第10話 篝火に照らされたのは
移動八日目、納得のいく完成度にまで引き上げることができた。
この八日間、昼間は身体強化の訓練やら、猫ちゃんと体力が尽きるまで遊ぶやら、マリノアと獣人語の勉強をすることで過ぎていった。
偵察に出ていた猫獣人が、本陣について事細かに報告を入れてくるのを聞き、本陣内の本営の位置も頭に入れた。
彼ら獣人はひとりひとりの人間の臭いまで嗅ぎ分け、位置を正確に把握することができる。
自分たちに死を命じた連中の臭いは、ことさら強く感じたはずだ。
憎しみのこもった目で、俺の合図を待っていた。
獣人全員を揃え、俺は拳を握った。
そして覚えたての獣人語を、苦労して使う。
『やろう、今夜だ。奴隷から解放されるのは、今夜だ!』
獣人たちひとりひとりの目に、ギラギラした光が灯っていた。
獣人語で訴えかけられたからか、静かな怒りが膨れ上がって、いまにも破裂せんばかりに満ちていた。
発破の掛け方は、間違っていなかったようだ。
猫ちゃんとマリノアだけが、あまり主人を憎んでいないようだ。
猫ちゃんに関しては自分の置かれている立場すら理解できていない。
というか、命令主から奴隷であることが当たり前だと教えられていた。
マリノアが猫ちゃんからいろいろ聞き出して、俺に教えてくれた。
死体漁りが常識だと教える人間が、まともなわけがない。
だからそいつは、出会ったら必ず殴ると決めていた。
出発した。
陸大亀の上には、俺と、眠そうにしている猫ちゃんと、押し黙って緊張を堪えているマリノアしかいない。
獣人たちは、陸大亀の足元に広がる闇夜に消えている。
襲撃は寝静まった夜半、混乱を一番誘いやすいときを狙う。
もちろん軍隊である以上、夜襲は警戒しているだろう。
そんなことは百も承知で、むしろすぐに気づかれると思っている。
その上で、相手を出し抜くのだ。
陸大亀の周囲に風の障壁を張ることで、音と姿をある程度隠すことができた。
敵軍が揺れを感じた頃には、すでに敵陣の目と鼻の先に陸大亀は近づいている、という算段だ。
かなり大規模に障壁を張り続けなければならないが、魔力槽の方は余裕だった。
底を尽いても、師匠から貰った魔力を溜めておける腕輪がある。
「……ついにやるんですね」
緊張に堪え切れなかったのか、感じ入っている様子でマリノアが漏らす。
隣の狼系少女の顔を見つめた。
歯がゆいといった表情をしている。
もう一方では、猫ちゃんが俺に寄りかかってうつらうつらしている。
「今日が奴隷に落とされた獣人たちの反抗の日になるわけだ」
「反抗の日……」
マリノアが、重く大切なものを受け取るかのように、噛みしめていた。
実際はそんな大それたことをしているつもりはなかった。
身内が隣町の悪ガキに悪さをされたから、仕返しに行こうという気分だ。
緊張も糞もない。
ただ、丘を越えたとき、一瞬だけ息を呑んだ。
先ほどまでの眼下には、闇の海があった。
しかし丘を越えると、闇を埋めつくす果てしない篝火があった。
実際に見た万の軍の迫力というものが、想像を超えていたのだ。
地平まで続くと思えそうな無数の灯火に、気を呑まれる。
腹の底に氷を落とされたようなひんやりしたものを感じたが、それもわずか一瞬だ。
頭が真っ白になることはない。
俺が相手にするのは、この中のごくわずかな人間なのだ。
見張りが陸大亀の足音から発する地響きに気づき、次いでその接近に気づいて騒ぎ出すと、本陣は蜂の巣をつついたように天幕からわんさか人が飛び出してくる。
地面にどこまでも続く篝火を見ていると、なんだか腹の底から叫び出したい気分になる。
