第108話 春の宴
久しぶりの更新です。
春、十歳になりました。
という話。
春――
日陰に吹く風はまだ冷たいが、日向はぽかぽかと温かい。
春の陽だまりのような結婚式がいままさに行われようとしていた。
冬の間につがいになった獣人たちは、慣習に従って春に式を挙げる。
故郷から大平原を跨ぎ、遠い地となろうとも、その慣習は守ろうという声が大きかった。
冬明けには実に十五組の夫婦が生まれ、獣人村のめでたい一大祝祭と相なった。
青空の下、青草の生える広場に特別大きな絨毯を十五枚広げ、そこにつがいとなるふたりが尻をつけている。
村人たちは酒に酔ったり小山のように盛られた飯に腹を膨らませたりしながら新婚夫婦の前にやってきては、めいめい祝いの言葉を述べていくのだ。
十五組の中でももっとも関心を集める組みがある。
村人が特に集まるその場所には、春になり十になったばかりの花婿が緊張することもなく鷹揚と胡坐を掻いている。
だいたい十二歳くらいで成人を迎える獣人の間ではかなり異例だが、そこにめかした嫁が三人も並んでいるとなれば目を惹かざるを得ない。
花嫁を彩る白レースが頭にふわりと載せられて、笑顔を振りまく女性はみな美しい。
幸せの中でたくさんの知人から祝福を受けている。
あるいは花嫁の心を射止めることができず悔し涙を浮かべる男の姿もちらほら。
花婿の少年の名はアル。
赤茶髪のヒト族であるが、同時に獣人村の族長でもあった。
祝祭が始まってしばらくは、花婿の少年の横に同じような背丈の幼い少女が座っていた。
挨拶するために訪れる客人が肉やパンを齧っていたりすると、ヨダレを垂らして物欲しそうに見つめるのだ。
大抵は苦笑しつつ、慣例にちょっとだけ目をつぶって、少女の口に食べ物を放り込んだ。
ちなみに少女に触れるのは女だけだ。
祝祭中、異性に触ることは最大の禁忌とされている。
愛嬌のある少女は、白レースが青灰色の猫耳に擦れて痒いのか、しきりに微動させていた。
体の凹凸はまだほとんどない成長前の少女であるが、少年と同様に祝祭の主役であった。
じっとしていられたのは始まって昼を越えた辺りまで。
同じ顔の妹猫獣人や、半人半馬のケンタウロス、ドワーフの子ども、獣人の幼い子たちやその保護者たちが集まり出すと、絨毯の半分はあっという間に子ども預かり所と化してしまい、花嫁はその中心でもぐもぐと口を動かすことに集中していた。
名前をミィナ。
十歳になる猫獣人の嫁であった。
先ほどまで猫少女がいた隣に、無表情のエルフが黙々と置物のように微動だにせず座っていた。
なぜ自分がここに座らされているのかもわかっていない愛想のなさである。
彼女を祝福する客はほとんどおらず、遠巻きにされている。
警戒心の薄い獣人の幼い子どもたちにまで尻尾を丸めて恐れられる存在であった。
それは単に近づいてきた子どもを捕まえて、嫌がっても離さずもみくちゃにするので、すでに悪評が広まっている所為だろう。
いわば自業自得だった。
始まったときに隣の猫耳少女を膝に乗せようとしたら、反対側の犬耳少女に慣習だからと止められてしまい、それ以降石像のように動かない。
エルフだけあって美しさは女でもため息を吐くほどだが、それだけに近づき難く、花婿は苦笑いである。
いまは大人しく、空いたひとり分の距離を詰めて、花婿の横で置物になっている。
名前はニニアン。
美少女の外見をしているが、いろいろ事情を抱えたエルフだ。
アルの強い願望によって、この度花嫁になった。
そして花婿から一番端に、犬耳の清楚な少女が座っていた。
背筋も伸び、花嫁の中でダントツで愛想があって美しい少女だ。
髪は黒と白の入り混じるマーブル模様。
微笑む度に同じ色の尻尾がパタパタと揺れる。
その美貌ゆえか、人当たりの良さか、彼女に挨拶に来る客がいちばん多かった。
応対する笑顔も柔和で、膝の上で揃えた手や小首を傾げる仕草に色香が漂っている。
十三になる娘とは思えない落ち着きぶりだった。
彼女を花嫁に迎えることができずに涙した若者は多い。
