第80話 銀髪の少女
事態が急変したのは、修道女たちに治癒魔術を教えてから二日後だった。
背中に矢羽が刺さったままの兵士が駆け込んできた。
すぐさま女騎士は側近を集めて会議を開き、その間馬車の連なりは一時的に車輪を休めて休息を取っていた。
「何かあったのかな? アルくんは何か見えた?」
食事の配給を配って回るチェルシーが傍に寄ってきて、見上げながら聞いてきた。
俺はここ最近で日常になりつつある幌馬車の上でオルダと日向ぼっこだ。
この数日間の間に半ば無理やりオルダに水と食べ物を与えてきたので、少しだけ顔色が良くなっている。
細い体が平均的になるまでには、三か月くらいかかるだろう。
「怪我した兵士がひとり駆け込んできた。もしかしたらこの先に何かあるのかも」
この先といっても、国境沿いを左に、フォクス領まであと一日半の距離である。
魔物、野盗、他国軍、なんであれ暴れていれば国境付近の常駐軍が動くはずだ。
「どうしましょう。兵隊さんがやられゃうくらい強いのかもしれません」
「背中に矢が刺さってたよ。痛くないのかな?」
「ああいう飾り物かもしれないよね~」
「東の最先端のお洒落?」
「ちょっと考えられないの」
「……どうでもいいけど人死にが出てもおかしくないよ」
うん、矢が飛び交ってたら普通に死ぬよね。
「魔術師殿はいるか! 怪我の手当をお願いしたいのだが!」
うん、怪我人が出たら呼ばれるよね。
そんな気がしましたー。
修道女たちも揃えて耳を押さえて女騎士の暴風のような到来を迎える。
「おお! やはりここにおられたか! すまんが手を貸してほしい! 急を要するのだ!」
「わかりました、すぐに行きま――行きますって! 自分で歩きますって! ああ! ああ――!」
俺だけ女騎士にずるずると引きずられていった。
連れてかれる俺を見つめる少女たちの目に憐れみが浮かんでいた。
ちなみに抱えていたオルダはチェルシーに預けた。
女騎士の粗雑さは突き抜けており、オルダがいようが関係なく俺を引きずっただろう。
傷だらけの兵士を治療しながら、兵士が駆け込んできたわけを話す。
「私は領主軍第三伝令隊所属バートランであります」
「いい、わかっている。おまえの顔は覚えているぞ。わたしはザック・ベルリン閣下近衛隊所属サンドラ・ブロンドーだ。伝えるべきことを端的に話すがいい」
「は! 閣下はドンレミ村まで進軍し、囚われとなっていた閣下の、その……」
「なんだ、言い淀んでないではっきりと言え!」
「は、はい、閣下の近しきものを救出し、反逆を企てていたと思われる地下組織を一網打尽にしたのですが……」
「近しきもの?」「それは後で」と女騎士は首を傾げていたが、まあなんとなくわかる。
この女騎士はいい歳して男女の関係を知らないのだろう。
いや、こういう場合は男男の関係か。
俺は兵士の背中に陣取ると、矢を折ってから鎧を外して傷口の横に手を当てて治療しつつ、体内に入った矢を引き抜いた。
返しが付いていて背中の皮を引っ張り兵士が痛みに呻いたが、こういうのはじわじわやるより一息に抜いたほうがいい。
ぐっと引き抜くと兵士が声を押し殺して声を漏らしたが、すぐに傷口の組織を修復したので対した痛みはなかったはずだ。
内臓が痛んでいなかったのは幸いか。
「……背後を突然同行していた山賊の一団が強襲。迎え撃つもその数は倍以上にも及び、ドンレミ村は包囲されました。自分は急使の任を賜り第三隊とともに脱出を試みたのですが……」
「おまえ以外は助からなかったか」
「……はい。力及ばず……」
「良い、顔を上げろ。おまえは十分に任務をこなした。わたしの元まで辿り着いたのだからな!」
「……はい、すみません……」
気力が尽きたのだろう、兵士の体が傾いた。
慌てて支えると、横から他の兵士の手が伸びてきた。
女騎士がこちらに顔を向けてくる。
「魔術師殿、この者の怪我の具合はどうだろうか?」
「完治してます。他の擦り傷は面倒なので治してませんが」
「毎度毎度感謝する、魔術師殿!」
耳を抑えて女騎士の大声をやり過ごす。
他の兵士たちも耳を背けるなり似たようなことをしているので、本人だけが声量に気づいていないのだろう。
そろそろ女騎士のバカ声に迷惑していると苦情を出すべきか悩んでいると、「急報! 急報!」と叫んだ騎馬が一騎だけで駆け込んできた。
下馬するなり女騎士の前に膝を突く。
「第三斥候隊より伝令! 国境を越えてアイアンフッド国軍が進軍中! 国境警備兵と交戦しておりますが、別働隊が南下を続けており、その数およそ五百!」
「五百だと! こちらの十倍ではないか! 警備兵は何をしている!」
「各所警備兵も戦闘に移行しておりますが、五百のみが防衛線を破って突出している模様」
「なんと間の悪い……」
女騎士が唸る。
タイミングを見計らったような国境越えだが、偶然はあり得ないだろう。
何かを標的にして、敵軍五百は国境を越えて進軍しているのだ。
その標的の何かがわかれば対応のしようもある。
俺の予測では、オルダあたりじゃないかな? と思っている。
鍛冶神の恩寵は手元に置きたいだろう。
「ともかくフォクス領へ向かうのはやめだ。ドンレミ村を目指す。その間に敵国軍を撒くぞ!」
「「「「はっ!」」」」
兵士は散って、すぐさまUターンのために馬車列を後ろから動かしている。
フォクス領で捕囚を引き渡す話は流れ、完全に領主弟を救い出すことに命令が下っている。
俺としてもテオジアに戻る道を進んでくれるのなら願ったりなのだが。
女騎士の対応に俺は眉根を寄せる。
国境を越えてくる敵軍を誰が相手にするというのか。
進軍路に村があればそこは見捨てることにならないか?
