第142話 不穏のはじまり
夜、燃え盛る篝火を中心にして、騒々しく宴会が行われた。
チビたちは最初だけ参加して、チェルシーという名の保母さんに寝床へ強制連行されてしまっている。
残っているのは酒飲みくらいなものだが、俺も残っている。
青年姿でも酒は飲まないが、なんだかんだ場の空気が好きで、火の粉を巻き上げるキャンプファイアーを横目に、男たちのくだらないダンスを見てゲラゲラと笑っていた。
運動が苦手なくせに顔だけイケメンのクェンティンは、獣人たちの歌や鳴らす楽器から調子っぱずれなカクカクダンスを披露している。
角の生えたカマロフとボン坊の内股踊りは、サンバカーニバルを思わせる。
優男のスフィは下半身と乳首に葉っぱを貼っているにも関わらず、踊り子のように華麗に舞うのが解せない。
そのうち調子に乗って、獣人たちもすっぽんぽんになったが、誰も気に止めるものはいない。
それどころか、スフィ一派が興に乗って、互いの股間をうまく隠し合いながらの八人の息の合った全裸ダンスを披露するものだから、腹がよじれるほど笑い転げた。
下ネタ祭りである。
クェンティンとヴィルタリアの婚約を急遽祝う会となったが、明日の朝に東国へと帰って行く(問題起こしたので帰ってもらう)連中への送別会でもあった。
ありったけの酒を放出したので、獣人やヒト族の垣根を超えて酒盛りがいたるところで行われている。
夜半を過ぎたあたりから、ゲロを吐いたり遠吠えを上げたり、子どもには見せられないくらい酷い有様になってきたが、それもまた酒飲みの醍醐味であろう、たぶん。
できればこっちに近づかないでほしい。
スフィ一派は踊って満足したのか、これから別の楽しみがあるとばかりに全員夜の天幕へと消えていった。
ついていったらもう引き返せないだろう。
「もう子どもは寝る時間じゃない?」
声が頭上から降ってきて、見上げてみると背の高いチェルシーが眉根を寄せて見下ろしていた。
いつもはポニーテールにしている髪を下ろして、栗色の髪を肩に流している。
厚手の毛皮のコートを肩にかけており、着ているのもたぶん寝間着だろう。
チェルシーは俺と一緒の天幕で寝てくれないから、油断した格好というのも珍しい。
「別にいいじゃない? 俺いま青年ですから。外見はチェルシーより年上だと思うよ?」
「生意気言うな」
コツンと拳を落とされる。
調子に乗ってお酒を飲まないことを褒めてほしいものだ。
酒ならすでに飲んだことはあるのだが、雑味や喉越しがひどく三流以下のクソマズ酒で飲めたものではないというのが飲まない理由だ。
生ビールを期待していたのに、ノンアルコールビールにそこら辺の雑草を混ぜたような味だったので、唐突にこれじゃない感が襲ってきてなんかもういいやとなってしまった。
元の世界の酒の味を知っているからか、コップの中に虫が浮かんでいるのを気にしてしまうように、どうしても心から楽しめないのだった。
「みんな寝たの?」
「ちびっ子とヴィルタリアさんも寝たわ。マリノアがいちばん聞き分けが悪かったの」
「奉仕精神の鑑だから」
「あんたの側にいないと落ち着かないのよ。手を握って寝付くまで側にいてやるのが旦那の役目じゃないの?」
微妙に棘があるのは、チェルシーがマリノアの懐妊を知らなかったからだ。
そんな状態で迷宮へ連れて行くとは何事だ、とチェルシーの雷が落ちた。
俺だって迷宮に入ってから知ったし、マリノアも知られれば置いていかれるとわかっていたから誰にも相談せずに隠していたのだ。
置いていかれることが恐怖になっているマリノアだから、身重の体を優先させて冒険に参加させてもらえずに留守番を言い渡されたら、それだけで逆に体調を崩しかねない迫力があった。
