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異世界旅行は落ち着かない  作者: 多真樹
第一部 幼年時代
37/204

第37話 夜の付き合い

 村では収穫を終え、脱穀から風車での臼引きも行われている。

 この時期になると村にやってくる隊商の馬車の数も多く、行きに村の必需品を下ろし、帰りに穀物がパンパンに入った麻袋を積み込んで村を出て行く。

 三日に一度は訪れる隊商に、俺はここぞとばかりに大森林で獲れた素材を売りに行った。

 エド神官も立ち会い、一応はエド神官が手に入れたものとして売り捌く。


 リザードマンの鱗、ヤツメオオカミことフルラルウルフの毛皮、六本腕のヘクサポッドスロスの鉤爪などなど、少しずつ貯め込んだものを一気に放出した。

 おかげで金貨五枚になり、俺はにんまりである。

 円に換算すると五百万である。

 宝くじに当たったような報酬額だ。

 はっきり言ってバカである。

 何がバカか。

 もう世の中にあるあらゆるものがバカらしく見えてくるのだ。

 エド神官は終始引きつった笑みだった。


「もっとあるならあるだけ買うだわな」

「いまはこれだけです、よね? 神官様?」

「あ、ああ、次に来た時にまた用意しておこう」

「次もわたしのところをごひいきに」


 たぶん、買い叩かれている。

 商人のホクホク顔を見れば一発でわかる。

 しかし原価なんてそんなものだろう。

 そんな感じで、未来貯金は着々と貯まっている。


 治癒魔術、解毒魔術を覚えるついでに、魔力の操作方法についてもエド神官と勉強することにした。

 エルフの師匠を探し出すことは急務だが、いつ師匠に愛想を尽かされるかわからない。

 師はひとりに限ったことではないのだ。


 内心は焦っていた。

 大森林を丸一日探しても見つからない。

 闇雲に探すことで見つかるなら、初めからかくれんぼなど指定してこないだろう。

 何かコツがある。

 魔力探知に工夫がいるのだ。


「魔力操作は一日でできるものじゃない。剣士が剣を長年かけて手に馴染ませることと一緒だ。ただ向き不向きはあるから、覚えが早ければ習得も早いだろうな」

「わたしもやるわ! だってアリィばっかり強くなるなんてずるいもん!」

「あ、あたしもやりたい」


 ファビエンヌとリエラが部屋からわらわらとやってきた。

 四人で訓練をすることにした。


「まず、手だ」


 自らの手に、魔力を集めてみせる。

 エド神官の指導の下、魔力を操作する。

 俺は呼吸するように、手に纏う。

 ファビエンヌは眉をしかめ、「ぐぬぬ……」と苦労しながら、十秒かけてぼやっとした魔力を集めた。

 リエラは頭の上に「???」が浮かべている。

 要するにやり方が分かっていない。


「リエラ、手だして」


 俺はリエラの手を取った。


「握っているところが体温以上に熱くなっているのがわかる? 魔力自体が熱くなる感覚だと思ってみて。手に熱を集めるんだ」

「……うん」


 リエラはぎゅっと目を閉じた。

 そこまで力む必要はないが、イメージの問題だ。

 リエラの中の魔力が、ぼわっと膨れ上がった。

 リエラを中心に部屋中に満ちた魔力に、全員が唖然とする。


「お、おい、これは……」

「いやー! リエラちゃんがわたしより強いー!」

「俺の妹ですもん、素養はあって当然です」


 三様の反応。

 しかしリエラは、目を開くなり天井を見上げ、そのまま気を失った。


「魔力切れか。びっくりしたな」

「ええええ! リエラちゃん!」

「ちょっと寝かしてきます」


 俺はリエラを抱き上げた。


「私が連れて行こうか?」

「妹に手を出す気ですか?」

「おい、冗談だよな?」

「ええ、冗談です。魔力を足と腕に通しているので、重さはそんなに感じませんから大丈夫です」

「使い慣れてるな、アルは」

「どうも」

「わたしもついてく!」


 ファビエンヌも椅子を飛び降りてついてきた。

 彼女に部屋の扉を開けてもらい、リエラをベッドに寝かせた。


「リエラちゃんすごかったね!」

