第52話 お兄ちゃん
今回はリエラ視点です。
初妹視点。
この先二度とないかもしれないです……。
あたしは雨の中を走っていた。
ぬかるみに足を取られながら、まっすぐにお兄ちゃんのもとへ急いでいる。
エルフ討伐隊と名乗って大森林に向かった冒険者や村の人たちは、ボロボロになって帰ってきた。
最初は四十人もいたのに、十人しかいない。
そのうち村の人は七人で、冒険者のリーダーと呼ばれていた人と、もうふたりしか戻ってこなかった。
さっきまであたしは、大人たちが話しているのを盗み聞きしていた。
お兄ちゃんがどうしてもエルフ討伐に向かわせたくないと言っていたから、エルフがどうなったかを、あたしなりに知りたかったのだ。
いまお兄ちゃんは、納屋で動けないから。
「エルフなんて討つ余裕があるわけねえだろ。遭遇する前にこっちは全滅しちまうだろうよ!」
冒険者のひとりが喚き散らしていた。
リーダーの人は、沈痛な面持ちで否定をしない。
大人たちが帰ってくるのもやっとの大森林。
あたしは、お兄ちゃんはやっぱりすごいんだと胸が熱くなった。
毎日のように大森林に出かけて行っては何事もなく帰ってくるお兄ちゃん。
エンヌちゃんは「そんなの嘘よ」と、最初は信じなかった。
けれども、大森林でしか獲れない魔物の素材を見せられては、嘘とは言えなかった。
お兄ちゃんは、大森林の向こうに聳える大霊峰にも登っているんだって。
どうやってそこまで行けるのか、あたしにはわからなかった。
朝から出かけて、夕方に帰ってこれる距離ではない。
「それこそ嘘よ」と鬼の首を取ったようなエンヌちゃんだったけど、お兄ちゃんは高山でしか咲かないという白い花を摘んで持ってきた。
それを受け取ったエンヌちゃんは「しょうがないわね! 信じてあげるわ!」と引き下がったが、あたしは知ってる。
お兄ちゃんからお花をもらって嬉しかったのか、家の裏でにまにま笑っていたエンヌちゃんを。
いいなあ、とあたしは思ったけど、お兄ちゃんに取ってきてとは言えなかった。
お兄ちゃんに迷惑はかけられないと思ってしまうからだ。
あたしは息を切らして納屋に戻った。
村長の家には夫婦がいるはずだから、なるべく音を潜めて中に入る。
あたしは呆然となった。
お兄ちゃんは狭い納屋の真ん中で足を組んで、眠っているかのように目を閉じていた。
だが目を瞠るところはそこではない。
お兄ちゃんは地面から少し浮いていたのだ。
目をこすってもう一度よく見てみる。
うん。見間違いじゃなかった。
「おにいちゃ……浮いて……?」
お兄ちゃんは薄目を開けた。
「リエラか、おかえりなさい」
「うん、ただいま戻りました」
ぺこりと頭を下げる。
肩で息をしているのも忘れ、はてあたしは何を急いでいたんだっけ? と考える。
お兄ちゃんはゆっくりと床に着地し、足を崩した。
「お兄ちゃん、いま浮いてたよね?」
「魔術は万能なんだ」
寂しそうな顔で言われた。
あたしにはなんでそんな顔をするのかわからないよ。
あたしは息を整え、汗を拭った。
ぽたぽたと落ちる雨粒。
体は走って熱くなっていた。
お兄ちゃんがタオルを差し出してくる。ありがとう。
ついでとばかりに濡れた体から水気を飛ばしてくれる。
これもお兄ちゃんの便利な魔術だ。
「そうじゃなくて!」
ちょっとほっこりした空気をあたしは壊す。
「討伐隊が戻ってきてたの。エルフさんは無事だって言ってた。そこまで行けなかったんだって。でも討伐隊の人のほとんどは帰ってこなかったみたい」
「大きく被害が出ることはわかってるんだよ。問題は大森林に討伐隊が入ったことなんだ……くそう、ムダニのやつ、何をしなくてももう討伐隊は動くことがわかってたんだ、失敗した……!」
お兄ちゃんは心の底から悔しそうだった。
珍しく焦ってもいる。
お兄ちゃんは最近、不安定だ。
余裕がないようで、いつもの優しい顔はなりを潜めている。
でもあたしはそれが怖いとは思わなかった。
