第2話 親の愛情
原初の記憶は、小高い丘を嬉々として駆け上がる――高揚感だった。
まっさらな青空に浮かぶのんびりした白い雲。
風とともに揺れる下草を踏みつけ、後ろを振り返りもせずただてっぺんを目指す幼少の記憶。
後ろは一度も振り返らない。
たぶん、親がいたのだろう。
安心感を背中に受け、ただ未知なる景色の広がりを丘の向こうに予感しながら、息を弾ませていた。
丘の向こうの景色――
ただそれが見たかった。
思い返してみると昔は落ち着きのない子どもだった。
成長するにつけ、気づけばいつの頃からか、駆け出す足を止め、周りを見渡し同じような子どもたちに同調するようになっていた。
あまり目立たないように、好奇心を押さえつけ、ただただ黙り込んだ。
――この世界は息苦しい。
誰もが思っているかもしれない疑問を捨て切れず、ただ毎日を無為に過ごしていたように思う。
それでもふとした拍子に思い出すのは、丘を駆け上がる自分だった。
丘の向こうの景色を、俺は覚えていない。
ただ、心が打ち震えて、感動のただなかにあったことだけは小さな魂に刻まれていた。
見えたものは果たして地平線まで続く大海だったのか。
それとも緑の絨毯とその向こうに聳える峰々だったのか。
一面の白銀? それとも砂の海?
できることならまたその景色を見てみたい。
誰にも言ったことのないちっぽけな願い。
丘の上の景色――
俺は渇望してやまない。
乾ききった心に残るひとかけらの原動力。
好奇心を失くし、大人になった自分が求める最後の願い。
その心の形は――探求心なのかもしれない。
一か月が過ぎただろうか。
俺は戦っていた。
誰にも理解できない戦いであろう。
眠気を我慢する、トイレを我慢する、腹痛を我慢する。
たとえるならそんな感じの、自分だけが辛い思いをする戦いだった。
俺の体はいま赤ん坊である。
自力で体を持ち上げられないし、喋ることもままならない。
「あー」だとか、「うー」だとか、声になるのはそんなものだ。
それを見て両親は喜ぶのだが、喜ばせるために声を出しているのではない。
何をするのにも不自由だった。
尿意や便意を我慢することもできず、お腹が減っても与えられるのを待つしかない。
羞恥という言葉を、いまだけは捨てるしかなかった。
俺は横を向いて、漏らしてしまう自分を恥じた。
ぐっちょりとしたお尻にも我慢した。
きっと耄碌して介護が必要になったとき、同じような思いをするのだろう。
しかし、そんな俺の気持ちを軽くする方法がひとつあった。
赤ん坊というもうひとりの自分に身を任せることだ。
いわゆるオートモード。
俺は何も考えない。
目覚めていても動かないことを心がける。
俺の意識は寝ていないのに落ちていく。
そうすると入れ替わりで、俺の体は勝手に動き出す。
腹が減れば泣き、おまたに不快感があれば泣き、母親が笑えば笑い返した。
その間に俺はなにもしていない。
俺の中にもうひとりの自分がいるのだ。
紛らわしいので、俺はそいつをアルシエルと呼ぶことにした。
俺のほうが異物なのはわかりきっているので、アルシエルと言えばもうひとりの俺、ということにする。
本当ごめんなさいねー、こんなおじさんが入り込んじゃって。
神の悪戯も困ったものだな、本当に。
操縦権は俺にあるが、それはまだアルシエルの自我が発達していないからだろう。
アルシエルは本当に赤ん坊だ。
眠かったら寝て、お腹が空いたら泣く。
俺と彼は同じ体に同居している。
招かれざる客の俺は阿部聡介という過去を持ち、なぜか彼と同じ器に混在することになった。
本来は等身大の赤ちゃんであるアルシエルがこの体で成長していくはずなのだ。
彼はまだ年相応にしか動くことができない。
精神世界で俺とコンタクトを取れるような、自我を持った年齢に達していないからだろうか。
精神世界で会議を開くとか、ちょっと楽しそうだ。
彼とどう折り合いをつけていくか。
そこらへんも今後の課題になってくるだろう。
最悪、どちらかがこのアルシエルの肉体から消えることになるかもしれない。
「…………」
……それはもっと先の話だな、うん。
それまではできるだけ、彼に体の操縦権を譲る機会を与えよう。
俺のほうから大人しくこの身体を捨てて出て行くような殊勝さはない。
俺だって死ぬのは怖い。
というか出方を知らない。
愚直に考えてみると、やはり死ぬしかないのだろう。
俺という寄生虫の人格がどうやって死ぬかもわからないが。
ともあれ与えられた第二の人生なのだ。
引き下がってたまるか。
無気力な前世より、いまの体のほうが何倍もマシだ。
何をしていなくても食事を与えられ、おしめを替えられ、母親の愛情を注がれるのだから。
「アリィはいい子ね。よしよし」
赤毛の母に頬ずりされる。
気持ちよかった。
なんというか、心が満たされた。
俺はその感覚をアルシエルと共有することにした。
俺のことだけではなく、外の世界のことも重要だ。
俺たち双子を一目見ようと、数多くの人物が入れ代わり立ち代わり覗きに来た。
