第107話 雨降って…
獣人村の外れ。
左にベドナ火山を望み、正面に大平原へ続く荒野の道がある。
ところどころに雪が固まって氷になっている道を、ミィナはとぼとぼと歩いていた。
尻尾は項垂れ、耳も力なく垂れ下がっている。
目は泣き腫らしたあとが痛々しく残っており、時折ぐずぐずと啜り上げている。
ミィナ自身がアルを好きなのだと気づいたのは、アルとマリノアが仲良くベッドで折り重なっていたのをこっそりと覗いた後だったように思う。
とても嬉しそうに肌を重ね合わせる様子に、なんで自分はあそこにいないんだろうととてもショックを受けたのが始まりだ。
部屋を開けて中に入ることができなかったことにも、少なからず衝撃を覚えていた。
マリノアがアルだけにしか見せない姿を覗き見てしまった罪悪感からか、悪いことをしていると本能的に悟ったのだ。
ニニアンとアルも、同じだった。
それからは悪いことをしていると思いつつも、ミィナは覗くのをやめることができなかった。
アルたちだって人に見せるものではないとわかっているのか、人気のない場所でしか仲良くしていなかった。
ミィナが隠れて追いかけて、そっと覗いていたのだ。
胸がきゅぅきゅぅと締め付けられて涙が止まらなくなるのに、どうしてかその現場から離れることができなかった。
何度も見ているうちに、疎外感を味わい続けたミィナは、自分は必要ないのではないかと思うようになった。
涙は止まらなくなるし、何をしても楽しくなくなる。
そんな日が続いていたのだ。
俯いて歩くミィナの視界に編み上げの皮靴が目に入った。
顔を上げると困ったように笑うマリノアがそこにいた。
「冬の終わりとはいえまだ寒いんですから」
そう言って腕に抱いていたローブを着させられてしまう。
ミィナはいま寒さに気づいたようにぶるっと震えた。
体が冷え込んでいることに気付く余裕すらなかったのだ。
「ミィナが望むのなら、わたしは身を引きますよ。その覚悟があって、先にご寵愛をいただいたのですから」
「それは、いやにゃの」
ブンブンと首を振ると、マリノアは悲しげに頷いた。
「追いかけて欲しいんですね」
「違う」
「求められたいんですよね」
「違うぅ!」
「いつまでも子ども扱いしてほしくないですもんね」
「だから違うの! うそばっかり! マリーうそばっかり!」
「ちょっと前のミィナなら怒りはしなかったですよ? 首を傾げてそうかもーと言っていたと思います」
「マリーうるさい! 知らにゃい! ミィニャ知らにゃいの!」
「つまり何が言いたいのかというと、わたしはミィナの心の成長をとても喜ばしく思っているってことです」
急に満面の笑みで喜びだしたマリノアによって、ミィナの涙が少し引っ込んだ。
当たり散らす先を見失ったような、宙ぶらりんの感情を持て余す。
「ミィナはもう立派な女性だと思います! 自信を持ってください」
「よくわかんにゃいよう……」
「ミィナの恋はみんな応援しているんです」
「みんにゃ? だれ?」
「みんなです。ミィナに優しくするみんな。女の子は恋をして成長します。大丈夫、わたしたちのご主人様は成長したミィナを喜んでくれます。もしかしたら名前で呼んでくれるようになるかもしれませんよ?」
「猫じゃにゃくて、ミィニャって呼んでくれるのかにゃぁ……?」
ぐずぐずと涙を拭った。
アルから名前を呼ばれたことはほとんどない。
それこそ、ヒト族に飼われていたミィナを奪い取るとき、大声でミィナの名を呼んでくれた以来である。
ミィナは顔を上げた。
その顔は真っ赤に染まり、どこまでも恋する少女であった。
もじもじと尻尾をいじりながらも、耳は緊張でピンと張り詰めていた。
直面したマリノアが思わずキュンとときめいてしまうくらい、いまのミィナは可愛い。
春が来て十歳になる少女の心が、少しずつ大人に近づいているのだとわかる姿だった。
あとはアルの度量の広さだ、とマリノアは思う。
アルがミィナになんと言うかだが、しかしマリノアはそれほど心配していなかった。
きっとミィナと正面から向き合って、言葉をかけてくれると信じているから。
