第75話 姦し乙女たち
乙女たちの話。
「ね、ねえ。ちょっとこれきつくないかなあ。俺子どもだし、狭いと思うんだよ」
「我慢してよ。お互いのためなんだから」
「すごい熱いのが当たるんだけど。あ、ちょっと、無理やりしないで、うっ!」
「魔術師でしょ。これくらいの堪え性を持ってよ。もう半分くらい入ってるから、後は一気に進むだけだよ」
「そんなことっ、言われても! はぁっ、なんかここが限界っ! っていうか!」
「いけるいける! 大丈夫だって。ほら、力を抜いて。一気に行くよ!」
「ダメ! もう無理! やめて! これ以上は裂けちゃうぅぅぅ!」
「な、なにやってるんだ、おまえたち……」
通路から慌てて駆けてくる看守が見たもの。
それは……。
「何をって? この状況でナニをしているように見えるって言うんだ」
俺は汚い床に這いつくばりながら、憮然と看守を見上げる。
飯の差し入れ口から、俺は体半分を外に出していた。
クェンティンは俺のお尻をぐいぐいと押し込んでいたわけだ。
別に男同士でナニをしていたわけではない。
ただちょっと、脱獄を考えて行動した結果、下半身が抜けないと言う事態に陥ったまでだ。
「何をしているのかと聞いてるんだっ!」
「え? 穴があったら入りたくなるのが男のサガってやつでしょ? それを実践してたんだよ」
「ふざけるなっ!」
看守が蹴るにはちょうど良いところに俺の顔があった。
俺は「げふっ」と呻いた。
「痛いなあ、くそ。本気で蹴りやがって、あの看守」
「いや、あれは会心の蹴りだったよ。ぼくも見ていてアルくんの首がどこかに飛んでくんじゃないかと冷や冷やしたもんだ」
「へらへらしながら言わないでよ、おぞましい……」
絶賛拘留中の俺たちは、暇な時間を好き勝手に過ごしていた。
両手に嵌った黒い手錠。
魔力を集めようとすると乱す作用があって、俺はほとんど魔力を使えない。
頬の痛みも治せず、ただの九歳児に落ちぶれてしまっている。
だからできることと言ったら、相部屋の若手商人と会話することしかできない。
「……ヴォラグって男について知ってる?」
「テオジアではそこそこ有名な山賊だよ。鉄頭の国とうちの国の国境辺りで悪さをしてるらしくってね。五年くらい前から出没し始めて、テオジアの商人がもう何人もやつの山賊団に殺されてるし」
「あいつと強弓の男にやられたから、今度は仕返ししてやりたいんだよ。なんか情報ない?」
「商人なんかやってるといろんな情報が入ってくるからね。ヴォラグは元鉄頭国の軍人だったみたい。でも貴族の妻を無理やり犯して追われる羽目になって、山賊に身を落としたって話だよ。強弓の男についてはわかんないかな。というか名前もわからないんなら知ってても教えようがないし」
腕立て伏せが百回を超えたあたりから腕の筋肉が悲鳴を上げている。
汗を流してはいるが、牢屋は冷気が漂っているので運動しないと少し肌寒い。
身体強化を使わなくても筋トレはそこそこの数をこなせる。
そもそも身体強化は元のフィジカルが高くなくては効果があまりない。
毎日のように猫ちゃんやニニアンと組手を行って体力・筋力が充実したのだろう。
腕立て伏せなんて昔は十回もできないくらい非力な大人だったことを考えれば、スーパー九歳児である。
これで下手に筋肉ダルマにならないように魔力操作で調節できるのだから、この世界は天国みたいなところだ。
クェンティンはボロいベッドで、休日のおっさんがテレビを観るように肘をついて腕立てを眺めていた。
ボリボリと尻を掻いているが、単にベッドがダニだらけで痒いのだ。
「ヴォラグって言ったら商人は裸足で逃げ出すけどねー。勝ち目ないんじゃない?」
「山賊のお頭らしく別に実力は大したことないんだよ? ……疑わしい目で見てるけど本当だから」
「どーだが」
鼻をほじりながら生返事するクェンティンの顔を蹴飛ばしてやりたくなった。
「隠形に特化してて、後ろを取られたことに気づけなかった。本当に不意打ちだったって言うか……いわゆる忍者みたいな」
「にんじゃ?」
「密偵とか暗殺者とか、そんな感じ」
「ふーん……」
見た目は横幅が広くいかにもな山賊だったが、あれはただ暴れるより、獲物の背後に回り込んでから仕留めるタイプだ。
「そういえばヴォラグの鉄頭時代の話は聞かないねえ。貴婦人の部屋にひとりで忍び込んだ件もあるし、案外暗部の人間なのかもー」
「でしょ? そう思うでしょ? だから不意打ちさえ気をつければあんな奴!」
「それと山賊相手に勝ち目があるかは別問題だけどねー。君は子どもなんだから、無理しちゃダメだよー」
耳穴をほじりつつ、ぬぼーっとした顔で言う。
俺の実力を知らないから仕方ないが、やっぱり腹が立つなぁ。