俺が心配してもしょうがないのだが……。
もやもやしたものを抱えたまま馬車に戻ろうとしたが、見知った顔を見かけて動き出そうとする足を止めた。
馬車を降りた金髪の青年が女騎士へと向かっていく。
その途中で俺に気づき、驚いたような顔をする。
それはこっちも同じだっての。
金髪の青年は俺と女騎士を交互に見やり、どうやら急ぎのほうを優先したようだ。
女騎士を捕まえて話をしている。
耳を澄ませなくとも女騎士の声だけは大きく聞こえてくる。
「いや、それはできない! 国境を越えて敵国軍が現れたのだ! 我々の進路上にその数五百が展開しているゆえにドンレミ村に一度引き返し、本隊の救出後指示を待つことに決めた!」
「――――――――」
「急ぎだと言われても承服しかねる! 商人だけ行かせるわけにもいくまい。護衛をつけ別行動を取ったとしても、索敵範囲から逃れられるとも思わない。私の決定に従ってもらう!」
「――――! ――――!」
「安全は保障しよう! 殿下からもそのように命じられている!」
女騎士の声だけを拾えば、反転することを渋る商人に決定は絶対だと取り付く島もない様子だ。
バタバタと走り回る兵士を避けて近づいていくと、クェンティンがこちらに気づいた。
まず気まずそうに一瞬目を逸らし、取り繕ったような笑みを浮かべた。
うん、あからさまに怪しい。
女騎士は自分への追及が逸れたことを機敏に察し、兵士を連れ立ってさっさとどこかへと行ってしまった。
残された商人はどこか疲れたような様子で女騎士の背を見やってから、俺の方に近寄ってきた。
「やあ少年。自由になれてよかったね、お互いに」
「随分熱心に説得してたけど、何かあるの? 戻るのをすごく嫌がってたみたいだね」
「なかなかズバッと聞くねえ。そりゃ商人だから、商売のあるところに行きたいわけだけど、国境を越えて鉄国軍が近づいてくるんじゃあねえ。五百を相手に勝ち目がないのはわかってるんだけどね……」
どうしたもんかとため息を零しているが、たぶんこの男は頭の中でいろんな手を考えていると思う。
最初に目が合ったきり、喋ってはいるが虚空を見つめて、俺を見ていないのだ。
その目の動きがふと鋭く動いた。
一瞬だったが逃さず、その目を追って行くと、彼の乗っていた馬車にぶつかる。
彼が乗るのは屋根のない馬車でも幌馬車でもない。
王都の街中で乗るようなしっかりとした作りの乗合馬車だ。
その小さな射光窓から、小さな女の子が顔をひょっこりと出して、ばんばんと窓ガラスを叩いていた。
少女は俺に気づくとはっとして、余計に叩く動きが速くなった。
あれ? おかしいな、あの女の子に見覚えが……。
見れば愛くるしいシルバーブロンドの少女だった。
校庭で遊んでいる姿を見かけたら、少女が帰宅するまで遠くから見守り続けたくなるほどに可愛い。
この世界ではブロンドも珍しくないが、白に近い色というのはなかなかいない。
肌にも透明感があって、瞳は緑色をしている。
どことなく繊細さのある雰囲気の……って、テオジアのセンテスタ修道院の鐘つき塔でひとり閉じ込められた小鳥ちゃんじゃないか。
振り返ってクェンティンを睨む。
彼はすぐさま目を逸らし、下手くそな口笛を吹いた。
「幼女誘拐」
「…………いやいや、そんな」
「変態商人」
「……人聞きが悪いと思うな、そんな言い方」
「人身売買」
「…………ぐっ、ち、違うよ?」
「そんなことをする人ではないと思ってましたー。人当たりが良くってぇ、普段から挨拶もしてましたしー。まさか幼女を誘拐するような人だったなんてびっくりですー」
「ちょっと、待って、説明を!」
「魔物の幼女が好きなんじゃなくてさあ、あんた幼女ならなんでもいいのかよ」
「だから違うってば!」
俺は幼女ならなんでもいいよ!
