第20話 ぬくもり
ぬくもり。
大きな背中にもたれかかっている。
森の匂いがする。
草の匂い、風の匂い。
鼻をすっと抜ける清涼感が心地よい。
久しぶりに何かに身を委ねる感覚に、俺は甘い眠気を覚えた。
この二年、俺は妹を守るためにひとりで立ってきた。
ナルシェの小さな膨らみにもたれかかって、一緒に本を読んだことを思い出す。
ナルシェはわからないところがあると、すみませんと眉を下げて俺に読み方を聞いてくる。
俺はふふんと鼻を鳴らし、得意気になって教えてやる。
もう一度昔日のあの日に戻りたいと思ってしまうのだった。
「ん……んぅ……」
「目覚めたかの」
「……はい」
「いまアトスの大森林を抜けて、おまえたちの村に向かっている最中じゃ」
アトスの大森林。
プロウ村の傍を流れる川を跨ぎ、向こうに鬱蒼と茂る広大な森の名前、だろう。
アトス、とは初めて聞いた。
村では大森林としか呼んでいない。
「お手数おかけします」
「なに、試すような真似をして悪かったの。ヘクサポッドスロースをけしかけたのじゃから、その罪滅ぼしじゃ」
ヘクサポッドスロス。
六本腕のナマケモノの名前のようだ。
「俺が無理に師事しただけですから。それに、俺が魔物と一対一で戦えるように周囲の魔物を排除してくれていたんでしょう?」
「……まあの」
ばつの悪そうに、ニシェルは言葉を濁した。
「それがわかったんで、なんとか倒そうって思ったんですよ。じゃなきゃ魔力が底を尽きた時点で諦めてます」
「わしはおまえに興味が涌いた。おまえは少し変わっている」
「少し、で済めばいいですけどね」
このエルフはどこまで感づいているのか、それにも興味があった。
まさか転生者であることは見抜かれていまい。
七歳児にして魔術を使い、大人びてしっかりした口調に興味を持っただけかもしれない。
「おいおい話していくじゃろう。今日は休むといい」
「はい」
「魔力が戻る頃に、わしの方から連絡しよう」
「その、今更ですけど、俺がニシェル=ニシェスさんに弟子入りしてよかったんでしょうか? エルフと人族の関係って知らないもので」
「問題はないじゃろ。わしら森人族に教えを乞おうとした奇特者がいままでにいなかっただけのことじゃ。まあいい。あと、ニシェルでいい」
「では師匠とお呼びします」
「かしこまらなくてもよいぞ」
「いえ、けじめですので」
師匠は一見すると肉付きのない細身な体型だ。
しかし、七歳児を背負って難なく森を進む姿は、頼りなさからは程遠い。
足取りもしっかりして、不安定な場所でも平気でずんずん進む。
むしろ体重がないのかってくらいに軽々と足場の悪い道を抜けていく。
やがて森を出た。
川の向こうはプロウ村のようで、いまは火が焚かれている。
広場の焚火を中心にして、人の気配がたくさんあった。
「ここまで送れば十分じゃろ。川を渡ったらお別れじゃ」
川の縁に立ち、師匠は言った。
俺は師匠の背中で、もうちょっとこうしていたいなあと思っていた。
師匠は人の中に入っていこうとは思わないらしい。
奇異の目で見られることは間違いないが、プロウ村をギリギリで救った英雄である。
歓迎されるだろうに。
川を渡ろうとする前に、俺は聞きたいことを聞いておくことにした。
「師匠は昔から大森林に住んでいたのですか?」
「いや。もっと北の方から来た」
「あの、そうするとどこかに行ってしまうんですか?」
「その心配はまだしなくていいぞ」
「どうしてですか?」
「わしの目的は大森林とその周辺にある。村を襲った魔物を見たじゃろ? あれはこのあたりに棲息する魔物ではないのじゃ。あれが現れた原因を探るのがわしのいまの仕事での」
「冒険者、なんですか?」
「ただの流れ者じゃよ。根なし草じゃが、目的があって移動しているわけではないのでの」
「なるほど。その仕事が終わるまではどこにいるんですか?」
「しばらくは大森林で過ごすことになると思うのう。ここは魔力素が濃くて、わしらみたいのからすれば快適なのじゃ」
大森林か。
確かに、裏山や丘陵地帯とは比べ物にならないほど魔力が濃い。
おかげで大森林の魔物は異常なほど強力で、村人は誰も踏み入ることができずにいる。
たまに度胸試しで冒険者が森に入っていくが、這う這うの体で逃げ帰ってくるか、全滅して大森林の栄養になるかのふたつにひとつだ。
「ぼくは隣のウィート村で暮らしてます。ここから丘陵沿いに南にいったところにある、小さな山の麓にあります。連絡をいただけるならそちらにお願いします」
「あいわかった。おまえの魔力の質は覚えたからの。こちらから見つけてやる。まずは魔力の回復に専念するといい。近いうちにいろいろ教えてやるでの」
「よろしくお願いします!」
喋りながら、師匠は川の上を渡っていた。
水に触れることなく。
きっと俺の知らない魔力の使い道を教えてくれるのだろう。
おらわくわくしてきたぞ。
