第26話 街道の魔物
三日目の朝、夜が明ける少し前、視界は朝霧に包まれていた。
私と娘はいつものように着替え、手を組み略式で祈る。
祈りが終わった頃、アルが霧の中から現れた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。村へ戻っていたのか?」
「ええ、ちょっと」
アルは夜のうちに村に戻り、いま戻ってきたらしい。
気になるが、聞くのも野暮だろう。
幼い子供を出歩かせていいのかという倫理観については、この際目をつむろう。
二頭鷲の襲撃を退けて街道の魔物をあっさりと屠る子供に、夜道は危ないと説教を垂れる自信が私にはない。
「その代わり、街道の魔物はあらかた始末してきたので」
アルは何でもないことのように言う。
代わりというのは、勝手な行動をした代わり、ということだろう。
そういえば昨日は一度も魔物に遭遇していない。
魔物から商隊を守るための護衛がちゃんとついているのに、閑古鳥が鳴いているのは幼い彼の所為だ。
村に戻る理由があるのだろうか。
何かの報告か?
村に私たち父娘をおびき寄せて、何かを企んでいるとか?
そうだとしてもわざわざ疑われるような行動はしないだろう。
父娘の二人旅である所為か、必要以上に気が張ってしまうのは仕方がない。
若い頃の私ならば無茶は買ってでもしたところがあったが、いまは守るべき娘がいる。
アルには計り知れないところがあるが、私たちは怪我の治療を頼まれただけである。
そう思い直すことで、彼への詮索はひとまず止めることができた。
問題が起こったのは昼を過ぎたあたりだった。
開けた平原を進んでいる頃だ。
最初に御者が異変に気づいた。
この先の街道で獣の群れを見かけたと言うのだ。
丘の上に一瞬だけ見えたので、全体の数はわからない。
こういう時に率先して動くのが護衛として雇われた冒険者たちだ。
手に剣や手慣れた武器を持つ四人が丘のほうへと向かっていき、二人が馬車を護るために残った。
しばらくして、丘を越えた四人が血相を変えて戻ってきた。
「魔物だ! それもとんでもねえ凶悪な奴だ!」
誰もがその言葉を鵜呑みにできなかった。
なぜなら街道というものは、定期的に冒険者や国に抱えられた軍隊、神殿騎士団が討伐を行い安全を確保するからだ。
それに話によればアルが往復の間に魔物を駆逐しているはずだ。
「放置された魔物の死肉に群がってやがった! たぶん、臭いを嗅ぎつけて奥から出てきやがったんだ!」
笑えない冗談だな、と思った。
良かれと思ってやったことが裏目に出ている。
しかしアルを責めることはできない。
彼がいなければ、魔物の出現率は多く、足止めを喰らっていたかもしれないのだから。
「馬車だけは何としても護るんだわなぁ! 雇った分の働きはしてもらうんだわなぁ!」
「無理だ! あの数は見たことねえよ!」
四人の冒険者は馬車を追い越し、来た道を走って逃げていく。
私たちは呆気に取られて彼らを見送ることしかできなかった。
丘の向こうにいる具体的な何かがわからなかったのだ。
最初に、丘の稜線に大きな耳がにょきっと見えた。
「あ、ウサギ」
娘が喜色を浮かべた。
その顔はすぐに凍り付く。
ウサギが一羽、二羽、十羽、二十羽……。
稜線を埋め尽くさんばかりに、途中から数えるのも馬鹿らしくなるくらいの群れが現れる。
しかもよく見ると、大きさが成熟したイノシシよりも大型だ。
「バトルラビットか!」
護衛で残っていた戦士のひとりが叫ぶ。
手に手に棍棒やら冒険者から奪っただろう斧を手にしているところからそういう名前がついたのだ。
腕力は冒険者と同じくらいかそれ以上はある。
「ハンターラビットもいるぞ!」
ウサギの群れから矢が飛んできた。
命中率の低そうな木の矢がふらふらと飛んできて、馬車の幌に刺さった。弓矢を使うウサギがハンターラビットなのだ。
群れで行動する習性があるが、この数には冒険者も驚きを隠せない。
普通は十羽程度なのだ。
魔物の中でも比較的狩りやすいラビットだが、丘の上を埋め尽くす百はくだらない数がこちらを見下ろしているのを見ると、さすがに簡単とは言えないだろう。
「リーダーがいるぞ。だめだ。逃げたほうがいい!」