とは口が裂けても言えない。
いまは青年商人を糾弾する時間だ。
「彼女を北の国まで連れて行くのが僕の仕事のひとつなんだよ。北に取引に行くから、そのついでに同行しているだけで断じて攫ってきたわけじゃない」
「へー。地下牢から出ていたいけな女の子の道案内ねえ。へー。なんで北に連れて行くの? やっぱり人身売買じゃないの?」
「僕の命、魔物に対する愛に賭けて誓う。奴隷として売るとか、そんなことはない。送り届けるだけだ」
「あの村のどこかの地下牢に閉じ込められてたんなら、ぼくらと一緒に東のフォクス領に行くはずだ。もしかして、ぼくらも北に売ろうとしてたんじゃないの?」
「それは……僕の口からは言えない。契約上の守秘義務だから……」
クェンティンは泣きそうな顔で首を振った。
心労が祟っているのか顔が青白かったが、商人としての立場が感情に流されることを良しとせず、弱音を吐けないといった感じだった。
俺はこの青年の根っこを悪人だと思っていない。
たぶん取引上、そうせざるを得ない何かを約束したのだろう。
ただ、クェンティンの反応から、俺たちは女騎士に解放されたわけではないことだけはわかった。
「奴隷として北に売るとか、こんないたいけな子どもに酷い仕打ちだと思わない? 北はまだ寒いだろうにさあ」
「……そんな大きな声で話さないでもらえないかな、お願いだから! 勘違いされたら困るでしょ!」
「うちの猫ちゃんの友だちで、お兄さんの愛する魔物の……確か、マルケッタちゃん、その子に顔向けできないと思わないの?」
「ぐ……」
おまえが言うなという話だよな。
猫ちゃんや妹やマリノアを放りっぱなしにしている男の台詞じゃない。
でもまあいけしゃあしゃあと言うけどな。
「まあ事情があるようなので虐めるのはこれくらいにしておきます。で、テオジアの修道院から誘拐してきたオーフェミリア・グレイコート嬢を北のどこに連れて行くのか詳しく」
「なんだよ知ってるのかよ!」
「もちろん嘘偽りなくね。魔導士舐めてると土に埋めるから」
「わ、わかったから。ちゃんと話すよ。ここじゃ誰が聞いてるかわからないから、とりあえず馬車に入って」
クェンティンの先導でミリアの閉じ込められた馬車に乗車すると、彼女は腰に飛びついてきた。
「魔術師さん、また会えたわ!」
イエス、ロリータ、ノータッチ!
だがロリータから触れてきたら合意と見なされるのである。
俺はよしよしと幼女の銀髪を撫でた。
○○○○○○○○○○○○○○○○
鉄の国のイチ領主の話をしよう。
極寒の雪と山に囲まれた広大なその地には、王家と四家の大公が存在する。
四大大公と呼ばれるその一角、フリーザー家の当主は、年老いたひとりの老人だった。
グラーシム・ヴァルム・フリーザー。
“氷の戦神”と呼ばれた鉄の国を代表する男だ。
鉄の国に生まれて知らない子どもはいない。
そんな彼には何十という息子がいる。
そして何百という孫がいる。
彼の血が特殊な血統なのか、彼の血を引く子どもたちには不思議と女が生まれなかった。
子どもたちはみな頑強だった。
戦場には先頭で立つような勇猛さも併せ持っていた。
そうなってくると跡目争いで血で血を洗う悲惨な目に遭いかねない。
誰もが危惧した。
現当主は老いを悟って性格が穏やかになるかと思いきや、とんでもない。
鷹のような眼光は霞まず、その口からは生涯弱音が一度として吐かれたことはなかった。
歳老いてなお、一族の長は誰にも譲らなかった。
息子たちの野心は彼に比べるとあまりにも小さく、政権交代など老人が目の黒いうちには起こりようもなかった。
小領主ならば一族の誰でも務めることはできよう。
それくらいの器量は備えていた。
しかし広大な四大大公の一角ともなれば話は別だ。
それほどまでに彼という存在は絶大な力を持っていた。
棺桶に片足を突っ込んでいる老人は、あと二、三年で鬼籍に入る。
そうなってしまえば野に放たれた獣のごとく、彼の蓄えたすべてが一族たちの手で略奪されるだろう。
誰も彼を上回るような、度肝を抜く逸材は身内から現れなかった。
このものになら自分のすべてを託してもいい、そう思わせる覇気に満ちた子孫は、残念ながらいなかったのだ。
だから彼は信頼する三人の腹心に後を託すことにした。
ひとりは総勢五十万の軍隊を軽く指揮してしまう彼の右腕の将軍。
ひとりは領内の農商工を富ませ彼の相談役にもなった大商人。
最後のひとりは領内の法を定め彼に代わって政に従事した政務官。
どれも一癖も二癖もあったが、不思議と彼を慕い、血を超越した兄弟家族のような絆で結ばれていた。
フリーザー家はグラーシムの代で勇躍し、大公の力関係はフリーザー家に傾いたのだ。
王家に次ぐ鉄の国の権力である。
その跡目を継ぐ証明に、彼はひとつの首飾りを用意した。
そこには将軍と大商人と政務官と当主の彼が裏の銀盤に彫刻した、世界で無二の首飾りである。
それを彼は人知れず隠した。
自分の死後、そのフリーザー家の首飾りを手にし、将軍、大商人、政務官の三人に認められたものこそフリーザー家の名を冠するに相応しいと。
「その話のどこにミリアが出てくるのさ? ちょっといい加減にして」
「あとちょっとで登場するから。それまでの辛抱だから。ほんとにほんと」
「魔術師さん~、んふふ~」
「ミリアは飽きちゃってるじゃないか」
「アル君さえ聞いていればいいから」
グラーシムが死に、領内は少しばかり乱れた。