しかし獣人村最強の花婿がいる限り、彼らが犬耳の少女に手を出すことは叶わない。
弱肉強食を素で行く獣人族の上下関係は絶対的であり、力量はわかりすぎるほどにわかっているのだ。
犬耳少女は花婿の三人いる花嫁代表としての責務を律儀に重んじ、訪れるものたちに変わらぬ笑顔を振り撒いている。
猫少女が我慢できずに逃げ出し、エルフは愛想のない顔でそっぽを向くことを見越していたのだろう。
かといって仕事だからと機械的な笑顔を浮かべているわけでもなく、真面目な性格云々を抜いたとしても、誰もがわかってしまうほどに幸せそうで花嫁になった自分を喜んでいるのだ。
主に花婿を見る目に顕著に表れており、見る度尻尾がパタパタと揺れるので、彼女に惚れた若者は一縷の望みすら絶たれたことを知って凹んでいる。
「くそぅ……くそぅ……」
悔し涙を滲ませて犬耳の花嫁の晴れ舞台を見つめるひとりの幼い獣人がいた。
鹿の角が頭からちょこんと生えた鹿系獣人のぽっちゃりとした少年である。
少年は犬耳少女に思いを寄せていたが、横から突然現れた赤茶色の髪の少年(彼はうんこ頭と呼んでいる)のヒト族に奪われ、悔しさに身悶えする毎日を送っていた。
公爵領を治めるベレノア公の妾の子ではあるが、箱入りで育てられたために少し我儘でもあった。
望めば何でも手に入る甘やかされた環境にいた所為か、癇癪持ちでもある。
それゆえに大好きなお姉ちゃんが奪われたことにいつまでも納得がいかないのだ。
全力で挑んで負けたが、それで諦められるほど単純なものでもなかった。
割と本気で将来のお嫁さんにするつもりだったのだ。
幼心を切り裂いたウンコ頭には、もはや憎悪しかない。
祝祭は佳境に入り、とある催しが行われていた。
花婿が己の力を示すために村の強者に挑むというものだ。
肉食系獣人の間に残っていた慣習で、花婿が周囲にこいつは強いから家族も安泰だと知らしめる儀式だ。
この獣人村では草食肉食が混同するため、絶対に通過しなければならない儀式ではなかった。
事実、花婿の参加は七名と半分ほどである。
花婿の挑戦を受ける相手は、獣人村の村長を冠するベアードさんである。
ベアードはそののっそりと鈍重な姿からは想像もできないほどに強かった。
押しても動かぬ巌、動けば大地が揺れる剛の者として若者には憧憬を向けられている。
そしてこの獣人村では間違いなく五指に入るほどの有力者だった。
ちなみに残りの四指は、今日この日を花婿花嫁として迎えており、四人とも同じ絨毯に座ってこの余興を楽しんでいるのだが、それは言わぬが花であろう。
草原の上を、また若者が飛んでいた。
族長ベアードに投げ飛ばされた男は、これで六人である。
これまで血の気の多い肉食系の若者が挑んでいたが、ここにきて残りのひとりは草食系の見るからに細っこい青年であった。
垂れたうさぎ耳が特徴的で、細身な体格はお世辞にも荒事には向いていない。
それでも村長に挑むのは、彼が男だからだ。
白黒髪を後ろへ流した馬耳長身美人の花嫁が心配そうに手を組んで祈っている。
守りたい人を守れる男になるため、筋肉がまったくついていない腕を構えて村長に体当たりしていく。
しかし誰もが想像したとおり、クマ耳の村長はビクともしない。
押せども押せども、青年の顔が真っ赤になろうとも、村長は微動だにしない。
均衡は数秒で崩れ、村長はあっさりと兎青年を転がした。
しかしすぐさま立ち上がり、「もう一度!」と叫んだ。
まるで子どものお遊戯だったことに納得がいってないのは顔を見ればわかる。
「いいぞーもっとやれー」と囃し立てる野次があるかと思えば、「ひとり一度の勝負に再戦は違反だ!」という不満の声もある。
村長は困り顔になってしまう。
そして視線は自然と若き族長に向けられ、それを追って周囲も花婿として座る少年に視線が集まった。
「いいんじゃない? 再戦上等。納得の行くまで思う存分やればいいよ」
赤茶髪の少年は朗らかに答えた。
それは彼らの母語にしている獣人語であった。
「族長様は参加されないのですか?」
見物人として胡坐を掻いていた幼き族長に、観衆の誰かが問いかけた。