「強弓のほうは? 強弓の方は実力は本物で、こっちの通常防御をあっさり貫通してくるほどの使い手だった。おかげで足に穴が開いたんだ」
腕立て伏せを二百回をこなした後、「もう塞がったけど」、と零しつつ矢に貫かれた太ももを撫でる。
「え? 足に穴が開いたの?」
「うん、もう治癒で治したけど」
「なんだか人間離れした話だねえ」
しみじみ呟き、クェンティンは自分の足を撫でた。
五体満足であることに越したことはない。
欠損を治す上級治癒魔術までは習得していないので、俺の治癒は完璧とは言い難かった。
「ところでアルくん、脱獄するいい方法思いついた? 魔術師ならちょちょいと壁に穴とかあけられるでしょ?」
「この黒枷が取れない限り無理。まあ魔力を乱されるだけだから、本気で集中すれば魔術を使えないこともないんだろうけど」
「なんだ、もう脱獄しちゃってるようなもんじゃん」
「できないことはないだろうけど、疲労感ハンパないから他の方法を考えてるんだよ。だいたいなんで子どもに頼るんだよ。大人がなんとかしてよ。蹴られたのも俺だけだしさー」
「いやいや。ぼくはたぶん、近いうちに身代金と交換で出られるんだ。だけど君は若い魔術師な上に可愛い顔をしてるから、このままだったら国内の変態貴族に高値で買われるだろうなあって。それか鉄頭の鉱山で強制労働か。どちらにしろきっと壊れるまで酷使される人生が待ってるよって親切心から教えてあげようと思って」
「お先真っ暗って感じだわー」
お互い監獄にぶち込まれた悲愴感や緊張感がないのは、最低限の脱獄方法があるからだ。
俺はもともと修道女が囚われている場所を探すつもりだったから、ヴォラグに不意を打たれたのは予想外にせよ、地下牢を見つけることができて御の字だった。
ただ、黒枷のような魔術師殺しの道具で拘束されるとは思ってもみなかっただけで。
クェンティン・トレイド。
彼もまた名のあるトレイド商会の御曹司だけあって、身の保障はされているのだろう。
商人は悪党にも顔を売っているのだと思うと嫌な気分になるが、商人こそ基本的に金で物事を判断する生き物だった。
「ねえ商人さん」
「なあに、魔術師くん」
「どうして人身売買ってなくならないの?」
「それはね、需要と供給が満たされているからだよ。需要は買い手、供給は売り手のことだ。ちなみにこの組織の大口の買い手は鉄頭王国そのものさー」
「クズみたいな国だね、商人さん」
「ぼくはしがない商人だからね。国の方針から推察してどうやって売り上げを伸ばすかを考えるだけで、その国が腐ってるかどうかは問題じゃないんだ。でも暴動が起きると商人は真っ先に狙われるから、そういう意味では適度に統制が取れてくれるのが望ましいね」
「ねえ商人さん、ぼくはいったいどれくらいの値段で売れるの?」
「うーん、魔術師くん。君は可愛い顔をした男の子だ。きっと金貨五百枚は積んでも変態紳士たちは欲しがるだろうね」
「クズみたいな商売だね、商人さん」
「この世に売れないものはないってのが商人の信条だからねえ。それに奴隷なんて主要な産業だし」
「世も末なんだよねえ」
「でも奴隷って悪いことばかりじゃないんだけどね」
「……それは否めない」
目が合うと、ふたりして下衆い笑みを浮かべた。
俺は猫ちゃんのことを想像して、クェンティンは俺とは違った誰かを想像したのだろう。
ここにクズがふたりいるが、まぁ大したことではない。
男なんてみんなこんなものだ。
俺とクェンティンが仲良くなってしばらく。
外はきっと日が暮れた頃だろうか。
ドタドタと地下牢に踏み入ってくるたくさんの足音を聞いた。
「ケンタウロスの毛艶はまさに至高」
「いやいや、獣人の柔らかい体毛こそ究極」
「ぼくの親友に獣人しか愛せないやつがいるけど、アルくんも似たようなものだなあ」
「俺の知り合いにも魔物に興奮する変態女史がいるけど、クェンティンさんとどっこいどっこいだよ」
お互いに顔を見合わせる。
「「あはははははっ!」」
アメリカンコメディのようなノリであった。
「こ、ここ、これは、トレイド卿のご子息だお! なんでこんな場所にいるの!」
そんな声が鉄格子越しに聞こえてきたので、ふたりして目を向けると、肥満体型の身なりの良いお貴族さまが身を乗り出して覗き込んでいた。
「クェンティンさん、知り合いなん?」
「テオジア領主の弟君だよ。うちとは長くお付き合いしてもらってるからね」
「トレイド商会だもんね」
「いまは確か人攫い組織壊滅を声高に叫んで遠征軍を出してたんだけどな……」
小声でひそひそ話をしつつクェンティンは起き上がると、領主弟の前で腰を折った。
「いやあ、ベルリン閣下、ご機嫌麗しゅう。こんな小汚いところまでよくおいでになりましたね。ぼくですか? ちょっと山道を散歩していたら山賊に捕まりまして」