その中でも若く覇気に満ちた美男がダントツで多い。
茶毛に彫りの深い顔立ち。
胸板の厚いたくましい男だ。
イケメンだ。反則である。
女に好かれそうな裏表のない顔をしている。
こいつは目の前に現れる頻度と馴れ馴れしく抱き上げ向けてくる愛情の深さから、父親なのだとあたりをつけた。
母親が向ける安心し切った眼差しがその憶測に根拠を与える。
俺は正直、男に抱き上げられるのは勘弁願いたい。
その気持ちが伝わっているのかどうかは知らないが、父親は俺よりもうひとりの双子を抱き上げるほうが多かった。
なぜなら女の子だからだ。
「ああ可愛いなあ、オレのリエラ。おまえは将来どんな美人に育つのかなあ。オレは心配だなあ。クズ虫が寄ってくるんじゃないか? そんときはオレがぶち殺してやるからなあ」
俺は娘を溺愛するダメ男を、今後父親として受け入れることはないだろうと思った。
他にも世話をしに来るメイド(メイド! ホンモノ!)はよく見かけたし、口ひげを蓄えた愛嬌のある壮年の紳士、皺があるが美しさの色褪せていない貴婦人。無言の老紳士、居丈高な軍人、化粧が濃くて香水の強い女、次々と現れては天使のような俺たち双子を見て相好を崩した。
登場人物に誰ひとりとしてしょうゆ顔がおらず、日本人からかけ離れた造形をしているのを見て、やはり外国なのだろうと諦めにも似た確信を持った。
日本にそれほど未練はないが、アウェイ感は少しだけ感じていた。
ともあれ祝福されているのだ。
双子で生まれ、周囲から祝福を受けて育てられている。
望まれて生まれてきたことを知っていたら、前世でも拗ねた生き方を選ばなかったのかもしれない。
俺は転生前の生き方を少し後悔するが、戻りたいとは思わなかった。
「あら? この子頬ずりしてくるわ。うちの子にしたいくらい可愛いわね」
だって天国なんだもの。
母親と同じ赤髪で、母親より一見すると若い二十代くらいの美女が俺を抱き上げている。
美人には積極的に甘えた。
むしろ甘えないのが失礼に当たるとばかりに頬ずりした。
「さすがオレの子だ。こんな小さいくせに立派なオスじゃねえか」
「できたらアリィもリエラもあなたに似ないでほしいわ。誠実ないい子に育ってほしい」
「いいや、こいつは天性のたらしだ」
「どっちの子もセラ姉さんに似て気品のある顔よ」
「おいおい、オレには気品がないってのかよ」
父親が苦笑いしながら訂正を求めるが、美女ふたりに無視された。
うん、確かに父親に気品はないな。
「活発そうな目は、まあジャン義兄さんに似てなくもないわね。きっと聡明で元気な子に育つはずだわ」
「そうね。最低限の気品は身に着けていてもらいたいわ。なんといってもあなたが覚え忘れたものだからね」
「ふたりして酷い言い様だなあ」
「セラ姉さん、ジャン義兄さん、羨ましいわ。こんなに可愛い双子に恵まれて」
母親の妹と思われる美女が俺をぎゅっと抱き締めてくれるので、俺はそれに応えるために豊満な乳房に吸い付く。
美女はキャッキャと子どものように喜んだ。
きっとこの妹には子どもがいないのだろう。
結婚してもおかしくない歳だし、子ども好きが見ていてよくわかるから、すぐにいとこができるかもしれない。
リエラを抱き上げる母親の肩に腕を回す父親。
まさに幸福の只中にいる。
それでも夫婦での口喧嘩は割りと頻繁に行われるというね。
それはいわゆる喧嘩するほど仲がいい、というやつで、喧嘩を始めたかと思ったら仲直りにお互い見つめ合って激しいキスをする、というのがお決まりみたいなものになっている。
げんなりである。
「よくお乳を飲みますわ、奥様。あたしの子どもよりも威勢がいいです。吸い付いてくる力が強いってのは、それだけ強く育つってことです」
俺たちには乳母がいた。
彼女は数多くの子どもを育てたらしいが、俺たちとときを同じくして生んだ子どもは死産で流れ、余った母乳を俺と双子の妹に分け与えているのだ。
「でもアルシエル様はなんだか変な子ですよ。乳首を舐めてくるんです。いやらしい感じがして何とも。妹のリエラシカ様はそんなことないのに」
「やっぱり彼の子ね。エッチな大人に育たないといいけど」
「まあ、奥様ったら」
失礼。そこまであからさまにしたつもりはなかった。
つい出来心が……。
不思議と母親のおっぱいにいやらしいことをしようとは思わないのだ。
これが母親の愛なのだと思うと、感服するしかなかった。
その反動か、母親以外の女性には興奮してしまうのだが。
俺が前世で赤ん坊だった頃も、きっと親の愛情や、周囲の愛情を一身に受けて育ったに違いない。
赤ん坊の頃の記憶を覚えていないのが悔やまれる。
俺は前世で、愛情とは無縁に育ったと思っていた。
でも赤ん坊になってよくわかる。
手のかかる赤ん坊の面倒を放棄すれば、残された道は餓死だけだ。
大人になるまでちゃんと育ててもらったのだ。
きっとそれは間違いないのだろう。
後悔はない。後悔はないのだが、前世への寂しい思いは拭えない。
最終編集:2017/5/21