第19話 六本足のナマケモノ
俺は粘った。
粘着質なスライムの様に、鬱陶しがられ、逃げられても、後を追いかけ、弟子にしてくれと師事し続けた。
弟子の押し売りである。
ニシェル=ニシェスは逃げた。
木々を飛び越え、川を渡り、岩の影に隠れた。
俺は必死になって追いかけた。
魔術を駆使した。
持てる力のすべてを使った。
覚えたばかりの衝撃波での移動は、最初のうちは怪我をしていたが、そのうち慣れて調整もできるようになった。
ニシェル=ニシェスは気配を消すことができた。
森と同化し、すぐ近くにいてもわからなくなる。
俺は魔力で目を凝らし、鼻を鋭敏にし、聴覚を研ぎ澄ました。
本気の追いかけっこだ。
見失えば俺は弟子にしてもらえない。
見失わなくても拒絶され続ければ同じだが、最後まで追い縋ったら温情をくれるかもしれない。
俺はそれに賭けている。
エルフ。
この世界にきて初めての異種族。
どうしても知り合いになりたいじゃない?
とんがり耳とか、触ってみたいじゃない?
本当はエルフの美女がよかった。
この世ならざる美貌のエルフの女王とはどんな人物なのか。
エルフの女王に恋した騎士の物語は、この世界の童話でも比較的ポピュラーな部類にある。
フレアから絵本を借りてリエラに読み聞かせをしたのだ。
最初は頭上にあった陽も、気づけば傾き、夕暮れが迫ってきて、あっという間に星空に埋めつくされた。
魔力はほとんど残っていなかった。
大森林のどこかもわからないまま、俺は仰向けに倒れ込んだ。
木々の間から見える星空。
今日以上に本気を出して鬼ごっこをやった日はない。
そして完敗であった。
まず、自分の鍛え方が足りないのを嘆いた。
魔力槽は魔力が底をつくまで毎日鍛えることで大きくなる。
そうであるはずなのだ。
もしや限界値に達した?
七歳にして限界。
あまり考えたくない。絶望的だ。
夜になって、自分がどこにいるのかふと考えた。
大森林のどこか。
魔力は底を尽いている。
風に乗って、大森林の生き物の息遣いが聞こえてくるような気がした。
……あれ?
これってやばいんじゃね?
知りたくもなかったが、大森林の生き物の息遣いがさっきより心持ち近づいている気がする。
あれー?
今日一日、後先考えない行動が多かった気がする。
初めての魔物群。
初めての遭遇戦。
初めての異種族。
精神年齢三十代の俺が年甲斐もなく興奮したのだろうか。
リエラと離れて半日以上が経過していた。
そういえば、である。
屋敷を出てから今日まで、こんなに長い時間妹と離れていたことがなかったことに気づく。
ムダニの下で働かされて二年間。
決して楽な道ではなかった。
リエラを守るため、痛いのを我慢して暴力の矢面に立つ。
いつの間にか。
神経をすり減らしていたのだろうか。
つらいとは思わなかった。
そう思ってしまえば、リエラを見捨ててまで自分が助かろうとすることに気づいていたからだ。
俺の精神は弱い。
強いものにはすぐに屈伏してしまう。
異世界の英雄にはなれそうもないから、せめて妹は守ろうと思った。
だからリエラが喜びそうなことを探した。
リエラは手先が器用だ。
野花の白いやつをたくさん摘んで帰ってくると、茎を結び合わせて花の腕輪を作って見せてきたことがあった。
花の腕輪は翌朝には萎れてしまい、リエラまでしょんぼりしてしまったが、妹が喜ぶのなら、俺は何度だって花を摘んできてやるつもりだ。
そんなことを考えていると、森の奥から気配が強くなった。
現れたのは、クマのような大柄な体を持つ、腕が異様に長い四足歩行の生き物。
サルのような顔をして、身体はクマ寄り。