妊婦にストレスを与えるのは本意ではないし、マリノアが無理しない程度についてくると言うのならそれを尊重するしかないのだ。
「えっと、ヴィルタリアもいるってことは、ポコリ・キベンダーさんも?」
「誰?」
「えっと、料理人と黒騎士と全身ローブのひとたち」
「三人とも混ざってるじゃない。一括りにするのはひどいと思うよ」
「だって覚えにくいんだもんよ……」
料理人は厨房、黒騎士は護衛、全身ローブの姿が見えないと思ったら、ヴィルタリアに言われてチビたちの子守をしたり、誰かを探すときにいいように使われていたりする。
陸王亀の甲羅のテラスでお茶しているときにヴィルタリアが現れたのは、直前に<隠匿>の二コラを使って見つけ出したからだ。
悪用していないならとやかく言わないが、もし変態嗜好があったそのときは、彼女もまた業を背負いしものということで我らが倶楽部の一員に歓迎されるかもしれない。
「聞こう聞こうと思ってたんだけど、ちょうどいい機会だから聞くわ。あなたは今後どうするつもりなの?」
これまた漠然とした質問だった。
帰らないの?と聞いてきたときよりももっと未来のことを尋ねられている気がする。
ちょっと首を捻り、チェルシーを見上げる。
「将来の夢を語ればいい?」
「ごめん、真剣なの。獣人村のこともそう、修道院に残してきたリエラのこともそう、真面目に答えて」
チェルシーは元から軽口が嫌いだ。
真面目な話をするときに茶化されたくないタイプである。
「それを聞いてどうするのさ。その質問って俺の一存でどうにかなるとは思えないんだけど」
「確かにそうだけど! わたしより年下に村の運営とか、誰かの人生を左右するようなことを聞いてるのは変だと思うけど! だけどあなたは思ったことはやるでしょ? 獣人村が攻撃されたらきっちりやり返すだろうし、妹が危険と分かれば飛んで行って助けるでしょ?」
「うん、するね。妹に手を出す奴は皆殺し」
決して妹と再会することはない。
それは師匠の言葉を借りれば運命が出会わせないようにしているため、というやつで、直接的にはあと四年ほど会えないのだという。
でも助けに行くが。
無駄とわかっても妹の危機となればお兄ちゃん飛んでいくが。
「そういうことじゃないの。行動力があって結果を覆せる力もあって、ならこれからどうするかの方針にあなたの考えは必ず絡んでくるはずだわ。獣人たちを掌握しているのはあなただもの。この大平原で、いまいちばん力も持っているのもあなただわ」
「そうだね。そうなるね」
「誤魔化さないで答えて」
「別に話を逸らしてるとかそういうつもりはないんだけどな。目先のやるべきことはあるけど、数年先の目標は考えてないだけだし」
「リエラは?」
「いまのところ心配はしてないかな。商都は安全だろうから」
商都に叔母と元王国軍将軍が向かっていたが、修道院の中にまで入れただろうか。
正面からは鉄壁ババアのディフェンスが固くて突破できないだろう。
そもそもあのババアには来客を通す気がまったくないのだ。
不動の門番というより、開くことがない門はもはや壁で、石壁に話しかけているようなものだった。
彼らはサンタよろしく煙突から凸しなければならない。
「修道院ならわたしも大丈夫だって思ってる。あんなことがあったからもう二度と外への奉仕活動はできないけど、それが逆に安全だって言い換えることもできるし」
「ファビエンヌもいるし、楽しくやるだろうさ。これからのことだけど、俺いろいろやりたいことあるから、そっちに専念するつもり。取り始めにドラゴン召喚かな。空飛びたい」
「……はぁ、男ってこれだから」
溜め息を吐かれてめっちゃ呆れられた。
男のロマンをわかってもらおうとは思わないが、ドラゴン運送がいたらいろいろ便利だと思わない?
