第22話 神官父娘
キリスク町の神殿――とある治療室にて。
「“天上の父なる御方の慈愛、大地の母なる御方の抱擁をこの者に与えん”【ヒーリング】」
無骨な私の手に淡い光を纏い、項垂れる老人の背中から腰にかけてそっと押していく。
淡い光は残滓の様に老人の背中に残って、そして消えていく。
苦悶の表情で私のところを訪ねてきた老人は、見る間に笑顔を取り戻していった。
「こりゃ驚きましたわ。腰の痛みがすっかり引いてますわ」
老人は皺ぶいた顔にこぼれるような笑みを浮かべる。
「なに、あなたの心が清らかで、神もそれを見ていてくださったからですよ。私は神の代理人に過ぎませんので」
私は心にもないことを述べて、何度も頭を下げる老人を見送った。
私は巡業神官と呼ばれる、大陸の神殿を巡って経験を積む神官だ。
しかし、教義やら布教活動やら、そういったものはどうでもよかった。
食う飯に困り、覚えのある回復魔術を使って神官をやっているにすぎない。
巡業神官として、最長でひと月ほどひと所に滞在し、それ以外は旅をして暮らしている。
物盗りや魔物が跋扈する中を旅をして回ることになるのだが、伴は九歳になる娘だけだった。
私がこの世でもっとも大事にしているのが、この最愛の娘だ。
目に入れても痛くない宝石ちゃんである。
私にはもうひとりの最愛の人がいた。
その妻が亡くなったのは二年前だった。
最愛の人を失ったショックから、私は一時期自暴自棄になった。
そんな私を見捨てず支えてくれたのが当時七歳の娘だった。
私は妻を失った土地で暮らすことができなくなり、巡業神官なんていう、駆け出しの若者がやるような世界放浪のような真似を始めた。
娘は嫌がらずについてきてくれる。
いや、本当は嫌なのかもしれないが、それを口に出して言われたことはない。
賢い娘だ。
きつい旅であるが、すでに一年半が過ぎていた。
手持ちがそれほど多いわけではないが、娘に不憫を強いるほど心許ないわけではない。
神官の治療魔術を手伝っていると、そこそこの実入りになるのだ。
娘だって切り傷くらいならヒーリングで治せるが、病気や体内の病まで治してしまうほどの強いヒーリングができる人間は意外と少ない。
だから、私のような信心深い敬虔な神官とは程遠い人間でも重宝されるのだ。
「お父様、いまの方で最後よ。早くご飯に行きましょ」
「もう終わりか? いま何時だ?」
「とっくに七時を過ぎてるわよ。それでも今日は空いているほうだったから、神官様がもう上がってもいいって仰ってくれたわ」
九歳になる娘が診察室に顔を出す。
緩くウェーブのかかった肩まで届くプラチナブロンドの髪。
青い瞳には勝気な色が見え隠れする。
肉付きの薄いほそっこい娘だが、正直私はこの子に頭が上がらない。
家事や身の回りのすべてを彼女がひとりでこなしているのだ。
私には治癒魔術くらいしか、娘に誇るものがないダメな父親だった。
いや、私自身、何もできないわけではない。
ただ娘が、「お父様は治癒魔術で人様を助けるの。わたしはお料理とお掃除を頑張ってお父様を助けるわ」と健気なことを言うものだから、それを任せてしまっている。
私はその日、妻の形見を前に、人知れず大号泣した。
「今日はお外で食べるのよね?」
「ああ、約束だからな」
「じゃあ黒猫亭に行きましょ!」
黒猫亭の名物ミートパイを想像して娘は目を輝かせた。
善は急げと私は娘に手を引かれた。
街に繰り出すと、賑わいが少しずつ引いているところだった。
空はいつの間にか暗くなっており、家に帰るものたちが往来を賑わしている。
表通りの診療所の前を通った時、子供が騒いでいるのを見かけた。
一見すると身なりは悪い。
しかし私はなんとなく目が離せなかった。
