第103話 咲くのはバラかノンケの花か
元気なく下を向くマリノアの尻尾がずっと頭に残っていた。
俺はいま獣人村にいる。
マリノアをベレノア公のところに残してのとんぼ返りである。
離れがたい気持ちはあったが、仕事を任せられるのがマリノアしかいないのだから仕方ない。
一年ほど村を離れていたが、その間の獣人村の発展は目覚ましいものがあった。
そのひとつに、道だ。
街道から獣道を抜けて獣人村に至る数百メートルが、ぬかるみから石敷きの道路に舗装されていた。
道は繁栄の物差しだと思う。
村に余裕がないと道を整備しようなんて思わないしな。
それに、獣人村にベビーラッシュが始まっていた。
千人近くいる獣人たちの中で六十人ほどの女性が懐妊し、ミル姉さんを筆頭に赤ん坊の泣き声が村のあちこちで聞こえるようになった。
獣人村を興してから、一年が経ったのだ。
なんだか感慨深い。
発展にはほとんど貢献してないけど。
開拓に当たって、ベドナ火山の魔物は動かせない大岩だった。
食糧確保のためにベドナ火山に近づき、魔物にやられる人数はバカにならない。
俺が戻ってきてから、盛大な祝宴を開いてくれた。
しかし祝うために、獣人たちが何人か犠牲になってベドナ火山に棲息するミノタウロスをたくさん狩ってきたのだった。
俺としては誰の犠牲も出ずに暮らしてほしいのだが、彼らにとっては弱肉強食が生き方のど真ん中に芯として通っているので、いまさら生き方を変えることもできない。
こればかりは文化の違いと割り切るしかない。
獣人村の子ども――十歳以下の戦闘に参加できない幼い子は百人ほどいる。 。
その中にはまだ奴隷時代の心の傷や、身体の欠損で元気のない子どもが半数に及ぶ。
元気に走り回っている子どもの方が貴重だった。
マリノアや猫ちゃんはすでに戦闘で頭数になるので、彼らの文化だと子どもとは認められない。
だからマリノアを働かせまくっているという実情なのかな。
この国や周辺国は、獣人やドワーフなどを亜人族と蔑み、犬畜生のように扱うことを当たり前としている。
獣人村の生活水準は、ヒト族のものに比べると低いことは否めない。
しかしそれは、動物扱いしていい理由にはならない。
彼らは魔物ではない。
ちゃんと心があって、傷ついたり喜んだりするのだ。
ニニアンと協力して傷ついた獣人たちを癒すことも仕事のひとつだったが、ニニアンはどこかに出掛けて帰ってこない。
俺がベレノア公のところに行っている間に戻ってきたのかと思ったが、獣人たちに聞いてもエルフは見かけていないというし。
十日後、ようやくというか、いつもどおりというか、ふらっとニニアンが戻ってきた。
ちょうど畑拡張の話をするために獣人村外に足を延ばしていたところに、ベドナ火山の方から巨大なサイのような――頭に角が六本以上ある魔物を引きずって現れた。
相変わらずマイペースだ。
獣人たちが一斉に戦闘態勢になったのは、まあ訓練だと思おう。
エルフを獣人三十人で囲んだところで勝てないから。
ニニアンはやりたいことをやって生きているので、ついてきてくれるのは正直驚いている。
それでいて勝手に去ることはないので、ちょっと安心している。
獣人たちの目があると落ち着かなそうだったので、獲物を彼らに渡すと天幕に誘い入れた。
ニニアンは師匠を追っていたが、俺が『時期が来るまで妹に会えない運命』を受け入れたように、『そのとき』までは追うことをやめたようだ。
そこで別れる選択もあっただろうに、ニニアンは俺たちとの旅を選んだ。
暇があれば猫ちゃんを膝に乗っけていたので、もしかしたら獣人村はニニアンにとって天国かもしれない。
