第36話 治癒魔術
神官の朝は早い。
日も昇らないうちに、神官父娘は起き出して、祈り用の純白の正装に着替える。
彼ら父娘は、口では「信仰は腹の足しにもならない」だの「そうね! 神様は美味しいご飯を用意してくれものね!」と否定的だが、祈るふたりの姿は敬虔な信者そのものであった。
ふたりの中で祈ることはすでに不動のものとなっているのだろう。
あるいはすでに他界している妻、あるいは母の姿を自らの内なる神に重ねているのかもしれない。
神様はそれぞれの心の中にある。
それは人と比較するものではない。
口では気安く扱うくせに、本心ではそう思っていない。
そんな姿から、彼らの祈りの深さが如実に現れているようだった。
祈る父娘の姿を眺め、俺にはひとつだけ言えることがある。
ファビエンヌの純白の修道服は、成長したらお尻のラインがモロわかりでエロいということだ。
将来が楽しみだ。
顔は整っているから、きっと美人になるだろう。
あとは胸の成長にも期待しよう。
ナルシェの胸が膨らみはじめたのは、十歳のときだった。
いまファビエンヌは九歳。
そろそろ性徴期である。
いい話を下品な話で台無しにしたところで、俺は朝の仕事に行くとしよう。
日が昇り始めた頃に起き出し、ふたりがリビングで膝をつき手を合わすその後ろを通って、ムダニの家に向かうのだ。
水瓶に水を溜める。
薪を補充する。
起き出す前にテーブルや床を磨き、窯に火を入れる。
水を張った鍋を火にかけ、野菜を切っていく。
塩で味を整え、一方でパンを焼き直す。
ムダニとイラン用に肉を焼き、奥さま用に果物を切る。
皿に盛ってテーブルに並べておき、これで朝の仕事はおしまいだ。
神官父娘と住み始めていくらか経ったが、楽しい時間は必ず終わりが来る。
エド神官の世話係になったところで、結局は短期的なものなのだ。
いずれはムダニの奴隷に戻る。
そのときに余計な怒りを買わないために、いつも通りの支度を済ませておく。
火を落としてから家にとって返し、リエラが作った朝食を四人で食べる。
最初、リエラは床に皿を置き、そこで食べようとした。
ファビエンヌは泣きそうな顔になった。
ファビエンヌがリエラを抱きしめて、テーブルで食べるんだよ、と説得していた。
食事が終わると各自、好きなように過ごす。
リエラとファビエンヌは、大抵連れ添っておしゃべりをしているか、宝物を探しに二人で出掛ける。
仲良きことで。
エド神官は午前中、村を回って治療活動を行っているようだ。
通常かかる治療費の代わりに、野菜などをもらってくる。
いま村では、老若男女駆り出して穀物の収穫が行われている。
エド神官とファビエンヌ、リエラもその手伝いに午後一杯を使っている。
「アル……アリィは今日、何をするの?」
ちょっと照れ気味に、ファビエンヌに聞かれた。
「大森林に入って師匠と修行」
「アル……アリィは毎日それじゃない! わたしたちと治癒魔術のお勉強しなさいよ!」
ファビエンヌの顔は、不満半分、呆れ半分といった感じだ。
「夜やってるから大丈夫だよ」
「わたしには森に入るなって言ったくせに!」
ファビエンヌが頬を膨らます。
俺はちょんちょんと膨らんだ頬をつついた。
不満気だったファビエンヌは、堪え切れずに腹を抱えて笑った。
箸が転がってもおかしい年頃だ。
これはもう放っておくしかない。
「ほら、これあげる」
俺はファビエンヌの手の上に、土を固めて作った赤銅色のウサギのミニチュアを置く。
生成中に火の魔術も使っているので、土塊のように水で溶けることもない。
「あ、これかわいい」
ファビエンヌの目が輝いた。
両手でそっと持って壊れないように、目線の高さに掲げている。
二足歩行のウサギさん。
本物は凶悪な顔つきをしているので、愛嬌があるようにきょとんとした表情に作った。
かなり硬度と強度を上げて作ったので、少しばかり重いのが難点だ。
人に投げて使われたらちょっとした凶器になる。
一番折れやすそうな耳ですら、落としたり叩きつけたりしても欠けもしないからな。
何度も言うが壊れないように強度を上げているので、凶器になりかねない。
半永久的な魔力付与ができるようになったら、重さを減らし、物に当たっても柔らかく受け止めてくれる被膜のようなものを付けたい。
そうすれば事故防止になる。
「あ、あー……エンヌちゃんいいなー。すっごくかわいい」
リエラがファビエンヌの横にくっついて、同じようにキラキラした目で見ている。
そんなもの欲しそうな顔をしなくても、すでにリエラのお宝は数えきれないくらいあるでしょうに。
しかしそこは妹愛に溢れる兄。
「リエラには、はいこれ」
隠し玉とばかりに後ろから取り出す。
たてがみをなびかせるウガルルムのミニチュアである。
こちらは黄土色。
ファビエンヌのときと同じように手のひらにのせた。
「わーわー! かっこいい!」
「なんかリエラのほうが強そう……」