旦那様のことを呼び捨てにしても平気なようだ。
あたしは怖くてできそうにない。
殴られるのは痛い。
あと、あの顔で睨まれると怖くて動けなくなる。
「俺がなんで言うことを聞いたかわかってないんだ、ムダニのやつ。あいつはもうおしまいだ。自分が作った討伐隊で村が立ちいかなくなるくらいの被害を出したんだから」
「旦那様が村長じゃなくなったらあたしたちは自由?」
「問題はそこじゃないんだよ、リエラ。この村は魔物の攻撃に耐えられなくなって、プロウ村のようになる。そんなこともあの男はわからなかったんだ。すべて師匠の所為にしておけば村人を操ることができたから。でもその代償は、身の破滅だ」
お兄ちゃんが大変なことを言っているのはわかる。
でも、それがどれくらい大きなことなのか、あたしには想像もつかなかった。
「どうするかな。俺はムダニの隷属の首輪で動けないし」
「……あたしがなんとかする」
「リエラ?」
あたしは意を決した。
お兄ちゃんの役に立ちたい。
頭を使って、お兄ちゃんを助けるんだ!
「お兄ちゃんがここを出られないのは、旦那様が出ちゃダメって言ったからなんだよね? 出て良いよって言えば、お兄ちゃんはここから出て、エルフさんのところに行けるんだよね?」
今日のあたしは冴えていた。
ただ旦那様に「出て良いよ」って言わせる方法がわからないだけ。
よくよく考えたらそれって難関だよね。
「ムダニに言わせるなんて無理だ」
「なんとかするよ。お兄ちゃんは待ってて!」
「おい、リエラ!」
あたしは納屋を飛び出した。
旦那様がいる大きな家に近づく。
緊張しないわけがない。
殴られるかなあ。
あたしは自分の怪我なら治せるくらいに、治癒魔術を習得している。
でもやっぱり、痛いのは嫌だ。
それでもと、気を奮い立てる。
お兄ちゃんのため!
お兄ちゃんがどこに行きたいのかわかっている。
お兄ちゃんはエルフさんとさよならしたくないのだ。
エドさんやエンヌちゃんとはバイバイしたけど、また会おうねって約束した。
でもエルフさんは、いなくなったら戻ってこないってお兄ちゃんは思ってる。
だからいつもは見せないような焦りを見せている。
お兄ちゃんの腕には銀色の腕輪が嵌っている。
それはエルフさんからもらったもので、お兄ちゃんは「最初で最後の贈り物だった」と言っていた。
あんな寂しそうなお兄ちゃんを見るのは初めてだった。
あたしはお兄ちゃんに笑ってほしい。
大好きなお兄ちゃんだから、そのために何かしてあげたい。
外側から旦那様の家を覗き込む。
中では、旦那様と奥様が言い合いをしていた。
「こんなことになるとは思わないだろうが! 討伐隊は成果を持ち帰られず、三十人も死なせて戻ってくるなんて! 冒険者どもが弱すぎたんだ、畜生ッ!」
ムダニは八つ当たり気味に、椅子を蹴飛ばす。
「領主様からまだ返事は来ないの? どうなっているのかしら? 魔物が涌き出しているのだから、兵隊を出して当然なのに」
「あのクソ領主もそうだッ! オレが何度手紙をしたためたと思っている! それをすべて無視しやがってッ! 最後に送った出てきやがれ豚野郎と書き殴ってやった手紙まで送り返してきやがった!」
「それは……謀反の疑いをかけられるのではないの?」
「兵を出して来たらそいつらに魔物を当てるまでだ!」
旦那様は怒鳴っていたが、そこに村人が訪ねてきた。
討伐隊の被害を受けて、会議を開くために呼びに来たと言う。
「くそっ! 待ってろ、すぐに行く!」
村人を睨むように追い返し、ムダニは落ち着きなく動き回った。
「おい、逃げ出す準備はしておけよ」
「だけどあなた……イランはどうするの?」
「任せろ、オレに考えがある」
「わかったわ……わたしも一緒に行くわ。村の女衆をまとめなければいけないもの」
旦那様と奥様がふたりとも家を出ようとする。
今を逃したら、お兄ちゃんは助けられないと思った。
膝が震える。
でも、お兄ちゃんの自由のため!