その子の持つ雰囲気が、ただの乞食とは違ったからだ。
赤毛で襤褸をまとっている。
よく見るとローブは背中のところで深く破け、身体も薄汚れていた。
横顔は青白く、幼いのに目の下に隈ができていた。
栄養失調というよりは、過度の疲労だろう。
治療なんかに専念していると、一目見るだけでおおよその診断ができてしまうものだ。
子供は診療所の扉を叩くが、相手にされていない。
「少し時間をくれたっていいじゃないか! 話も聞かないのかよ!」
彼の身なりを考えれば、金を持っていそうには見えない。
それに、いまは診療時間外だ。
診療所の医者は、それらの理由から相手にしないことを決めたのだろう。
私もこのときはただ目を向けただけで相手をする気も起きなかった。
裏通りを行けば、いまにも死にかけている子が腐るほどいる。
この町は治安があまりよくないので、そういうことが日常茶飯事的に発生しているのだ。
村の税金が払えなくて農奴に身を落としたり、果実ひとつを売り場から盗んで一生奴隷の身になったりするものは、思いのほか少なくない。
娘にはそういう汚い世界を見せないように育ててきた。
かといって無知な箱入りというわけでもなく、私に付いて国を回っているからか、自然と町の雰囲気くらいは嗅ぎ取れるようになった。
娘はまだ幼い。
危険な場所を察知して近づかないように動けるだけで十分だ。
私の子育ての賜物か、ときに私を尻に敷く、明るさを絶やさない我の強い子になった。
娘が顔を上げて「あの子どうするの?」と聞いてきた。
「いいんだ」と言ってやり、頭をポンポンと叩く。
奴隷を見て「かわいそう……」と言うほど娘はロマンチストではない。
困っている人を見かけたら、あなたの持ち得るもので出来得る限り助けなさい、とは我が信仰の教義でもあるが、私はこれを守ったことはない。
神殿に勤めるのも日銭を稼ぐためである。
それは神官見習いの娘も承知している。
私が関わらないことを告げると、娘はもう何も聞いてこなかった。
手に縋りつき、これから向かうお店の料理がどんなに美味しくて何日でも通えてしまうというようなことを話し始めた。
私も赤毛の子供のことを頭から追いやって、娘の話に耳を傾けた。
店に着くと、娘は顔を綻ばせながら、大の大人でもお腹がいっぱいになりそうなミートパイをぺろりと平らげた。
娘の至福そうな顔を見つめていると、日頃の疲れなど吹き飛んでしまう。
いずれ成長した娘に臭い、汚い、近寄らないでと言われる日が来るのだろうか。
よし、そのときは潔く死のう。
娘に拒絶されて生きていく自信がない。
それに、成長した娘は必ず綺麗になる。
妻はおっとりした美人だったが、娘は聡明な美人になる。
口の周りにソースをつけてにまにまする娘を見ていると、愛おしさが溢れてくる。
やがてどこの馬の骨とも知れない男を連れてきて、この人と結婚したいんですと目を伏せながら言われたとしよう。
よし、相手の男を殺して自分も死のう。
私は親馬鹿である。
否定はすまい。
腹を満たして神殿の仮住まいに戻ろうとしたところで、私は嫌なものを見てしまった。
ぐったりとした赤毛の子供が、大男に担がれて裏道に入っていくところだ。
人攫い。
道行く人間はあえて関わろうとせず、見て見ぬふりをする。
しかし私は見てしまった。
赤の他人の子供であるが、連れ去られた子供は娘と同じくらいで年端もいかないのだ。
もし娘が独り歩きをして連れ去られたらと思うと、気が気ではない。
「お父様、さっきの子供よ。あれもいいの?」
娘が顔を上げて、無邪気に尋ねてくる。
私は胸が締め付けられた。
手を差し伸べず、見て見ぬふりをしたらいいのか? 娘の目はそう訴えてかけているようだった。
私は娘の頭を撫でた。
「そうだね。あれは……助けなくちゃダメだね」
