第8話 闇夜の暗殺者
追加編集:2017/6/4
何もかもが恵まれていた。
アルシエルという双子の出生は、恵まれ過ぎていた。
貴族の家に生まれた。
優しく立派な両親に、厳格だが理知的な祖父。
勤勉な使用人たち。
優しく愛情を感じる専属のナルシェ。
恵まれ過ぎていた。
俺たち双子の運命の日は、何の予兆もなく訪れた。
いや、きっと俺の与り知らぬところで動いていたのだろう。
祖父は内政の重役だった。
王国内では保守派で、強硬派に目をつけられていた。
あろうことか、強硬派には息子の長兄と三男が取り込まれていた。
それは俺が何年も後に調べて知ったことに過ぎない。
いつもの書斎にナルシェを連れ立って向かうと、中から声が聞こえてきた。
祖父との約束で、当主が書斎を使っていないときだけ俺は読書することができる。
「書斎には先客がいらっしゃるようです。アル様、今日は読書は諦めてお庭でリエラ様と遊びましょう?」
ナルシェが手を引こうとするが、俺は中から聞こえる声に不穏なものが混じっていることに気づいて、踝を返しかけていた足を留めた。
そして扉にぺたりと耳を張り付いた。
「ちょっと、アル様!」
「しっ」
指を唇に当てて、ナルシェに黙っているよう促した。
「もう、いけないことをすぐやりたがるんですから……」
ナルシェは特別引き離すこともなく、俺の気まぐれを困ったように見ていた。
どうせ話を聞いたってわからないだろうと思っているのだろう。
普通の五歳児ならそうだが、俺には聴覚を何倍にもする身体強化魔術がある。
ナルシェもそれを知っているはずだが、どれほどの効果があるのかわかっていないのだろう。
子どものお遊びくらいにしか理解していない。
いまの俺にはそれが追い風になっている。
『……何度言われようと同じだ。私が賛成することはない。この国の将来を思えば、いま平穏なこの国を戦禍に巻き込む理由はないはずなのだがな……』
『……そんなことを仰っているうちに我々は戦う術を忘れるのですよ、父上。北の蛮族どもや東の強国がいつ我が国に手を伸ばしてくるかわからないのです。軍の増強は陛下のご意思でもあるのですよ……』
『……誤った道を進もうというのなら、自らの命を賭して諫言するのが臣下の務めだ。私にはこの国が戦争で勝ち残れるとは思えん……』
『……それは私に対するあてつけですか?』
随分とシリアスな内容だ。
声からすると祖父と長兄の口論だ。
長兄は軍人で、パパジャンの異母兄、そして俺の伯父にあたる。
『……兄貴よう、部外者のオレでもわかることだけどよ、いきなり軍を拡張したってろくなことにならないと思うぜ? 冒険者として他国を渡り歩いた経験から言わせてもらえば、この国の軍は弱兵だ。南のアラフシュラ連邦はガチガチの軍事国家だから、しょっちゅう派兵しているような戦争屋だぜ。軍隊を増やすってことは眠った熊を起こすようなもんじゃねえのかな?』
『……まったくもってその通りだな。だから部外者のおまえは黙ってろ。冒険者風情が口出しするな。遊びの話をしているわけじゃないんだ。いますぐこの部屋から出ていけ……』
『……出なくていい。私がこの場にいるように命じている……』
『……だそうで……』
この飄々とした話し方は間違いなくパパジャンだ。
家族三人で和気藹々とはいかないらしい。
戦争、という言葉が生々しく飛び交っているのが気になる。
『……いまさら戦争って雰囲気でもないだろ。兄貴、内側を固めるための軍ならわかるが、他国を侵す軍はいまこの国には必要ねえと思うぜ?』
『……私もそれについては同意見だ。そもそもが領土拡大して何になる……』
『……保守派の父を持って私は恥ずかしい。北も、東も、南も、この国を搾取するだけの家畜としか思っていないというのに、それを受け入れると父上は仰る。お心を痛めている陛下のために臣下の我々は立ち上がるべきなのです! 首を縦に振らないのはもはや父上だけなのですよ。いまや軍の拡大は必至。なぜそれほどまでに拒むというのですか、父上……』