思わないですか。
無鉄砲な発想は理解の範疇を超えていたようで、遠い目をされた。
「そういえばあの人たち、明日追い返すんだって?」
「言い方悪いな。冒険者一行は全員東の国に戻るっていうから、大平原を渡れるように支援したげただけじゃん?」
「人の良いことで」
言い方にツンとしたものがある。
子どものワガママのような態度なので、むしろ可愛げがあるくらいだ。
チェルシーの懸念通り、問題を起こして何人かを処断している。
そのことが女性陣には不信感として受け止められているのだ。
「東の国のちょっとした知り合いに手紙と贈り物を持って行ってもらおうと思ってね」
「知り合いって?」
「桃騎士」
「なにそれ?」
「俺の赤マントを仕立てて送ってくれたひとだよ。戦争中に敵方として出会ったんだけど、最後の方は割と仲良くなって」
「真っ赤なセンスのないマントのことね」
「気に入ってるのにひどい!」
赤魔導士の代名詞と言えるマントを小馬鹿にされて、思わず俺が目を剥くと、チェルシーは面白がるように笑った。
からかっただけみたいだが、内心では本気でセンスないと思っているのかもしれない。
あまり嘘のつけない子なんだ、彼女。
「俺のことはこれくらいでいいでしょ? それよりも俺はチェルシーのことが聞きたいかな。オルダの病気も治ったし、ニィナの介助も要らなくなったわけで。やり甲斐を失った元修道女は次に何をするの?」
首を傾げて純真な瞳で尋ねると、チェルシーは「それは――」と言ったきり口をパクパクさせた。
声が出ないようだ。
呆然と辺りを見渡し、それから立ちっぱなしだった彼女はストンと俺の横に座り込んだ。
「驚いた。わたし、自分がこれから何していいか、わからないわ」
「そんな潔く言われても」
「何もなかったから不安だったのかも」
ショックを受けた顔をして、立てた両膝に顔を埋めるチェルシー。
甲斐甲斐しい子なのだ。
世話好きで、オルダのために素養のない治癒魔術を覚えて、毎日欠かさず治療を行うほどに。
人のために動いていないと何をしていいのかわからないタイプ。
奉仕精神の修道女はもはや天職なのだろう。
マリノアもそんな感じ。
嫁の方はあまねくというよりは、限定的な滅私奉公である。
主人に忠義を尽くし、仲間は身を張って守る。
犬系獣人の本能のようなものだ。
チェルシーにも犬っ娘の素質はあるということか。
犬耳と尻尾付けたい。
尻尾は後ろの穴に差すタイプで。
「商売の基礎を学ぶのも楽しいけど、やっぱり小さい子と一緒にいるのが性に合ってるのよね、わたし」
「チェルシーはいいお母さんになるね」
「相手がいないわよ」
「俺がいるよ?」
「……やめてよ」
顔を逸らしてチェルシーが呻く。
その横顔は、嫌悪というより赤くなる顔を隠そうとしているように見えた。
「これは脈絡ありですかね?」
「バカ。ないですー。わたしみたいなのに時間を割くくらいなら、マリノアの方を見てやってよ」
「なんでマリノア?」
「わからない? あの子、本当の意味で心を許しているのって、あんたかミィナくらいだよ? 出産の不安もあるだろうし、本音を言うならたぶんずっと傍に付いてほしいと思ってるはず。獣人村で安静にするのがいちばんだよ」
「妊娠すると不安定になるって言うよね」
そうは言いつつ、ここでマリノアの下へ戻ってしまったら、チェルシーは寂しそうな顔をする気がする。
むしろ独り身の寂しさから適当な獣人に誘われても断らず、あっさりと寝床に連れ込まれてそのまま成り行きで種付けされそうだ。
生き甲斐をなくした奉仕少女に、そのくらいの危うさが見え隠れしていた。
なので肩がぶつかるくらいに距離を縮めたが、チェルシーから逃げる素振りはなかった。