チビっ子たちに嫌われないといいなと思う。
「ニニアン、どこ行ってきたの?」
「火山を登った」
「やっぱり行ったんだ? ドラゴンとかいた?」
「そこまで深入りはしていない」
深入りってどこまでだろう。
ベドナ火山火口とかだろうか。
ドラゴンの生息地ってどんな場所だろうと思うが、まさかマグマの中で寝起きしているわけではないよな。
まだドラゴンを相手にするには俺は弱い。
大霊峰の頂上を飛んでいた銀龍を見て、その迫力に震えたのはいまでもはっきりと思い出せる。
「じゃあ温泉入った?」
「温泉?」
「地熱で温められたあったかい川とか火山の傍にあったでしょ?」
「とても臭かった川ならあった」
「それそれ。入ってないの? 温泉気持ちいいのに」
「入るものだとは思わない」
「初見ならそうかもなー」
とはいえ体の汚れは魔術で『洗浄』できるので、合理主義的な価値観を持つエルフに、日本人のワビサビは理解できないだろうな。
いや、それでもなあ。
仲間を増やしたいという思いはある。
火山地帯の温泉地は、獣人だと硫黄臭で鼻をやられるので近寄りがたいらしく、湯を引いている獣人村の湯殿しか使えない。
こっちはほとんど臭いはないが、それは熱された川の水を引いているだけで、火山の深いところから湧き出る源泉とは異なるものだ。
硫黄臭もまた風流。
そう思って湯に浸かる文化を、できれば布教したいのだ。
獣人以外だと俺とニニアンしかいないという事実。
温泉はいいものだ。
体から疲れが溶けて流れていく浮遊感は一度は体験すべき。
あの感覚はニニアンのような無表情人が思わず表情を緩めるほどに至福だ。
いや、その鉄壁の表情筋は崩れないかもしれない。
しかし「ほぅ……」と安堵の息を吐かせるくらいの効力はあるはずだ。
きっと湯船から肩を出して、しっとりと濡れほてった鎖骨とかうなじを見せつけるだろう。
湯気の中で前髪から雫を滴らせるエルフのなんと凶悪なことか。
想像だけでドキドキしてきた。
「温泉行こう」
「構わない」
久しぶりのふたりで過ごす時間だ。
猫ちゃんは最近ほとんど一緒にいないから気にかかるが、傍に行こうとしても逃げるんだよね。
反抗期だろうか。
「ニニアンが戻ってきたらやろうと思ってたことがいろいろあるんだよね」
「なんだ?」
「治癒魔術を上級に上げたいんだ。獣人は怪我してる人数も多いから手伝ってくれない?」
「チビはいる?」
「たくさんいるよ」
「じゃあ、やる」
「それは助かるよ」
ニニアンには獣人を与えればいいんだとばかりにトントン拍子でやることが決まっていく。
俺も最初の方でやれるだけ治癒を施してきたが、手に負えないものがまだ数十人は残っていた。
という話をしつつ、俺はニニアンの股の間にすっぽり収まり、後ろから抱きすくめられている。
サラサラと光を受けて輝く金髪は頭の後ろで団子にされ、尖ったエルフ耳が覗く。
お尻の間に当たるモノが力強く熱を持っているのがちょっと心配だったが、くっつく以外の様子は見られない。
その後、ニニアンの協力もあって傷ついた獣人の子をニニアンが治し始める。
俺はその隣で上級治癒術を学び、なんとか習得しようと朝から晩まで努力した。
「じじはちょっと」
「ちびっ子だけ贔屓するなよ。もう連れてこないぞ」
「……やればいいんでしょ」
ニニアンのやる気の源は小さい獣人たちで、みゅーみゅー鳴いて近寄ってくる無垢な彼らを捕まえては、嫌がって本気で泣き出すまで撫で繰り回していた。
チビ獣人から怖いエルフとして覚えられ、一週間もすると誰もニニアンに近寄らなくなっていた。
悲しいことだ。
代わりにチビ獣人たちは俺の方に甘えてくるようになった。