自分のウサギとリエラの獅子を見比べ、複雑な表情を浮かべるファビエンヌ。
まあ確かに、ウガルルムの方が作るのに苦労したのは本当だ。
作るのに一週間もかかったが、細部はデフォルメされているのでなんともいえない。
だがしばらくするとファビエンヌは自分なりに納得したのか、ウサギを愛おしそうに撫でながら、ふたりして部屋の隅っこに座って話し始めた。
「手先が器用だな。魔術で作ったんだろ?」
「そうです。ぼくにはこれくらいしか作れないんですけど」
「いや、十分だろうよ。世の細工師が食いっぱぐれっちまうくらいにな」
エド神官は苦笑して、俺の頭をがしがしと撫でた。
そして治療のために家を出て行った。
子供扱いだが、嫌いではない。
ちょっと前までは撫でられるより撫でることの方が多かったので、新鮮に感じた。
両親にたくさん愛情を注がれた、あの屋敷に住んでいた頃のことを思い出す。
どうせ撫でてくれるなら、無骨な手ではなくナルシェのような繊細な指がいいんだけどな。
いつものように噛みついてくるファビエンヌが人形に気を取られている間に、家を抜け出して大森林に向かう。
もう二週間になるが、まだエルフ師匠を見つけられていない。
ウガルルムにはその後、一度も遭遇していないが、土竜、凶鳥、巨鹿に蜥蜴とさまざまな魔物に遭遇し、屠るなり逃げるなりしてきた。
それでわかったことがある。
いまの俺は、大森林に生息する魔物の大半には勝てるが、一部の異常に強い魔物には敵わない。
理由はわかっている。
出力不足なのだ。
ある程度強くなると、魔物は自身の魔力を魔法障壁につぎ込む。
それがあるのとないのとでは、強さに溝が生まれるほどだ。
同じ群れの魔物の一体が魔法障壁を使えるようになると、まるで別種のような錯覚を受けるほど力量が変わる。
ウサギのリーダーがその典型だろう。
あるときリザードマンの群れを屠った。
しかし一匹だけ魔法障壁を使えるやつがいて、倒したと油断した瞬間に噛みつかれそうになってひやりとした経験がある。
よく目を凝らせば簡単に判別がつく。
立ち上る魔力が桁違いなのだ。
ひとは身をもって学ぶ。
それ以降、俺は魔物に遭ったらまず目を凝らし、魔力の量を見ることから始めた。
それが自然になってくると、もはや俺に死角はなかった。
人、それを慢心と言う……。
今日も一日、大森林で不毛な戦いに明け暮れた後、身綺麗にしてムダニの家で料理を作る。
ムダニの妻が作るときもあるが、基本的に彼らはだらしない。
面倒を嫌い、自分のやりたいことをやるといった感じだ。
ムダニの妻は刺繍に嵌っていて、彼女の取り巻きと日がな一日、綺麗な布や色のついた糸を使って作品を生み出している。
その自己中心的な性格は息子のイランにも受け継がれており、彼は廃村となったプロウ村に住み着いた魔術師の元に足繁く通っている。
最近は家にも戻ってこず、元宮廷魔術師のもとで泊まることも多いようだ。
俺としても顔を合わせないのは気が楽でいい。
妹を狙っており、何かにつけて俺を殴りたがるから、存在自体が面倒なのだ。
ムダニはいま、収穫期を迎えて忙しくする村人たちの管理に追われていた。
彼が働いていると思ったら大間違いだ。
収穫量を計算し、税金と各家庭に振り分けられる分を引いた上で残る貯蓄分。
ここからどれくらい抜いて自分の懐に落とすか。
そればかり考えている汚い男である。
彼も忙しいからか、村長宅での仕事はスムーズに済んだ。
ムダニと顔を合わせることも少ないので、殴られる心配もない。
これこそ正しい奉公じゃないか? と思いつつ、リエラと交互にやっている。
陽も暮れて夜になると、四人で食事を済ます。
食卓はいつも騒がしい。
ファビエンヌはお喋りだし、リエラも最近になってようやくエド神官に対しても心を開き始め、気兼ねなく笑えるようになってきた。
温かい団欒が生まれつつある。
四つある席は、男女で左右に分かれている。
リエラとファビエンヌは、髪の色や質感がかなり違うが、姉妹みたいに仲が良かった。
俺は話の相槌を打つぐらいで、積極的には話さない。
リエラが笑っている光景を温かい目で見つめるのだ。
そうしていると、横にいるエド神官に肘でつつかれる。
「アル、その気持ち悪い目をやめろよな。神官の私より妙に悟った顔をしやがって」
「娘を持った父親ってこんな感じなんでしょうかね?」
「……本当に七歳児の双子か? 私は最近、自分の頭がどうかしてきたんじゃないかって思うんだよ」
「初めからどうかしてたじゃないですか。七歳児殴るし」
「その七歳児が普通の七歳児であれば殴れなかったさ」
「ぼくをタメだと思って接してくれてもいいですよ?」
自分を指さしてにこりと笑う。
「……無理だな。妙に大人びているかと思えば、すごく子供じみてるときもある」
「ぐふうっ」
精神的ダメージを受けた。
精神年齢三十代前半のはずなのに!