しかしそれも対外的なものは彼の忠臣たちが纏めてしまい、事なきを得た。
フリーザー家の一応の面目として彼の息子のひとりが跡目を継いだが、誰もその男を一族の長だと認めなかった。
首飾りを手にしたものだけがフリーザー家の威光を手にすることができる。
当主の座を虎視眈々と狙う一派はそう声高に宣言して現当主を認めず、当主の一派にしても完全に分かたれた一族を掌中にするため首飾りを探した。
これが鉄の国の抱えた闇の正体。
長年の友だったドワーフたちを大平原の戦に駆り出し、敗戦したと見るや奴隷に落としたのも一族が功を焦ったためと、敗戦のため莫大な借金を清算するためであった。
フリーザー家のものたちはめいめい武力を集めようとして鉱山を急ピッチで掘らせ、人員確保のために付近の村では足りないからとグランドーラ王国にまで手を出す始末。
グラーシム・ヴァルム・フリーザーの威光なんてどこにもない。
あるのは欲に溺れた小者たちの足の引っ張り合いだ。
それに巻き込まれる階級弱者たちには同情する。
「さて、ここでようやくオーフェミリア嬢が出てくる」
「話からフリーザー家の関係者だということはわかった。これで南の国の商人の娘とか言ったら張り倒すけど」
「怖いな。安心してよ、本筋から逸れないから。それだけじゃないし」
白銀の髪を持つ五歳の少女。
ジェイドがわざわざテオジアの修道院から手の者を使って誘拐してきたという少女。
この小さな女の子の首には首飾りがかかっている。
何を隠そう、フリーザー家のすべてを相続する条件にもなった、あの首飾りだ。
「ま、驚くよね、うん。僕もいまだに信じきれてないし、というか巻き込まれた感がハンパない。僕だってできることなら今すぐにでもとんずらこきたいさ」
僕がミリアに首飾りを見せてと言っても断られたのに、アル君が見せてというと嬉しそうに胸元を肌蹴て取り出すから、なんとももやもやしたものが残る。
へへん、ざまあと言いたげなアル君の勝ち誇った笑みも腹立たしい。
いいもんね、マルケッタにさえ好かれていれば何もいらないもんね。
首飾りは大変豪華だった。
薄い紫色の宝石を中央に嵌め込み、周囲を赤や緑、黄色といった宝石であしらった金細工だ。
さて、この首飾りがひとりの少女の手に渡ったのには理由があった。
オーフェミリア・グレイコート。
グレイコートは母方の姓である。
修道院の時計塔に囚われていた少女こそ、フリーザー家唯一の女児。
長年、それも五十年以上の年月、女児が生まれることのなかったフリーザー家。
オーフェミリアの母は氷の戦神の何人目の愛人だったか。
オーフェミリアの母はグランドーラ王国の下級貴族の出だったが、上級貴族の命令によって鉄の国に嫁ぐことになった。
その美貌からゆくゆくは王国内でも有力の貴族に娶られるものだと思っていただけに、他国に愛人として嫁がせねばならない当主の胸中はいかほどか。
でもまあ、娘を社交界で成り上がる道具のひとつにしか考えていないっぽいので同情は必要ない。
鉄の国に嫁いで数年の月日が過ぎ、娘はひとりの赤ん坊を連れて家に戻ってきた。
病を得ていた娘はそのまま他界し、首飾りと鉄の国のお家騒動を知った下級貴族は、巻き込まれることを恐れて二歳になる幼児を修道院に閉じ込めた。
それが事の顛末。
「ミリア、怖い思いしなかった?」
「うん、夜ね、ベッドで眠っていたら突然袋に閉じ込められたの。怖い人がいっぱいいたのよ。このお兄さんも怖いわ」
対面席に座るオーフェミリアが僕を指差した。
それを見て同じく対面席の小さな魔術師くんは僕を親の仇を見つけたみたいに睨む。
口がぼそっと動いてる。
なになに? 『幼女趣味』? ちがうわ!
いやいや、僕は何もしてないから。
すっごく丁寧に扱ってたからね?
腫物に触るような感じでさあ。
「というか疑問なんだけど、なんで君はこの子の素性を知ってるんだい? 彼女は物心ついた頃から修道院にいたと聞いているが、出会う機会なんて……」
「それがあるんだな。妹が修道院で厄介になってると聞けばお邪魔するのが兄の役目」
「高い石壁と厳しい監視の目があるはずなんだけどなあ」
「そこは自分、魔術師ですから。どれだけ高い壁だったとしても障害になりゃしないよ」
「魔術師さんはなんでもできますわ!」
わー、不法侵入を堂々と言い切ったー。
だというのに、何が格好いいのかオーフェミリアのキラキラした眼差しがアル君に向けられている。
これはあれだ、ちょっと気になる年上男子に向ける『女の子』の目だ。
女ばかりの修道院に閉じ込められていれば、最初に出会った男性を輝かしいものと思い込み、家鴨の刷り込みよろしく追っかけてしまうのも無理はない。
僕が言うのも憚れるが、アル君はかなり特殊な人間だからあまり深入りはしないほうが賢明だろう。
まともな神経をしていれば、いずれどこかでオーフェミリアの熱が一気に冷めかねない。
「魔術師さん、魔術師さんは妹に会えたの?」
「それがまだなんだ。探してはいるんだけどね」
「そう……はやくふたりが再会できるように、あたしもお祈りするわ。だって離れ離れは寂しいもの」
「ミリアはいい子だねえ。頭を撫でて上げよう」
「わーい」
よしよしと白銀の髪の上から頭を撫でるアル君。
それを嬉しそうに受け入れるオーフェミリア。
このふたりの関係はなんなのだろう?
アル君は妹を捜していると言っていたが、実はオーフェミリアのような幼い“妹”分を愛でたいがための方便だろうか?