「お、おい、いますぐ牢屋から出すんだお! なにやってるんだお! 馬鹿! アホ!」
「そんな権限おれにはないんだが……」
看守に言い寄る腹の出た領主弟ザック・ベルリンだが、反応はよろしくないようだ。
「おまえは馬鹿かお! この方に何かあってみるんだお! おまえもおまえの家族もこの国で生きていられると思うなお!」
そんなことを言われてもとぽかんとしている看守だが、鬼気迫る領主弟の言いようには切迫したものが感じられた。
「ちょ、ちょっと待ってろ、確認を取ってからだ……おい、おまえ、ヴォラグさんに確認取ってこい」
「おう」
何やら慌ただしくなり始めた。
看守のひとりが出口に走っていく。
領主弟は落ち着きなく神経質に手を揉みほぐしながら、鉄格子越しに彼らの醜態を笑って眺めているクェンティンに目を向けた。
「いったいなんなんだよ」
「ぼくは大したことないんだけど、ぼくの父親がちょっとした有名人でね」
「それで領主の弟がヘコヘコするってどんな商人だよ……」
ヘコヘコと言われて領主弟はむっとしたようだが、大商人の御曹司らしき青年の前では借りてきた猫のように黙っている。
じきに看守が走ってきて、慌ただしく牢が開けられた。
「身代金もいらずに出られたみたい」
「どういう待遇なんだか……」
じゃあねと手を振ってクェンティンは牢を去っていった。
後には小汚い看守が残るが、そんなことはどうでもいい。
それよりも、だ。
俺は手に入れた鍵で音を立てないよう黒手枷を外した。
クェンティンの置き土産はいちばん必要なものだった。
どうやら彼が看守に耳打ちして、黒枷の鍵を手に入れてしまったらしい。
領主弟が震え上がるほどの相手、ヴォラグのあっさりとした許可、これらがあって簡単にクェンティンの言うことを聞いたようだ。
俺はへらへらと笑うあのクェンティンの顔に、食わせ物の一端を見た気がした。
商人とはいくつもの顔を使い分ける人種であるのがよくわかった。
「ところでごはんっていつですか?」
「教えるかよ」
「誰が持ってきてくれるの?」
「うるっせえな! 次の交代の奴が来た時だよ」
「それっていつですか」
「だぁーもう! 半日先だっつうの!」
看守が半ギレで鉄格子を蹴飛ばした。
俺には痛くも痒くもないのでどうってことはない。
黒枷がなくなった代わりに、なぜかぴったりと俺の牢に看守が付いたのだ。
そういうことで看守から次の交代時間を聞き出したことだし、それまでにことを進めよう。
「出発まで時間がねえ。さっさと済ましちまおうぜ」
「おらぁ一日中でも突っ込んでられるのによぉ」
「あー、やべ、パンツ破っちまいそうだ」
「気がはえーな、おい」
脱出を考えていたら、不穏な声が入り口から近づいてくる。
足音の数から二、三人ではない。
どうぞ俺の牢屋の前を通り過ぎてくださいと祈ったが神は無慈悲だ。
「へへへ、きてやったぜぇ」
俺の牢屋に入ってきたのは三人。
残りの五人は俺の牢屋を通り過ぎ、奥へと向かった。
俺の牢の前に立っていた看守は、これから起こる惨状を見たくないのかどこかへ行ってしまった。
どうやら彼らは拉致した人間を性欲の捌け口にするつもりらしく、小悪党面の男たちは股間を膨らませている。
ぷっ、ニニアンの半分くらいしかないし。
「抵抗したらぶん殴るからな、ええ、おい。おとなしく咥えるんだよ、わかったか?」
「まずはおれからぶち込むからな。ケツ処女に最初に男を刻みつけるのはおれだかんな?」
「いいよ、さっさとやれよ。聞いててムカムカするぜ」
それはこっちの台詞だ。
不潔な臭さと男臭さをあたりにまき散らす男たちが無防備に近づいてくる。
俺が手枷をされてただの子どもだと思い込んだままだ。
さっきまでの俺なら舌を噛んで死にたくなったが、いまは心に余裕を持てる。
「おじさんたち、どんなふうにしてイキたい?」
「なんだおまえ、初めてじゃねえのかよ」
「おれのケツ処女を返せええええ!」
「うるせえな、おめえのじゃねえよ」
まったくもって同感である。
どうせ掘られるなら男の娘エルフがいい。
「超絶即イキコースと、悶絶アヘ顔コース」
「選ぶのはオレたちでてめえじゃねえ! だが即イキと言わせてもらおう」
「即イキだっ! 即イキだちきしょうめえええ!」
「だからうるせえっての。おらぁ悶絶アヘ顔だ。興奮するような良い顔見せろよ」
「りょおかーい」
俺は指をぱっちんと鳴らした。
別に仕草は要らないのだがこういうのは形から入った方がいいのだ。
「あれ? てめえ手枷はどこ行った? ん? んん、ぐが――っ!!」
「即イキ! 即イキ! 即イ――っっっっ!!」
男ふたりの目がぐるんと上に回り、白目を剥いた。
そのまま足をもつれさせて冷たい床に倒れ込んだ。