『……私は私の正しいと思ったことを貫いているだけだ。ダズリン、おまえがそれを正しいと思うのなら、その道を進むしかない。私の敵に回るのだとしてもな……』
『……父上のお気持ちはよくわかりました。どんなに説得しても変わらないようだ。愚かな……』
耳を当てていた扉から飛び退いた。
やばい、出てくる。
そんな気配がした。
逃げる間もなく扉が開き、俺は廊下の端で固まっていた。
出ていく伯父とすれ違うが、冷たく一瞥されただけで声をかけられることはなかった。
伯父は背が高く強面だ。
そしてその顔はいま、戦場で敵をどう殺そうか考えている指揮官のような鋭い眼差しをしていた。
変化があったのは、その十日後だった。
その日は嫌に寝苦しい夜だった。
気候的にも落ち着いているはずなのに、どうにも俺は寝付けなかった。
その時点で何かを察知することができればと、後になって悔やむことになる。
誰もが寝静まっていたはずの屋敷で、女の悲鳴が上がった。
ただ事ではない悲鳴に、俺はすぐさま飛び起きた。
同じベッドで寝ていたリエラも、目をこすりながらむくりと起き上がった。
俺はベッドを飛び降り、扉から廊下に顔を覗かせた。
明かりひとつなくしんと静まり返っている。
その時点でおかしいことに気付いた。
『明かりがひとつもない』のだ。
いつもなら、長い廊下に等間隔で設置されているはずの燭台に火が点っていない。
決まった時間にメイドが火を替えているのを知っている。
当直のメイドが蝋燭を替え忘れたのだろうか。
そんなことはない。
これは意図して消えているのだ。
闇に紛れて何かが動いていた。
音もなく滑り寄ってくる。
目に魔力を集めて凝らして見た俺は、その正体に気付いてぎょっとなった。
闇に紛れて蠢いているのは、全身黒タイツのようなもので覆った人間だったのだ。
手には短刀。
月明かりで、一瞬だけ鈍く光ったのを見逃さない。
明らかにおかしい。
数秒で俺たちのいる部屋まで到達する。
ただ待つか。いきなり攻撃するか。迷う。
ひとに向けて魔術を使えるはずもない。
なぜならそういう練習を一度もしてこなかったからだ。
自慢じゃないが前世では人も殴れない無害人だった。
しかも一方的に殴られて泣き寝入りする小心者である。
そのくせ悪態だけは一丁前だ。
冗談はその辺にして、しかし明らかに異常な姿だ。
ただ殴られて終わりにしてくれるとも思えない。
前世の俺の記憶を辿って言い表すとするならば、あれはどう見ても――暗殺者。
屋敷の誰かが仮装した姿だとは到底思えない。
俺と廊下にいた全身タイツの間の扉が、きいっと開いた。
燭台を手にしたメイドだった。
ナルシェではない、三十代のメイドだ。
全身タイツとかち合った。
燭台の火に照らされた、顔まで真っ黒なその人物にメイドは咄嗟に燭台を取り落とした。
黒タイツの動きは素早かった。
取り落とした燭台を空中でさっと掬い取る。
その動作は止まることなくメイドに接近し、ナイフがパッと閃いた。
「ゔ……」
悲鳴ともつかない一瞬の出来事。
ぷしゅっと何かが噴き出す音が聞こえ、メイドはその場に崩れ落ちる。
間違いなかった。
全身タイツはさらに部屋に入って行こうとする。
そこには、専属のナルシェが寝ているはずなのだ。
「おにいちゃん?」
後ろから声を掛けられた。
振り返ると、寝ぼけ眼の妹が俺の服の袖を掴んでいた。
廊下に目を向ける。
全身タイツがこちらを向いている。
部屋に入るより、俺を始末する方を優先したのだろう。
音もなく詰め寄ってくる。
迷っている時間はなかった。
心臓がバクバク跳ね上がっている。
落ち着け。
冷静に!
