第105話 女友達
空を見上げていた。
太陽は中天に登っていたが、日差しは弱い。
冬空は風が厳しく、耳がキンと痛んだが、むしろ心地よかった。
大平原の入り口、ベドナ火山の麓の小高い岩山に立っていた。
折り重なる曇り空を見ていると頭の中がぼうっとなった。
というか十歳に酒飲ませるなよ。
喜んで飲んだ俺も俺だけど。
俺以外はいまも幕家で寝こけているはずだ。
治癒魔術で酔いは抜けるが、心地よい気分も一緒に抜けてしまうのは無粋に思えた。
両手を広げて、ふらふらと揺れる。
もう風になりたい。
吹き飛ばされて舞い上がってしまいたい。
「見つけたぁっ! ちょっとアル坊っ! あんたこっち来なさいっ!」
「……え? なに?」
剣呑な声に呼ばれて振り返ってみれば、腰に手を当ててプンスカ怒るチェルシーと、彼女の後ろでマルケッタの首に抱き付く猫ちゃんと、その馬体に乗るオルダがいた。
女子勢そろい踏みということか。
「アル、ちょっとこっち来る!」
「はいはい!」
「嫌そうな顔するんじゃないよ、久々の再会だぞ」
「ソウデスネー」
チェルシーは細身だが背が高く、上から見下ろされて威圧感を覚える。
女の子に怒られるのが慣れていないのだ。
しかも、なにかよくわからない理由なのが戸惑わせる。
「ミィナ泣かせるなんて何してんの? それでも男なの?」
「泣かせた覚えはないんですけど」
「じゃあ、これは?」
チェルシーが親指でくいっと示した先に、マルケッタの首に抱き付いて、マルケッタに背中をよしよしされる猫ちゃんがいる。
泣いてはなさそうだが、普段の明るさを知るものからすれば、十分に何かあったように見える。
「ちょっと顔貸しなさいよ。問答無用だからね」
「校舎裏に連れてかれるんですかねえ」
「コウシャウラってなによ? 変なこと言ってごまかそうとしない」
チェルシーに有無を言わさず腕を掴まれ、吹き曝しの崖上から岩陰へと、猫ちゃんたちから少し離れたところに引っ張られた。
「ミィナね、マルケッタと再会した瞬間に泣き出したんだよ? ここでなにがあったの? ミィナをいじめるようなことしてたんじゃないの?」
「いやいや、俺がするわけないじゃん。毎日一緒に寝てたよ。最近ちょっと距離を置かれるようになったんだけど、俺からは誓って何もしてない」
そうは言っても最近の様子を見る限り、俺の行動に対して思うところがあったのだと推測はできる。
違っていたら余計な火種を撒くだけに終わりそうなので、チェルシーには絶対に言わないが。
「強いてあげるなら反抗期?」
「そりゃ……そのくらいの年頃でしょうけど」
チェルシーにも心当たりがあるのか、怒気は急速に萎んでいった。
「俺には女の子の気持ちがわからないよ。喜ぶことをしてあげたいとは思うけど、それで泣かせてしまうこともあるしね」
「確かに繊細になっちゃうときだってあるけど。だったら尚更、ミィナに一番近いあなたが気を配ってあげなきゃ」
「俺の方でもよく見るようにするけど、チェルシーの方でもどうにかならない?」
「そんなの言われなくても。任せなさい」
ドンと胸を叩くチェルシーのなんと男前なことか。
女の子衆をまとめてくれそうな頼り甲斐のある笑みに、思わず全投げしてしまいそうになる。
「そしたらあとでマリノア紹介するね」
「マリノア?」
「狼系獣人の俺の秘書」
「秘書?」
「すごく仕事できるよ。優秀な子なんだ。年齢はチェルシーと近いかも」
「その子はミィナと仲が良いの?」
「毎日三人一緒に幕家で寝起きしてるよ」
猫ちゃんとは姉妹のような関係だよな。
本人は猫ちゃんに一歩譲るような態度だけど、普段の物言いはそれほど遠慮していないしな。
「ミィナはあんまり話してくれないけど、なんとか聞き出してみるわ」
「もしかしたら自分でも心の整理が付いていないのかもね。マリノアの受け売りだけど」
「わかった。じゃあしばらくはミィナはわたしのところで面倒見るから。あなたも考える時間が必要でしょ」
「え、あ? うん」
「じゃあ仕事頑張りなさいよ」
「え、ちょっと待って」
チェルシーはすでに背を見せて猫ちゃんたちのところに戻ってしまった。
オルダの様子とか見たかったのに、いま近づいたらチェルシーに怒られそうだ。
なんだかすっかり酔いも飛んでしまっていた。
○○○○○○○○○○○○
夕暮れ時、チェルシーは女性客用の幕家にミィナを呼んで、事情をそれとなく聞き出すことにした。