何も考える余裕はなく即イキして気を失っている。
そのまま泡を吹いて喉を押さえ、すぐに動かなくなった。
ちょっと風魔術を操ってふたりに大量の酸素をぶち込んだのだ。
空気中の酸素濃度を上げると人間にとって毒になるとどこかの漫画で読んだことがあったのを思い出した。
「っ! っ! あぐっ!」
もうひとりは喉を抑えて顔を真っ赤にしていた。
舌を出して必死に空気を吸おうとしているが、呼吸のボリュームを八割以上絞っているので苦しそうだ。
おかげさまで俺に悶絶アヘ顔を晒してくれている。
男のだらしない顔を見たって嬉しくないけどな。
なんとか声を出そうとしているが、目が飛び出したようになり、顔がむくれはじめる。
膝を突いて崩れるように倒れ込むと、身体を痙攣させて、やがて動かなくなった。
むごい死に方だと言わざるを得ない。
できたら二度とやりたくない。
さて、彼らのおかげで牢屋の鍵を手に入れる手間が省けた。
ぶっちゃけ火魔術で鉄格子を溶かせばいいのだが、ジェイドが近くにいる以上あまり大きな魔術は使えない。
男たちをどうするかより脱出に魔力を制限されて悩んでいたのだ。
魔力を操ることのできない人間の呼吸を止める程度ならほとんど魔力を使わない。
「さて、地下牢探索としゃれ込みますか」
「いや――――っ!」
女性の耳をつんざくような悲鳴が牢屋の奥から聞こえてきた。
「…………」
これも乗り掛かった舟、というやつだろうか。
牢屋から出てきた俺に気づき声を上げようとする看守の呼吸を絞って一瞬で窒息死させ、入り口ではなく奥の牢屋に足を向けた。
「やめ、おねがっ、や――」
「黙って脚開けや!」
「きゃん!」
肉を打つ音。
頬を叩かれたのか、女性の声は上がらなくなった。
怯えて声が出なくなったのかもしれない。
牢屋を覗き込む。
いままさに女に圧し掛かろうとする男の背中と、別の女を抑え込む男達が見えた。
抵抗が激しいのか、まだ『いたす』前だった。
「おー、やってるねー」
「こっちはもう満席だよ。奥の不細工でも抱いてろ」
俺の声に背中で答えるいままさに強姦せんとする男。
「残念、俺和姦主義なんで」
「ああん?」
振り返ろうとした男の顔面に身体強化した拳を叩きつける。
歯や顎の骨を砕く感触があったが、女を叩いて無理やり犯そうとしたクソ野郎にはお似合いの末路だ。
「暴力振るったら心も体も開いてくれないでしょ、アホ」
「ぐ、げ、ぇ……」
残念、顎の骨を砕かれてろくに喋れないようだ。
襲われそうになった女は、男好きするような体のラインをしていた。
というか修道女の格好だった。
半分ひん剥かれて痴態を露わにしている。
「まさかテオジアの修道院の? もしかしてここに……」
他にも襲われそうになっている女の子がいる。
リエラは? ファビエンヌは?
俺がきょろきょろしている間に、他の強姦野郎たちは殴られた男を呆然と見ているが、我に帰れば容赦なく斬りかかってくるだろう。
ならば先手必勝。
リエラとファビエンヌを探す前に、この場を無力化するのが先だ。
一歩の踏み込みで近づき、屈んでいる男の顔面を蹴り上げる。
まるで桃を蹴飛ばすように破壊する感触があって、気持ちの良いものではない。
だが、手加減してまた女を襲うようなことがあっては意味がない。
立ち上がろうとした他の男の顔面に後ろ回し蹴り。
武器を抜いた男には風の鉄槌をぶつけて壁に張り付けにし、石枷で両手両足を拘束する。
ついでに石の杭を足元から生み出し、喉に向かって射出した。
「危ない!」
女が叫ぶ。
最後のひとりが斬りかかってきたが、大丈夫、見落としてない。
振り下ろされた鉄の剣を、平手打ちで横に弾く。
「なにっ!」
まさか子どもに剣を防がれると思ってなかったのか、男の体が咄嗟に硬直する。
その一瞬を逃すはずもなく、腹部に思い切り拳をめり込ませた。
ごりっという音が聞こえた気がしたが、見ない聞かない知らない。
崩れ落ちて痙攣する男に無慈悲な石杭を打ち込み、完全に息の根を止める。
ここには修道女が六人囚われていたが、いずれもリエラとファビエンヌではなく、俺は肩を落とした。
「なんだはずれか……」
「ちょっと待ってよ! はずれってなに? 助けにきてくれたんじゃないの!」
勝気な声がして振り返ると、十四歳くらいの背が高く細身の少女が立ち上がっていた。
俺が傍目から見てもわかるくらいの落胆ぶりだったのが気に入らなかったのだろう。
「探し人がいなかったんでため息ついただけだよ。それじゃあ――ぐえ」
「だから行かないでよ! わたしたちこれからどうすればいいのよ!」
背中を見せた途端、フードを掴まれ首が締まった。
身体は頑丈なので痛くはないが、情けない声が出てしまった。