殺される前に!
水弾を発射した。
それはいつもの水鉄砲のような水弾だった。
今の自分、暗殺者に水鉄砲で対抗する子どもだよ。
全身タイツの体に当たり動きが止まる。
まったく効果はない。
暗殺者は何をされたのだと確認している様子だ。
無力。水鉄砲ではだめだ。
水圧レーザーを持ってこないと。
威力を上げるのだ。もっと威力を!
水弾にイメージを乗せる。
鋭く突き刺すようなイメージ。そして速さ。
溜めに溜めて発射される最高威力のイメージ。
水をぶつけられただけで何事もないとわかったのか、しかし警戒しながら全身タイツは横に移動しながら近づいてくる。
撃った。しかし、水鉄砲と変わらない。
水音が、壁や床に跳ね回る。
威力が全くない上に、当たらない!
あと三歩。
横に動くせいで照準が合わない!
威力を!
二歩。
ダメだ。当てられない。
俺は狙うことを諦め、扉を閉めるという逃げを選んだ。
一歩下がると、後ろのリエラとぶつかる。
双子の妹。
前世の家族の様に身内とは思えないが、親戚の子くらいには近しいと思っているのだ。
だから、一応は守らなければならない。
俺がこの怪奇な世界に生まれ落ちた意味があるとすれば、アルシエルの体と同じくして母から生まれたリエラを見守ることだ。
俺がいなければきっと無力なふたりはここで殺される。
ヒーロー願望がないわけではない。
かつての自分は子どもが好きで、見守るのが日課だった。
その見守っている子どもたちが危険に晒されたら、すぐに助けに行くつもりだった。
青帽をかぶったお巡りさんは、そんな俺こそ子どもたちにとって危険だと判断して職務質問をしてきたりもしたが。
俺がいる意味があるとすれば、ふたりを助け導くことだ。
リエラの手を引き、一歩下がる。
扉の隙間から、ぬっと顔を覗かせる全身タイツ。
全身に鳥肌が立つ。
「うわぁぁぁぁぁぁ!」
俺は焦っていたが、最高出力で魔力を練っていた。
水圧レーザーを縦に切り裂くように打ち出した。
扉や壁をも斬りつけていた。
狙いなんてつけていられない。
中級魔術の超高圧水弾を、俺は所構わず放っていた。
水の勢いが弱まり、気づくと水浸しになっていた。
心臓はまだ早鐘を打っている。
俺の目の前には残骸と化した扉。
その向こうに廊下に転がる黒タイツが覗く。
二度、三度、刃のような水弾が体を切り裂いているのを視界の隅で捉えていた。
動かないが、死んだのだろうか……。
「なに? お兄ちゃんがやったの?」
リエラは大型の猛獣が切り裂いたような壁の痕や、めちゃくちゃに壊れた扉を見て怯えていた。
目の前で魔術の暴力を目の当たりにしたら誰だって恐れる。
魔術は自分で対処できる力を逸脱しているのだ。
だから俺はいままで細心の注意を払ってきたし、リエラとナルシェ以外の家族には俺が水のボールくらいしか作れないと思わせている。
「リエラ、目を閉じてろ。俺がいいと言うまで目を開けちゃだめだ」
「なんで? なにかあったの? お兄ちゃん、どうしちゃったの? いつもとちがうよ?」
そりゃそうだ。
いま表に出ているのは、リエラがよく知る呑気で年相応のアルシエルとは違う。
「言うことを聞けないなら毛布にくるまってて。どっちか選んで」
強く言っただけでリエラは泣きそうになった。
リエラは普通の子どもだ。
自分と同じ転生した人間かと疑ったこともあったが、いまではその可能性はゼロに近い。
屋敷内はいま明らかにおかしい。
また悲鳴が聞こえた。