「そうだね。ファビーもすぐ抜かれちゃうよ」

「ぬ、抜かれないわ! わたしいっぱいいっぱいお勉強するもん!」

「じゃあ、魔力操作ももっとうまくならないとね。手に魔力を集めるのに十秒は時間をかけすぎだよ。指先に魔力を集めることを一瞬でできなくちゃ」


 そういって俺は、ファビエンヌの眼前に人差し指を立てた。

 指先のみに魔力を集めて、そこから魔力を溢れさせる。

 火魔術を指先に生み出したことが何度かあるが、それは手の平に出そうが、指先に出そうが難易度は変わらない。

 属性魔術は生み出した時点で、はさみやスプーンといった道具と同じ扱いになる。

 ただ威力を増したり、変形したりすることに魔力を込める必要があるだけだ。


「うぅ……できない」

「そう簡単にできても困るんだけどね。俺ができるようになったのは何カ月も練習したからだし」

「すぐにできるようになったらすごい?」

「ああ、すごいな。俺よりすごい」

「じゃあ頑張るわ!」


 ファビエンヌは喜んでリエラの横に寝転がった。

 俺はベッドに腰掛け、身体をねじって寝そべるファビエンヌと目を合わせる。

 蝋燭の火に照らされて、ファビエンヌの瞳や唇が艶めかしく踊る。

 何も言葉を交わさず、俺とファビエンヌは見つめ合う。

 まだ九歳。

 しかし将来有望。


「アリィも寝て!」

「ええー」

「文句言わないの!」


 びしっと指さされて、俺は苦笑する。

 黙っていれば美少女、とはよく言ったものだ。

 喋り出した途端、妖しさはどこかへと消えた。

 リエラを奥の壁際に押しやり(友達の扱いひどいな)、ファビエンヌが真ん中で、俺がベッドの縁ぎりぎりに寝転がる。

 片足がぷらぷらとはみ出ている。

 ファビエンヌが足を絡めてきた。

 身を寄せてきて、顔を覗かせる。


「アリィはひとりでいるのが好きなの?」

「唐突になに?」

「だってリエラちゃんも言ってたのよ。むかしからひとりで本を読んだり、ひとりでどこかに行ったりしてたって。リエラちゃん、追いかけられないからすごく寂しかったって」

「ひとりでいるのが好きかと聞かれたら、確かに好きかもしれない」

「きっと人間が嫌いなのね!」

「そ、そういうわけじゃ……」


 図星とまではいかないが、転生前の自分を引きずっているのは確かだ。

 部屋から出ず、出ても他人と極力距離を置く。

 まさにコミュ障。

 それでも何の問題もなく生きていけた。

 生きるだけならば、だが。


「アリィにもいろいろあったんだから仕方ないわ。そういうことはゆっくりと時間をかけて治していくものなのよ!」


 何を知った風な口を。

 ちょっとひねたことを言いそうになり、俺は話題を変えることにした。


「リエラだってむかしはひとりでどっかに行ってたよ。俺より走り回ってた。それでよく転んで、怪我して泣いてた」

「いまのリエラちゃんだって走り回るわよ。わたしと同じくらい足が速いんだから!」

「そうか。むかしの妹が消えてなくてよかった。最近は人見知りが激しくてね」

「アリィがいつも面倒を見るからよ。かほごなのよ!」

「過保護、かぁ……確かにそうかもしれないけど」


 俺が守るから、妹は俺の後ろに隠れるのが当たり前になってしまった。

 そういうことだろうか。

 これからはどんどん押し出すべきだろうか。

 しかし変な虫が寄ってきたら嫌だしなあ。

 ……これが過保護か。


「お父様が言ってたわ!」

「ファビーは過保護の意味を知らなそうだね」

「よくわからないわ!」

「うんうん、よしよし」

「なんでほっぺを撫でられてるかわからないわ」

「お礼~」

「何のお礼なの? ねえ?」


 特に意味はなかった。

 あえて言うなら、一緒にいてくれてありがとう、というところか。


「リエラと仲良くしてくれてありがとうってこと。よしよし。それとも嫌?」

「い、いやじゃないけど、なんだかもやもやする! だからわたしもやる!」


 なぜか俺も、ファビエンヌに頬を撫でられた。

 ファビエンヌは疲れて眠るまで思いつくままに弾丸のように喋る。

 普段の話し相手のリエラは聞く一方かと思いきや、ちゃんと言葉を返しているから、俺は安心してふたりを見守っていられた。