ともあれ少なからずオーフェミリアの生い立ちには同情しているのだ。
だから首飾りごと鉄の国に届けるまでは、丁重に扱うつもりだった。
それがこの事態である。
いつの間にか馬車は動き出していた。
馬車の外は兵士たちが慌ただしく駆け回っている。
向かう先はドンレミ村だろう。
北へオーフェミリアを届け、代わりにドワーフを集めて連れて帰る計画だったが、それも流れそうだ。
どうすればいいか頭をフル回転させる。
とりあえず、北から攻め込んできた五百の軍勢は、オーフェミリアを横取りしようとするフリーザー家のどこかの一派だろう。
取引を持ち掛けた一派が交渉より略奪を選んだとは思いたくない。
まあ何十という派閥が日夜足の引っ張り合いをしているわけだから、ジェイドが交渉を持ち掛けたというフロスト・フリーザーの一派が武力行使をするとは思えない。
「ちょっと考えたんだけどさあ」
アル君がオーフェミリアの鼻をこしょこしょしながら(なんだ見せつけるなよな……)口を開いた。
「交渉する予定だった相手から、いま攻め寄せてる連中に交渉相手を変えてこの子を引き渡しても、商人的には何ら問題はないよねえ?」
「……そんなことは、ないよ?」
正直、ちょっと目が泳いだ。
商人は信頼を重んじる。
取引相手との約束を反故にして別の条件の良さそうな相手に鞍替えするのは、本来なら信用に傷がついてもおかしくはない。
だけど今回は特例だ。
ジェイドによって勝手に用意された交渉相手と話を進めるわけだから、自分はただの代理人でしかない。
ならば商人として生き残る道を選ぶなら、いまの鉄の国の背景や少女を渡した後の連中の対応を考えて、交渉相手を替えてしまっても非難される筋合いは……まああるか。
ジェイドに「何してんだ!?」と怒られてもしょうがないにしても、保身のためだ、仕方ない。
どこかから情報が漏れたのか知りようもないが、オーフェミリアをいま猛追してくる鉄の国の軍になんとか交渉の場を開かせて、いたいけな少女を売っぱらってしまう選択肢もあった。
厄介の種はそういつまでも懐にしまっておけないのだ。
国同士の緊張など無視して国境を跨ぎ会いに来る連中もいるくらいだから。
「最低だな! 幼女好きが聞いて呆れるよ! 『俺の幼女に手を出すなぁ!』くらい言ってやれよ! もっと胸張れよ!」
「幼女好きは訂正させてもらってもいいかな。仮にそうだとしても堂々としていたらそれだけで捕まってしまうよ……」
オーフェミリアはいまやアル君の膝の上でうとうとしていた。
白い雪のような肌に、触れれば穢れてしまいそうなほどに儚い容姿。
昨日まで知らない大人に囲まれ、部屋に閉じ込められ、今日だって排泄以外で馬車から出ることも許されずにいる。
そんな緊張状態から気が緩んだのか、アル君に身を預けてすうすうと寝入ってしまう。
僕たちは彼女に気を遣って、声量を抑えた。
だからいま、小声で叫んでいるというよくわからない応酬をしている。
ふと、アル君の雰囲気が変わった。
冗談を言っていた軽い調子から、真顔になる。
「俺が聞きたいのはひとつだけで、ひとの知り合いを権力の道具にするつもりなのかってことなんだけど?」
「……本音を言うと乗り気じゃないさ。僕は砂糖商人だからね。でも同時に商人である以上、商談を交わした相手を裏切るような真似はできないんだ。それに、何もこの少女にとって悪いことばかりでもないだろう? 彼女の血の繋がった親類の元に返すのだし、少なくとも修道院のような軟禁生活からは解放される」
「話し合いの使者も寄越さないでこちらを追ってきてる連中が? さらに追い打ちをかけるようだけど、他国軍が国境をそんなに簡単に越えていいものなの?」
「…………そりゃ、ねえ」
クェンティンは取り繕うことを止めて、小さく嘆息した。
この小さな少年は目の前の事態ばかりか、国同士の微妙な関係まで頭に入れて話している。
変態性や性癖が只者ではないな、と思っていたが、自分と同等の知識人と思って相対する必要がある。
こんな相手は久しぶりだ。
ベレノア領の領主になった獣人好きの知り合いを思い出す。
「話を聞く気のない連中を追い返しても、結局ミリアの運命は変わらないんでしょ?」
「フリーザー一族の首飾りさえ持っていけば済む話でもないからね。それで済むなら僕だって小さな女の子を魔窟に放り投げるような真似はしないさ」
「どうあってもミリアは引き渡すって言うの? 俺を倒してでも?」
「…………」
少年のはしばみ色の瞳に、じっと見つめられた。
その目はどこか空虚だった。
あるいは感情を殺しているだけか。
人ではないものを見つめる目。
排除しても心が痛まないための目、のような気もする。
「……………………」
「……わかったよ。降参。彼女は引き渡さない。他の方法を考えるよ」
「念書とか書こうか」
「そこまでするの!」
少年の徹底ぶりに呆れ、僕は彼の背後に老獪な貴族の姿を見た。
彼らは言質を取るためなら卑怯な手段は厭わないから。
ま、悪徳商人も似たようなものなんだけど。
アイアンフッド王国大公領ヤヴェロフスキ領、フリーザー一族、ヴァレリアン・ゴルム・フリーザー。
彼は先に没した“氷の戦神”グラーシム・ヴァルム・フリーザーの三十番目の甥に当たる男だ。