「アル、ミィナのこと好きにゃのかにゃあ……」
「ああ、もう」とマリノアは腹を立てたようにミィナから顔を背けた。
あまりにミィナがいじらしく、ともすれば衝動的に目の前の恋する少女を抱き締めたくなってしまった自分を抑制するためだ。
「早く来てください」と、マリノアは祈るように胸を押さえる。
ミィナを抱き締めるのはアルの役目で、マリノアではないのだ。
自分までドキドキが移って、しかも頬も熱かった。
○○○○○○○○○○
獣人村の外までマルケッタに跨り揺られていると、遠くに青灰色の頭と黒白のマーブル模様の頭が見えた。
なんでマリノアが、と思わなくもない。
おおかた全部知っていて、猫ちゃんが暴走しすぎないように見守っていたのだろう。
矢文にあった字を教えたのもマリノアだろうし。
いつの間に、という驚きがいまだに拭えない。
猫ちゃんはこちらに気付くと、ぷいと顔を背けた。
素直になれないお年頃である。
自分にも経験があるだけに、生温かい目で見ることができた。
オルダのもしゃもしゃの頭をひと撫でしてからマルケッタの背より飛び降り、立ちぼうけの猫ちゃんとマリノアの前までやってきた。
風がまだ寒い。
大平原から吹く乾燥した風は、大地を荒れ地にしていた。
猫ちゃんは少しサイズの大きなローブを着込んで、尻尾をぎゅっと握りながら俯いていた。
「アル様、最初の言葉にお気を付けください」
「……ああ、わかってる」
マリノアが一歩前に出てきて、釘を差すように忠告してくる。
いまは俺より猫ちゃんの味方なのだろう。
それでいいとも思う。
下手にマリノアがこちらに付けば、猫ちゃんはあっという間に孤立を深めてしまうから。
獣人村に到着してから三か月が経とうとしている。
俺は猫ちゃんが思い悩んでいることは知っていたが、その本質的な問題に結局最後まで気づくことができなかった。
気づいたところでどうしようもなかったのだが、マリノアは違った。
俺と同じように連日働き、その合間を縫って猫ちゃんに字を教えることをやってのけた。
敵わないなと頭を掻く。
「……ミィナ、迎えに来たよ」
弾かれるように顔を上げた猫ちゃんの顔を見て、胸を衝かれた。
あの元気の塊のような猫耳の女の子が、悲しんで目元を赤く腫らしている。
罪悪感で無性にいたたまれない気持ちになった。
ここでよしよしと頭を撫でるのは、猫ちゃんが望んでいるものとは違うんだろうなあ。
「久しぶりに顔を見たよ。なんだか大人っぽくなったね」
それは本音。
目を泣き腫らして赤くしていたが、ぐじぐじといじけたような子供泣きとは違い、心を痛めて泣いたのだとわかるほどに、俺にとっても胸が痛い涙のあとだ。
そんなものを以前の猫ちゃんができるわけがなかった。
少なくとも、出会ってから今日までのへにゃりとした猫ちゃんでは、胸が締め付けられるような落ち込み方をする少女にはなり得ない。
恋をして大人になった。
大人にしては階段を飛ばし過ぎたかもしれないが、着実に上っていることを気づかされる一面だった。
「ミィナ、俺はおまえにどこにも行ってほしくない。俺の我儘だけど、ずっと傍にいてほしい」
「守る!」とここで胸を張って言えたらいいのだが、「マモレナカッタ……」のオチは勘弁願いたいので言わない。
いつもの俺なら冗談をぶっこんで茶化すのだが、ここでそんなことをすれば猫ちゃんを一生失うことにもなりかねない。
そういう場面で不真面目な男にはなりたくないよな、やっぱり。
「――俺の妻になってくれ」
歯が浮くようなセリフだったが、どうやら猫ちゃんが欲していた答えでもあった。
俺は自分の身体を掻き毟りたくなった。
それほどまでにむずがゆい掻痒感が駆け抜ける。
だが、別の意味でぶるっと震えた少女がいた。
尻尾をぴんと直立させ、耳を神経質にぴくぴくと動かしている。
猫目を力いっぱい見開き、口をきゅっと締めていた。
手は何かを探すようにもにょもにょと動き、結局ローブの裾をぎゅっと握った。
「……一緒に、いていいの? ミィニャ、じゃまじゃにゃい?」
「邪魔なわけない。むしろミィナが傍にいてくれなきゃ嫌だよ。……返事は?」