「……ょし」
声が震えていた。
大丈夫だろうか? ううん、大丈夫にするのだ!
あたしは戸の前に立った。
足音が聞こえ、戸が開く。
旦那様の不機嫌な顔が、上からあたしを見下ろしてくる。
途端に勇気は萎んでいく。
「……なんだ?」
「……ぁ、ぅ……」
声が出せない。怖い。
蛇に睨まれる蛙になったあたし。
旦那様の脇から、奥様が顔を覗かせる。
途端に不愉快そうな顔になってあたしを見る。
その態度だけで、あたしはいつも射竦められてしまう。
嫌われるだけで人は傷つくもの。
それも、自分じゃどうしようもないことだったらなおさら。
「どけっ!」
旦那様は当たり前のように蹴ろうとしてきた。
避けようと思えばできた。
しかしあたしは、体に染み付いた恐怖から足に根を張ったみたいに動くことができなかった。
むしろ受けることを選んだ。
だってお兄ちゃんの首輪は、旦那様が誰にも暴力を振るわないことで縛っている物だから。
旦那様が暴力を振った時点で、その効果は切れるとお兄ちゃんがふたりきりのとき教えてくれた。
「あなたは手を上げられないんでしょ! さっさと行くわよ! おまえ、下がりなさい!」
旦那様を引き留めて、奥様はあたしを睨んできた。
あたしは無意識に後ろに下がり、足をもつれさせて横に倒れた。
泥水を跳ねて泥だらけになる。
下を向いていたら口にも跳ねた泥が飛び込んできた。
着ているものに水がしみ込んできて、冷たい。
「う……うぅ……げほっげほっ!」
口の中が気持ち悪い。
あたしはむせこんだ。
旦那様と奥様は、あたしのことを路傍の石のように扱う。
だから呻くあたしを、どうでもいいもののように見捨てて歩き出す。
「待って……ください……お兄ちゃ……じゆうに……」
「ああっ!? てめえ誰に意見してやがるっ!」
振り返った旦那様の悪貌に、あたしは何も言えなくなった。
怖くて怖くて仕方なかった。
まだ泥水に塗れて蹲っていた方が、楽だと言うように。
「あなた、時間もないのよ、気にせず行きましょう」
「……ったく」
踝を返したその背中に、あたしは泥をぶつけた。
旦那様の肩が怒りに震える。
「あなた、堪えて。わたしに任せて」
奥様はわたしに近づいてくるなり、胸倉を掴もうとして、寸前で堪えた。
顎を強張らせ、人差し指を震わせながら、あたしに向けてくる。
奥様の血走った目と相まって、あたしは震え上がった。
「調子に乗るんじゃないわよ! この奴隷! 誰が今まで面倒を見てきたと思ってるの!」
それを言うなら間違いなくお兄ちゃんだ。
旦那様も奥様も、わたしたちにろくな食事も与えず働かせた。
お兄ちゃんが衣服を縫ったり、山で肉や山菜を獲ってきてきたり、行商から食べ物を買ったりしてくれたのだ。
あたしは負けじと睨み付ける。
負けるもんか!