アルにはミィナをこちらに泊めて、深い話をするとだけ伝えてある。
今日はチェルシーたちと一緒に寝ることを告げると、ミィナはマルケッタと一緒にいられることが嬉しいのか、素直に喜んだ。
しめしめとほくそ笑みつつ、チェルシーたちは温泉で疲れを解し、幕家でほっこりした体を休めていた。
ミィナはアルからもらったという青灰色の石が嵌め込まれた櫛で自分の髪を梳いていて、猫っ毛がときどき引っ掛かっていたのを見かねてチェルシーが代わった。
ふわふわの猫っ毛を、猫耳に引っかけないように櫛梳る。
そうしていると、ミィナも安心して身を預けてくれるため、本題の水を向けるとぽつぽつと話し始めた。
「アルはマリーとニーニャンのふたりと楽しいことして、ミィニャ仲間はずれにゃの」
「楽しいことって?」
「一緒の毛布に入ってるの。いっつもミィニャがいにゃいときだけ。ずっとくっついてるの」
「…………」
「交合ですね」
「ちょっとニキータさん‼!? 何口走ってるんですか!?」
一緒の部屋で書き物をしていたニキータの目がきらりと光った気がした。
ニキータだってクェンティンといい仲なのは、一緒に旅をしてきて嫌というほど見てきた。
人目を忍んで逢瀬を交わしている様子も気づいていた。
そのときチビたちの面倒を見るのがチェルシーの気遣いだった。
「チェルシーには刺激が強すぎましたか? ならば睦み合いと」
「言葉の問題じゃないって! やってることが問題なの!」
「やってる、だなんて。チェルシー、はしたないですよ」
「だぁぁもう! そういうのいいから! なに? マリノアって子とアルが親密な仲ってわけ?」
「ニーニャンも」
「あのエルフまで……」
チェルシーは愕然とした。
女という点で見れば、マリノア・ニニアンのどちらも理想的な女性像を体現しているのである。
マリノアとは昨日顔合わせをしたばかりだが、少し話しただけでも素直ないい子だとわかった。
アルの話になると目の色が変わって少し怖いくらいだったが、それ以外は受け答えのしっかりした女の子だった。
やはりというか、ふたりとも羨むような体型だった。
自分は、と体を見下ろすと、背が高く、すらりとした手足以外、胸にはとっかかりがほとんどないし、顔だってそばかすが気になるしで、そこらにいそうな普通の顔立ちだ。
(あのチビはいい女に見境なく手を出すわけ!?)
自分の魅力のない体はともかくとして、このままいくとミィナもそのうち食われてしまう。
いまはまだ幼いけれど、ミィナだって顔立ちは整っており、とても美人になることが約束されているようなものだ。
成長したあかつきには、アルに収穫されてしまうに違いない。
瑞々しい果実の収穫祭かコノヤロウ。
チェルシーの中では、アル=やりチンの方程式が完成しつつあった。
ミィナの悩みを聞き出して解決しようかと思っていたが、全部アルが悪いんじゃないかと。
そしてアルのあずかり知らないところではあるが、チェルシーは商人が妾に産ませた子どもで、父親に認知されていない。
幼少時に刻まれた苦労を思うと、種をばらまくだけの野郎に対する評価は酷なほどに低い。
要するにハーレム野郎が死ぬほど嫌いなのだ。
アルにとっては天敵となることを思いもしないだろう。
「マル、あのバカ野郎をここに引きずってきて」
「やー?」
「ミィナを泣かしたクソ野郎なの」
「ややー!」
「それは許せん」と言わんばかりにふんすと頷くマルケッタである。
「任せておけ」とばかりに拳を突き上げ、陽の落ちたぱかぱかと幕家を飛び出していった。
「しかししょうもない性獣が身近にいたもんだよ」
「性獣ですか……ふふ」
ニキータのツボに入ったようで、書き物の手を止めて口元を押さえて震えていた。
「う?」
ぽやっとした顔のオルダが、小首を傾げた。
チェルシーは「オルダは知らなくていいの」と頭をなでりなでりと撫でて慈しむ。
オルダはアルが用意した角の丸い積み木を重ねて、女の子座りをして遊んでいた。
「想像力を鍛えるのに積み木はいいよ」とアルが先ほど獣人さん伝手に持ってきたのだ。
ああ見えて気遣いができて素直なところもあるから、そこが気に入っているのだが。
いやいや、甘やかすとつけあげる性格だ、あれは。
オルダはまだ言葉をうまく話せない。
長文も理解するのに時間を要する。
それでも腕を動かすことすらできなかった以前より、快復は目覚ましい。
アルもオルダに会えることを楽しみにしていたはずだ。