髪は妖精のように白く、儚く、しかしその眼光は鷹のように鋭かった。
薄暮の中、髪をオレンジに染め上げている。
豪奢な馬車に収まっていればいいものを、馭者台に立ち、馭者が迷惑そうにちらちら横目を向けるのを涼しげに無視しながら、精悍な青年は正面の丘の向こうで砂煙を上げるものにじっと注視している。
「殿下、間もなく逃走中の部隊に接触、交戦を開始します」
「ああ、兵士は殺せ。それ以外は捕虜にする。絶対に銀髪のものに手は手を出すな。徹底しておけよ、マクシス」
「はっ!」
赤いマントに鋼鉄の鎧をまとった騎士がひとり、馬を寄せて敬礼を送り、青年から離れていった。
「叔父上の覚えをめでたくする良い機会だ。絶対にしくじるな!」
ヴァレリアンの顔に余裕はなかった。
配下の精兵を五百率い、相手は『お荷物』を抱えたわずか十分の一の五十の部隊だったとしても、その顔に相手を侮るような隙はない。
本当に余裕がないのだ。
白銀の少女を捕え、その首飾りを献上し、ゴルムの当主がヤヴェロフスキ領の大公領主となれば、ヴァレリアンは軍部の総指揮官になることも可能だ。
抜け駆けしたハーヴェイ家がグランドーラと裏取引をして、国内で探し尽しても見つからなかった首飾りを手に入れるとの情報を、ゴルムの手のものが入手した。
ヴァレリアンはゴルム家の隆盛のため、なんとしても首飾りを手に入れねばならないのだ。
ヴァルム家、ハーヴェイ家、ゴルム家、キリギスタン家、レヴィナス家、ニール家、ドブチェク家等々、全部で十五の支流に枝分かれしたフリーザーの一族。
どの家もその髪は白銀。
白銀でないものはフリーザーを名乗ることを許されないという徹底ぶり。
我が子に白銀以外の混じり物が生まれれば分家に我が子を落とし、分家に白銀の子が生まれれば主家の養子にして育て、ゆくゆくは後継者にするのだ。
そんな中、ヴァレリアンは分家に生まれ、主家の養子となった経緯を持つ。
そのことには別段思うところはない。
生まれた瞬間から主家の子として育てられたからだ。
主家に娘が生まれた。
ヴァレリアンの妹に当たる。
幼くて、たどたどしくて、可愛かった妹。
ヴァレリアンは誰よりも妹の面倒を見てきた。
ゴルム家が他の家より劣勢になってきて、両親に子どもの面倒を見る余裕がなかったゆえに、兄として接する機会が多かったのだ。
生まれたときは白銀だった妹の髪が、五歳になった頃から茶色へと変わっていった。
両親の目は冷ややかなものに変わった。
『病死ということにしよう』
父の言葉だ。
耳を疑った。
ゴルム家に相応しくない髪となった妹を、公になる前に処分してしまおうと考えたのだ。
五歳になって分家に落とすのも噂が立つ。
両親の決定は冷酷なようだが、ゴルム家にはこれ以上、他家から突かれる理由を増やすことはできなかった。
兄として、妹を死なせるわけにはいかない。
八歳だったヴァレリアンは、父と話し、あらゆる手を模索した。
それでも覆らなかった。
妹の病死。
食事に毒を混ぜ、緩やかに殺す。
髪のことを対外に気づかれないよう、屋敷の地下に軟禁した。
どうすればいい。
ヴァレリアンは悩み、苦しんだ。
その少年に、一筋の光が差し伸べられる。
地下に食事を運んでいたメイドが、妹を救出してきたのだ。
彼女は屋敷を出て実家の田舎村に引っ込み、妹を育てることをヴァレリアンに持ち掛け、代わりに月に金貨五枚の報酬をせびってきた。
メイドの仕事は月に金貨三枚。
この世は金か、と思うが、ヴァレリアンに断る理由はなかった。
それからだ。
ヴァレリアンは妹を手元に取り戻すために、ゴルム家の戦線に立ったのは。
いずれゴルム家を乗っ取り、誰にも文句を言わせない立場になる。
そのために首飾りを入手する必要があるのと、強引な出兵だった。
「接敵! 交戦開始! しかし敵主力は逃走を止めない模様!」
「馭者を殺せ。馬を操るものがいなければ馬車の足は止まる」
「殿に十騎、先鋒が殲滅を完了!」
「後方の馬車、十台鹵獲! 中には武力を持たない奴隷が詰まっていました! 目標はいまだおらず!」
「馬車は後方へ。目標を探せ! 兵士は殺せ!」
ヴァレリアンは後方に運ばれる馬車をちらりと見やる。
荷台に乗せられた、無気力に俯いた村人たち。
王国民だというのに彼らがなぜ奴隷の扱いなのかはわからない。
だが、問い質そうという気もない。
鉄の国に連行されれば、鉱山の労働力として使い潰されるだけだ。
そこに言葉は意味をなさない。
「正面の中型馬車の上に少年を確認! 流れ矢がことごとく逸らされています! 魔術師である可能性があります!」
「少年の背後に銀髪の少女を確認! 目標と思われます!」
「矢を撃つな、馬鹿者! 馬車を止めることを優先しろ!」
「近づけません! 地面が隆起し馬が近づけません! それに、風を操り次々に斬り倒されています!」
配下を纏めるマクシスが怒声を飛ばしているが、魔術師には近づけもしないようだ。
「馬車を前へ。魔術師の姿を確認する」
「しかし殿下、これ以上は危ないのでは……」
馭者が怯んだ顔を向けてくる。
「二度目はないぞ」
「全速前進! いまから風になります!」
馬を急かして速度が上がる。