ああ、ナマケモノみたいだ。
体長四メートルはあるかと思われる巨体をのそりと動かし、ゆっくりと近づいてくる。
よく見ると腕が四本ある。魔物だ。
二足で危うげなく立ち上がり、四本の腕がめいめい勝手に動き、周囲の木を掴んだり、頭を掻いたりしている。
こいつに害はないのかな? と思ったときもありました。
振り上げられた長い腕。
鞭のようにしなり、俺の顔面を叩き潰そうとしてきた。
ボコリ。
なんとか身をかわすと、さっきまで頭があった地面に凹みができた。
どんな腕力だ。
俺はすぐさま構えて、風魔術で首を刈ろうとした。
しかし。
魔力の塊が、ポヒュンと情けない音で飛び出した。
いつもの風魔術は出てこない。
要するに、ガス欠である。
「嘘だろ、こんなときに」
魔力切れということは、身体強化に使っていた魔力もないということ。
俺の体は七歳児以上の頑強性はない。
終わった。
魔術師から魔術を抜いたら何が残ると言うのだ。師だ。いや、違うか。
誰か助けてくれないかな、主にエルフとか。
そう思い周囲にちらっと目を配ると、いた。
木の上から様子を見るエルフが。
「あのう、こんな状況で頼むようなことではないのですが、できたら助けていただけませんか? ぼく、魔力切れでいまピンチなんです」
大型ナマケモノはのっそい動きだが、パワーは尋常ではなかった。
叩き潰されれば一撃で死んでしまう。
治癒魔術に使う魔力も残っていないので、かなり状況としては厳しい。
エルフは降りてこなかった。
いい気味だとか思っているのかもしれない。
そりゃ半日追いかけ回したらいい印象は持たれまい。
しょうがない。倒すしかない。
これも何かの試験だと思うことにした。
俺は何とか大型ナマケモノを倒すため、よく観察する。
正直怖い。
イランに二年間木刀で殴られ続けて、観察眼と動体視力は鍛えられた。しかしその程度だ。
俺の強さは魔力ありきだ。
魔力以外は年相応の人並みしかない。
木の枝を折り、とりあえず武器にする。
叩いたってびくともしなさそうな図体だ。
下手に攻撃を仕掛けられて一撃でももらえば、その時点でゲームオーバー。
エンディングは見えた! 人生という名のな。
ギャルゲーのように女子を攻略する漫画の主人公にはなれないんだよ……。
俺は俺でむさくるしいデッドオアアライブを切り抜けねばならない。
エルフは静観を決め込んでいる。
助けてくれるつもりはないのだろうか。
手にした木の枝。
戦端は鋭くとがっているが、正直これの使い道はあまりない。
大型ナマケモノの弱点にぶすりと刺す以上の耐久性は持ち合わせていないのだ。
いまも二本の腕が大振りな攻撃を仕掛けてくる。
残りの二本の腕は周囲の木を掴んで体を安定させているようだ。
立ち上がるのに、二本の腕は欠かせないようだ。
逃げるしかないのだろうか。
いや、動き回るのは良策とは言えない。
なぜならここは大森林。
魔物、魔獣なんでもござれ。
人の心休まる場所ではないと知れ。
しかしナマケモノに弱点があるとすれば、それは顔のどこかだろう。
腕が俺の身長よりも長く、ナマケモノが顔を近づける機会はない。
なら、危険を冒しても移動するしかない。
他の魔物をおびき寄せる可能性があったが、このままではジリ貧だ。
大振りの腕を避けながら、木々を盾に後退する。
ナマケモノのパンチスマッシャーは、大木だろうが平然と抉り倒している。
倒れてくる木と、ナマケモノの動きに注意しながら移動する。
幸いにも足は遅く、十分に安全と思える距離を取ることができる。
暗い森の中を、何とか目を凝らして進む。
目を魔力で強化できれば、昼の山道のようにサクサク進むことだってできるのだ。