冬の間に獣人語をようやく覚えた族長は、至極面倒臭そうな顔を浮かべた。
しかし立ち上がり、頭の上の花冠を犬耳の花嫁に手渡す。
大山が動いたとばかりに、観衆は沸く。
とりあえず兎耳の青年が熊獣人の村長に再挑戦して投げ飛ばされた後、族長に挑むものが列を作った。
その中には現役で戦闘部隊の隊長を務めるものや、族長の身辺警護をする腕利きの姿もあり、少年は苦笑気味だ。
もはや花婿の力試しという建前は形骸と化して、力を持て余した脳筋の暴れる場となっていた。
生来戦うことが大好きな連中は、村長のときより高く投げ飛ばされても満面の笑みで列に並び直した。
雪に閉ざされた冬の間、寒中訓練と称して上半身裸で半日ぶっ通しの組手をしたこともある。
それに参加していた少年は、獣人村の戦士三百人の実力をほぼ把握している。
冬のうちに、これまで適当だった隊長格の選抜や護衛隊の編成もされたのだ。
寒中訓練で少年は嫌というほど彼らを投げ飛ばして、実力を見せつけていた。
当たれば体をぶっ壊されそうな拳を何度も寸止めされたことで、彼らにも彼我の差は理解できている。
それでも無礼講とばかりに挑むのだ。
触れることができただけでも彼らには特別らしく、村長のように力押しの勝負になるだけでも羨望を向けられた。
子ども相手に負けることに納得のいかないものもいたが、大半は強すぎる族長の元で戦えることを嬉しく思うのだ。
強者に従いたいという願望が、彼らの本能には刷り込まれている。
族長の次なる挑戦者は同じくらい背丈の低い鹿系獣人の子どもだった。
観客は笑って立ち合いを眺めているが、当の鹿角の少年は思いつめたような顔をして族長を睨んでいた。
「それでは、始め!」
合図とともに獣人の少年は突っ込んでいく。
何の腹案もない体当たりかと思われた。
しかし寸前で足を止め、掴みかかる。
少年も応じて両手で組み合う。
明らかに手加減をしている族長だが、組み合いにまで持ち込んだことで観衆は大いに沸いた。
温かい声援を送り、どっちも頑張れと成り行きを見守る。
族長より頭ひとつ小さい少年は、力押しでは勝てないことを知り肩からぶつかった。
しかし受け流され、気づけば族長の足元に転がっていた。
「ああ、惜しい!」と優しい歓声が上がる中、族長は手を差し伸べて少年を起こそうとした。
少年も表情を強張らせながら手を取り、起き上がる。
互いの健闘を讃える声が上がる。
次の瞬間、少年が足を滑らせたのか族長の懐にぶつかった。
気配が一瞬にして変わったことを、観衆は気づいた。
熊系獣人の村長や実力者の隊長格が突然飛び出したのだ。
その中には花嫁だった犬耳の獣人少女も混じっていた。
背の低い族長はすぐに彼らで見えなくなったが、しばらくすると笑みを浮かべて人垣から出てきた。
何が起こったのか誰にも事態の把握はできない。
が、族長はいつも通りのんびりとしているので、まさか大事だと思ったものはいなかった。
獣人少年がしゃくりあげており、顔を強張らせた村長に肩を押さえられていたが、それを不自然に思ったものは少ない。
ただ、勘の鋭い何人かはことの次第を察したようで、獣人少年に非難の目を向けた。
犬耳の少女マリノアも獣人少年ティムに辛辣な目を向けるひとりで、彼は視線に気づくと丸顔を震わせていっそうしゃくり上げた。
力試しはそれでお開きとなり、大皿に乗った料理が次々運ばれてくると別の歓声が上がった。
○○○○○○○○○○○○
春、喜びと祝福の季節。
獣人村は春を迎え、そして祝福に包まれていた。
結婚式。
それも族長を含めた十五組の。
それにしては花嫁が花婿よりふたり多い。
族長が三人の女を花嫁として迎えたからだ。
男ひとりに女三人という異例中の異例だが、獣人たちは基本強ければ何人娶ろうと文句はないらしく、思ったよりもすんなり受け入れられていた。
ただ、不満の塊と化した少女がひとりいるだけで……。
赤髪の少年が獣人たちを素手で千切っては投げ、千切っては投げている光景を見て、痩身でポニーテールのチェルシーはどこにそんな力があるのかと訝しんだ。