恐怖心と高揚感が綯い交ぜになって、どちらに傾いているのかもわからない。
下には何万もの兵士がいて、俺はそいつらとわずかな手勢で敵対しているのだ。
しかも俺は、勝利を確信している。
それは、万の軍を前にしても、変わらず俺の中に残っていた。
「ふはは! ゴミのような人間どもめ! 撃てい!」
「撃つものがありませんが?」
「気分だよ、気分」
「はぁ……」
生真面目なマリノアは遊び心を理解してくれないので残念だ。
夜の移動要塞は相手の出鼻を挫くのにとても効果を発揮した。
ついでに野営しているそこら中から、少しずつ火の手が上がり始めた。
獣人たちがうまく動いてくれているのだ。
「ほー!」
猫ちゃんが下界を見下ろし、感心していた。
眠気も吹っ飛んでしまったようだ。
猫ちゃんに癒されるのも束の間、不意に下から火炎が飛んできた。
俺は猫ちゃんの後ろ首を掴んで引き寄せ、水魔術で対抗して打ち消した。
「げ、魔術師いるじゃん」
そりゃあいるよね。
戦陣だもの。
「はぁぁぁぁ!」
篝火に照らされて、裂帛とともに陸大亀の足に剣で斬りつけてくる剣士がいる。
陸大亀はブースト状態だというのにぶしゅっと血が噴き出て、陸大亀が堪らず悲鳴を上げる。
「魔力纏える剣士もいるし」
貴族連中のお抱え護衛兵だとしたら、そいつらを潰せば終わりだ。
だが、戦闘能力に長けた部隊だとしたら、陸大亀が狩られるのも時間の問題だ。
そいつらの存在だけで、今回の計画の難易度が飛躍的に上がる。
「とりあえず怪我させて無力化させなくちゃダメだよね」
魔物相手になら容赦のない俺だが、人間相手だと途端に及び腰になる。
これじゃあ猫ちゃんを笑えない。
あれだけ人間の尊厳を犯したムダニさえ、俺は手にかけることができなかった。
妹をあれだけ酷い目に遭わせた男すら、だ。
関係のない人間に、殺意なんか向けられない。
それが弱さなのか。
いいじゃん、できなくても。
殺し屋になりたいんじゃない。
たったひとりの暗殺者を不慮に殺してしまっただけで、心に重圧がかかっているのだ。
「マリノア、猫ちゃんが外に飛び出さないように見てて」
「了解しました。ところでアル様はどこへ?」
「ちょっと制圧してくる」
「え? アル様――!」
俺は夜の虚空へ身を投げた。
「ふにゃ!」
俺の背中に子供くらいの重みが。
耳元をくすぐる柔らかい髪質。
「え? 猫ちゃん?」
「!!!!」
何か言っているが、言葉が理解できない。
あたしを置いてくなとか、そんなことだろうか。
本当に朝から晩までべったりだ。
可愛い。
もう嫁にしたい。
でも惜しむらくは、その甘えっぷりの使いどころをもうちょっと考えてほしい。
それでも、猫ちゃんが空中に身を躍らせた俺に、躊躇なくついてきたところは感心する。
無邪気さの中に見え隠れする、底知れない潜在能力。
俺なんかよりよほど猫ちゃんの方が暗殺者向きだと、そう思ってしまった。
馬鹿な考えだと思い、俺は意識から遠ざけた。
それよりいまは、目の前の魔術師と剣士だ。
ひとりずついる。
魔術師は炎の狼を呼び出し、剣士は腰を落として魔力を爆発的に溜めている。
あれでは陸大亀がやられてしまう。
「猫ちゃん、しっかり掴まっててよ!」
「ふにゃ!」
その返事が「了解!」ということなのかはわからないが、とりあえず背中に張り付いててもらおう。
剣士の前に飛び出して風魔術のエアハンマーを打ち出す。
剣士はそれを斬るために溜めを使ったが、ハンマーの勢いが殺せず後ろに下がっている。
炎の狼が間髪入れず飛びかかってくるが、水の壁を作り出すとそこに飛び込んでいって蒸発してしまった。
