第120話 襲い来る虫
迷宮に居続けるにあたってただひとつ不満があるとすれば、陽の光を浴びられないことだろうか。
思い付きで作らせた玉座に深く座り、肘をつきながら何をするでもなく思考の海に身を投じている。
手を伸ばせば女の生尻があり、その上には肉の乗った皿が置いてあった。
股間には女が顔を埋めており、口移しで肉を運んでくれる美女もいる。
迷宮で手に入るものなど限りがあるが、日光以外のものは大抵なんでも揃った。
精霊の力は、ヒトの世ではまさしく万能の泉だ。
ひとりにつきひとつの能力しか授かることはできないが、ようは使い方を誤らなければいい。
『洗脳支配』を最初に授かり、パーティを掌握した時点で、最強への座は手の届くところにあった。
それでも迷宮を出なかったのは、たぶん元から外に出る性分ではないからだ。
操った連中は仲間意識を持たせないために人の意思を奪い、尊厳を剥ぎ取ってただの道具とすることにした。
躊躇は欠片も存在しない。
どうでもいい誰かより、思うのは自分のちっぽけな人生だ。
暇を持て余すといつも昔を思い出す。
この世界に生を受けてからの、汚泥のような人生を。
自分の生まれは少々特殊だ。
オリエント王国の王都、そのスラムで生まれた。
今日の飢えを凌ぐことに一日の大半を使うような厳しい環境だ。
だが俺には、そこらの大人を凌駕する知識があった。
あとはプライドを捨てられるかどうかだった。
持てる知識を総動員して自分の有用性を広め、強者に媚びること。
スラムには金を持つ裏稼業の存在もあり、スラムに住む子どもは使い捨ての道具であるかのように利用され、そしてネズミのように死んでいった。
面従腹背。
内心では殺したいくらいに憎んでいる傍若無人な男に擦り寄り、組織で出世できるように耳打ちしたり走り回ったりすることで、使い捨てにはされなくなった。
しかしそれで軌道に乗ったわけでもなく、何度も死ぬような目に遭ってきた。
陰から支えていた男が敵対組織に殺されたり、変態趣味を持つおっさんやババアに貸し出されたり、危ない橋を何度となく渡らされた。
それでも耐えたのは、母親という良心があったからかもしれない。
殴られることも多かったが、それで得たものもある。
機嫌の悪い大人には近づかない。
最悪、虫の居所の悪い巨漢に目を付けられれば殺されることもあった。
顔をボコボコにされて死んだ幼馴染を見てしまったから。
必要とされることと、脅威に思われないことのバランスが大事だ。
危険だと判断されれば、役に立つと評価されていても消されることもある。
出る杭は根っこも残さず消してしまう方式なのか、たいがい必要以上に野心を抱いた奴が、ある日突然いなくなっていた。
持っている知識を絞ることで、「ちょっとは役に立つ」というポジションを維持できればよかった。
野心は抱かないようにして、仕事を忠実にこなすことを第一とした。
そうして能ある鷹は爪を隠すように、ひたすらに堪えた結果がいまに繋がっている。
望むものは手に入れた。
殺されない肉体、便利な魔術、肉欲をそそる美女。
得てして、目的もない日々はただ堕落していく一方である。
しかし美女を甘受し、配下が傅く光景こそ、男のロマンではないだろうか。
そこに至るまでには、決して楽な道ではなかった。
転生すればもっと楽な生き方ができると思っていた前世の自分をぶん殴りたい。
生まれ落ちたスラムは、それほどまでに腐臭の漂う場所だった――
○○○○○○○○
青水晶の広間から先へ進むが、不穏な気配は感じなくなった。
斥候としてこちらを確認した後、最奥にいる主人に報告にでも行ったのだろうか。
透明人間にはその後、出くわしていない。
数を用意しているわけではないのか、そもそも透明人間なんてものが当たり前にいたら困る。
俺だって足音を消すとか、臭いを消すくらいがせいぜいなのに。
それが祝福の力というのなら、普通にチート能力だ。
下へとなだらかに続く洞窟は、ひとがふたり並んで通れるくらいに道が開けていた。
先頭をマリノアと並んで進んでいた俺は、思わず立ち止まった。
視界が開けたと思ったら、巨大な穴が現れたのだ。
どうやら縦穴に行き当たったらしく、上の方は暗くて見えないし、途切れた道から先には何もない。
ただ真っ暗な地下空洞が広がっており、覗き込んでいると吸い込まれそうな気分になるから不思議だ。
「げ、何この高さ」
「ひゃ~ん、高いところ怖いわん!」