「その憎たらしい目を抉ってやれたらさぞかし胸がすっとするでしょうね。覚えてなさいよ!」
怖い。
怒気がぶつかってくる。
あたしは必死で我慢したが、目に涙が溢れてきてどうしようもなかった。
「ガキの分際で手を煩わせるんじゃないよ、いいね!」
「……ぅぅ」
「返事をしろ!」
「……は、はぃ……」
奥様はあたしから離れて、旦那様と遠ざかっていく。
「くそう、奴隷ひとりを縛るために何もできないんじゃ腹が立って仕方ねえ!」
「泥は雨で落ちるかしら。なんてことなの、まったく!」
足音も雨音にまぎれ、聞こえなくなる。
あたしは雨に打たれながら、蹲って泣いた。
弱くて決意すら揺らいでしまう自分が情けない。
お兄ちゃん好きはこんなものなのかと。
豚みたいな男に罵倒され、蛇みたいな女に睨まれただけで竦んでしまうような自分が、お兄ちゃん好きを公言できるのかと。
旦那様を怒らせて暴力を振るわせれば、お兄ちゃんを助けることができるはずだった。
しかし、奥様にただ睨まれただけで、怖くてそれ以上の反抗心が軒並み刈り取られてしまったのだ。
傷なら治せる。
あたしはエドさんとエンヌちゃんのおかげで初級治癒魔術を修めている。
だが、泥が付いたあたしの気持ちは治らない。
「う……うぅ……」
泣きじゃくりながら立ち上がった。
泥だらけの体を、雨が洗い流していく。
あたしは震える膝を叩いて、旦那様の家に入った。
床に泥の足跡が付く。
あたしは治癒魔術以外の魔術を覚えていないので、水魔術で洗い流すことができない。
あたしが許しもなく家に入ったことを、きっと怒られる。
奥様に死ぬほど殴られるかもしれない。
それは怖い。
怖くて怖くて、震えが止まらない。
「えぐ、えぐっ……」
泣きながら旦那様の部屋に入る。
何か触るのも怖い。
怒られはしまいか。
でも、お兄ちゃんのためなんだ。
うんと、腹に力を込めた。
心臓がやかましいくらいに鼓動を打っている。
涙もボロボロと落ちた。
「こわい、こわいよぉ……」
でも足は止まらない。
見つけるのだ。
お兄ちゃんがあの納屋から出られる方法を。
ぐしぐしと目元を拭いながら、雑多な旦那様の部屋を漁る。
雨水がぽたぽたと落ちて、床を濡らす。
ベッドに上に手紙が散らばっていた。
旦那様の字だった。
旦那様が怒り狂っていた、領主に宛てた手紙だろう。
あたしは机を探した。
何か、何かないだろうか。
触ったものに泥が付くのも構わず、あたしは探した。
お兄ちゃんの首輪を外す道具、あるいはそれに近い何か。
それを見つけるためにあたしは探している。
そもそもあの首輪はどうやって手に入れたのだろう?
旦那様が昔から持っていたということはないだろう。
堪え性がなく、良いものを持っていたら使いたくなる性格だ。
だからあれは、最近手に入れたもの。
行商から買ったものではない。
旦那様は自分から出向くことはないし、あたしがいつも買いに行かされるから何を買ったかもわかっている。
では冒険者から? 冒険者に奴隷を連れているような人はいなかった。
冒険者なら自分で使うだろう。
命懸けのお仕事をしているのだ。
現に大森林から戻ってきた冒険者は三人だけだった。
旦那様のような娯楽に使う人間に売ったりはしないだろう。
じゃあ誰?
思い浮かぶとすれば、坊ちゃま。
坊ちゃまはいま、プロウ村の魔術師様のところにいる。
最近一度帰ってきているところを見たから、そのときかもしれない。
魔術師様のことは、お兄ちゃんから気を付けろと言われている。
お兄ちゃんに言われた絶対に近づいちゃいけない人間の中に入っていた。
近づいちゃいけない人の他には、あたしを見るとすごく笑顔になる村の男の人とか、上から下までじろじろ見てくる冒険者とかだ。
あたしもなんとなく危なそうな人だなと思っていた。
お兄ちゃんが言うんだから間違いない。
あたしは啜り泣きながら探した。
首輪をどうにかできそうなものはなかった。
あたしがエルフさんを見たのは一度だけ。
今は魔術師様がひとりで住み着いているプロウ村に、まだ人がいて、ちょうど魔物に襲われた日だった。