彼女には大の男を投げ飛ばす力も技もない。
そこに魔術的な要素があるのだとすれば、もっと専門外だ。
「なんであの体格差で投げ飛ばせるの? 意味わかんない……」
「肉体強化の魔術を使っていると聞いたことがあります。獣人たちにそれを指導したのがアル少年だとか」
チェルシーの呟きに答えるのは隣に座るニキータだ。
エルフの見た目をした美人で、フリルの付いたメイドの格好をしている。
花嫁のひとり、猫獣人のミィナがチェルシーの膝の上で欠伸をしており、その頬を横から半人半馬のマルケッタがつついてじゃれている。
マルケッタの背中にはもっさりした黒髪の幼女ドワーフオルダと、片足を失くしたニィナが跨っている。
ふたりは楽しそうに声を上げている。
「それにしたって強すぎません?」
「エルフの師匠の下で学んだらしいですからね」
族長こと少年アルは魔術師だ。
魔術分野が得意なはずのアルは、武闘派な獣人たちを軽々と制圧してみせるほど強いらしく、実際に己の目で見ると異常さが際立った。
治癒魔術を齧った程度のチェルシーには魔術の深淵など覗き込めるわけもなかったが、明らかに赤茶髪の少年が、群を抜いて異常なのはわかる。
山賊をたったひとりで制圧したり、多人数対ひとりの魔術のぶつかり合いで勝利したり、妹のリエラも治癒魔術では天賦の才を持っていたこともあって、神に愛された双子なのではないかと思ってしまう。
目にも留まらぬ速さで右へ左へ幻惑して飛びかかってくる狼獣人を、なぜ一瞬にして頭上に放り投げられるのか。
チェルシーは不満に思いつつ、アルの結婚を客観的に眺めている。
他の観客にとってはそれは歓声を上げる見世物で、族長最強説を現在も刻み込みながら、村長の熊獣人と地面が抉れるほどの対等な押し合いを歓喜の顔で眺めていた。
マルケッタは白いベールを被ったミィナにずっと興奮気味だ。
ミィナ、ニィナ、オルダと言った幼い子たちの姉を自負する彼女は、妹の晴れ舞台に心から喜んでおり男たちの肉体言語はまったく目に入っていない。
ミィナの妹のニィナは姉が先に結婚するなどびっくりだろうが、あまり考えていないのか普通に笑顔だ。
アルとミィナは十歳だという。
ならばニィナもまた十歳だ。
三つ子の末妹だと聞いている。
こんな幼い子どもが結婚しているという事実に、チェルシーは立ちくらみにも似た目眩を感じた。
五歳くらいの丸耳をした獣人の女の子が、先約のミィナの頭を押し出すようにして、のろのろとチェルシーの膝の上にのぼってくる。
青灰色の耳や髪を踏まれて驚いたミィナは、幼い子どもがチェルシーの膝を独占しようと頭をぺシぺしと叩いてくるのを見て、「むー」と唸りながら身を引いた。
今日は主賓のミィナだったが、大人しく引き下がって拗ねるようにマルケッタの背中に抱き付いた。
マルケッタが優しい顔をして、身体を捩じってミィナの頭を撫でている。
幼女を持ち上げてちゃんと膝に座らせてやると、くりくりの瞳で見上げてきた。
チェルシーはそれまで冴えない顔をしていたが、花が咲いたような笑みを浮かべる幼い子につられるように微笑んだ。
子どもは好きだ。
だからこそ、危険から遠く笑っていられる場所で、何不自由なく暮らしてほしいと思う。
赤髪のアルの横はそんなゆりかごのような環境からは程遠いものだから、ミィナや犬耳のマリノアを心配してしまうのだろうとチェルシーは思う。
彼女たちの図抜けた実力を見る機会もあって、獣人の戦士たちより強いことも知っていたが、それと心配することはまた別のものなのだ。
獣人の少年がアルの前に出てきた。
鹿系獣人のティムだった。
「あれって確か、ベレノア公のお子さんですよね」
「そうですね。ぽっちゃりしているところがそっくりですね」
ニキータは自分の主以外、あまり言葉を選ばないところがある。
一際華美な絨毯を広げて笑顔で観戦しているベレノア公と、それを囲む獣人のメイドたちを見て、確かに親子だと想像するのは容易い。