「冒険に来たという感じがしますわね」
「落ちたら一巻の終わりでありますよ、ガクブル」
カマロフは怖いと言いながらクェンティンに抱き付いて余裕がありそうだ。
ヴィルタリアは逆にぐいぐいと崖の高さをものともしないので、マルケッタがいつでもカバーに入れるように腕を組んでいる。
ボン坊は高所がダメなのかまったく崖際には近づかなかったが、息子のティムは興味津々で空洞を覗き込んでいる。
「やめなさいであります! 落ちるであります!」と父親らしく息子の心配をしている。
「あぶなーい!」とか言って背中を押したら笑えないだろうな。
やりたいけど後が面倒なのでやらない。
「ここで行き止まり? 飛び降りろって言わないよね?」
「壁際にまだ道が続いてるよ。一本道みたいだね」
クェンティンが顔を青くしながら下を覗き込んでいたが、そこまでリスキーではない。
壁から足場がせり出しており、なかなかの急勾配で下へと続いている。
縦穴の外周を螺旋階段のように降りていかなければならないようだ。
「ふたり並んでは通れないな、これじゃあ」
「一列になるしかありませんね。崖側に気を付けなくてはなりませんね、アル様」
戦闘が始まることも考えて、並び順を考えないといけない。
「マルちゃんは足場に注意ね。落ちたら大変だよ」
「やー」
上半身は少女でも、下半身はポニーくらいの馬だから、マルケッタが確かに一番危ないように思える。
「どんな魔物が出てくるのか、ワクワクしますわね」
「アタシはヴィルちゃんが足滑らせて落ちるんじゃないかって気が気じゃないわよぉん」
「アル様、わたしが先頭を務めます。アル様は後ろに」
「いいの? 俺が前やるけど」
「やらせてください」
「でも、ねえ?」
「役に立ちたいんです。激しい運動は控えますから」
マリノアがやけに意欲的だ。
そうはいっても魔物と遭遇してしまえば、接近される前に俺が魔術で対抗するまでだ。
「わかった。俺が後ろについてるから」
「ありがとうございます、アル様」
マリノアが柔らかく大人びた笑みを浮かべる。
そこには言葉以上の感謝が含まれているような気がした。
信頼とか、忠誠とか、もしくは親愛か。
じっと見つめあっていたら後ろから咳払いが聞こえた。
「あやしー」
「なんかねー」
「見つめ合っちゃってねー」
「意味深ー」
「きゃー」
この小芝居、クェンティンがひとりでやってる。
ボン坊がクェンティンの肩を叩く。
うわーんと泣き出して、太ましいボン坊の肩肉に顔を埋めるクェンティン。
なんなんだ……。
「あ、ええと、じゃあミィナとマルケッタとニニアンは最後尾ね」
「えー」
「文句言わない。俺の後ろにボン親子、その後ろが大人三人で行こう」
非戦闘メンバーを間に挟む布陣だ。
後ろは弓矢を使うニニアンとミィナでなんとかなるし、前方は俺がなんとかする。
ミィナとマルケッタだけだとふざけて危険を見落とす可能性があるが、ニニアンがいれば大抵はなんとかしてくれる。
しかもニニアンが馬の尻尾とか猫耳とかを無造作に触ってくるので、獣娘たちは警戒して遊ぶどころではないだろう。
周囲に警戒しろと言いたい。
「これ、渡しとく」
ニニアンがそばに寄って来て、手渡ししてきた。
紐に繋がった鉱石のアミュレットだ。
青く透き通った鉱石の表面には、呪文がびっしりと刻まれている。
ニニアンはそれを人数分配っていった。
なぜいまこのタイミング……。
しかし彼女の手にはいくつか余っている。
「これ、渡せなかった」
「出たとき渡せばいいさ」
ニニアンは頷いて残りを腰のポケットにしまった。
「これ、なんだい? 綺麗な石だね」
「細かい文字が彫られてますわ。たぶん、呪術ですわね」
「加護と言え、加護と」
エルフの魔力が込められた霊験あらたかなSRアイテムだというに。
これでミィナは石像にならずに死の淵から助かった。
ミィナがニニアンにお礼を言っている。
ニニアンは無表情で、ミィナの頭を撫でていた。
マルケッタがそれに続き、マリノアもお礼を述べた。
ニニアンは順に、優しく頭を撫でた。
クェンティンとボン坊とティムが期待のこもった目でニニアンの前の列に並ぶが、ティムが頭を撫でられた以外は特に何も起こらなかった。
男たちの醜い歯ぎしりが聞こえてくるようだ。
頭を切り替え、移動を始める。
先頭のマリノアが足場を確認しつつ、するすると通路を降りていく。