坊ちゃまの好奇心に引きずられて村の子供たちでこっそりと見に行ったとき。
坊ちゃまは剣が上手だ。
誰よりも真面目に打ち込んでいるので、村の大人たちより強そうだ。
たぶん村でいちばんだと思う。
でも坊ちゃまの剣は魔物には通用しなかった。
攻撃を避けられずに大怪我も負った。
倒したのはお兄ちゃんのほう。
お兄ちゃんはエルフさんが倒したって言うけど、あたしはお兄ちゃんが魔物をあっさり倒したんだって信じてる。
あのときちらりと見たエルフさん。
すごい強かった。
魔物を相手に怖がらなくて、勇敢だった。
あの人のため。
お兄ちゃんが憧れた、エルフさんのため。
あたしは棚や引き出しをあちこち探しながら、過去を振り返っていた。
あの日すごい数の犠牲が出た。
エルフさんが割って入って魔物の頭を討たなければ、プロウ村の人たちとウィート村の討伐隊は全滅していたかもしれなかった。
お兄ちゃんは魔物をやっつけたエルフさんについて、大森林に入ってしまった。
あたしは一緒についてきたフレアちゃんやディノ、ディル兄弟と一緒に、大人に叱られた。
ディノ兄弟の一番上のディンお兄さんがこの討伐隊に参加して亡くなっていて、ふたりはすごく泣いていた。
大怪我を負った坊ちゃまは応急処置を施された後、即席の担架でウィート村に運ばれていった。
お兄ちゃんは夜、嬉しそうな顔をして戻ってきた。
エルフさんの弟子として認められたんだって自慢していた。
お兄ちゃんはひとりで進んでいく。
あたしはちょっぴり置いてけぼりに感じる。
ひとりは寂しい。
でもお兄ちゃんの迷惑にはなりたくない。
夜に読んでくれる絵本は楽しみだが、自分から読んでと言ったことはない。
もう自分で読めるほどに文字を覚えたのに、読めないふりをしてお兄ちゃんが「絵本、読む?」という言葉を待っているのだ。
行商が村にやってきたとき、お兄ちゃんは絵本を必ず買ってきてくれた。
購入のお金は、大森林で狩った魔物の素材を売ったものらしい。
旦那様たちには内緒。
お兄ちゃんがこっそり作った納屋の地下室には、途轍もない量の素材と絵本や書物が収められている。
お兄ちゃんが町に医者を呼びに行かされて、連れて帰ってきたのがエドさんやエンヌちゃんだった。
あたしはふたりに出会って、寂しいという気持ちを忘れてしまった。
エンヌちゃんはあたしの大事なお友達になった。
エドさんは治癒魔術の先生。
一緒に暮らし始めて、毎日が楽しくなった。
お兄ちゃんも楽しそうだった。
旦那様たちと離れることができて、あたしは旦那様たちが好きではないことに気づいた。
できたら二度と、旦那様のもとに戻りたくない。
四人の生活に戻りたい。
あらかた調べ尽して、あたしは最後に、旦那様のベッドに向かった。
ベッドに広げられた手紙。
それをひとつひとつを読んでいく。
お兄ちゃんから文字を教わっていたから、すらすらと読めた。
兵を出してほしいだの、村は危険な状態で急を要するだの、そこそこに綺麗な言葉遣いとそれに反して汚い字で書かれていたが、途中で手に取った一枚は文字まで汚く書き殴られていた。
引きこもってないで出て来い、村を助けないとおまえは領主として失格だ、豚野郎と、暴言が書かれていた。
あたしはピンときた。
すぐさま紙を切るものを用意する。
そして手紙を切っていき、一つに繋げた。
うまくいくかわからない。
でも試さなくては、お兄ちゃんはずっと納屋に閉じ込められたままだ。
あたしは部屋を飛び出した。
「お兄ちゃん!」
「リエラ、大丈夫だったか?」
あたしは息せき切って納屋に駆け込むなり、切って貼って繋げた手紙を朗々と読んだ。
「“いつまでも
引きこもってないで出て来い
おまえの役目は
出ることだ
村を助けないと
豚野郎だ
ウィート村村長 ムダニ”」
変な文章だった。
うまくいくことを祈るのみだ。
お兄ちゃんは驚いた顔をしていたが、手紙を下ろしたあたしと目を合わせるとにこりと微笑んだ。
「リエラ、よくやった」
お兄ちゃんはあたしの前で、引きちぎるように皮の首輪を取って捨てた。