しばらく移動していると、何やら鼻を突く臭いが漂ってきた。
ナマケモノを見ると、その足がわずかに遅くなり、顔というより鼻を掻いている。
どうやら腐ったような異臭が、ナマケモノの鼻にダメージを与えているのだ。
これはチャンスとばかりに臭いを我慢して、俺は臭いの強いほうへと足を進めた。
吐き気を催すが、生き物の腐ったような臭いではないことは確かだった。
一か月放置した生ごみの臭いというか、夏場のゴミ捨て場の臭いというか、とにかく近づきたくない臭いではあった。
臭いが次第に強烈になる。
それでもナマケモノは後を追ってくる。
頭を振り乱し、相当に嫌がっている。
だったら森へ帰れよと言いたい。
言って聞くなら最初から襲われていないよね。
ままならないものだね。
唐突に視界が開けた。
開けた場所に木が一本生えている。
木には一見するとたくさんの果実が実っているが、強烈な臭いの発生源は間違いなくその果実からだった。
臭い果実の木の周りには草木が生えていない。
きっと植物界では鼻つまみ者で、ぼっちなのだろう。
周りと協調できないのはその臭いせいだろうが。
ナマケモノは木が途切れたところで足を止め、開けた場所へは踏み込んでこない。
なるほど。
この魔物の通常より多い二本の腕は、木を掴み立ち上がるためのもの。
振り回すのは残りの二本。
腕が多いから手数も多いのかと思ったが、そうではないらしい。
通常より多い二本の腕は補助機能というところだ。
俺は果実に近づいていった。
近寄れば寄るほど、恐ろしいまでの悪臭だった。
鼻が曲がりそうだ。
この木の周りの空気を吸うことすら躊躇われる。
しかしこの果実が俺の活路だ。
意を決して果実を捥いだ。
手に触れる柔らかな感触。
力を籠めれば果肉の形が変わるほど柔らかい。
ぶぴゅっと裂け目から液体が飛んだ。
「うげっ!」
液体は指を濡らした。
激臭だった。
洗ってもちょっとやそっとじゃ落ちないかもしれない。
ちょっと後悔した。
ナマケモノに近づき、それを顔に向けて投げた。
べちゃりと当たる。
動きが鈍いので、避けようがないのだ。
「ウギュアアアアアアッ!」
吼えた。
木から手を放し、四本の腕で顔を覆った。
開けた場所に転がり出てきて、のた打ち回る。
その動きは体の大きな大人が転げ回っているようにしか見えない。
引きこもりのデブニートを太陽の下に引きずり出したらこうなりそうだ。
思わず目を逸らしたくなるような情けなさだ。
なんだか他人を見ている気がしない。
でもチャンス。
「うわぁぁぁぁ!」
枝を構え、狙い、突き込む。
鼻を押さえたナマケモノ、その目に向かって。
「ウギュアアアアァァァァッ!」
枝が深くまで突き刺さった。
俺はすぐさま距離を取った。
枝は刺さったままだ。
暴れている。
地面を殴り、足をばたつかせ、地団駄を踏んでいるようでもある。
何かを掴もうとして手を伸ばし、しかし空を切る。
ナマケモノの体はビクビクと痙攣を起こし、やがて動かなくなった。
「合格じゃの」
どこからともなく声が聞こえる。
森の奥から、エルフが歩いてやってきた。
ご丁寧に鼻をつまんで、臭いのを嗅がないようにしている。
俺へのあてつけか?
「その度胸、隅々まで見させてもらったぞ」
なんで上から目線なんだよと思ったが、こちらから師事をしているのだ。
当たり前か。
「弟子になることを許そう」
鼻をつまみつつ、エルフが言う。
俺はそれを聞くと、体中から力が抜けてしまった。
もう立っていられなかった。
その場にばたりと倒れ込む。
もう安全だろう。
俺は深い眠りに沈んでいった。