マリノアと猫ちゃんが俺にべったりなので、このひとは大丈夫、という刷り込みがあるのかもしれない。
それにやることがないので、チビ獣人たちを集めて球遊びをしているからかもしれない。
サッカーやラグビーっぽいルールを教えているのだが、白熱してくると大抵ボールの奪い合いになって、逃げるボール保持者を十人近くで追いかけ、奪い、そしてまた追いかけることを繰り返していた。
折角コートを整えたというのに、ラインを無視して逃げ回るので、ルールなど無用のものと化していた。
これだから犬畜生は……とは思わないけど、もっと理性的になろうぜ君たち。
ボールを追いかけている様は、庭をじゃれて駆け回るワンちゃんにしか見えない。
それが獣人族の限界なのか。
ニニアンが傍に寄ってくる。
「チビたちがいっぱい」
「嫌われるくらいに酷いことするから」
「可愛がってるだけ」
「見解の相違だろうね。ほら、ニニアンが見てるだけで怖がってるよ」
元気に遊んでいたチビたちがニニアンに気づくなり表情を凍らせ、あからさまに耳を伏せて尻尾を丸めたのには苦笑いをしてしまった。
「猫ちゃんで学びなさいよ」
「でも、猫もアルも逃げない」
「俺は……ニニアンの良さを知ってるから」
主に性的な意味で。
猫ちゃんは諦めただけだ。
「アルは可愛い」
うしろからぎゅっとされてしまった。
ふわっと香る女の匂いに、気持ちがふわっとなる。
俺の方からも腕を伸ばし、背中に手を回す。
ニニアンの首筋に鼻を当てると、くすぐったいのか少し震えた。
「気持ちいいよ、アル」
細い指先で髪を撫でられる。
そんなこと言ったら俺の方が気持ちよくしてもらっているわけで。
ニニアンが口を寄せてきた。
潤ってふっくらした唇が額から鼻筋、そして口に次々とキスを降らしてくる。
「お願いがある」
「なに? 何でも言ってよ」
「どうすればいいのかわからないけど、こうしたい、と思うことがある」
「どんなこ――」
すべて言い切る前に、背中に腕を回された。
抱き締められるのかと思ったら、口を塞がれた。
「んぐ!?」
口を塞がれただけではなく、舌まで侵入してきた。
清涼な唾液を送り込まれ、コクコクと喉を鳴らして飲み干した。
ニニアンの口の中は、ドロドロで熱い。
なのに唾液はすっと喉を流れていく。
「もっとくっ付き合っていたい。どうしたらいい?」
「それは、えっと……」
俺はこれ以上先のステップを踏むことに躊躇いがあった。
本当にいいのか。
新たな世界の扉を開いてしまうことではないか。
脳内に持ち帰って検討しよう。
『脳内オーディエンスさーん!』
『はいはーい! こちらは性欲と理性の狭間でざわめく脳内デース!』
『現在の投票数はいかがでしょうかー?』
『えーそうですね。熱戦を繰り広げているようで、五対三でいまのところあってないような体面を気にして反対が優勢ですが、当人が吹けば飛ぶような常識観ですので、いつ賛成に傾くか予断を許さない状況ですねぇ』
『結論が出るのも秒読みというところでしょうか。結論は出ているようなものですが、その経過も注目ですね』
ニニアンの性別は男で間違いないはずなのだ。
しかしどうだろう。
女性のような腰回りをしている。
魅力的なヒップのラインでついつい手を伸ばしたくなってしまう魔力があった。
エルフだからか。
エルフ魔術か。
肌だって吸い付くようにもちもちだ。
おかしい。
腰が疼いてくる。
張りのある尻、薄めの胸、くびれた腰、細い肩。
思わず目を奪われるような色気が全身から漂っている。
それに体臭だ。
男臭さが微塵もないとはどういうことだ。
むしろ年頃の娘と色香に溢れた女性の間くらいの、とても贅沢なフェロモンだ。