ちょうど飲み物を持って歩いてきた獣人から二つジョッキをもらい、チェルシーに手渡す。
「まぁ飲んで」
「本当はダメなんだから」
「そういう生真面目なところも気に入ってる」
「やめてよ。どうしていいかわからなくなる」
ふたりして木製ジョッキをちびちび傾ける。
やっぱりぬるい。
ビールっぽい、草っぽい味のする苦い何か。
篝火に照らされたチェルシーは、やっぱり苦い顔をしていた。
だけど手は止まることなく、苦い喉越しを味わって飲み進めていく。
「わたしなんて普通なの。ニニアンやマリノアと比べれば何の特技もない、ただ面倒見がいいだけの小娘なの。口うるさいだけが取り柄だってみんな思ってる。わたしだってね、どう思われているのかもわかってるわよ」
先に飲み干したチェルシーが捲し立てるようにしゃべり始めた。
「口やかましいかもしれないけど、チェルシーはみんなから慕われてるよ」
「わずらわしいって思ってるはずだし」
「なんやかんやチェルシーの言うことはみんな聞くよね? それって誰にでもできるようなことじゃないと思うよ」
「言うこと聞かないといつまでもうるさいからでしょ」
「ボン坊は領主だけど、何を言っても誰も聞いてくれないし」
「……それは不敬じゃないの?」
場所が場所なら不敬罪で死罪まっしぐらだが、当のボン坊は扱いが雑な方が喜ぶドМさんなので問題ない。
「まあつまり、チェルシーはいなきゃいけない存在だってことだ」
あと俺の子どもを産んでほしい。
これは先走りすぎか。
鼻の上のそばかすが気になる年頃だろうが、俺は可愛いと思うし、チェルシーとはもっと仲良くなりたいと考えている。
青年となった俺の背丈は長身のチェルシーより目線が幾分高い。
並んで座れば、髪を下ろしたチェルシーのつむじまで覗けてしまう。
肩を抱こうとして恐る恐る手を伸ばすが、チェルシーは触れることを嫌がらなかった。
華奢な肩を引き寄せると、固さは残るもののわずかに重みを預けてきた。
「本当は言うまいと思ってたけど、いま言うわ」
「なになに?」
「わたし、あなたに感謝してるの。危険に飛び込んで命を救ってくれたこともあるし、わたしの大事な修道院の仲間を命がけで助けてくれた」
「そんなこともあったね」
商都から北の村々で起こった、転移の魔術師ジェイドが扇動した暴動の一件だ。
とある村は山賊団に襲われ壊滅、別の村は疫病により村人全滅、戦禍に巻き込まれた村は半壊と、それなりに大きな戦いだった。
ジェイドは魔術師団を操って抵抗する村の勢力を一掃しようとしたが、そこに俺が颯爽と現れ魔術師団の合体魔術をひとりで粉砕。
ついでに山賊団の頭目も潰し、やられた分をやり返した。
親玉の首級が決定打になり、山賊団は散り散りで危機は去ったのだ。
気に入らないのは、ジェイドは他にも様々な策略を打っていたことで、商都の修道院に匿われていた北国の少女の誘拐や、それを交渉材料にした北国の武力越境、混乱を増長させようとして未遂に終わったようだが、ドラゴンを召喚した形跡もあった。
同時進行で三重、四重にも用意された策謀の目的は、商都の壊滅にあったようである。
商都を治めるクェンティンの父、チェチーリオ・トレイドが大平原の妖精の泉で『商都においてのみ万能』の能力を授かったために、これを排除したかったのだと思われる。
結局本人はその後現れることなく、すべての危険の芽も摘み取ることに成功したが、かなり危ない橋だったのは間違いない。
「助けに来てくれた小さいあなたは本当に格好良かった。たぶん、好きになったと思う。でもあなたはマリノアやミィナ、あのエルフと挙式をあげたわ。だから、わたしそのとき、ちょっといいなって思った気持ちも、全部忘れようって、思ったの……」
嫁三人ルートに進んだ瞬間、チェルシールートは閉ざされたというわけか。