さすがに主要人物に対し、護衛くらい置いているか。
ハーヴェイ家より先んじたが、失敗すればゴルム家の趨勢も危うい。
綱渡りなことをしているのだ、莫大な見返りはある。
まずは魔術師を排除しなければ。
屋根に立つ魔術師が見えた。
体躯の小さなローブを着込んだ少年に、その後ろに隠れるように質素な格好の銀髪の少女が。
馬車の扉から金髪の青年が上半身を出して、屋根のふたりに何か叫んでいる。
何をしているのか。
子どもの遊びに付き合ってやるつもりはない。
「マクシス、おまえが行け。魔術くらい跳ね除けて見せよ」
「はっ!」
マクシスが部下を三名引き連れ、馬を飛ばす。
魔術師がすばやくマクシスへと目を向ける。
その目に隙はない。
誰がいちばん危険かあっさりと嗅ぎ分けているのだ。
見た目は子どもだが、油断ならない。
マクシスが剣を振った。
その瞬間、何かが目の前で弾けた。
風の魔術を斬ったのだ。
三人の部下も馬車を包囲するように動き、同じように隆起する地面や何もない虚空に槍を突き立て、魔術を霧散させている。
一息に距離を詰め、ヴァレリアンは勝利を確信した。
だが、目を疑う。
マクシス以外の騎士が三人とも馬から吹っ飛ばされて、そのまま動かなくなった。
全身に何やら細いものが突き立っている。
「俺だってねえ、戦闘は苦手だけど対策を取ってないわけじゃないんだよ!」
少年の手から何かが飛んでいるのだ。
マクシスはそれを払うが、すべてを防いでいるわけではない。
腕がだらり下がり、首が垂れた。
馬の首に被さるように動かなくなり、馬車を通り過ぎて林に突っ込んでいった。
何が起こったのかわからなかった。
魔術師の手から飛んだ何かがマクシスたちに突き刺さり、それが命を奪ったものと見る。
近づくのは危険だろう。
そう思ったのも束の間――。
少年魔術師とヴァレリアンの目が合う。
にやり。
くすんだ赤茶色の髪の少年魔術師が嗤った。
嫌な汗が背筋を伝った。
何を気圧される必要がある。
子どもに笑われたくらいで。
距離にして馬車二十台分。
届きようがないというのに、まるで蛇に睨まれた蛙だ。
部隊を動かすマクシスの損失は痛いがまだ四百以上の兵隊を動かすことができる。
一息に敵国軍の兵士を殲滅し、魔術師をゆっくり平らげればいい。
指示を出すべく視線を少年から外した。
その一瞬が、ヴァレリアンの命運を分けた。
側頭部に少年の足裏がめり込む。
ヴァレリアンの体は馬車に叩きつけられ、馭者も一瞬で吹っ飛ばされた。
瞬く間に宙を移動して距離を詰めたというのか。
考える間もなく、頭を踏まれた。
土と血の混じった臭いが鼻腔を打ち据える。
傍に配していた護衛隊はどうやら、馬体を飲み込むほどの土の隆起で陣形をことごとく遮断され、無力化されたようだ。
魔術師ひとりにしてやられた!
思わぬ敵に圧倒されている。
「その白銀の髪はそれなりの地位の方をお見受けしますが、下衆野郎」
目の端に、ふたりの少年少女が映り込む。
少年の背後に隠れる銀髪の少女。
その光景は、無性にヴァレリアンの胸中を掻き乱した。
幼い日の自分と妹――。
妹を守ろうとする力のない自分。
奪われまいとして、それでも力の前には無力だった。
妹を守れなかった自分。
一瞬狼狽え、無性に涙が込み上げてきたが、ぐっと飲み込んで睨み上げる。
「ちょっとくらい腕が変な方向に曲がったくらいで泣くんじゃないよ、下衆野郎」
「魔術師さん、暴力はだめだわ。ええと、大丈夫?」
「ミリアぁ、あのねえ、君の将来を真っ暗にしようとしてる連中に慈悲はいらないよ」
「でも、きっとリエラなら誰にでも優しくするわ」
「うぐ……なんてことだ。妹を盾に取られるとは……」
「誰にでも優しくあれ、ですわ」
「……ということだ、北国の妖精さん。今すぐ武装解除。ああ、一時撤退してからでいい。女騎士の手柄にするのも癪だし、聞きたいこともあるしね」
「貴様はなんなんだ……」
「俺? 赤魔導士のアル」
赤い部分なんてひとつもないじゃないか。
ヴァレリアンはそう思ったが、口にするのは躊躇われた。
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ノシオは老馬に鞭をくれた。
街道を歩く人間を跳ねる勢いで進むので、次々と前に後ろに悲鳴があがる。
街道の終着点となるテオジアの外壁が見えてきた。
息が上がって苦しそうにしている老馬の首を撫で、もうちょっとだと念を込めた。
商隊の脇を駆け抜ける。
貴族らしき連中が道を塞ぐのを、無理やりこじ開ける。
一度も止まることなく門の下までやってきた。
後ろから貴族護衛の連中が追ってきている気がするのは気のせいだと思おう。
テオジアの外門で用は何かと門番に尋ねられ、トレイド商会幹部のフィルマークへ急ぎ言伝だと素直に答える。
しかし身なりのせいか止められた。
後ろから追ってきた貴族お抱えの兵士に追いつかれそうになったので、ノシオは叩きつけるように有り金をぶちまける。
ちょっと前の自分なら銭貨の一枚でも執着しただろうが、いまは金銭など些事にしか思えなかった。
検門所はちょっとした騒ぎになり、ノシオは通行許可証を半ばふんだくるように掴むと、老馬に跨って街中を駆けた。
