「青くても十分に美味しそうな果実」として映っており、綺麗な容姿の少女を傍に置きたいと思うのは半ば本能のようなものだった。

 彼らにとっては幸か不幸か、マリノアがアルに心の底から惚れこんでいることを知らなかった。

 まだ精通も致していないアルである。

 マリノアをものにしているなんて誰も思わなかったし、実際その通りである。

 人族の少年が獣人のマリノアを寵愛するとも常識的に思われなかった。

 せいぜい獣人解放の当初からのメンバーで、アルの周りで雑用をこなす灰狼族の少女、くらいだろうと。

 青豹種のミィナにいたっては、アルにとって仲の良い兄妹か、愛らしいマスコットとしての印象が強いのだった。

 アルが本気でミィナを嫁にすると思っている獣人は、実はベルナルドやミルフィといった、アルに近しいごくごく身内しか知らないことだ。


 獣人村はその夜、村で第一の戦士ベルナルドの帰還と、ベルナルドが娶り懐妊したミルフィのめでたい話で盛り上がった。

 マリノアも人間の知識を学び、もともと勉強家だったところに博識となっていていくらかの羨望を集めたが、夫婦となったふたりに比べれば注目度も低かった。

 むしろ救世主アルの傍にいないことに疑問の声すら上がる始末だ。


 その夜は寒さも忘れて宴が行われ、大人たちは大いに歌い、飲み、踊り、吼えた。

 子どもも祝いの日に出された大量の肉料理をがっついていたが、夜が更けるとともに家々に引っ込んでいった。

 マリノアも遅くまで残った方だが、宴を辞して家に戻ることになった。

 ベドナ火山の麓にあるこの村で、もっとも麓に近い一回り大きな円形の家。

 それがアルの所有する家だった。


 ベルナルドとミルフィは村に留まって公爵の屋敷には戻らないだろうから、アルの許可を正式にいただけば初代村長に収まるだろう。

 そのために何人か腕に覚えのある戦士がベルナルドに挑むといった村長としての力を見せつける余興があるだろうが、それは獣人の長として必要な儀式であった。

 獣人の長として、アルの所有する家を守っていくのだろうとマリノアも思っていた。


 アルの家の前に、人影があった。

 マリノアは夜目があまり利かない。

 犬系獣人はすべからく鳥目なのだ。

 ただ臭いで、若い獣人なのだとわかった。

 近くまで来ると、さすがに月明りに照らされて輪郭が見えてきた。

 耳が尖っており、髪色や尻尾が闇と同じ色をしている。実際陽の下でも真っ黒の毛色をしていたと思う。

 たしか、犬系獣人で気性の荒い青年だった。

 狩りを一緒にしたことがあるが、若いうちではかなり優秀で戦闘向きだ。

 マリノアの三つくらい上だったはずだ。


「ちょっと話があるんだ」


 声を掛けられたのも、半ば予感していた。

 自分に用がなければ、わざわざアルの家の前で待たないだろう。

 アルの家は周りの家から少し離れた丘に建てられている。

 救世主としての格があるのだ。


「明日にしてくださいませんか? 今日は疲れていますので」


 素気無く返事をしてアルの家に入ろうとした。

 しかしその行く手を、青年の腕が押し留める。


「すぐに終わるさ」

「ならば相応の礼儀を弁えてから出直してください。失礼にもほどがあります」

「おーおー、言葉遣いも固くなってまあ。可愛い顔をしているのに、身持ちが固そうだ」


 冷かすような声を受けて、マリノアは尻尾の毛を逆立てた。

 アルや身内に対しては穏やかなマリノアだが、狼種の気質がら気が短いところがあった。

 本能に引っ張られるのが嫌で自分を律するところがマリノアにはあったが、それも失礼のない範疇での話だ。

 いま目の前にいる男は、自分の返す言葉、態度のすべてに何か含むところがあるらしいのが気配でわかった。


「何が言いたいんですか? それが話の内容ですか?」

「そんなわけない。ただ返事をもらいたくてね。マリノア、オレの女になれよ」

「お断りです。聞く価値もないつまらない話でしたね。どうぞお引き取りを。そして二度と目の前に現れないでください」


 青年の居丈高な告白を一蹴し、目の前を塞ぐ腕をぺいと叩き落とした。

 話は終わりとばかりにアルの家に入ろうとすると、二の腕を後ろから掴まれた。


「やっぱり最初はそういうと思ったぜ。まだ処女だもんな。男を知らないからしょうがないと思うぜ。だけど安心しろよ。オレが今日からおまえを守ってやる。馬車から降りたおまえを一目見たときからオレのものにしようって決めていたんだぜ。オレの女になれば誰にも文句は言わせねえ。一番の戦士ベルナルドさんにもだ」


 威勢良く啖呵を切った青年の目は本気で、村一番の強者さえも黙らせると息巻いていた。

 それに鼻白んだのはマリノアの方だった。


「そうですか。でも残念ですね。わたし、もうアル様の女ですので」

「……は? 何言ってんだ? 無理に決まってるだろ」


 一瞬呆けた顔をして、次の瞬間嘲笑うように青年は顔を歪めた。


「たまたま一緒にいられただけで勘違いしたのか? 救世主は人族だぞ? オレたちのような獣人を囲うわけないだろ。騙されてるんだよ。遊ばれてんだ。奴隷から助けてもらって夢でも見たのか?」