ベレノア公は獣人しか愛せない偏執的なひとらしく、だから魔物に恋するクェンティンやエルフ・獣人を嫁にしたアルとはとても話が合う。
頭のおかしいもの同士、通ずるものがあるのだろう。
チェルシーには理解できない趣向だ。
子ども同士のぶつかり合いは、あっさりとアルが制した。
倒れたティムに手を差し伸べる姿は余裕を感じさせ、強さを見せつけているかのようだった。
起き上がったティムは足を滑らせたか、アルの懐に飛び込んだ。
その瞬間、周りがざわついた。
村長や戦闘部隊隊長の狼獣人、花嫁のマリノアがあっという間に族長の元に集まったのだ。
観衆もざわつく。
チェルシーもまた、何かあったのではと不安に感じた。
遅れて更に何人かが族長の周りに集まり出した。
審判が額を突き合わせて審議するようなその光景の中には、恰幅が良くいまは冷や汗をかいているベレノア公の姿もある。
野次馬のつもりか、金髪の若い商人クェンティンや銀髪で痩身の麗人スフィも近づいていった。
なにやら話し合いを始めていたが、チェルシーには最初から最後までなにが起こったのか理解できずにいる。
「あれ、何してるんですか?」
「さぁ。少なくとも主様は突っ込まなくてもいい問題に喜んで首を突っ込みに行ったことだけはわかります。どうせ役に立たないでしょうに」
「ニキータさんが突っ込むだの言わないでくださいよ。ちょっと下品です」
「失礼」
エルフのような見た目のメイドが口元に手を当てて目礼をした。
結局何でもないようにアルが出てきて、笑顔で手を振って終わった。
説明はされなかったが、若者たちの息抜きはすでに一巡しており、催しも大量に運ばれてきた食事に流れている様子だ。
「もしかして、アルが危なくなったのかな? そうじゃないとマリノアまで飛び出さないでしょ」
「一瞬でしたけど、誰よりも速く飛び出してましたからね」
チェルシーとニキータで憶測を話していると、クェンティンとスフィが並んで戻ってきた。
何があったのか尋ねてみる。
「んー、面白い話じゃなかったよ。まあ、何が起こるかわからないから気を付けましょうってことかな」
「そうそう。みんなも身の回りには気を付けましょうってことだね。獣人村には強いのがたくさんいるけど、一歩外に出れば何が起こるかわからないから」
クェンティンとスフィは無難な言葉で、何でもないことのように締めくくった。
チェルシーはなんとなくことの顛末を察してしまい、それ以上聞くことはしなかった。
遠くに目を向ければ、アルやマリノア、村長の熊獣人にベレノア公、項垂れるティムがまとまって歩いていくところだ。
チェルシーたちが獣人村に到着する前からアルとティムの間でひと悶着あったらしいから、その延長なのだろう。
ティムの想い人がアルの嫁であることがすべてを物語っているとも言える。
渦中の嫁はティムの想いなど知る由もなく、大事な旦那をティムから遠ざけるように間に入っているという、悲しい結末を迎えている。
「ミィニャみんにゃ守るよー」
「ややー」
「うー」
「三人の気持ちだけで充分ですよ」
「にゃー!」
「やや!」
「あう」
任せろと言わんばかりに強く頷く三人に、ニキータは眼を細める。
オルダはまだ言葉を完全に理解できているわけではないので、単にマルケッタの真似をしただけだろうとしてもだ。
「ニィニャは? ニィニャもするー!」
「ニィナもお願いします」
「にゃー!」
懸吊していない左腕を伸ばして、ニィナも元気良く手を挙げている。
右腕は骨折して変な繋がり方をしたため内側に曲がって動かなかった。
近くにいた獣人の幼児たちもつられて合唱を始め、にわかに騒がしくなった。
勢い良く伸ばされた手が隣の子に当たって泣き出してしまうこともあったが、獣耳の母親たちやヒト族のヴィルタリアやゾーラといった大人の女性も混じって面倒を見ている。
しかし子育てに不慣れなのか、修道院で年下の面倒を見る機会の多かったチェルシーから見ると大人ふたりはおっかなびっくりといった様子で幼児を抱えており、その手つきはいまにも落としそうで危うかった。