 しかしその矛先が俺に向くと、ちょっと面倒くさい。

 俺ってやっぱり、人が嫌いなのかもしれない。

 基本的に人を信用しないし。


「ずっと一緒に暮らせればいいのにね」


 ファビエンヌが言う。

 しかしその言葉には、願望しか詰まっていない。

 決してそうならないことを理解して、諦めた声音だ。


「エド神官……いや、エドさんは旅をしながら人々を癒して回る職業だからね。一か所に居着くのはもっと先だろうね」


 たぶん、ファビエンヌが年頃になって、結婚を視野に入れ始めたとき、始めてエド神官の流浪の旅は終わるんじゃないだろうか。

 それを一区切りと思っている節は、短いながら過ごした日々である程度察している。

 ネックになっているのは、やはり亡くなったエド神官の妻だろう。

 ファビエンヌの母親だ。


「お母様がね、魔術師に殺されたの」


 ファビエンヌはぽつりと言った。


「悪い魔術師だったの。町で暴れ出して、たくさん人が死んだの。でもお父様とお母様が倒したわ。わたしのお父様とお母様はすごく強いんだから」

「そうなんだ」


 相槌を打つ。

 それ以外に俺のすることはない。

 気を付けるとすれば、話途中に寝ないことだろうか。


 母が生きていた頃は三人暮らしで家も持っていたんだとか。

 両親は神官として神殿に勤め、幼いファビエンヌも見習いとして物心ついたときから奉仕活動をしてきたそうだ。

 途中、エド神官が顔を見せた。

 俺はエド神官の気配が近づいてくるのを察していて、密着状態のファビエンヌからすっと身を引いた。


「エンヌ、寝るなら隣の部屋に行くぞ」

「やだ! わたし今日リエラちゃんと寝る!」

「じゃあアルは私と寝るんだな」

「えー、やだ」


 誰が好き好んでおっさんなんかと。

 朝とか口臭そうだし。


「アル、あからさまな顔をするのをやめろ。私だって男と寝て嬉しいわけがないだろ」

「ダメ! お父様はひとりで寝て! アリィも一緒に寝るの!」

「え、エンヌ?」


 エド神官は目に見えてうろたえた。

 娘からの拒絶。

 心にくるものがあるだろう。

 気持ちはわかる。

 俺も妹に拒絶されたら首を括る自信がある。


 ファビエンヌは駄々をこねて、俺の袖を掴んで離さなかった。

 エド神官は困った顔をして、俺を睨んだ。

 「手を出したらただじゃおかない」と、目に殺気がこもっていた。


「何もしませんて」

「犯罪者は皆そう言うんだ」

「じゃあどうしろと……」

「お父様はあっちに行って!」


 エド神官が折れて部屋を出て行ったあと、結局ファビエンヌが眠るまで話し相手になっていた。

 エド神官の目に見えて落ち込んだ背中は、哀愁が漂っていた。


「そんな邪険にしなくても……」

「子供だけで寝る日なの!」

「だから、しぃー」


 ファビエンヌのぷるんとした唇に指を添える。


「うるさくしちゃめー、だよ」

「うー、子供扱いされてる……」

「だって俺たち子供じゃん」

「そうじゃなくて……」


 ちょっと不満を残すファビエンヌだった。

 しかしそれもすぐに消える。

 それからしばらく、ファビエンヌは喋りまくっていた。

 やっとのことで眠りについたファビエンヌがぎゅっと握りしめた袖。

 指一本一本引き剥がして、俺はベッドを抜け出す。

 居間に行くと、エド神官がひとりで酒を飲んでいた。

 対面に座る。


「アルか。おまえも早く寝ろよ」

「ぼく、今日はここで寝ますよ。あそこじゃ狭くて眠れませんから」

「……なら私の部屋を使うといい。私はここで朝まで飲んでいるからな」

「一杯付き合いましょうか?」

「子供が何を言ってるんだ」


 エド神官は保護者として真剣な顔をしたが、すぐに疲れた笑みを浮かべた。


「じゃあ水でお相手しますよ」


 そう言ってコップを持ってきて、水魔術でコップを満たす。

 エド神官は俯いて、酒を舐めるように味わっていた。

 彼から話し始めることはなさそうだ。


「最近のファビーを見てると寂しいですか?」

「いや、そんなことはない。ふたりで旅をしていた頃に比べたら、明るくなっているさ。同年代の友達というのがいままでいなかったからな」