「ふふ、そうね。お父様ならそうおっしゃると思ってたわ」
娘はにこやかに言う。
この子が分別を弁えて育つように、そして時々、誰かに優しくできるように、私が見本にならなくてはならない。
神官だからではない。
一児の親だから、娘に格好をつけるために助ける必要があった。
私は人攫いの後を追うのに、娘を神殿に戻そうか迷った。
「エンヌは神殿に――」
「わたしも一緒に行くわ。気になるもの。いいでしょ? 邪魔にはならないから!」
「う、うむ……」
娘に先手を打たれ、私は口をつぐんだ。
私も娘を連れて旅をする人間である。
腕にはそこそこ自信があった。
これでも娘が生まれる前は冒険者の端くれとして活動もしてきた。
いくつもの危険をかいくぐってきたからこそ、人攫いの強さは大したほどではないということも一目で見抜いていた。
「危険だと判断した場合、まっすぐ神殿まで逃げること。これを約束できなければ――」
「わかってるわ。バカじゃないもの。お父様がどんなに危険に陥っても、わたしはわたしを守るために逃げればいいんでしょ!」
「そ、そうなんだが……ちょっと父さん傷つくなあ……」
男勝りなところはこの旅の間に開花した。
妻がいた頃はもっと気性も穏やかだった。
娘がどんどん自分の手を離れていく気がして、私は一抹の寂しさを覚えた。
とにかく裏道を進む。
赤毛の子供を無視できない。
暗がりには目が慣れていないので、私は目に魔力を込めた。
周りが真っ暗でも、か細い光を手繰り寄せ、猫の目のように視界を確保する。
「お父様、見えないわ」
「うむ。手を貸しなさい」
娘の手を取り、すえた臭いのする路地裏を行く。
「すっぱい……くちゃい……なんか変なもの踏んだぁ!」
「せめて黙ってついてきなさいよ。向こうさんに声で気づかれちゃうでしょ」
耳に魔力を集める。
声が聞こえてくる。
数人の男が呻く声。
……男が呻く声?
近づいてみると、男たち六人の真ん中に先ほどの赤毛の子供が立っていた。
「……うぅっ……何者だ……てめぇ……」
「ただのかわいい子供です。で、あなたたちはくっさい大人です……風呂とか知ってます?」
子供がふらふらしながらその場を立ち去る。
凝視して魔力を視ても大したことはない。
大したことがないというのは、抑えているだけかもしれない。
大人六人を相手に無傷で立っている状況が、大したことないわけがない。
「……なんなんだ?」
私が呟いた声が聞こえたのか、赤毛の子供が振り返った。
ごく自然な挙動で、子供は目に魔力を集めたのが分かった。
暗闇の中でも目が赤く光って見えるのは、魔力を集めた証拠だ。
「驚いたな」
その一言に尽きた。
魔力の操作は魔術師には必須とはいえ、これがなかなか難しい。
私は何年もかけて目に魔力を集める方法を修得した。
目以外には両掌くらいしか集められない。
人によっては、生まれつき魔力の素養に恵まれ、手足のように動かす子供もいると聞いたことがあったが、まさか天才児にこんな場所で出会うとは思わなかった。
「……なんですか?」
子供の方から問いかけられた。
「なんですかと聞かれても……なんなんだろうな?」
「はぁ……そうですか」
少年がぺこりと礼儀正しく頭を下げたので、つられて私も頭を下げた。
「ねえ、何が起こってるの? お父様?」
真っ暗がりで何も見えない娘には、声だけしか聞こえていない。
少年はふらふらと背を見せて歩き出していた。
「ちょっと待ってくれ」
私は少年を呼び止めていた。
これは偶然か、はたまた神の導きであったのか、このときの私には知る由もなかった。
神を信じない私だが、のちにこの出会いを神のお導きだと思うようになろうとは、この時の私はまだ知る由もない。