「ゾーラ、私幸せよ。この子を見て。一生懸命動いて、飼い犬のようで可愛いわ」
「気をつけてくださいよ。頭から落ちそうになってます」
「あらほんとね。動き回ってイモムシみたい」
獣人語でないことが幸いしたかもしれない。
母親たちに言葉通り伝わっていれば、かなり気まずいことになっただろう。
チェルシーは口端をひくつかせながら子どもあやすふたりを遠目に見ていた。
ニキータは相手が王国貴族の血筋だと知っているからか、聞かないふりをしている。
チェルシーも見てみぬふりができればいいのだが、いい加減口か手が出そうだ。
膝を独占していた幼児が立ち上がり、おもむろにチェルシーの袖を引いた。
指を咥えて、「こっちにきて」とばかりに引っ張る。
子どもに振り回されるのは慣れているので、チェルシーは腰を上げて引っ張られるままに付いていった。
いつまでもアルたち花婿、花嫁たちを見ているとモヤモヤしたものがいつまでも消えないので、ちょうどいいと言えばよかった。
「おトイレに行くの?」
「んーん」
指を咥えたまま、丸耳とふさっとした尻尾をピコピコ、フリフリしてチェルシーを引っ張っていく。
途中でクンクンと鼻を動かし、愛らしい姿でよちよちと歩んでいる。
子どもは嫌いではない。
目を離せなくなるし、見ていてホッとするのも確かだ。
しばらく草原をトコトコと進み、森の手前までやってきた。
すると十歳くらいの黒ぶちの猫耳をした少年が、おろおろと動き回っていた。
よく三人組で遊んでいる子たちだ。
獣人村の七十人はいる子どもの名前を、チェルシーは冬を越す間にすべて覚えていた。
チェルシーに気づくと、少年は見られたくないところを見られたとばかりにぎくりとした。
「どうしたの? イオくん」
「え、えっとー……」
視線を泳がせているのは何かあった証拠だ。
距離を詰め、目線を合わせてしゃがみ込むと、観念した様子でぽつぽつと喋り出した。
「マニとルクが森に入って出てこないんだ……臭いもよくわかんなくて、いつまでも戻って来なくって……ぼく、ぼく……」
話しているうちにぽろぽろと涙を落とした。
この時期の森は獣人の鼻を麻痺させる花が咲くために、子どもの森への出入りは禁じられていた。
森では獣人の大人たちの見回りが減るため、その間にどこかから涌いたゴブリンが巣を作ることも少なくないからだった。
慣れた大人ですら好んで森には入らないことから子どもには格好の遊び場だったのだろうが、危険は口酸っぱく言われていたはずだ。
大人の目を逃れて森に入っていた以上どちらにしても怒られると思ったのか、黒ぶちの耳と尻尾をしゅんと垂らしながらしゃくり上げている。
「大丈夫、私が連れて帰ってくるから」
「う、ごめん、なざぁい……」
「男の子なんだから泣かないの」
抱きしめると、小さい体をぎゅっと密着させて嗚咽を漏らした。
丸耳の少女は相変わらず指を咥えながら、ぽんぽんと少年の肩を叩いている。
背中をさすってやり、落ち着くのを待ってから身を離す。
「イオくん、この子をお願いできる? 村に戻って大人に……族長に伝えてほしいの」
「……え、うん」
少年はつつっと目を逸らした。
大人に報告すれば、自然と自分も罰されると思っているのだろう。
「怒られるのは自業自得でしょ? そんなことより友だちと二度と会えなくなる方が心配じゃないの?」
「うん、しんぱい……」
「できる?」
「うん!」
元気いっぱいに頷く少年に、最後まで指を咥えた少女を任せ、彼らが村に戻っていくのを見送った。
少女は口から手を離し、振り返りつつチェルシーに小さな手を振っていた。
いなくなったという子どもの行方を捜して、チェルシーは森に入った。
普段から獣人たちが歩き回る場所だから、歩きにくいということはない。
だが木々によって視界は悪く、見通しが悪いのは捜す上で面倒だった。
先にヴィルタリアやゾーラが追ったはずだが、誰の姿も見えない。
幼な子とはいえ獣人である。
恐ろしいのは幼いほど獣の本能部分が残っているということで、臆病な子が森で隠れたら、臭いを追わない限り見つけ出すのはほぼ不可能ということだ。