どちらを選べと言われれば、悩んだ末に結局は嫁三人ルートを選びそうだけども。
ぐじぐじと鼻を擦る音がする。
隣を見れば、チェルシーが涙いっぱいに堪えていた。
「よ、嫁なら何人でも養いますよ?」
「そういう不誠実なところは嫌い。わたしが結婚する相手には、わたしだけを見てほしい、わたしだけを愛してほしいって思う」
「俺の腕の中にいるのに?」
「あなたと結婚しないもの」
「そっか」
チェルシーの立場で見れば、俺なんかは最低の女たらしに見えるだろう。
今更マリノアたちを捨ててチェルシーだけを求めても、その不義理な行動をチェルシーはよく思わない。
つまり、最初から詰んでるやんけ。
「んじゃ、これからも迷惑かけるけど、チェルシーを頼らしてくれよな」
「……うん」
「いなきゃ困るからな。チェルシーくらいだもん、真正面から怒ってくれる子」
「わたし、いなきゃダメかな」
「そうだよ。みんなのお姉さんだもん」
ファビエンヌも姉属性で甲斐甲斐しいところがかぶるけど、言わぬが華。
チェルシーが素直にはにかむ。
その横顔は等身大の十四歳に見えた。
制服着せたらJCという事実に、俺は驚きを隠せない。
マリノアも同じく十四歳だが、考え方はすでに大人びている。
この世界が子どもに厳しく、甘えを許さないのが理由だが、それでも日本の能天気なティーンとは比べ物にならないくらいしっかりしていると思う。
モラトリアムしている時間も猶予もないのが原因か。
しかしである。
今更だけど、犬耳妊婦JCとかやばいよな。
ミィナやマルケッタはランドセルを背負っている歳だと思うと、遠い目になってしまうよ。
裸で、ランドセルを背負って、後ろから腰を掴んで……。
華奢な肩越しに振り返って、汗ばむ顔でとろけるような笑みを浮かべるJS……。
うん、考えたら興奮して眠れなくなるね。
俺も立派な変態だったようだ。
持て余した衝動をチェルシーのほっぺたにチュッと唇を押し付けることで発散する。
彼女の体がビクリと強張った。
肩を抱いているとはいえ、いつものチェルシーなら突き飛ばして足蹴にしてくることは予想できた。
だが反撃はなく、いつになくしおらしいチェルシーがいた。
篝火に照らされた顔は、火照っているのか首から耳まで赤く見える。
チェルシーは細身の体に肉付きがあまりない。
胸も大して膨らんでいないが、小尻はキュッとして可愛い。
足の長さはモデル並みで、少女たちの中で一番だろう。
顔立ちはハッとするほどの美人でないものの、どこか安心する情の深さがあった。
「俺、チェルシーといると安心するよ」
「わたしだってアル君の側がいちばん落ち着くもん」
こてんと頭を預けてくる。
デレ期到来ですか。
最高です。
お酒の力は偉大なり。
結婚はしないらしいけどな。
「でもマリノアに悪いよ……」
「俺、ハーレム目指してるんだ。みんな幸せなハーレムさ。えへへ」
「最低だよ、あなた。笑顔がうるさいし」
ちょっと場がおふざけに流れたが、肩をぎゅっと抱くとチェルシーは大人しくなった。
顔をそっと近づける。
チェルシーも気づいて、なんとなく意思が伝わったのか、少し震えるように身構えた。
だが、すっと目を閉じて口を前に押し出す。
触れるか触れないかの優しいキスは、爆ぜる篝火だけが見ていた。
夜中、篝火がいくつか燃え尽きて、熾火が燻っている。
その辺にひっくり返って鼾を掻く酔っ払いは多い。
それだけ安全だと思われている証拠だった。
陸王亀の縄張りに無謀に近寄るほど、魔物もバカではない。
起きているものもちらほらといるが、声を小さくして語っているくらいだ。
宴もたけなわである。
チェルシーはキスの後、照れる顔を隠すように立ち上がり、「もう寝る」と言って天幕に戻っていった。