「同じ年頃の教徒はいたでしょう?」

「お互いに立場を気にしすぎて、本当の意味で心を開けなかったんだ」

「立場ですか?」

「私はこう見えてもそこそこ上の立場でね。大きな都市の司教と同列に扱われているもんでな」

「向こうが委縮するんですか?」

「ウチの娘は優秀だからな、大人には期待されちまうのさ。それを敏感に察する周りの子供は娘と距離を置く」

「そんなの関係ないと思いますけどね」

「そうだな、関係ない。だが頭の悪い大人が口を挟んでくるのさ。それなら旅をしていたほうがまだ気楽だ」

「奥さんが亡くなったから旅を始めたんですよね?」

「理由はいっぱいあったさ。圧し掛かる責任をすべてほっぽり出して逃げただけとも言えるがな」

「奥さん、美人だったんですか?」

「ああ、私の自慢だ。あんなに美しい人はどこにもいない。私みたいな冒険者崩れと、何の因果か縁があった。私と出会わなければもっと長生きしたかもしれないがな」

「たらればの話をしてもしょうがないです。いまあることを見ましょうよ。ファビー、綺麗じゃないですか」

「ああ、当たり前だ。私とレーアの娘だぞ。あれは妻に似て美しくなる。私の中では妻と娘、二人とも聖女だ。……ああ、聖女なんだ、いつまでもな……」


 酒が溜まったコップに目を落とし、エド神官は思い耽っているようだった。

 泣いているのかと思ったが、エド神官はただぼんやりしていた。


 人には過去がある。

 俺が転生したことをリエラにも言えないように、それぞれの心には口にできない思い出がある。


 何を考え、どのように感じ、どう振る舞うか。

 それがわかる相手は信頼に足る。

 リエラにファビエンヌという友達ができたように、俺にもアルシエルの年齢に見合った友人ができるだろうか。

 きっとそいつは変人だろう。

 俺も変人だから、なんとなくそう思う。

 決してイランとは友達になれないのもわかる。

 腹を割った瞬間、その弱点をお互いに突くという姿勢を崩さないからだ。


 コミュ障の俺にはこれ以上うまく立ち回れそうにない。

 エド神官に一言断りを入れて、ふたりの少女が並んで眠るベッドに、俺も無理やり突撃していった。

 なんとなく、ひとりで寝たくはなかった。

 毛布に潜り込むと、ファビエンヌの手がギュッと、俺の服を掴んでくる。

 亡くなった母親のことを話したから、不安になっているのだろう。

 俺はあくまで、保護者としてファビエンヌの頬を撫でた。

 頭は撫でない。

 なぜか嫌がられるから。





 わたしはその夜、怖い夢を見た。

 お母様が目の前からいなくなる夢。

 わたしを抱きしめ、頭を撫でてくれたお母様が、そのぬくもりが、永遠に失われる夢。


 わたしは寒くなって震えた。

 涙が止めどなく溢れ、わたしは震える声で「お母様」と呼んだ。

 返事は返ってこない。

 「はぁい」と間延びした声は、優しく微笑んでくれた顔は、もう存在しない。

 わたしは目が覚めた。


「ぐす……」


 涙がぽろぽろと頬を伝い落ちた。

 怖い夢を見て、泣いてしまった。

 部屋は真っ暗だった。

 まだ夜なのだろう。

 汗がぐっしょりだった。

 体がべたべたして気持ち悪い。


「お母様?」


 わたしは恐る恐る、いないはずの母に縋るように呼んでいた。

 返事はない。


「どうしたの?」


 いや、返事はあった。

 予期せぬ声だ。アリィのものだった。

 わたしはうろたえてしまう。

 思いもしない相手が傍らにいた。

 どうしていいかわからない。

 わたしはパニックになった。


「大丈夫だよ」


 暗闇の中でアリィは言った。

 いや、後ろから聞こえた。

 リエラの声に近い。リエラだった。

 何が大丈夫なのかわからない。

 わたしは頭を抱えて震えた。

 大丈夫なわけない。

 だってお母様がいないんだもの!

 ああ、わたし、いまどうかしちゃってる……。

 ぎゅっと前から抱きしめられた。

 お母様?


 ぬくもりが、寒くて震えるわたしを温めてくれる。

 お母様が抱きしめてくれたの?