「こうして私と普通に話している時点で子供っぽくはないのだろうな。環境がそうさせることもあるさ」
エド神官は笑わず、難しい顔で食事を続けた。
食後にはいつも、エド神官から治癒魔術の講義があった。
正直大森林でクタクタで、すぐにでも寝たい。
だがこれは、俺がお願いしてやってもらっていることだった。
最近は裁縫もサボり気味だ。
しかし魔力の通った衣服を作りすぎると、どこで変に思われるかわかったものではない。
裁縫はお休みさせておいてちょうどいいのだ。
時間はあるだけ欲しかった。
上級治癒と解毒を完全に自分のものにするにも時間がかかると言うのが、最初の講義でわかった。
「まずは、そうだな。私とアルのふたりだけの授業だから少々荒っぽくいくが」との前置きの後、「まずは中級治癒まで使えるんだったな」と言って、エド神官は自分の掌をナイフで刺した。
ちょっと顔をしかめたが、すぐに傷口を俺の方に向けてくる。
「さあ、治してみてくれ」
座学ではなく、基本的に身をもって知る、の教育方針らしい。
そう言ったら、
「いや、娘やリエラにはこんな教え方しないだろ。アルに対しては荒っぽくするって言っただろ」
と返された。
俺を何だと思っているのだろうか。
いや、治したけどね。
他人の傷は自分の傷より神経を使う。
なぜなら魔力を通して治療するということは、反対に魔力を通して相手を壊すこともできるからだ。
自分のものでないものを壊すには責任が重すぎる。
「無詠唱での治療がどういうものか、アルはどうやらわかっているようだな」
「詠唱より段違いに難しいですね」
だが、その分繊細な治療ができる。
あと、コストがあまりかからず無駄にならない。
詠唱は型に嵌った治療しかできないから、どんなに些細な切り傷でも、一定の魔力を使う。
詠唱自体に魔力を持っていかれるのだと、俺は思っている。
「実は無詠唱の治癒魔術師は国で認められたものしかなれない」
「治すつもりが相手を壊しかねないからですね」
「そうだ。確か妹さんの傷もアルが治しているんだったな。最初はかなり神経を使っただろう」
「自分に使う百倍以上注意を払いましたよ。自分の所為で妹を殺す羽目になったら、そのまま死ぬ気でしたから」
「わかってるならいいんだ。上級魔術・解毒にしても、その下地は変わらない。要するにさらに気を張る必要があるということと、治す箇所をよく知る必要があるという違いだけだ」
「逆に詳しくなればなるほど、人の殺し方もうまくなるんですけどね。たとえば首の太い血管、これを詰まらせるだけで人は死にます」
「そうだな。だから教える側も、教わる側も理性が必要だ」
「倫理観とかどうでもいいです。やむを得ず人も殺してるんで」
さりげなく言ったが、実はかなり気を使った。
エド神官は痛ましい顔になったが、「そうか」と頷くだけの留めたようだ。
理解のある大人で助かる。
彼には、俺の罪を知っていてほしいと思う。
「下級は自身の傷を治す、中級は他者の傷を治す、上級魔術は欠損部を治す、でしたよね?」
「ああ、たとえば切断された指をくっつけて治すなら、下級でも可能だ。上級はすでにないものを生やすこともできるから、四本腕、四本足の人間というのも作ることができる」
要するに、魔力で人体の一部を生み出すのだ。
土魔術に例えると、地面の土を変形させるのが下級、地面に接していないところで土を作り出すのが中級、何もないところで土を作り出すのが上級になる。
上級は周囲に漂う魔力を集めるものの、大半は自分の魔力をもろに消費するから燃費がとにかく悪い。
魔力が無限にあるなら話は別だが、有限の身では限度がある。
「魔物にそういう奇形が多いのも、もしかしたら魔力で手とか目を増やしてるからかもしれないですね」
「ふむ、それは新しい発想だな。あり得ないことではない」
「上級で生み出した欠損部っていうのは、実は本来の自分の体じゃないんじゃないですかね? 増やすこともできるなら、それって自分の体じゃないところから持ってきてるわけですし」
「そういう報告はあるな。膝から下のなくなった部分を治したはいいが、微妙に長さが違っていたりな」
「ということは、自分の体を魔力で作り変えることも可能、というわけですね?」
「そこまでくると化け物染みているがな」
『イケメン化計画爆誕!』か?
成長過程から少しずつ操作できるとしたら、足をほんの少し長くしたり、顔のつくりをほんの少し整えたりと、夢と希望に溢れた未来が待っているのではなかろうか。
「これは夢が膨らみますね」
「上級魔術の話だったんだがな。大幅に脱線して新たな理論が生み出されているぞ」
魔力の汎用性が高すぎて困る。
俺はそのあと、エド神官から体のつくりについて学んだ。
上級魔術は座学で基礎を振り返りつつ、解毒は少しずつ実践で教えてくれるようだ。
そのうち毒を飲まされて治してみろと言われそうで怖い。
俺が無敵になる日も近い……たぶん。