感知の得意な獣人に任せられたら良かったのだが、生まれ持った性格なのかじっと待っていることはできなかった。
少しでも見つかる確率が上がればいいと思い、居ても立ってもいられず飛び出してしまった。
頭を使って、幼な子がフラフラとどこを歩くか考える。
道のない場所より歩きやすいところを通るかもしれない。
藪を掻き分けるよりは、目に見えて通りやすい道を選ぶだろう。
チェルシーはなるべく開けた方に向かって進んだ。
しばらく進むと声が聞こえた。
それを頼りに進んでいくと、一台の幌馬車とその周りに身なりの悪い男たちが集まっている。
垂れ幕をめくった馬車の荷台に何かを掴んで放り込むのが見えた。
一瞬見間違いかと思ったが、子どものうめき声がチェルシーの耳に聞こえる。
音を立てずに近寄ると、猿轡を咬まされた獣人の子どもがめくり上がった垂れ幕の向こうにチラリと見えた。
ひとりひとりの顔つきが凶悪で、男たちは人攫いなのだとわかる。
チェルシーはパニックになりそうな自分をなんとか押さえ込み、機を見て子どもを救い出すために息を殺して身を低くしながら近づいた。
馬車の側には四人の男がいた。
どうやって助け出すか、それが第一だ。
しかし無理そうならこのまま馬車を追跡するしかない。
なにか目印になるものを残していけば、アルたちが気づいて追ってくる可能性は低くない。
「お嬢ちゃんよぉ、覗きなんてお行儀が悪いじゃねえか」
「ひっ」
唐突に横合いから醜悪な息を吹きかけられ、喉の奥から悲鳴が漏れた。
びっくりして飛び退こうとすると、肩を掴まれて乱暴に突き飛ばされた。
チェルシーはたたらを踏んで男たちの前に転がり出る。
馬車の周り以外にも、見張りがいたのだ。
チェルシーはそんなことにも頭が回らないほどに気持ちが急いていた。
「ああ? なんだ、女のお客さんかよ。大歓迎だぜ」
「覗きをしていたようだ。荷物に用があるのかもしれねえが、このまま捕まえて連れてっちまうのがいい」
「へへ、毛玉っころを掴まえたらちょうどいい女まで付いてくるなんてな」
男たちに背中を向けて一目散に駆け出したら、大きな掌で肩を掴まれて頬を張られた。
小気味よい音がしたと思ったら、チェルシーの視界はぐわんと揺れた。
足から力が抜けてもつれそうになるが、あっさりと汗臭い男に抱えられてしまう。
体を滅茶苦茶に動かしたが、あまり抵抗にならなかったようだ。
そのままズタ袋を扱うように、乱暴に馬車に投げ飛ばされる。
「あんまり目につく怪我させんなよ。そこそこの女だ、小遣いになるぜ」
そこそこってなんだ、と反論したくなったが、頬に走る痛みで口が動かない。
抵抗はしたが、慣れているのか馬車の上に載っていた小男に両腕両足を縛られる。
口も布を噛まされて塞がれ、芋虫になったチェルシーは乱暴に転がされた。
先に荷台に乗せられていた黄色耳の猫獣人の少女と目が合う。
怯えて尻尾を丸めており、他にもふたりほど、幼い子どもが捕まっていた。
マニとルク、それとニュンだった。
彼らの不安はチェルシーを見ても解消されず、むしろ絶望がより深まってしまったようだ。
彼ら獣人は元奴隷である。
絶対強者であるヒト族に刻み込まれた恐怖が掘り起されたのか、小さな体で悲しくなるほどガタガタと震えている。
チェルシーはせめてできることをしようとして、彼女たちに笑いかけた。
しかし、口の中は血の味が広がるし、少女から明るさを取り戻すことはできなかった。
「テメエみてえな大したことのねえ女はどうせ高く売れねえんだ。だったら夜はオレたちを楽しませてくれよ」
ぽんぽんと頭を叩かれながら耳元で囁かれる醜悪な言葉に、チェルシーは怖気が走った。
両手が自由ならぶっ飛ばしたのにと少しでも負けまいと思うが、しかし身動きが取れず、おまけに小男の吐く息が臭くて涙目になる。
「あと何匹か捕まえられそうか?」
「いや、難しいんじゃねえかな。あの女はオレらの仕事に感づいて追ってきたのかもしれねえし」
「んじゃあ、とりあえず出発するか。欲を出さねえのが生き残る秘訣ってのはよく言ったもんだ」