お兄ちゃんの役に立ったのだと思った途端、力が抜けてしまい、その場にへたり込んだ。
あたしは頭を優しく撫でられた。
水魔術で汚れも水気もすべて落としてもらえた。
「リエラが頑張ってくれたのに、お兄ちゃんが何もしないんじゃかっこわるいな」
そんなことない。
あたしはそう言いたかった。
でもぐずぐずと泣いてしまい、声に出せなかった。
「ちょっと待ってろ。積りに積もった積年恨みってやつをぶつけてくる」
お兄ちゃんが納屋を何事もなく出て行く。
次の瞬間、爆音があたりに響いた。
次いで、地面から地響きが聞こえてきた。
あたしは驚いて動けないでいると、平然とした兄が納屋に戻ってきた。
「何があったの?」
「なんでもないよ。ちょっとムダニの家を吹き飛ばしてきただけだ。ついでにこの周辺を要塞化しておいたから、誰も入ってこれないさ」
あたしはお兄ちゃんの言っていることが真実だと、外の様子を見なくてもわかった。
それをするだけの力をお兄ちゃんは持っている。
双子なのにどうしてか、お兄ちゃんは優れた魔術師になっている。
それはきっと、昔から努力を怠らなかったからだ。
あたしが遊び回っているとき、お兄ちゃんは本を読んでいた気がする。
いまのエンヌちゃんよりちょっと年上の使用人と、仲良く本を読んでいた記憶がぼんやりとあった。
双子のお兄ちゃんに負けていることを悩んだこともあった。
だけどそれは、エンヌちゃんと知り合ってから溶けてなくなった。
あたしよりも何倍もエンヌちゃんが対抗意識を燃やしていたからだ。
エンヌちゃんとお兄ちゃんを比べて、天と地ほどの差があることを知った。
あたしから見てもエンヌちゃんはすごい。
自分の怪我を治す治癒魔術を覚えた今だから、エンヌちゃんの実力ははかり知れない。
あたしだって中級魔術を少しは使える。
でも、エンヌちゃんほどうまくは治せない。
いままで造作もなくあたしの傷を治してくれたお兄ちゃんは、もはや雲の上の存在だった。
「ちょっと出掛けてくる。俺が戻るまでここで待っていてくれ。危険だと思ったら地下室に隠れるんだ。地下室のものは全部リエラが使って構わない」
「うん」
「水も食糧も一週間分以上はあるから、それで凌いでくれ。食糧が尽きる前に戻ってくるつもりだけど、それが無理なら脱出路を作っておくから、そこから逃げて、行商人か冒険者に助けてもらえ。領主のいる都市に連れてってもらって、エドさんを頼るのがいい」
「うん」
「いい子だ、リエラ」
あたしはがしがしと頭を撫でられるのが好きだった。
同い年の双子のはずなのに、お兄ちゃんはあたしよりずっと大人びている。
あたしには両親の記憶があまりない。
お兄ちゃんははっきりと覚えているようだけど、あんまり話してくれない。
あたしが覚えていることは少なく、大きな家に住んでいたことと、お母さんとお父さんが優しく笑っていたことくらいだ。
だからあたしにとって、お兄ちゃんは父であり母、兄であり保護者なのだった。
できることならいつまでも撫でられたい。
ぎゅっとしてくれると、あたしは安心する。
でも、いつまでも甘えていたくない。
お兄ちゃんの役に立ちたいという相反する思いもあった。
もう誰にもひどいことをされたくない。
お兄ちゃんは誰にも負けないのに旦那様に従ったのは、きっと弱いあたしを守るためだ。
あたしはお兄ちゃんの背中を見送りながら、強くなろうと決心した。
お兄ちゃんの足手まといにはなりたくなかった。
お兄ちゃんはかっこよく笑って、納屋を出て行った。
登場人物紹介第7弾
名前 / ムダニ
種族 / 人間族
性別 / 男
年齢 / 四十歳
職業 / 村長
親から譲り受けた村長の称号をほしいままにするクズ。
妻とは三人目の結婚相手。前の二人はムダニの性格がどうしても受け入れられずに逃げ出した。
ちなみに今の妻とはそこそこ。熱しはしないが冷め切ってもいない?
妻の方も性格がきつくて、貰い手がいなかったんだそうな……。
趣味は自分の持ち物をひとつずつ確認しながら数えること。
どうでもいいか。