「そんなこと言われても、俺だってさっきまで牢屋にぶち込まれてたんだ。自分で何とかしてよ、俺より年上でしょ」
精神年齢は圧倒的に俺の方が上だが、煙に巻くためだ。
許せ。
「う……さ、さっきの探している人って誰のことよ。もしかしたら知っているかもしれないわ!」
そりゃ知っているでしょうね。
だって彼女たちはテオジアの修道院の娘たちだから。
でも探し人の今現在の場所は知らないはずだ。
しかし言わなければ許してくれそうにない雰囲気。
さっきまで男たちに慰み者にされそうになっていたというのに強気なものだ。
と思ったが、彼女の足が震えていることに気づき、俺は諦めのため息を吐き、そしてリエラとファビエンヌの名前を出した。
「あのふたり? なんで探しているの?」
「そりゃ、片方は俺の妹で、もう片方は幼馴染だから」
そう告げた途端、六人いた修道女の全員の顔が驚きに見開かれた。
「まさかこの子が?」
「本当にリエラのお兄ちゃん? この子、髪色が茶色っぽいよ」
「アルくんって言うのよね。言われてみれば目元がリエラに似てるかも」
「ファビーが『アリィみたいなすごい魔術師になりたい』って言ってたけど、これになりたいの……?」
「すごい魔術だった。でも背が小さいの」
「これが理想と現実」
彼女たちは口々に話し始め、余計に面倒臭いことになってしまった。
ところで『小さい』とか、『理想と現実』とか言ったやつ誰だ。
悲しくなるだろうが。
「残念だけど、ふたりはここにはいないわ」
背の高い少女が申し訳なさそうに項垂れる。
いや、知ってたけどね。
「わたしたちが捕まる前にふたりは連れて行かれたんだもの」
「でも安心して。わたしたちが襲われたような人攫いに、じゃないよ」
「大柄の女戦士と、ぽっちゃりした戦士という話だったよね。きっと冒険者よね」
「ある意味人攫いより恐ろしいんじゃないかな? 女戦士は目が獣っぽくて怖かったってチェルシーは言うけど、どうだろ?」
「ふたりは困っているひとを放っておけないの」
「だからいつも貧乏くじ。でも今回はアタシたちが貧乏くじを引いた」
それだけ聞いてピンときた。
ふたりの戦士の特徴に心当たりがありすぎる。
「そのふたりって、サーシャとメルデノって名乗ってた?」
「そんな感じの名前だったような気がするけど……確かではないわ」
「えー、もっと可愛い名前だったよ」
「ちょっと違ったよね」
「そもそも名乗っていたかしら?」
「確か、サリアとメーテルなの」
「ある意味人攫いのふたり」
「なんてこった……」
バチンと思わず額を叩いた。
彼女たちならドンレミ村まで送ったではないか。
そこから一体どこを動き回って、どこに妹たちを連れて行くと言うのだ。
「ありがとう。それじゃ――ぐえ」
手をしゅたっと挙げて回れ右をしたが、また背の高い少女にローブを掴まれた。
「話はこれで終わりじゃないわよ。わたしたちはどうすればいいの?」
「こんな年端もいかない子どもに聞かないでよ」
俺の肉体年齢は九歳である。
そして目の前の背の高い女の子は十四歳。
ステータスを何気なく確認した。
チェルシーというらしい。
「でもすごい魔術師なんでしょ?」
「リエラがずっと会いたがってたわ。毎日誰よりも長くお祈りしていたもの」
「ファビーだって負けてなかったと思う。きっとこの子のことが好きなんだよ!」
「将来かっこよくなりそうだよね」
「えー、そうかなあ? なんかもやしになりそう」
「身長……小さいままなの」
「くふ、小人族」
最後のひとり、不穏なことを言うな。
顔は覚えたからな。
イケメンになって再会したって可愛がってあげないんだからな。
それにしても女が三人寄れば姦しいと言うが、六人なので口を挟む暇さえない。
とりあえず囚われの彼女たちに浄化を掛ける。
中には服を破かれ、あられもない姿になっている女性がいた。
大人の女性なので、修道女たちの引率なのかもしれない。
まだ男の欲望液は掛けられていないが、襲われた気分を少しでも拭ってやるに越したことはないだろう。
「……ダメかしら?」
何がダメなのだろうか。
俺は考えた。
彼女らを置いてひとり去っていくこと。
リエラの知り合いである彼女らを見捨てたらリエラはきっと悲しむだろうな。
今まで築き上げてきたお兄ちゃん像が脆くも崩れ去るのを想像した。
『お兄ちゃん最低っ! 友だちを見殺しにしたなんてっ! お兄ちゃんが死ねばいいのにっ!』
『で、でもリエラ、話を……』
『触らないで! この人でなし! 冷血漢!』
凹んだ。
想像しただけで胃がキリキリと痛んだ。
想像の中のリエラに打ちのめされただけで、その場に蹲ってしまいたくなった。
魔術師としてそこそこ強いことを自称するこの赤魔導士アルを倒したくば、妹を懐柔することだな。