馬車の外から会話が筒抜けだ。
別に聞かれても困らないと思っているのだろう。
実際、いまのチェルシーにはどうすることもできない。
呻いてもがいたが、馬車を揺する程度だ。
小男に胸ぐらを掴まれ、チェルシーは必死に睨み返した。
無理やり胸を揉まれる。
「全然ねえな」
「ぐぐ(しね……)」
鼻で笑われ、床に叩きつけられて後頭部に痛みが走り、チェルシーは涙がにじんだ。
それきり興味を失くしたのか、小男は少し離れて自前のナイフを研ぎ石で磨き始めた。
男たちが慌ただしく声を張って移動を始めるのがわかったが、助けを呼ぶ声を上げることもできない。
馬車が動き出し、冷たい床から振動が伝わった。
これからどうなるのかと暗澹たる気持ちになる。
間に合えば獣人を引き連れたアルに救出されるだろうが、夜までに見つけてもらわなければ……自分の運命は簡単に想像できた。
泣きたくなったものの、寸前で引っ込んだ。
目の前には怯えて心を殺したようにじっと動かない獣人の子どもたちがいる。
彼らを救ってやれるのは、自分だけなのだ。
だから猿轡をされたままだったが、にこりと笑った。
口の端が引き攣るようでうまく笑えているかわからなかったが、心配ないよ、とだけ伝えられればよかった。
どれほど時間が経っただろう。
垂れ幕の下りた幌馬車は薄暗く、陽が陰り始めたからか輪郭が闇にぼやけ始めていた。
馬車は突如として止まる。
無理やり馬を止めたようで、揺れが酷かった。
外から男たちの声がする。
「おい、なんだ? ガキじゃねえか」
「そいつも捕まえて後ろに放り込んでおけ」
「男のガキはあんまり高くねえからな、腕の一本でも折っておくか」
「ふーん、物騒な言い草だな。じゃあおまえらは両手両足を折るだけで勘弁してやるよ」
聞き慣れた少年の声が聞えた。
続いて男たちの怒り狂う声。
そして枝を折ったような軽快な音が続き、男どもの悲痛な命乞いに繋がった。
乱闘はあっさりと収まり、荷台に少年が上がってくる。
「やあ、元気してる?」
小男が闇に紛れてナイフを突き出した。
チェルシーは「んー!」と声を上げる。
それを聞いて反応したかはわからないが、少年はあっさりと小男の手首を掴み、馬車の外に引きずり出してしまった。
垂れ幕が下りて外の様子はわからなかったが、計四回、枝を折るような音と、男の情けない悲鳴が聞こえた。
やがて少年は何事もなく荷台に戻ってくる。
口に噛まされていた布を解かれ、チェルシーはむせて咳を繰り返した。
その間に幼い獣人たちの拘束をあっさりと解いて見せた少年アルは、安心して泣き出す三人を順繰りに抱き締めて頭や背中を撫でていた。
「迎えに来たよ、チェルシー。もう大丈夫だから安心して」
「あ、アルがなんで……?」
「あーあー、チェルシーの頬、真っ赤に腫れてるじゃん。いま治すからねー」
「う、うん……」
「自分で治癒魔術使えるのに使わないところがチェルシーらしいね。そういえばこうして助けたのも二回目かー」
「わ、わたしがいっつも危険に飛び込むマヌケだって言いたいんだ……!」
「違うって。なんで怒るの。俺はただチェルシーの無鉄砲さと正義感は嫌いじゃないよって、そう言いたいだけなのに」
「猪突猛進の堅物バカって言ってるようなものじゃない!」
「いやちが……ん? そうかも?」
ふざけているアルにビンタでもお見舞いしてやろうかと思ったら、ポンポンと頭を撫でられて気勢を削がれた。
「よくひとりで戦ってくれたね。チビ君を伝令にしてくれたおかげで攫われる前に助け出すことができたよ。ありがとう」
「……うん」
「悪い奴らは根こそぎ始末するから安心して」
チェルシーはしおらしく俯いた。
その顔は真っ赤で、アルに見られないように両手で隠してしまう。
だから少年アルが凶悪な笑みを浮かべ、誘拐犯たちを根絶やしにしようとしている顔を見ることはなかった。
気づいていたら、チェルシーはどんな顔をしただろうか。
きっと子どものする顔ではないと悲しんだだろう。
チェルシーの性根は優しすぎた。