頭に血が上っていてほとんど会わせられなかったが、再会をきっと喜んだはずだ。
ちょっと口元が緩んだチェルシーは、ダメダメと気を引き締める。
髪を梳く作業を終えたミィナは、オルダと一緒に積み木に興じていた。
ミィナは何気に、どんな子ども相手でも一緒になって遊べる。
いまも、三角や四角の積み木をお城のような形に組み上げている。
特に言葉を交わすわけではないが、傍に寄り添うことができるいい子だ。
「こんないい子を……」と思わずにいられない。
チェルシーにとってすでにアルは『女の敵』認定されており、親指を下に向けてギルティを下す未来しか見えていなかった。
そのために甘さは一切切り捨てる所存である。
「ねえねえ、アルを怒るの?」
「ミィナ、あのね? アルは悪いことをしてるの。それを正すためにはは叱ってあげなきゃいけないこともあるの」
「アル、にゃに悪いことしたの?」
「それはね」
チェルシーは指を二本立てる。
「二股というやつよ」
チョキチョキ。
ミィナとオルダが同時に小首を傾げる。
「わかんないよね、そうだよね」と呟きつつ、チェルシーはまたプンスカし始めた。
二股する男は女に愛情を求めてないのだ。
ただ盛っているだけで性欲処理がしたいだけのクソ野郎で、そんなクズは女にとって迷惑なのでどこかで野垂れ死ねばいい。
直情的であったが、チェルシーは常に女性の立場を尊重しているだけだった。
男尊女卑が残る国家の在り方に提言を述べるような小さな革命だったが。
「ややー!」
「わかったから、行くから。ぐいぐい引っ張らんといてぇ。堪忍、堪忍してつかぁさいぃぃ」
使命感に燃えていたマルケッタが、若干余裕のある容疑者を連れてきた。
赤いマントを着て調子づいているアルだ。
マルケッタに肩を押さえられて膝を突く赤茶髪の少年に、チェルシーは淡々と述べる。
「被告人、やり●ン、何か釈明することはありますか?」
「え? やり……? なんの話だ」
「ぷふっ!」と隅の方でニキータが噴き出していたが、こっちは大真面目だ。
「罪状、二股。そう言えばわかるよね?」
「……ど、同意の上だ! やましいことは何もないぞ!」
少年はあっさり動揺して、割と余裕のない感じで反論するので、その様子に腹を抱えて笑っていたニキータが「ごほっごほっ」と隅でむせていた。
ミィナとオルダは積み木を掻き集めて、隅の方へ避難していた。
「それをミィナに言える? ――やましいことは何もないって、胸張って同じことが言えるって聞いてるのよ!」
「くっ……子どもを持ち出すなんて卑怯な……!」
「あなたも子どもだけど、この際だし今日は忘れることにする。だからこそ欲深なあなたの罪は重い! ハーレム気取ってんじゃないよ、片腹痛いわ!」
ビシィィィ、と指差して告げると、心臓を射られたように少年は項垂れた。
どうやら自覚はあるようだ。
十歳にしてハーレムとか、頭おかしいんじゃないと思う。
だが、アルは反抗的な目をして顔を上げた。
「い、異議あり! 俺はふたりを愛している! その心に偽りはない! も、もしものときは、全力で養うつもりでいるし……」
あ、ちょっとヘタレっぽくなった。
ここで一気に畳みかけるべきか。
しかしミィナがおもむろに立ち上がって、幕家を出て行ってしまった。
マルケッタが少年の拘束を解いて、その背によじ登っていたオルダを伴い、ミィナを追って出て行く。
それを横目に見ながら、いまは少年を裁くための言葉を探す。
「十歳が軽々しくひとひとりの人生を背負えるとか言うな。それがどれだけ大変かわかってないだろ。分相応にひとりを選ぶべきなの!」
「……いや、そんなことはないさ」
いままで狼狽えていた少年の雰囲気がガラッと変わり、どこか落ち着いた知的な目をチェルシーに向けてくる。
赤いマントが大人びて見えるからムカつく。
「この村は俺とベレノア公の力で作った村だ。奴隷に落とされて行き場のなかった獣人を保護することが目的だった。千人を超えている村を、すでに一年は養ってる」
「だ、だからなにさ……」
「猫ちゃんもマリノアももとは貴族の遊び道具だった。それを見かねて、彼らから奪い取ったんだ。そのときから俺はふたりや、他の獣人たちを養うつもりだった。ボン坊が手助けしてくれたのは渡りに舟だったけど、そうでなくともなんとかするつもりだった」
少年の強い意思を聞いて、チェルシーの心がわずかに鈍る。