俺にとってのアキレス腱は間違いなくリエラだ。
「ちょっと大丈夫?」
「……大丈夫じゃないです」
凹んで壁にもたれかかった俺に内心を知らないチェルシーが優しく声をかけてくる。
いい子だね。
おじさんの心がわずかでも癒されるよ。
でもこれが妹だったらなあ。
「……はぁ~~~~」
「わ、何この子、ひとの顔見てため息つきやがった。失礼だね」
そういう意味じゃないんだ。
……いや、そういう意味か。
それでも肩を貸してくれる自分より背の高いチェルシーから、優しく甘い匂いがしたのを鼻は敏感に嗅ぎ取っていた。
それに、チェルシーの体が震えていることにも気づいてしまったから。
服は男たちに無理やり脱がされかけて肩のところが破けていた。
怖い思いをした彼女が俺を頼ってくるなら、受け止めてやらねば男の甲斐性がない。
また遠回りをすることになるが、いまさらな感もある。
気合を入れると、肩を貸してくれた彼女の手をぎゅっと握った。
驚いた顔をされたが、ふにゃっと笑って手を握り返してきた。
「リエラよりちっちゃい手」
チェルシーにしみじみ言われた。
「うっさい」
しかしリエラは、今の俺より背丈があるのか。
なんとなく妹の成長を知るのは嬉しさがあった。
○○○○○○○○○○○○
治癒を施し終わり、患者の顔色が良くなっているのを見ると、リエラはふうと息を吐いた。
国境に近いシドレー村の手前にある、わずか五十人足らずの村である。
北に近いためか、春なのに気候はまだ肌寒い。
この村にも名前はあるのだろうが、誰も口にしないのでリエラが知ることはなかった。
聞いたとしても、どこも似たり寄ったりの名前で憶えられる気がしない。
「リエラ、お疲れー」
手団扇で自分を仰ぐファビエンヌは、横で両手両足をだらしなく伸ばしてへばっていた。
村人の半数に治癒魔術を使ったところで音を上げて、リエラに代わった。
以前よりかは魔力量が増えて、ファビエンヌが治癒できる人間が多くなった気がする。
宿の外の寒さなど関係なく、魔力切れで体の熱が抜けないために顔が上気している。
少し色っぽいなとリエラは思った。
ファビエンヌはもとより美人だから、なおさらだった。
最後のひとりが頭を下げながら部屋を出ていくと、入れ違いにサリアが入ってきた。
「おう、すまねえな。まさか村人全員まで治してもらうことになるとは思わなくてよ」
カカカと豪快に笑うが、ファビエンヌは恨みがましい目をサリアに向けている。
「冗談じゃないわ。わたしたちだけ連れてきて何なのよ。順番に村を回るつもりだったんだから他の子たちを置いてきぼりにしなくたってよかったじゃない」
「そこは済まねえと思ってるさ。ただ病は待ってくれないからよう」
「あなたが命の危険があるって言った患者、初期症状しか出てなかったじゃない!」
「アタシは医者じゃねえしなあ。詳しいことまではわからんわ。カカカ!」
「なにこいつ、ほんとに腹立つわ!」
豪放磊落なサリアと神経質っぽいファビエンヌは水と油である。
「キー!」と悶え、足をばたつかせるファビエンヌ。
修道服の袖からすらりと綺麗な白い足が剥き出しになり、その奥の付け根が見えてしまっていた。
リエラはだらしないなと思った。
「で、この村のお仕事は終わったんだから、早く仲間と合流したいんだけど」
「それなんだがな、これから行くシドレー村が山賊に襲われて、抵抗した村人はほとんど殺されたらしい。抵抗しなかったやつは奴隷として捕まってる」
リエラとファビエンヌは弾かれたように顔を上げた。
話の内容が過激すぎて思考が止まってしまい、リエラは呆然となった。
ファビエンヌの方が立ち直りは早く、勢いよく身を起こして巨躯の女戦士ににじり寄った。
「あんたねえ! ふざけていいところと悪いところがあるんだから! ふざけてるのは顔だけにしなさいよ!」
「嘘を言ってるように聞こえたか? そりゃすまないねえ。アタシは真面目が性に合わなくてな。苦手な嘘をついてまでおまえらを笑かす気なんかこれっぽっちもねえんだ。あと、顔は余計だコラ」
サリアは欠伸を漏らしつつ頭をガシガシと掻いた。
どう好意的に解釈してもふざけているようにしか見えないが、短い付き合いながら大雑把な彼女にしてはまともな態度だと思った。
本当に冗談を言うなら、もっと目が爛々として、嬉々と光っているはずだ。
「うちの子たちは、シドレー村を目指してるはずなのよ? それわかってる?」
「わかってるよ。いまうちの連中を使って探してっから」
「うちの連中って、あんたにどれだけの仲間がいるのよ」
「ここの村が拠点だからな。同志ってやつがだいたい五十くらいだ」
「村人全部じゃない!」
ファビエンヌが吼えた。
サリアが何を言っているのかよくわからない。