「くっ……」


 ちょっと前のマリノアなら、青年の容赦のない言葉の槍に突き刺され、自信を失っていただろう。

 しかしアルは迎えに来ると言ったのだ。

 その際に唇も、自分から強引に奪ってしまっている。

 そのときの光景を思い出し、マリノアは赤くなった。

 そして同時に、青年に対して睨むように目を向けた。


「わたしはアル様が迎えに来てくれるまで待つと決めました。他の方に汚されるつもりはありません。なので、その汚い腕を離してください。汚れてしまいます」

「このっ! 言わせておけばっ! 強引に押し倒してもいいんだぞっ! それを遠回しに優しく言ってやってるのにその態度かっ!」

「むしろ強引にしてもらったほうが返り討ちにできるのでありがたいですね」

「ふざけるなっ! このメスガキがッ!」


 青年のもう一方の腕が伸びてきた。

 掴まれる前にひらりと躱し、青年の手を取ってあっさりと投げ飛ばした。

 青年は二、三メートルの高さを宙に舞い、なんとか四つん這いで着地していた。

 普段のマリノアなら、自分より二回りは体格がしっかりしている青年を宙に放ることなどできはしないだろう。

 流れるように身体強化術を全身に施したがゆえに、通常の力量の限界を易々と越えてみせたのだ。


「てめえ! もう油断しねえぞ!」

「油断どうとか以前に、狩りなら死んでますね」

「舐めるな!」


 青年が立ち上がり、魔力を練っているのがわかる。

 身体強化――

 彼の発する気迫から、両手に集中しているのを感じ取った。

 でも遅いと、マリノアは思った。

 彼が集中している間に、こちらは高身体強化を練ることができた。


 姿勢を低くして突っ込んできた青年を、マリノアは注意して見つめた。

 そしてスンと鼻を鳴らすと、最小限に体を動かした。

 動きがゆっくりして見えたので、マリノアは青年の手首を掴み、さらに頭を掴むなり地面に押さえつけた。

 地面が割れる音がするが、そんなに強くは力を込めていない。

 突っ込んできた青年を、その場から動かずして易々と取り押さえたのだ。

 アルが見ていたら褒めてくれるかな?とマリノアは想像し、尻尾がパタッと振られた。

 青年は往生際が悪くじたばた暴れるが、か細い二の腕にこんなにも力があるのかと青年が驚くほど、押さえつけられた場所からぴくりとも動いていない。


「あなたの負けです。正々堂々、正面からわたしはあなたを倒しました。明日からこの事実を言い触らしますので」

「や、やめ……!」


 青年が情けない声を出した。

 それもそうだ。

 一番の戦士に歯向かってもマリノアを手に入れると豪語するほど腕に自信があったのだ。

 マリノアに負けたと広められることは、弱者であると周りに認識されることでもあった。

 男としても格好がつかない。


「それなら言わないであげます。ですが、今後一切わたしに近づかないでください。それから、ええっと……名前は何というんでしたっけ?」

「バラノンだ!」

「バカモンさん、上下関係がわからないわけじゃないですよね?」

「……くっ、バラノンです」


 悔しげに青年が呻く。

 獣人の、それも犬系獣人の間には上下関係が根強く残っており、強い者の命令には年齢、性別関係なしに従うのが当たり前だった。


「わたしを組み敷こうとした愚か者はバカモンで十分です。二度と他の女の子にもこんなことをしないと誓ってください」

「……うぅ、わかり、ました」

「よろしいです。はい、どこへなりとも言ってください。負け犬」


 マリノアは青年を解放すると、しっしと手で追い払った。

 青年は反抗する気力も奪われてしまったのか、肩を落としてとぼとぼと夜の闇に消えていった。

 マリノアの扱いがひどい。

 アルなら思っても敢えてその言葉を飲み込むかもしれないが、マリノアにとってどうでもいい人間は本当に露ほどの関心も持てないのだ。

 これが彼女の狭量さで、限界でもあり、そして博識になるほどの集中力を生み出す動力源でもあった。


 マリノアは何もなかったように垂れ幕を潜り、アルの家に入った。

 しんと静まってうっすらと冷えていたが、外よりは断然暖かい。

 アルの施した魔術が効いているのだ。

 それに、片隅に畳まれた毛布からアルの残り香が漂っている。

 マリノアは機敏に匂いを察知すると、我慢できないのか防寒着を脱いでメイド服で毛布にダイブした。

 普段大人びた彼女には珍しい児戯であった。


「ふわ……アル様……んんぅっ……」


 鼻を擦り付け、毛布を抱き締めるマリノアの横顔は、ほどよくとろけていた。


「はぁはぁ……アル様ぁ……」


 くんくんと匂いを胸いっぱいに吸い込む。

 一か月も家を空けた所為で匂いが薄まり、さらにはミィナの体臭も混ざっていたりするが、マリノアは全神経を集中して敬愛するアルの匂いだけを嗅ぎ取ってひとり興奮していた。


「あうあう……どうしよう、我慢ができそうにない……」


 誰にも聞かれていないのをいいことに、マリノアは誰にも見せない痴態を毛布にぶつける。

 くうんくうんと、マリノアはひとりで鳴いていた。

 アル様、早く帰ってきて。

 独り寝に寂しく丸まりながら、マリノアはしくしくと泣いた。

閑話です。

アルと別れてからひと月後の話です。

本筋と少し時系列がずれますが、単体で読んでいただければと思います。

次話から本編スタートです。

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