「……あれ?」
実力的にはそれほど強くないみたい。
ほぼ癖となっているステータスの確認でも、気をつけるようなスキルはなかった。
剣聖とか魔導士とか、上級職のようなものを持っていたら警戒するところだが、思いのほか肩透かしな実力だった。
だがこれなら、殺さずに気を失わせるだけで済みそうだ。
周りでは兵士が陸大亀に向けて応戦の構えを取っており、まだ攻撃は受けていない。
魔術師と剣士は、足止めのために先行して現れたようだ。
「この亀を引っ張ってきたのが子供だってのか」
「背中に獣人を貼り付けてるぞ。なにかあるのかもしれない。注意しろ」
いえ、そこに警戒するほどのものは何もありませんが。
「正体を幻影で隠しているのかもしれねーぞ」
「小人族の可能性もある。やつらは魔術に長けているから注意しろ」
人族でーす。
勘違いに拍車がかかっている。
まあ、どっちでもいいか。
風魔術の中でも使い勝手のいい“窒息”を使う。
目標を剣士と魔術師に合わせ、大気中に魔力を流し込む。
「う!」
魔術師が気づき、風の障壁を張った。
俺の魔力が障壁で切断され、窒息させることができなかった。
そうか。
魔力を断てば効果も消えるということか。
剣士が地を蹴る。
さすがに戦闘慣れしていて速く、思い切りがいい。
魔術師がすぐさま詠唱を重ね、剣士に風の付与を施す。
窒息は弾かれる。
でもそれだけでは拙いでしょと思う。
剣士の足元が、一瞬にして噴き上がった。
避けることもできず、十メートルほど打ち上がる。
剣士の足元に、風の塊を設置したのだ。
足元が不注意すぎたな。
魔術師は打ち上がって闇に消えた剣士を目で追おうとするが、それが油断だ。
剣士よりも速く地を這うように接敵し、魔術師の腹に掌底を打ち込む。
本気を出せば内臓ぐちゃぐちゃで即死させてしまうので、ただ腹を打っただけだ。
それでも身体強化はしてあるので、それだけで十分に効果はある。
「こんな、ことで!」
魔術師が遠のく意識で何かを詠唱しようとした。
「ふにゃ!」
その顔に猫ちゃんの猫パンチが入った。
鼻血を吹き出し、あっさり仰向けに倒れる。
猫ちゃんと顔を見合わせた。
にひひ、とお互いに笑う。
後始末として、落ちてきた剣士を風魔術で受け止めるとともに、窒息で気を失わせる。
役目は果たした。
陸大亀に、侵攻を命じる。
「これ以上進ませるな! この先はダメだ! 何としても食い止めろ!」
「足だ! 足を狙え!」
「なんなんだ一体っ!」
兵士たちが陸大亀を進ませまいと立ち塞がるが、陣形はあっさりと崩されていく。
進捗はつつがないことを確認し、ひと仕事終えた気分で猫ちゃんを背負いなおす。
「さあ、さっさと陸大亀の上に戻ろうか」
「んにゃー」
「なんだと言うのだ、いったいこれは……」
そのとき背後から声が聞こえた。
振り返る。
篝火に照らされた、身なりの良さそうな三十代くらいの男と目が合った。
彼の周りには護衛の騎士が十名。
ステータスを視ると、貴族は大したことがないが、騎士の方は剣士や魔術師よりよほどやばい。
こいつらも鎮圧するかと覚悟を決めたところで、猫ちゃんが俺の背中から勝手に飛び降りた。
どうしたんだと思う間もなく、猫ちゃんはトコトコと先ほど目が合った貴族らしき男のもとへ向かっていく。
いつも大事そうに肩から提げた鞄を、両手に抱えて。
「なんだ? 奴隷の猫ではないか」
貴族の男が、心底つまらないといった口調で言った。
こいつが猫ちゃんを死地にやった男か。
憎しみが、腹の底からふつふつと涌いてくるのがわかった。
猫ちゃん編、佳境に入って参りました。