リーダーとは野生の群れを統括する、一回り大きな個体だ。
これがいる群れといない群れでは、脅威度が段違いだ。
私も冒険者の端くれ。
冒険者たちが戦わず逃げた理由も想像がつく。
護衛が護衛の役を為さず、馬車を置いて逃げていく。
御者と商人は、ことの重大さがわかっておらず、逃げ出すにも行動が遅れている。
私は、最初に娘の安全を考えるようにしている。
百を超える攻撃的な魔物から、うまく逃げるのは厳しいだろう。
逃げるなら、近くの村まで一時間以上走らねばならない。
しかし、こんな大群を村に連れていったら大惨事になる。
きっと先に逃げた冒険者たちは、村の被害なんてひと欠片も考えていないに違いない。
自分が助かるために村ひとつを犠牲にする、そういう身勝手な考えの者が護衛とは、お笑い種だ。
商隊の護衛は、そこそこ信頼のある冒険者でしか務まらない。
その信頼を投げ打ってでも生き残るほうを選ぶのだから、この状況はかなりまずい。
私はアルを見た。
彼が娘を連れて逃げてくれれば、私ひとり、ここに残って足止めができる。
アルはいま、馬車の幌の上に立って、丘に並ぶウサギの群れを感心したように眺めていた。
「アル君、お願いがあるんだが」
「わかってます。ぼくの撒いた種ですからね。きっちりけじめはつけますよ」
「いや、そうじゃないんだが……」
なかなか好戦的な子のようだ。
魔物の数に気圧された様子もない。
ここまで自信満々だと、私は逆に不安になった。
まだ子供なのだ。
娘より幼い。
状況の緊迫さを読めなくても仕方がない。
「まず、火魔術で見える敵を焼き払います。たぶん後ろから次々現れますんで、ぼくがこぼしたウサギを始末してください」
「本気でやる気かい?」
「近づかれなければただのウサギでしょ?」
私は一瞬、ぽかんとしたと思う。
その後、なぜかおかしくなって笑った。
「数で押し寄せられると凶悪な魔物なんだがね」
「あとは矢に注意するくらいですかね。あんな図体でそこそこ足が速かった記憶があるんですが、あのウサギに跳躍力ってありますか?」
「いや、ないよ。足が速いことくらいだ。そうだな。どうせいまから逃げたって、追いつかれて食い散らかされるのがオチだ。アル君の作戦に乗ろうじゃないか」
「作戦とも呼べませんけどね」
アルはにやりと笑った。
つくづく子供離れした顔をする。
「ああ、そうだ。あの魔物って肉とか皮とか、売れます?」
「ここの商人たちがいい値段で買い取ってくれると思うぞ」
私は怯えて震えるだけの商人たちを見やりながら言った。
「それじゃあ“火”じゃなくて“風”にしようかな」
アルが手をかざした。
すると一陣の風が吹き荒れた。
次の瞬間、丘の上にいたウサギたちが悲鳴を上げ始めた。
見えているバトルラビットとハンターラビットを、根こそぎ風の鎌で殺したのだ。
商人はもちろん、私や娘はその威力に目を疑った。
「すごい……」
娘も目を丸くして、一方的な虐殺の光景に衝撃を受けていた。
さらに目を疑うとすれば、仲間たちの骸を乗り越えて大量のウサギが丘を駆け下りてきたことか。
見えていた数の数倍はいる。
「エンヌ、君は馬車の中に入っているように。すぐにヒーリングを使えるように準備しておきなさい」
「……は、はい」
こくこくと頷く娘の顔は真っ青である。
さあこいと、腰に差した護身用のメイスを抜き、私は馬車の前に出た。
突如として地響きが聞こえた。
私の目の前、道の両側に三メートル近い高さの土の壁が現れた。
押し寄せるウサギの大群を絞るようにロート状になっている。
アルの気が利き過ぎだ。
振り返ると、馬車の幌の上に立つ彼がにこっと無邪気に笑った。
私は最初に辿り着いたウサギを、メイスで一撃のもとに沈めた。
攻め寄せる場所を絞られたウサギたちは、ぎゅうぎゅうになって詰まり始める。
そこにアルが風魔術をぶち込み、大量の死骸が生まれる。
それを乗り越えてやってくるウサギも、次々にアルの獲物となった。
私のもとに辿り着くウサギは散発的だ。
おかげで武力があまり高くない私でも対応できる。
「きた」
アルのその声に、私は丘を見上げた。
周りのウサギより二倍の高さ、三倍の幅を持つ巨大なウサギ。
「バーサックラビットだ」