リエラは何が本当で嘘なのか、ちょっと混乱してきた。
「まあでも、シドレー村で領主軍と山賊連中がぶつかるだろうから、うまくすりゃ巻き込まれずに済むな」
「なんであんたがそんなことを知ってるのよ」
「だって両軍をぶつけるように仕組んだのがうちらだし」
「ちょっとサリア、それ以上は口を閉じてくれないかしら。一応最重要機密事項なんだけど」
部屋の戸にいつの間にかメーテルが立っていた。
ふわふわと柔らかそうな女性で、武装しながらも毛皮の耳当てがお洒落だ。
サリアは「んを? わりぃ」と言いつつ、悪びれない様子で鼻をほじっている。
「あなたたちには本当に迷惑をかけたわ。同志の病を癒してくれてありがとう。ドンレミ村まで送るから、そこで他の修道女方を待ちましょう?」
「誰がおくんの?」
「私が連れて行くわ。サリアはアスヌの護衛があるし」
「よかった。アタシ、これでも子どもは好きな方だけど、うるさいガキだけは嫌いなんだ」
サリアが心持ちファビエンヌの方をチラ見した。
視線を受けて、ファビエンヌが「やんのかこの!」と腕まくりをしている。
リエラはファビエンヌを宥める側に回り、背中から抱き付いて抑え込まねばならなかった。
今日は部屋に戻ってお休みなさいとメーテルに言われ、大人しく与えられた宿に入った。
気づけば夕暮れで、陽の落ちた肌寒い中を寄り添って歩いた。
辺鄙な村だと言うのに、そこそこの規模の宿がある。
一階は食事処になっていて、夜には酒も出しているのか、カウンターの向こうには酒瓶が並んでいた。
二階が宿になっており、部屋も五部屋以上、十人は一度に泊まることができそうだった。
いったいこの村に十人単位で泊まる理由があるのだろうか?
近くに迷宮があるならわからなくもない。
しかしそれなら、もっと冒険者が目立っていてもおかしくはない。
目についた冒険者らしき風貌は、サリアとメーテルくらいだった。
最初はサリアに連れて行かれてどうなるかと目を回したものだが、案外に客人対応でファビエンヌもそれに関しては不満はないようだった。
食事は向こうから運んでくれるし、朝晩になると火傷しない熱さのお湯を桶にいっぱいに張って部屋まで届けてくれる。
むしろ修道院の生活よりも豪華なことには、お互い思っても口にしないようにしていた。
これからあの生活に戻らなければならない以上、ここは夢の国とでも思っていなければやっていられない。
「着替えを置いてきたのが不満ちゃ不満よね」
「でももっとちゃんとした服ももらってるし」
「そこが納得いかないのよ。ここ、五十人くらいの村でしょ? なんで誰も畑を耕してないのよ。いい服があるのもそう。意味がわからないわ」
修道服は自分たちで洗濯した。
その間に着る服は、向こうが用意してくれた。
ちゃんと背丈にあったものを与えてくれたが、それがファビエンヌには引っ掛かるようだ。
確かに、貴婦人ほどではないが、良質な生地はまるで平民が着れるようなものではないとリエラでもわかった。
二枚重ねのチュニック。
足の甲まで隠してしまうたっぷりと裾を取ったロングスカート。
革製の足に合った作りの靴まで用意されていたのだ。
しかしそこは年頃の女の子。
リエラもまた、着飾りたいという欲求がないわけではない。
先に着替え終えたファビエンヌがくるっと回ってみる。
スカートがふんわりと浮き上がり、白い足首が覗いた。
ベルトでタイトに腰を締めているからか、躍動する溌剌さの中に大人びた色香も漂っている。
「ファビー、きれいだねー」
「そう? これでも努力は積み重ねてますから」
満更でもなさそうに髪を掻き揚げて見せるファビエンヌ。
確かに女性らしさを常に意識しているからか、十一歳という幼さをあまり感じない。
体つきも日々成長し、胸や尻が膨らみ始めていた。
自分より遥かに先を歩いている、頼り甲斐のある姉であった。
一方でリエラはと言うと、自分の胸元を見下ろしても、まだ目を瞠るような芳しい変化は生じていない。
「…………」
まだ九歳である、と自分を納得させるのだった。
着替えてからベッドに横になっていると、ファビエンヌが傍に腰掛けてリエラの髪を梳いた。
リエラが見上げると、柔らかく笑い返してきた。
「すぐに大きくなるわよ、リエラだって」
「あぅー……」
リエラは顔を髪と同じ真っ赤にして毛布を被った。
何が恥ずかしいって、自分の成長を確認するために胸元を見下ろしていたことをファビエンヌに見抜かれていたことだ。
「さ、陽が落ちるまでちょっと勉強して寝ましょ。明日にはみんなのもとに戻れるから」
勉学の方でもファビエンヌは優秀だった。
夜遅くまで本を読み込むこともあるからか、最近になって視力が落ちてきたことを悩みの種としているくらいだ。