エルフだからか。
エルフ魔術か。
腰を疼かせる女性フェロモンが悩ましい。
ニニアンは女だ。
男に抱かれるための身体で誘惑してくる。
しかし反対派のリーダー的存在、俺の中の理性を司る常識アルさんが断固として反対する。
『あれがついてるではないか。雄々しいあれが』
『オスの嗅覚なめんなよ? いい匂いしてんだよ。こいつは女だと断言できるね。見た目だってそこらの女より美人じゃねえか』
本能を司るエロアルさんが一蹴した。
『むしろ問いましょう。男を抱いて何が悪い?』
不道徳を司るインモアルさんがもはや何を恥ずべきことがある、とばかりに言い放つ。
すると彼に賛同するものが後を絶たなかった。
要するにだ。
見た目が女の男を抱こうとしている。
その事実に欠片も間違いはない。
『目を曇らせるな諸君。相手は男だぞ』
常識アルさんが訴える。
引いてはならぬとばかりに懸命に。
しかしインモアルさんが待ったをかけた。
『エッチなことは生殖本能に深く関わっており、子孫を残したいがためにムクムクしてくるものだ。それに異論はないな? ゆえに、たとえ相手が男だろうと反応してるんだったら問題はない! 孕ましてやろうじゃないか。たとえ男でも!』
賛同の拍手が至るところで挙がった。
話し合う余地もない、満場一致であった。
『待てやこの野郎。ない、ありえない。頑としてない』
しかし常識アルさんは反対を押し切ろうとした。
力技だった。
暴動が起こった。
常識さんは一瞬で簀巻きになった。
『ロリ、好きだろう!』
ロリアルさんが常識アルさんに詰め寄る。
そのあまりの剣幕に、常識アルさんはミィナとマリノアの裸の姿を想像させられ、諦めてコクリと頷いた。
好きなのだ、幼女。
尻尾と耳が生えているのもプラスだ。
『百合だって好きなんだろ?』
ユリアルさんが迫ってくる。
もし妹とファビエンヌが裸で絡んでいたらどうする?
アリだろうか? アリだろうな。
常識アルさんは力なく頷いた。
『生産性なんか糞食らえだ! そうだろう、諸君』
インモアルさんが拳を突き上げる。
エロアルさん、ロリアルさんの三人でがっちり肩を組んでいる。
常識アルさんにはこの場において、どうやら味方がいなくなっていた。
孤軍奮闘だったのだ。
だから暴動は鎮圧された。
『男だっていいじゃない』と。
『いや待て、違うぞ』
いままで沈黙を貫いていた中二アルさんが突然声高に言った。
『あれは男の娘だ!』
皆一様に雷に打たれたような顔になった。
『……男の娘ってあの?』
『妊娠もできるっていう?』
『両性具有とは違うの?』
知識に多分な偏りがあった。
しかし彼らはアルの記憶、前世の記憶、そしてエロゲーの知識以上の知識を持ち得ないのだった。
そしてネット社会はときとして非常識がまかり通っていた。
いわば前世とも呼ぶべき男の記憶は、ネット社会の被害者でもあるのだ。
『男の娘ならしょうがない』
『なにせ生産性はあるのだ』
『目が覚めた気分だよ。僕が間違っていた』
常識アルさんは拍手を送り、全面的に賛同する姿勢になった。
繰り返すがこれはアルの狭窄な知識に基づいての脳内会議である。
『なら躊躇う時間ももったいない。据え膳は美味しくいただく所存だ』
脳内のアルたちは二転三転する会議の末、結論を出した。
――男の娘なら抱ける、と。
「女の子にするみたいにして欲しい。身体、綺麗にしてきたから」
ニニアンは頬を染めて、目を潤ませていた。
いまの完全なるアルに、もはや死角などなかった。
こくりと頷き、夕暮れの中を天幕に入っていった。
その姿を、こっそりと青灰色の猫少女が覗いていた。