「でもやっぱり、それと責任は違うと思うんだけど」
「い、いやあ、いつか猫ちゃんをお嫁さんにするつもりだよ。マリノアも俺を支えてくれるお嫁さんだから。ニニアンはー……たぶんお嫁さんでいいと思うんだけど、いや、どうなんだろう?」
もじもじしながら話す少年を見て、チェルシーの心は一気に冷え込んだ。
「……キモ」
「真顔でキモ、とか言うなよ! こっちは割と本気だよ!」
「まぁ、いいのではないでしょうか」
隅でくつくつ笑っていたニキータが、不意に真面目な口調で横槍を入れてきた。
「チェルシーは女性をものとして扱われることに我慢ならない様子でしたから、その対象にアル少年は該当しないと思われます。それに、アル少年はそのことを当人のミィナに告げてあげるべきです。先ほどの『ふたりを愛している』という発言に、ミィナは自身が含まれていないことを知って、とても傷ついた様子でしたから」
「それを早く言ってよー!」
少年は弾かれるように立ち上がると、ミィナを追って幕家を飛び出してしまった。
「あれを見てミィナを大事にしてないと思いますか?」
「思わないけど、そういうことじゃないんだってば」
「言いたいことはわかります。私も貴女も好いた男性には一途な性質でしょうから。できればミィナだけを愛してほしいというチェルシーの気持ちもわかります」
「そうだよ、そうあるべきだよ!」
「ミィナはいい子ですからね。あの子には幸せになってもらいたいと思っています」
「ニキータさんだって幸せじゃない? 師匠を掴まえてるし」
「私は……」
珍しくニキータが言い淀んだ。
「私はただのメイドですから。もし主様に良い方が現れたとき、私は奥様になられる方にも同じだけの奉仕をするつもりです」
「ニキータさん……! あなたはいじらしい!」
ぶわっとチェルシーが涙に濡れた。
チェルシーの大袈裟すぎる反応に、ニキータは苦笑を浮かべた。
「でもね、チェルシー。それまでの間は、旦那様は私を見てくれる。それで十分」
「うぅ……わたし、アル君や師匠が嫌いになりそう……」
「嫌いになるのは勝手ですが、たぶんなにも変わらないと思いますよ? アルの周りは華やかになるでしょうが、拗ねているチェルシーには誰も寄ってきません。素直になるのがいちばんです」
「そんなこと言ったら、ニキータさんはどうなの?」
「主様のお傍にいられるだけで幸せですから」
要するに、それぞれの求める場所にぴったりと嵌っているならば、外野が何を言おうと変わらないし変えられない。
チェルシーが望む男女の形、それをひとに押し付けることは所詮エゴでしかないわけで、求めていないものを押しつけられても困ってしまうということだ。
本人が幸せならそれでいいと、ニキータは諭してくる。
ニキータ自身の恋愛とも片思いともつかないクェンティンとの関係は、ニキータがいまの形を望んで型に収まっているのだから、誰の文句も受け付けないと。
納得はいかない。
しかし所詮、チェルシーの感情の問題である。
クェンティンにいくらニキータだけを愛せと言ったところで解決する問題でもない。
彼が自然とニキータだけを愛するようになればいいのだが、そうなる可能性は限りなく低そうだ。
クェンティンの嫁は商都の大商家の嫁になるということだから、奴隷出身のニキータが表に出ることはないのだから。
チェルシーは父親が死ぬほど嫌いだ。
家庭を持っているくせに母を孕ませ、そして見捨てた。
面倒だからと自分を修道院に押し込んだ悪人だ。
アルもいずれそうなるのではないかという不安が渦巻いて、どうにも口を出してしまう。
だが、あのチビの少年は、自分の腕に抱えられるものはこぼさず守るという。
そこにミィナや犬の獣人さん、エルフまで入っているなら、チェルシーはもはや遠くから見守るしかない。
しかし気になるのだ。
口を挟まずにはいられない。
「むずむずしている顔ですね」
「どんな顔ですか」
「チェルシーもわかるときがきっときます。そのとき選択を誤らなければいいんですよ」
自分の将来、いつ、どんなときに選択がくるというのか。
先達の言葉はほとんど理解ができなかったが、それが恋愛というものかもしれない。
瞼を閉じれば、強く思い返せる光景がたったひとつある。
正面に騎乗した狂気の女騎士。
辺り一面燃え盛る中、自分を庇って立っていた少年の姿――
チェルシーはまだ、恋をしたことがない。
少なくとも本人はそう思っている。