ここでチェルシーをお持ち帰りできるほど、彼女の身持ちは緩くない。
遠回しに誘ったものの断られたとかではない、絶対にだ。
しくしくと頬を濡らす俺は、グースカ嫁たちが寝ているだろう幕には戻らず、夜風に当たりながら大の字になってプラネタリウム要らずの満点の星空を眺める。
なんだかんだチェルシーもお年頃だ。
男女の関係に興味はあるが、踏み切るのは怖いし、自分を安く見られるのが嫌だし、ここにいない誰かに遠慮している節もあるしで。
ミィナも経験済みだと言ったら、「出遅れていられないわ! わたしも抱いて!」となるだろうか。
いや、チェルシーの性格なら、「あんな小さな子に手を出して!」と好感度が下がるのは確実だな。
となると、チェルシーのペースで、チェルシーのタイミングで受け入れてもらわねばなるまい。
チェルシーはそう、クラスの委員長。
彼女はクラスの女子仲間がみんな経験済みでも焦らない。
でも初体験には理想を持っていて、ロマンチックな夜景と高級宿を夢見てしまう乙女な部分がある。
他人がシたのシないのドングリの背比べに流されない意思の強さはあるが、初体験を経験しないまま三十路に突入した場合、きっと恋愛というものを拗らせ縁のないものと割り切って喪女になるタイプだ。
気が強く仕事のできるキャリアウーマン。
しかし裏を返せば、甘え下手でプライドの高いお一人様になりかねない。
生涯シスターならそれでもいいのだろうが、本人がそれを望んでいないのは雰囲気でわかった。
なんとしても俺が彼女を救ってやらねば。
そんなことをうたた寝しながらつらつら考えていると、いつの間にか睡魔に負けていた。
『僕』が『目醒めた』とき、視界は星空が埋め尽くしていた。
はっと息を吐くと、自分の声が微かに聞き取れる。
「は、ははっ」
思わず笑い声が漏れた。
身を起こす。
自分の意思で。
体を動かすのは久しぶりだ。
体感だとつい昨日のことに思えるが、僕が自由に動けたのは五歳までなのだから。
「ああ、最高」
声を出した途端、近くで寝転がっている獣人の男から訝しげな視線を向けられた。
首を竦め、誰もいない方へとそそくさと歩き出す。
怖いわけではないが、相手は大人だ。
「うるせえ」とか言われたらビックリするからね。
そうして歩き出すと、体の自由が実感できる。
制限を取っ払ったような青年の体は、遊びに飢えた僕からしてみれば最高のおもちゃである。
誰もいない荒野に立ち、「炎よでろー」と念じてみる。
しかし何も出ない。
「むむ、なんでだ……?」
おかしいな、出る気配がない。
あいつは確か、砦を破壊するくらいの魔術を使った。
体は同じなのだ、できない方がおかしい。
「アル様?」
集中して唸っていると、唐突に後ろから声を掛けられてびくりと肩が跳ねる。
振り返ると犬耳の女の子が立っていた。
確か名前はマリノア。
彼女はなんだか訝しむように、あるいは気遣うようにこちらを見ている。
鋭い嗅覚で何かを嗅ぎつけられてしまったのだろうか。
「……アル様、ですか?」
「そうだぞよ。おれがアルシエルだぞよ」
「ん、なんだか雰囲気が違う気がします」
察しが良すぎるのも問題だ。
僕は獣人があまり好きではないし、この犬耳が生えた少女に思うところは何もない。
あいつがそこまで執着する理由がわからない。
ヒトに近い姿で、獣のような行動原理を持つ亜人のどこが好ましいというのだろう。
「そんなことはどうでもいいんだ。何しにきた?」
「あ、いえ、アル様が離れるのを感じて、様子を見に」
「ちょっとした散歩だよ」
「あまり遠くに行かれると不安になります」
耳をぺたんと下げても可愛いと思えない。
むしろ指図されているようで不愉快だ。
「あっちへ行け」