その声にリエラはびくっとする。
「目、とじてる」
「いい子だ」
素直なリエラの頭を撫でた。
俺は部屋の外の黒タイツを確認するために、震える足でそろそろと近づいた。
動かない。
暗いせいか輪郭くらいしかわからない。
目に魔力を集めて、夜目に強くすることもできる。
だがそんなことをせずとも、俺にはわかってしまった。
どうしようもなく濃密な血の臭いが黒タイツのほうから漂ってきていた。
おまけに間の悪いことに、死んだメイドの部屋からナルシェが燭台を手に顔を出した。
ナルシェは先輩メイドの死体に気づき、声も出ないようだった。
慌てて周りを見回し、俺と目が合った。
俺の傍に倒れている黒タイツにも視線を走らせた。
ナルシェが傍にいてくれるなら心強い。
足が竦んでいる妹を抱きかかえて移動ができる。
俺はもちろん自分の足で歩く。
だって男だからな。
「ナルシェ、手伝ってくれ。リエラを連れてここを離れよう」
俺は気を許した彼女に近づいただけだった。
しかしナルシェは身構えている。
死体を見て警戒しているだけだと思っていたが、俺に対しても恐れているのだと気づけなかった。
「ここは危険だから、まずはお父様とお母様のところに行こう」
「…………」
「ナルシェ?」
「ご、ごめんなさい……どうか、い、命だけは取らないでください。なんでもしますから」
俺は絶句した。
俺のことを理解してくれているとばかり思っていた専属メイドからの命乞い。
いままでの月日はなんだったのか。
まるで心が通い合っていなかったのだと、まざまざと知ることになった。
優秀なメイドだから、この状況を彼女なりに飲み込んだのだろう。
おそらくだが、俺の予想は間違ってはいないはずだ。
俺のことを魔術の力を制御しきれず人殺しをしてしまった五歳児として見ている。
俺はそれ以上、彼女に近づけなかった。
部屋に戻り、リエラと一緒に毛布にくるまる。
次に部屋に入ってくる敵は、容赦なく斬ろうと思った。
一度魔術で殺めてしまうと、ひとりもふたりも同じように思えたのだ。
たぶん、いまはなにもわかっていない妹も、大きくなるにつれ俺の異常さに気づくだろう。
そして魔術を扱う俺を恐れるようになる。
それは決まっているのだ。
信頼していたナルシェに恐れられた俺なのだから。
俺の心は次第に凍り付いていくようだった。
そして同時に、開き直ってもいた。
別に恐れられてもいいじゃん。
それまで一緒にいられる時間を大事にすれば。
最悪アルシエルに体の全権を託し、俺は表に出ないまま生涯を過ごせばいい。
妹に「嫌い!」と正面から言われたら、傷心の俺は二度とひとの顔を見られなくなって引きこもってしまう。
幼馴染メイドだから深く傷ついているだけで済んでいるのだ。
廊下を駆ける複数の足音があった。
俺は身を固くする。
緊張はするなといってもしてしまうものだ。
息を整え、魔力を練ることに集中する。
急いでいるのか、あっという間に足音が近づいてくる。
「アリィ! リエラ! 無事なの! どこにいるの? 姿を見せて!」
飛び込んできたのが母親で、第一声がなければ、俺は間違いなくレーザーのような水魔術を、生みの親に向けてぶっ放していた。
威力も考えず間違いなく屋敷を半壊させる魔力を練っていた。
「ああ、私の子どもたち!」
セラは大げさとも思える様子で駆け寄ると、ベッドで毛布に丸くなる俺たちをぎゅっと抱きしめた。
セラは震えていた。
俺も震えていた。
ママセラだけが温かくて、そして涙が出た。