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異世界旅行は落ち着かない  作者: 多真樹
第二部 少年時代 五章 ダンジョン&ドラゴン
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第121話 縦穴下降

 生まれてから初めて目にしたのは、板を無理やり繋いだようなボロな家屋の天井と、薄汚れて髪がボサボサの貧相な顔つきの女だった。

 転生したのは理解したが、最下層の女が自分を産んだ母親だと受け入れるのは困難を極めた。

 女――母親は、想像の持てる限り、最悪の環境で暮らしていた。

 場末の街娼らしく、客との間にできたのが自分らしく、父親は誰とも知れない。

 母親もスラムで生まれ育ったのか、頭は悪いし、ビクビク怯える態度が目立った。

 しかし自分にとって唯一の救いがあるとすれば、彼女は世話好きであることだ。

 街娼として立てない間、近所のスラム女から子どもを預かり、同時に五、六人の面倒を見ていたことだ。

 自分の子どもと分け隔てない愛情を、他の子どもにも注いでおり、子育てに関しては感謝している。

 事あるごとに「神様から授かったんだ」と言い聞かせてくるような夢見る女だったが。


 「神様の授かり物だなんて馬鹿馬鹿しい」と同業の娼婦には相手にされなかったようだが、あながち間違いでもないことは自分だけが知っていた。

 自分には前世の知識が丸々残っていたのだ。

 三十代までのつまらない社畜人生だったが、おかげで現状の底辺生活でもなんとか生き残ることができた。

 子どもながらに「ちょっとは役に立つ」ことで、スラムの中でもマシな方の生活が送れたのだ。


 母親から暴力を振るわれて死んだ子どもなど、スラムには吐いて捨てるほどいた。

 通りをひとりで歩いているだけで、頭のおかしい大人に撲殺されることもある。

 いつ同じような境遇になるともわからない生活の中、薄皮一枚のところで生にしがみついていた。

 預かっていた子どもが、親の元へ帰り、そのまま二度と顔を見ないことも度々あった。

 当初はうわ言のように「神様から授かった」という母親が、いつ手のひらを返すかもわからなかったので毎日を恐怖しながら幼児として生きていたのは笑い話だ。

 母親が子ども相手に手を上げる姿は、結局一度も見ることはなかった。


 心が貧相になるスラムという環境の中で、信じられるものは、自分と母親と、そして前世の知識しかなかった。

 ただ無駄死にしたくなかった。

 生きて望むままの生活をしたいというささやかな夢も持っていた。

 まずはスラムから抜け出すことだ。


 理想と現実は大きく違う。

 酔い潰れた男を人目に付かないところで撲殺し、身ぐるみを奪った後、裏路地の何でも屋で小銭に換金してもらい、その金で腐りかけの食べ物を買う。

 そんな日は、まるで千円を拾って交番に届けないまま、コンビニでアイスを買う、くらいにしか思っていなかった。

 いままで培ってきた常識がねじ曲がっていく。

 正義感や善良な心が歪んで濁っていく自覚はあったが、誇りで腹は膨れず、躊躇っていたらあっという間にチャンスは掻っ攫われただろう。

 後悔はしないことにした。

 スラムとは、殺人さえ日常として許容する、悪の渦巻く世界だったから。



○○○○○○○○



 ――自分の身は自分で守るしかない。

 そう思ったのはほかでもない。

 五歳のとき貴族として暮らした屋敷が一夜にして終焉を迎えたからだろう。

 双子の妹を養うために奴隷生活を余儀なくされた。

 一生安泰、生まれたときから勝ち組じゃね? と思っていた時期が俺にもありました。

 実家が家名ごと取り潰されたのも、権力闘争に祖父が負けたからだといまならわかる。

 祖父は厳格だったが、心根はどこまでも優しかった。

 この世界の善人は、悪人が付け入るカモでしかない。


 悪人を取り締まる警察みたいな機構は基本、領主や王様の管轄である。

 上下階級も根強いし、国王も民も神の下に平等と嘯く博愛主義者はその日のうちに投獄→処刑のコンボである。

 支配者層の望むように法が歪められるのは日常茶飯事であった。

 祖父の屋敷を襲撃した連中は、金品狙いの盗賊団ということで片付いているのも腑に落ちなかった。

 自衛手段がなければ命が脅かされる世界で、ただ殺されるのは死んでもごめんだ。


「ちょっと全部落とさないでくださらない? 一匹だけでも残して! どうか後生ですから!」

「ヴィルちゃん!? 本当に落ちちゃうわよん!」

「ボン様、アルさんにお願いして捕獲してもらえませんか? 権力の使いどきですわ」

「我輩、いま命令できる立場にないであります。ただの荷物持ちでありますゆえ」


 足場が悪いのに捕獲なんて無理だ。

 だからヴィルタリアの魔物触りたいは却下である。

 足を丸めて転がっている毒のない大蜘蛛で我慢してほしい。

 そもそも近づかれないように撃退しているというのに。

 大顎を持つ羽虫は、胴体を真っ二つにするくらいの力を持っているはずだ。

 