「ミィニャね、アルにいらにゃいって言われると思ったの。だけどね、だけどね、ミィニャいやだったの。でもね、にゃんかね、だめだって、ミィニャそばにいちゃだめだって、思ったの」
俯いてぽろぽろと涙をこぼすミィナ。
ぎゅっと力強く掴まれた裾が、固く皺になる。
「ごめん。俺がミィナのことをちゃんと見てなかったから。これからはひとりの女性として大事に扱うよ。だから答えを」
「えっぐ、うっぐ、うわぁぁぁぁぁん!」
「はは、ははは……」
そして、猫ちゃん――ミィナの頑なだった表情が氷解し、涙腺まで崩壊する。
何度となく涙しただろうに、猫の女の子は顔をくしゃくしゃにして泣いた。
でも、なんでだろう。
その涙は胸を締め付けなかった。
代わりにほっと笑みが零れてしまいそうな、そんな安心感があった。
「ああぁぁぁぁぁぁん! よかったよぉ、ミィニャ一緒にいていいのぉ!」
「結婚、する?」
「するぅ! するぅぅ!」
声を上げて泣き出したミィナに近寄って、よしよしと撫でて慰めてやる。
ぐりぐりと頭を肩口に押し付けてきた。
背中をポンポンしてやる。
これは子ども扱いではない、と思う。
自分でもよくわからなくなってきた……。
でも、好きになった女の子を抱き締めるのは男の甲斐性だと思うから。
なんだか俺も泣きそうだ。
ふと見れば、マリノアは口を押えてもらい泣きしていた。
マリノアにも腕を伸ばす。
犬耳の聡そうな雰囲気の少女は、優等生ぶりを発揮して遠慮気味に首を振った。
そうじゃないんだと、じっと目を見つめる。
君も大事な嫁なんだと。
やがて観念したように犬耳を伏せ、おずおずと腕の中に滑り込んできた。
マリノアも堪えていたものが決壊したように泣いた。
ミィナと合唱している。
誰もが不安だったのだろう。
結果的に、俺が不安にしたのだ。
「女の不安を取り除くのも、男の甲斐性だもんな」
今日も穏やかな青空を見上げ、俺は鼻をすすった。
「それにしてもふたりとも、俺より背が高いなあ……」
俺よりもわずかに背が高いミィナ。
成長とは恐ろしいものだ。
腕の中で泣きじゃくるふたりの少女の体温を一心に受け止め、さもありなんと思う。
俺がこの世界で特に信頼の置ける子たち。
だからこそ、ずっと傍に置いておきたいと思うんだよな。
最初は欲望の赴くままに薄ぼんやりと目標にしていたハーレム計画だったが、いまこうして言質を得て、満を持して嫁を得ることが現実として起ころうとはね。
俺は幸せものだよ。
「アル! おひさしぶりですわ!」
「ミィぃぃニャぁぁぁぁ!」
そんな声が獣人村の方から聞こえた。
振り返ってみれば団体さんがぞろぞろとこっちへ近づいてくる。
え? いまちょっと抱き合ってて恥ずかしいんだけど。
そんな思いも虚しく、先頭の黒髪の貴族の女がなにやら喚いている。
それに、彼女の腕に抱かれているのは、ミィナとそっくりの女の子だ。
「ミィナ、見てごらん。今日はとても幸福な日だよ」
「んん? にゃに? あーあれ? ニィニャ?」
「みぃぃいぃぃぃいぃぃぃにゃああぁぁぁぁぁぁ!」
向こうも向こうで滅茶苦茶嬉しそうに片腕をぶんぶん振り回している。
「二ィぃぃニャぁぁぁ!」
ミィナが腕の中から飛び出して行った。
ぽっかり空いたお兄さんの腕の中に寒風が染みるぜ。
「ミィナがああして笑っていられるのも、アル様が傍にいるからなんですよ」
「そんな風に言われたら俺からはなんも言えないよ」
マリノアは涙を拭いながら、嬉しそうに笑った。
頭をぐりぐりと押し付け合って姉妹の再会を喜び合うふたりの姿が、誰の表情にも笑みをもたらしていた。
マルケッタとオルダはよくわからないだろうに、楽しそうにミィナたちの周りを飛び跳ねている。
彼女らの後ろで、クェンティンたちがにやにや笑ってこっちを指差していた。
とても恥ずかしいです。
俺の知らない顔ぶれも増えて、これからもまだ落ち着かない日々が続きそうだ。
今回の投稿はここで一区切りです。
次の更新は『異世界迷宮で男子高生で斥候職で』のあとになります。
次回も大所帯となった獣人村の面々が大騒ぎします。
大平原の迷宮編、おたのしみに!