どこかの星の戦闘民族ばりに興奮を覚えつつ、師匠とは川を渡ったところで別れた。
師匠は来た道を返して川の上を歩いて渡り、大森林へと消えていった。
村に入り、焚火のそばに行くと、火の番をしていたらしいウィート村の男が俺に気づいた。
「おお? アルじゃないか。森に入って行ったと聞いていたからてっきり……」
てっきりどうだと言うのだろうか。
まあ死んだと思われたのだろう。
七歳児が入るには過酷な土地だというのは、入った本人が一番わかっている。
「遅くなってすみません。エルフの方にお礼を言おうと思って」
「エルフ……エルフか。やつのおかげでとりあえずは助かったが……」
男は歯切れが悪かった。
亜人族に対する偏見でもあるのだろうか。
聞いてみると、そういうことらしい。
村には人族しかいない。
人族にも人種がいくつかあるらしいが、特にグランドーラ王国はグラン人という単一人種が国の九割を占めるそうだ。
地球で言うところの西欧系だ。
日本人のような黄色人種もいるのだろうか。
いずれぜひ会ってみたいね。
(※グランドーラ王国…現在俺のいる国・出生国。
※グラン人…肌色が白色系。髪色は様々で、茶色から赤色、金色が多い。)
ナルシェのような、褐色肌の人種は一割に満たない。
だからか、国での地位も低い。
南方には褐色肌の人種が治める国があるらしいが、定かではない。
人種差別は今の地球でも残っているので、俺が何をどうこう言える問題ではない。
というかここにきて、国がどうの人種がどうので新たな名詞を出されても覚えるの面倒くさい。
機会があればいずれ歴史の勉強もしよう。
話が脱線したが、要するに亜人族は他人種より受けが悪いそうだ。
可愛い獣人の耳とかはむはむしたいです、という夢もこの国にいたら夢で終わりそうだ。
残念でならない。
「なにはともあれ疲れただろ。あっちの家に子供がまとまって寝ている。おまえも寝るといい」
火の番を続ける彼にお礼を言って、俺は言われた家に入った。
きっと、魔物の襲撃で皆殺しに遭った家なのだろうなと頭の片隅で思った。
中は暗い。
魔力がわずかに戻っていたので、魔力を集めて目を凝らした。
真ん中に小さな子供が六、七人ほど固まって毛布にくるまっている。
寝息がいくつも重なっていた。
その塊から外れて、ひとり壁に背を預けていた小さな子が身じろぎをした。
「……リエラ?」
よく見ると妹だった。
「おにい、ちゃん?」
起きていたらしい。
立ち上がりざまに毛布が落ちた。
妹の声がちょっと大きかったので、シーッと声を潜めながら妹の傍に寄った。
「よかった、お兄ちゃん。森に入っちゃうと、もう戻ってこられないって……」
妹は涙声で抱き付いてきた。
ポンポンと頭を撫でてやる。
俺を心配して眠れなかったみたいだ。
俺はよく夜になると裏山に入って訓練や食料調達をしていた。
妹もそれを知っていて何か言うことはなかったので、そういういつもの気持ちでエルフを追ったが、リエラにしてみたらいつものように見送れるような気持ちではなかったらしい。
妹の心兄知らず。
「どこか行かないでね?」
リエラと一緒の毛布にくるまって、くっついていた。
リエラは俺を逃がすまいと胸に顔を埋めてくるので、腕枕をしてやる。
リエラは服の袖をつまんで離さないようだ。
俺はエルフを追い、エルフから魔術を教わることになった経緯を話して聞かせた。
魔力が切れて魔物と戦う羽目になったあたりでリエラは憤慨していたが、頭を撫でて宥めてやる。
「お兄ちゃんはやっぱりすごいね。魔物だってひとりで倒しちゃう。お坊ちゃまは大けがしたけど、お兄ちゃんはどこもけがしてないよ」
「エルフの師匠が助けてくれたからだよ」
そういうことにしておく。
反対にリエラからは、俺がいなくなった後の村の話を聞いた。
討伐隊の大人たちからは勝手にウィート村からついてきたことを怒られたそうだが、幸いにも子供は誰ひとり死なずに済んでいた。
ただイランだけは、重戦車級のキラーボアにはねられて腕や足を数か所骨折するという重傷を負った。
いまも寝たきり状態だ。ざまあみろ。
ただし命に別状はないようなので、明日大人たちが村に戻るのに合わせて搬送されるそうだ。
よくよく考えたらムダニが何を言い出すかわからないので怖いところがあった。
「おまえみたいなどうしようもないクズが代わりにはねられるべきだろうが!」と言って暴力を振るわれかねない。
一瞬下がった溜飲は、すぐに右肩上がりでストレスに取って代わるだろう。
これからどうなるかということを長い時間話しているうち、リエラが眠りについた。
俺も魔力が枯渇しているせいで、睡魔が襲ってきている。
ゆっくり寝よう。
やはり妹の傍がいちばん落ち着く。
腕の中に小さなひとつの命がある。
俺の中には、命がふたつある。
俺が守っていくものだ。
それを再確認し、俺は体から力を抜き、ゆっくりと目を閉じた。