 俺がリーダーになっているのも戦闘力が高いゆえだ。

 でなければ十歳の言うことなんて誰も聞かない。

 ちょうど大蜘蛛の山から這い出てきた無力なティムに発言力がないのと一緒で。

 そんなティムは護身用の短剣を持たせているが、襲い来る虫系魔物を一体でも倒せるかは疑問だ。

 捕まって産卵苗床にされるのがオチだろう。

 それなんて蟲ゲー?である。


 被支配者層から抜け出るためにボン坊と手を組み、獣人村を興した。

 最初から理想があったわけではないが、場当たり的に行動しているうちに形になった。

 奪われたくなければ力を持って奪う側に回るしかない。

 大平原の戦争で、獣人たちが不当に奴隷されているのを見て我慢ならなかった。

 ミィナに暴力を振るう貴族を見て、はらわたが煮えくり返る思いをしたのだ。

 自らの意思で人殺しを行ったのもこのときだった。

 俺は、自分が何でもできる人間だとは思っていない。

 村長ムダニの下で妹が苦しみ、自分が苦しんでいるときでさえ、結局一線を越えられなかった。

 妹が大事ならムダニをさっさと始末すべきだった。

 それをしなかったのは、人殺しが怖かったのだ。

 オケラだってアメンボだって、血塗れ悪鬼だって、みんなみんな生きているんだ友達なんだ。

 そう、生まれたときはみな裸。

 未経験の童貞野郎だ。

 ……何の話だ。


「クェンティンさん、あなたも魔物を愛する同志として、アルさんに何か言って差し上げては?」

「僕、虫は苦手なんだよね。一匹残らず叩き落としてくれた方がいいかな」

「んまあ! あんなに無骨で猛々しい姿になんとも思いませんの?」

「うーん、キチキチ気持ち悪いから全部潰れちゃえばいいのにとは思うよ」

「んまあ! んまあ!」

「ティム君はどうだい? クモの下はどうだった?」

「ぼく虫嫌いだ……」

「んまままあ! 誰か理解してくれる方はいらっしゃらないの!」

「虫、食べるとおいしいにゃー」

「そっちの好きではありませんわ、子猫さん!」


 ヴィルタリアが興奮しているが、ここは足場が悪い絶壁。

 ボン坊は高所恐怖症だったのか、先程から壁に張り付いてダラダラと冷や汗……か脂汗を流している。

 壁からはときたまワームが岩をくりぬいて現れるので、安全とは言い難い。

 心休まる暇のない場所だった。

 俺は俺で、波状攻撃を仕掛けてくるトンボのような虫系魔物を土弾でハチの巣にしていた。

 緊張感の欠片もない同行者たちに、何をやっているんだと苦笑する。

 しかしその方が自分たちらしくていい。

 欲求を抑えきれないものたちが集まってできたパーティである。


 五歳で人殺し童貞を切った俺。

 その後も手を染める機会は幾度もあった。

 悲しいかな、ひととは慣れる生き物。

 大平原で北国のドワーフ軍を虐殺してからというもの、商都では山賊を三千人も屠り、ここでもまた奴隷商人の拠点を潰し何百人も血祭りにあげた。

 正義をふりかざすつもりはない。

 殺さねばならなかったから手を下した。

 勇者や英雄には逆立ちをしてもなれない。

 いや、英雄色を好むとも言うし、そちら方面ではあるいは。


 ――ただ、夜、無性に怖くなるときがある。

 寝汗をびっしょりとかいているのに、手足は氷のように冷たくなっているという具合に。

 この世は因果応報だと思っているからか、いつか誰かに殺される自分を想像をする。

 自分だけならまだいいが、思わぬところで身内に危害が及ばないとも限らない。

 鬱気味の思考は連鎖的に悪い方向へ膨らんでいくため、ひとつ不安に思うと次々悪い予感が思い浮かび、冷や汗が止まらなくなる。

 俺がいない間に嫁たちが復讐の対象になって鬱展開とか、死んでもごめんだ。


 そんなときはマリノアやミィナ、ニニアンの存在が救いとなる。

 身内が増える分だけ不安は増すのに、彼女たちのおかげで安心できるという矛盾。

 縋り付いて、格好悪く泣いたこともある。

 俺はヒーローにはなれなかった。

 クズだし、泣き虫だ。

 ちょっと女癖が悪くて甘ったれで、柔らかいおっぱいにタッチしただけでその日一日は幸せに過ごすことができる小者だ。

 それでも、手が届く範囲の身内くらいは、守れる力がほしい。


「あー、私のですのに……」


 片羽を失った魔虫が羽子板の羽のようにクルクルと回りながら落ちていく。

 それを崖の淵ギリギリにしゃがみ込んで、未練がましくヴィルタリアが目で追っている。

 その姿だけを切り取ってみれば崖から飛び降りた恋人を悲しむ姿にも見え……ないな。

 虫ごときで感情込めすぎだった。

 丸太のような腕で三十路過ぎの淑女の腰を抱えるカマロフの苦労が慮られる。


「あ、滑りましたわ」

「ちょっとぉん!」

「お、落ちそうですわ」

「言わんこっちゃないのよん、もー!」

「ぼくも手伝おうか?」

「クーちゃんが落ちそうだから結構よん」

「ひどい!」


 手を滑らせて頭から落ちそうなヴィルタリアを、太い腕でカマロフが引っ張り上げる。

 カマロフに胸とか触られているが、ヴィルタリアは平気そうだ。

 クェンティンなら下心が透けて見えるが、カマロフは同性愛者である。

 男子会でそう聞いた。

 女性を見ても勃たないらしい。


 ニニアンの男性器も女性にピクリとも反応しないのだが、カマロフと一緒にしたら俺の中で精神がおかしくなりそうなので分けて考えよう。

 ニニアンは男の娘……カマロフはオカマ……。

 カマロフは筋肉質の男性が趣味らしく、男子会の面子では食指は動かないそうだ。

 しかし将来的に俺かティムがストライクゾーンに入るかもしれないことを匂わせており、筋トレだけはすまいと心に決めている。

 ティムを鍛えて生贄に捧げる選択肢もありだ。

 まぁ、体に通す魔力である程度成長に働きかけることができるので、その辺りは心配いらない。

 ついでに言えばカマロフは女子会にも参加するらしく、ヴィルタリアの二人目の親友になっている。

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