足場が狭かったり、段差を降りなければならなかったり、ところどころ危ないところはマリノアが声をかけてくれるので、後ろの鈍臭いメンツにはありがたい。
魔物はしばらくすると大穴の下から現れた。
ブーンという羽音が聞こえたから嫌な予感はしたが、マリノアが音を探るために足を止めたのを見て、後ろに注意を促した。
下から飛んで現れた第一村人は、俺と同じくらいの大きさの虫だった。
口角にクワガタのようなハサミを持ち、目が赤くキチキチと音を立てている。
近づいて戦いたくないのですぐさま土弾で応戦する。
それほどの威力は必要ないだろう。
羽をボロボロにすれば勝手に落ちていく。
マシンガンのように小粒の土弾をばら撒いた。
五匹、十匹と下から現れるが、その度に手をかざして撃ち落としていく。
たまにミィナやニニアンが矢を射っていた。
「矢が回収できないから撃たなくていいよ」
「でもヒマにゃー」
「どうせこの先忙しくなるよ」
最初の広間で遭遇した透明人間が単体で活動しているとも思えないので、いずれ祝福を受けた集団と交戦する予感はあった。
考えすぎならただの杞憂で済むだろうが、そうはならないだろう。
人能を超えた力というものは、それだけ目が曇りやすい。
倫理を気にしないのなら、俺だって迷宮に入ってきた新参を捕らえて自分の祝福を増やすことに使う。
この世は弱肉強食だから捕まった侵入者が悪い、とか身勝手な理由をでっち上げて。
「アルだけやらせるわけにもいかない。攻撃する」
ニニアンが攻撃手段を魔術に変え、風のカマイタチで虫を切り刻んでいる。
半分をあっという間に落とすと、残りは戻るどころか特攻をかけてきた。
三十匹を超える数だが、ニニアンが正確無比に切り刻む。
ワイバーンですらあっさりと落としてみせるニニアンである。
虫など物ともしない。
「輪切り、みじん切り、角切り」
「ちょ、ニニアンさん???」
「以前マリノアから包丁の使い方教わった。風の刃も似たようなもの。わたぬきも忘れない」
「いつの間に細かい芸を……」
この場合、ニニアンに料理をさせようという発想に驚くべきだろうか。
バラバラになった虫が花弁のように散っていく。
刃物捌きはさすがに手慣れたものだ。
しかしこれまでニニアンが調理したものはまだ一度も見たことがないのだが。
「食べられないものばかり作るので、わたしが止めています」
「あ、そうなの」
マリノアの苦渋に満ちた顔がすべてを物語っていた。
「エルフの魔法は圧巻であります」
「ボンちゃん、見惚れてないで! 上から大きな蜘蛛が落っこちてきてるわよん!」
「ミィニャも虫やっつけるー」
青灰色の耳をピクリと動かし、ミィナの精密射撃が炸裂する。
急所を射抜かれ、びくりと痙攣して死に絶えた大蜘蛛が、面白いようにポロポロと落ちてくる……頭上に。
「ぎゃー!」
「落石よりひどい!」
一抱えもある蜘蛛が落ちてくれば、そりゃ阿鼻叫喚にもなる。
あ、ティムが足を丸めた蜘蛛で生き埋めになった。
それはともかくとして、透明人間がもし襲撃を仕掛けてくるとしたら、魔物に襲われているときを他に置いてない。
排除が目的なら戦えないものから徐々に始末していくだろうし、精霊の加護を授かるための頭数が必要なら、戦えないものからこっそりと拉致していくはずだ。
要するに魔物と戦いつつ、ボン坊たち非戦メンバーにも気を配らなければならないということになる。
ならば油断を突かれないために、戦力をひとりかふたり温存しておくのが望ましい。
その点後方に置いたミィナとマルケッタは直感力に長けているので、奇襲にも即応できるはずだ。
一撃即死を叩き込まれるという可能性は、この際考えるだけ不毛なので排除だ。
とにかくまず感知することが重要で、ふたりは背中を預けるのに十分な実力者である。
ミィナが蜘蛛に気を取られている間、マルケッタはちゃんと周囲に気を配っていたし。
自衛手段が多いに越したことはない。
「次、ワームが来るよ。岩壁に注意!」
「壁に注意って、左手には壁しかないんだよアルくん!」
岩肌をくりぬいて顔を出したワームは、中央に陣取るニニアンがスパスパと先端の口を風の刃で刎ねていく。
土蛇のようなホースのような体だが、頭がなく吸盤のような口を正面に広げるワーム。
肌がぞわぞわと痒くなりそうな姿に男性陣は悲鳴を上げている。
しかしヴィルタリアがワームからどろりとこぼれる液体を指で掬おうとしていたので、青い顔をしたカマロフが鳥肌を立てながら止めに入っていた。
地獄絵図極まれり。