途中木材を抱えて進む工人たちを蹴散らしたが、心の中で詫びるだけに留めて一度も振り返らなかった。
「旦那ぁ! フィルマークの旦那ぁ!」
トレイド商会の大階段前に乗り付けると、番兵が慌てて槍を構えるが、ノシオは大声でフィルマークの名を叫んだ。
馬を飛び降り駆け出そうとするが、馬上が長かったからか、足が痺れたようにガクガクとして、その場にへたり込んだ。
しかし座り込んではいられない。
足を殴りつけ、段差を腕の力でよじ登る。
一刻も早くフィルマークに事態の経緯を説明してしなければ。
ドンレミ村の窮状をなんとかしてもらわねばならないが、もっと直近の問題として検問所で振り切ったはずの兵士のこともある。
「フィルマークの旦那ぁ!」
老馬が近寄る兵士に蹄を振り上げた。
へへ、短い付き合いだが、気持ちは伝わるもんだなあ。
番兵をノシオに近寄らせまいとする老馬の気持ちがただ嬉しかった。
商会の大階段をよじ登り、大扉には倒れ込むようにして押し開いた。
そこは別世界だった。
広いロビーには身なりの良い商人たちがひしめいていた。
強引に彼らを押し退けると悲鳴が上がるが、取り合わずカウンターへと張り付いた。
「旦那、フィルマークの旦那を呼んでくれ! 急ぎなんだ!」
呼吸を整えるのももどかしく、フィルマークの名を告げる。
しかし怪訝そうな受付。
埒があかないと思い、ノシオは息を吸い込んだ。
「フィルマークの旦那ぁ! どこですかい! いたら返事をしてくだせぇ! 急ぎの用件をノシオが持って参りましたぁ!」
慌てたのは目の前にいる受付。
腰を浮かしてノシオの口を塞ごうと呼びかけるが、ノシオはここで大人しくなったところで会わせてはもらえないことを知っている。
しばらく迷惑の渦中となっていると、フィルマークが奥の部屋から、目に見えるほど肩を怒らせてやってきた。
背丈が人並み以上あるこの商人は、元冒険者で荒事もくぐり抜けてきた猛者だ。
商会の職員たちは巻き込まれまいと道を開け、ただただことの成り行きを見守った。
「私の名前を大声で叫ぶ馬鹿者はどいつだ! ここは酒場じゃないんだぞ!」
「それが旦那ぁ、聞いてくだせえ……」
「うるさい! 商会の迷惑だ! この薄汚い乞食め! さっさと出て行け!」
「そ、そこをなんとか……旦那にお伝えしてぇことが」
「衛兵!」
フィルマークの後についてきた衛兵が素早くノシオの両側に回り込む。
衛兵が顔を歪ませた。
たぶん、自分の臭いに顔をしかめたのだろう。
そんなもの知るか。
ノシオは滅茶苦茶に暴れた。
しかし衛兵の腕ががっちりと掴んで離さない。
小男のノシオは、ふたりの兵士に挟まれ、足がぷらんと浮いてしまうのだ。
抵抗できずに商会から連れ出され、商会の裏手まで連行された。
フィルマークはもちろんいない。
「大事な話なんだよう、信じてくれよう」
涙と鼻水でドロドロになりながら、ノシオは力なく項垂れる。
衛兵ふたりは、ノシオをゴミのように投げ捨てるかと思いきや、優しくその場に下ろしてノシオの肩を叩いた。
「わかっている。あの場では人目が多かったゆえ、追い出すしかなかった。旦那も以前から表に出てくるなと言っていたであろう」
衛兵は目線の高さに膝をついた。
「俺たちは旦那の部下だ。仲間からの定期連絡がしばらく途絶えていて、旦那も心配になっていたところだ。テオジア以北の村がいま大変な事になっているのはわかっていた。これから旦那の元に案内するから、おまえは知っていることを詳細に話してくれ。いいな? わかったらついてこい」
展望が開けたと思ったノシオは、こくりこくりと何度も頷き、もつれる足で後に従った。
裏戸から商会に入ると、人目を避けるように案内される。
一度も踏み入れたことのない地下の一室に通されると、そこにはフィルマークが巌として立っていた。
ノシオは溢れる涙を拭う暇もなく窮状を訴えた。
フィルマークはソファに座るように促してきたが、座るのももどかしい。
ドンレミ村の村長が殺されたこと、修道女のふたりの頑張りで村人の犠牲は少なく済んでいること、亜人のふたりと銀髪の男、エルフ耳のメイドと馬娘、それから猫獣人の少女――ノシオは思い浮かぶ限りの情報を吐き出した。
フィルマークは全て聞き入れると、鷹揚と頷いた。
「すぐに動けるものを援軍として向かわせよう」
「ありがてえ、ありがてえ! ほんとに、恩に着ます、旦那ぁ……」
フィルマークはソファから立ち上がり、床に膝をつけた。
そしてその額を擦り付けた。
「命を張ってよく報せてくれた。ノシオ、おまえの働きは万金に値する」
「そんな滅相もねえ……」
喜びで打ち震え、ノシオも膝を突き、何度も何度も頭を床に擦り付けた。
これでドンレミ村に残した聖女様や母親が助かる。
この旦那にすべて任せれば心配いらない。
そう思える力強さを、ノシオはフィルマークの大きな体から感じ取り、また涙があふれてくるのだった。
フィルマークの派遣した援軍とは。
国境を越えた他国軍を返り討ちにしたアルは。
ドンレミ村の戦いに巻き込まれたリエラは。
『商人』と『ひとりの人間』の間で揺れるクェンティンの決断は。
ようやく佳境に入れそうです(;'∀')