私は誰にともなく呟いた。
リーダークラスの魔物は滅多に現れない。
その強さは従える通常個体とは一線を画す。
一体で小さな村をあっという間に壊滅させるだろう。
「ギュィィィアアアァァァァァァッ!」
バーサックだけあって鳴き声も威圧的だった。
リーダーは巨大な棍棒を手にしている。
アルが狙い撃ちとばかりに風魔術を放った。
しかし、リーダーは棍棒を振り回し、風魔術を霧散させてしまった。
「うっそ……」
驚きを隠せないアルだが、私もまた唖然である。
一撃で倒せるような生易しい相手ではないのだ。
私の足にバトルラビットの小剣が掠めた。
「うぐっ」
私はメイスを返しざまに頭を叩き潰す。
矢が飛んできた。
二本、メイスで叩き落とす。
しかし、更に飛んできた矢が左腕に一本刺さり、耳元を一本掠めていく。
さすがに丘の向こうからはもう現れなかった。
残ったのは五十羽ほどだろうか。
アルはリーダーを何とかしようとしているので、数を減らす手助けは期待できない。
と思ったら、風魔術がウサギの固まっているところに巻き起こり、あっという間に三十体を屠った。
「助かる!」
アルに顔を向けると、親指を立てて白い歯を見せた。
戦闘中とは思えないほど良い笑顔だった。
末恐ろしい魔術師だとも思った。
リーダーと群れの間に少し距離ができた。
アルは狙ってリーダーを孤立させたのだ。
リーダーはまだ、丘の上から動いていない。
アルは馬車から飛び上がり、土壁のてっぺんを蹴って、ふわりとウサギの大群を飛び越えた。
途中矢を放ったウサギもいたが、アルは目敏く見つけ、火魔術で矢を放ったウサギごと燃やしてしまった。
リーダーと正対するように着地。
それと同時に、群れとリーダーを隔てるように、地面に火魔術で一線を引いてしまう。
「アル君! そいつは強い! 無茶はするな!」
アルは振り向こうとしない。
私は応援に駆けつけたいが、迫りくる二十羽を相手にするのにも許容オーバー気味だった。
「“天上の父なる御方の慈愛、大地の母なる御方の抱擁をこの者に与えん”【ヒーリング】」
娘が後ろでヒーリングをかけてくれるので、傷はすぐに癒える。
皆が皆自分の戦いをしている。
私も泣き言は言っていられなかった。
私が何とか二十羽を倒し切ったとき、アルはウサギの死骸を風魔術で一か所に積み上げながら、こちらに歩いてくるところだった。
リーダーは? と見上げると、首のないバーサックラビットが膝をついて固まっていた。
「エドさん、リーダーウサギって高く売れますよね?」
「……ああ、通常の十倍の値段はするはずだ。良質な肉が取れるし、皮も最高級だと聞く」
突然変異で生まれるリーダー級の魔物なんて、滅多に遭遇できるものではない。
最弱の魔物からリーダー級が現れて、その土地の生態系がひっくり返ったという話も聞くくらいだ。
「じゃあ、これはぼくの取り分ってことですよね?」
アルは振り返り、黙したウサギの司令官の骸を指さす。
「確認を取らなくてもここにいるラビットの八割はアル君の手柄だよ」
「いえ、ぼくはリーダー以外の報酬は二割でいいです」
「思ったよりも謙虚なんだな」
「ありすぎても困るので。あと、正当価格で買い取ってもらえるなら文句はないです」
「人間、余裕を持って生きないとな。かといって私がもらう分にしても、三割程度でいいんだが」
「肉は腐っちゃうから、近くの村に配ればいいんじゃないですかね」
「それなら商人に安く買い取ってもらってから頼めばいいだろう。リーダー一体で金貨五枚はくだらないはずだ」
「金貨五枚!」
アルが頭で計算しているようだ。目を白黒させている。
リーダーの体は余すところなく素材として利用できる。
肉だけでも百グラム銅版一枚は値が張るはずだ。
二百キロはあるだろうから、百キロ近くの枝肉が取れる。
それだけで銀板一枚だ。
そのほかにも毛皮や骨、内臓などの素材も一級品なので、十分高値で売れる。
「商人との取引は私が立ち会おう。ここにいる商人たちは命を救われたのだ。吹っかけられることはないだろ」
「それはいいですね、お願いします!」
アルは年相応に無邪気な笑みを浮かべた。
とても楽しそうだ。
宝物を集める子供のようだと思った。