 わたしはまだ、夢うつつがはっきりしていなかった。

 抱きしめてくれたお母様に向かって抱き付いた。

 しかし、その人は、臭いも体の大きさも、あるはずの柔らかな胸の感触もなく、お母様のものとはまったく違っていた。

 それでもお母様とは違った安心感があった。


 におい。くさいとは思わない。

 吸い込むとなぜだか落ち着いた。

 自分と同じくらいの体。

 いや、自分よりも小さな体だ。

 後ろからも抱き付かれた。

 わたしは前と後ろから抱きしめられている。

 体の震えは、ゆっくりと収まっていった。

 体に籠っていた余計な力が抜けていく。

 ようやくわたしは、周りに気を配る余裕が出てきた。

 抱きしめてくれているのはお母様でもお父様でもない。


「落ち着いた?」

「大丈夫だよ、エンヌちゃん」


 耳元でアリィとリエラの声がした。

 わたしはわたしより小さな双子に抱きしめられている。

 そのことに気づくと、急に恥ずかしくなってきた。

 わたしの方がお姉さんなのに!


「も、もう大丈夫だから……」


 わたしの声はいつになく気弱だった。

 恥ずかしさと恥ずかしさと恥ずかしさで死にそうだ。

 それに、わたしの体は汗まみれで汚いと思う。

 前にいるアリィの体をとりあえず押し返し、距離を取る。

 そうすると、鼻先にむわっと香ってくる臭い。

 主に下から。

 そして汗にしてはぐっしょりとしすぎたベッド。


「……うぅ」


 わたしは恥ずかしくて顔を伏せ、泣いてしまう。

 九歳にもなって、おねしょしてる……。





「大丈夫だから」


 俺はそう言って、ベッドを濡らし、おしっこの臭いが漂うファビエンヌをもう一度抱きしめた。

 幼女おしっこ。

 危険な香りがする。

 すでに部屋中に充満している香り。

 深くは追求すまい。


「リエラ、ベッドから降りて」

「うん」


 ファビエンヌは動かない。

 俺は彼女を抱き上げ、ベッドから下ろした。

 そして、彼女の汗や衣服についたもろもろの水分を水魔術で吸い出し球体にする。

 空気中に浮かんだそれは、きっと明るいところで見たら黄色……おっとそれ以上は考えまい。

 ついでにベッドに広がっているであろう世界地図からも吸水。

 感覚ではバレーボールくらいの大きさになった水の塊。


「リエラ、窓開けて」

「あいあーい」


 手探りでリエラが窓を開ける。

 月明かりは微弱で、部屋のシルエットしか見えない。

 窓を開けて、水球を放り出した。

 ぱしゃっと水音が響く。

 ついでに風魔術で換気を行い……はい、なにもありませんでしたー、という状態にする。

 まだ床にへたり込んでいるファビエンヌを抱き上げる。

 そのままいそいそとベッドに下ろし、毛布を掛ける。

 リエラもごそごそとベッドに上がってきた。


「!」

「あ、ごめなさい」


 痛い。

 リエラのやつ、人の太ももを踏んでいった。

 まあ視界が悪いのだから許そう。

 ファビエンヌはしくしく泣いている。


「大丈夫だよ、エンヌちゃん。恥ずかしいことなんてないよ。あたしもね、実はおねしょしちゃうんだけどね、えへへ……お兄ちゃんがね、全部きれいにしてくれるの」


 そう、兄である俺は妹のおねしょを片付ける義務がある。

 というのは冗談だが。

 リエラは実を言うと、夜泣きがひどかった。


 両親と幼くして別れ、ムダニの暴力に怯える日々。

 大人と喋るとき緊張しているし、それがストレスになっておねしょに繋がることはわかっていた。

 だから俺は怒らず、リエラが泣き止むまで声を掛け頭を撫でてやることにしている。

 いくら俺の方にリエラの水気の被害があったところで、おねしょくらいなら、いまやってみせたように簡単に始末することができる。


 怒る理由がない。

 それに、おねしょを怒られる子供は、またその怒られたストレスでおねしょをするとなにかで聞いたことがある。

 だから俺は受け入れる。

 両手を広げ、何も悪くないと。

 リエラは俺の教育を受けて柔らかく育った。

 きっとファビエンヌにも通用するはずだ。


 そのあと、俺は声を掛けず、リエラに任せた。

 ふたりが寝付いた頃になって、俺も眠りに落ちた。

 翌朝、朝食で顔を合わせたファビエンヌが、俺を見てひどく怒ったように睨んできた。

 なぜだ……。

 何を間違った……。

第37話を読んで気分を悪くされた方にはお詫び申し上げます。



逆に喜ばれた方は……


ファビエンヌ「……な、なによ! きもいのよ!」

リエラ「き、きもちわるいです……」


ふたりの罵倒が待ってます。

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