「どうかされたのですか? いつもと様子が違うようですが。わたしでよければ、お悩みを相談してください。何かのお役に――」
「黙れ! うるさい! いいからあっちへ行けよ!」
「え……?」
「余計なお世話だ、不愉快なんだよ! 犬のくせに! 全部わかった風な口を聞くな!」
肩を怒らせて怒鳴ると、少女は雷にでも打たれたみたいに縮こまった。
「ですが……」
「へー、僕に逆らうの? そういうのいらないんだけど」
「そんな……」
「僕のやることに文句でもあるの? なんかムカつくな。もういらないや、おまえ」
それでも何かを言おうとした上から、僕は押しかぶせるように辛辣に告げた。
ムチを打ち付けられたように怯える犬耳少女は、ぽろぽろと涙を零した。
「出過ぎた真似をしました、すみません」と地に伏して許しを乞うてきた。
そうだよ、獣人なんてそのくらいの態度でちょうどいいんだ。
僕は満足いって頷き、顔面蒼白の犬コロを大らかな心で許してやることにした。
「わかったならさっさと戻れよ。もう二度と僕に口答えするなよ」
「……もう口答えはしません。でもどうか、お願いです。お側にいさせてください。捨てないでください」
「イライラさせるなよ。消えろ!」
「うぅ、うう……」
足が引っ掛かったのか、マリノアは一歩下がろうとして足をもつれさせて転んでしまう。
頬を濡らして嗚咽を漏らし、這うように下がろうとする様はいっそ哀れみを誘う。
背中を蹴飛ばしたらさぞかし愉快だろうが、多分現状でもかなりヤバイ橋を渡っている自覚はあった。
あいつに体の主導権が戻ったとき、僕をなんとかして排除しようとすることも考えられた。
だったらこのまま僕が主導権を握り続けたいが、存在の大きさは向こうの方が何倍もあって、僕はあいつが油断した隙に主導権を取り戻しているに過ぎない。
あいつが寝入ったわずかな時間しか体を自由に使えないのだ。
「そうそう、おい犬」
肩をビクリと震わせ、恐る恐る犬女が振り返る。
涙で赤く腫れ、ひどい顔をしているが、何を言われるのか恐れて一層恐怖に歪めている。
「このことは誰にも言うなよ? おまえが言い触らしたりするような女じゃないのはわかってる。信じてるぞ」
「……はい。わかり、ました」
「さっさといけ!」
ぐすぐすしている犬女が、背中を丸めて駆け去っていく。
別に信頼しているわけではないが、釘を刺しておかないとあいつに勘付かれる。
いや、もうこうやって動き回っている以上バレるのは時間の問題だが、目に見える被害がなければ、まあいいかと対処は先延ばしになるはずだ。
十年来の腐れ縁とでも言おうか、なんとなく考えそうなことはわかった。
反吐が出るくらい不愉快な縁だが。
「はぁ、そろそろ時間か……」
自分の体のはずなのに、表に出られる時間は短い。
それもこれも全部あいつが独占しているからだ。
幼い身で屋敷から逃げ延びた後の生活を乗り越えられたか、いまではわからない。
あいつが表に出ていたからこそ、何とかなったこともあるだろう。
しかし、いつしか元の持ち主に返すことも忘れて、僕という人格を閉じ込め続けていたのだ。
ティムという鹿獣人のぽっちゃりチビが目醒めさせてくれなければ、ずっとあいつに主導権を握られたままだった。
そう思うと、獣人には感謝しなくもない。
とはいえ、目の前にいたら反射的に蹴り飛ばしたくなるのだろうが。
記憶を頼りに天幕へと戻るが、途中で面倒臭くなってその辺に寝転んだ。
星空を見ながら寝ていたし、少し動いていたところで酔っ払っていておかしくは思われないだろう。
おかしな雰囲気に突入したところで、次は少々時間が空くと思います。
一気に投稿しましたが、次話はまた書き溜めてからアップになるので。
ストックの少なさよ…(゜Д゜;)
皆様、よいお年を!(気が早い)