ファビエンヌが勉強するのは、もっぱら算術や言語、魔術書などであった。
歯が浮くようなロマンス小説や、伝記、空想物語などにはあまり興味を示さなかった。
唯一シスター・アガサが執筆した焚書扱いにされそうな直接的な表現が多彩に散りばめられた妄想小説には食いついた。
それを思い出すと、リエラはくふふと笑ってしまった。
「どーしたの? 何がおかしいのよ」
「えーと、なんでもない」
「なによ、気になるじゃないのよ。教えなさいよー」
「なんでもないってばー」
ファビエンヌが覆い被さってきた。
リエラは身を捩って逃げようとするが、ファビエンヌに圧し掛かられる方が一歩速かった。
逃げることもできず、脇をくすぐられてケタケタと笑わされる羽目になった。
じゃれるのに疲れると、ふたりは並んでベッドに潜った。
一部屋にふたつベッドが用意されていたが、お互いのベッドで他愛ない話をして眠り、気づけば朝になっていたなんてことは、修道院では日常だった。
同室のチェルシーにはにやにやと怪しまれたが、姉妹のように仲が良いだけだった。
ふたりを守るファビエンヌの父エドガールや、エルフのニシェル=ニシェス、そしてリエラの兄のアルを好きだと言う共通点が、さらに仲を深めている。
ふたりはそのまま眠りにつき、翌朝になると昨日の言葉通りメーテルが訪ねてきた。
「なんでアタシも行かなきゃなんねーのかな」
そう言って不貞腐れたように頭の後ろで腕を組むサリアも一緒だった。
ファビエンヌの眉間に「ムム……」と皺が寄ったが、まあまあと宥めて落ち着かせる。
「この四人で馬車を一台借りることができたから、みんな乗って」
「うーい」
「はーい」
「お願いします」
メーテルが馭者台に座り込み、幌のない馬車の荷台に三人が同乗した。
他にも木箱や布のかかった器具類が積まれ、荷台を狭くしている。
「あーせまいせまい。どっかの筋肉女が幅取ってるせいだわ」
「なんか痒いなあ。きっとノミ女が這い回ってるせいだ」
「あーんっ!?」
「んだコラ!!」
「まあまあ」
「サリア、大人げないわよ」
顔を合わせれば悪口の応酬をするサリアとファビエンヌ。
道中はふたりの仲の悪さが際立った。
リエラは馭者台から振り返るメーテルと見交わして苦笑した。
村を囲っていた森を抜けると草原に出た。
広々として風が吹くと緑が波打っている。
わずかに起伏があって、丘を越えるとまた森が見えてくる。
その森を抜けたところにふたつの道が見えてきた。
「この先の分岐を北に向かえばシドレー村なんだけど、ごめんなさいね。あなたたちを南のドンレミ村まで送るわ」
「あたしは大丈夫です。だけどみんなが大丈夫かそれだけが心配です」
「一応方々にいる仲間と連絡を取り合ってたんだけど、修道女の一行がどこにいるのか行方が掴めてなくてね」
「でもみんな強いから、案外なんとかやってると思います」
「そうなのね」
リエラはメーテルと会話に花を咲かせていた。
こちらを気遣ってくれるのは雰囲気でわかったし、おっとりとした話し方は性に合っている。
「じゃあ次はわたしの番。リンゴが十三個ありました。四人で均等に分ける必要があります。さてどうしたら四人で十三個のリンゴを均等に分けられるでしょう」
「あ? そんなもんリーダーが一個多く取って五個。あとはおまえらで分けろ、でいいじゃねえか」
「ぷー、笑っちゃう! ぶっぶー、教養ないとそんな馬鹿発言しかできないわけ? 均等に分ける問題なんだからちゃんと考えなさいよ脳筋。ちなみにリーダーがひとつ多く取るにしても四個にしときなさいよバカ。図々しいのよバカ」
「うっせーな! 知らねーよ、計算なんて。リンゴがあったら奪い合いだろうが」
「野蛮人め。いい? 四人で分ければひとり三個で、一個余るの。これを四等分すれば、ひとり三個と四分の一個で分けられるでしょ? ふふん、こんな単純なこともわからないなんてね」
「くぅ! じゃあ次はアタシだぞ! ソリドペッカルスは角のない頭突きが得意なイノシシ系の魔物だが、こいつを簡単に仕留めるには弱点を突く必要がある。それはどこか? さあわかるか? 温室育ちにわかるかってんだい」
「箱入りじゃないわよ……わたしだって旅してきたんだから……くぅ……足じゃないの?」
「ざぁんねぇんでしたぁ! 正解は耳から顎にかけての首でしたぁ! 頭突きが強い分、前足も強靭で、さらに顔の前面は剣が通らないほど頑強だが、横は柔らかく剣があっさり刺さるんですぅ! 頭のお堅いお嬢ちゃんだことぉ。ギャハハ」
「きー! くやしい! うっさい!」
一方で、仲が良いのか悪いのか、白熱した問答がさっきから飽きもせず続いている。
サリアは言わずもがな、ファビエンヌもどちらかと言えば裏表がないので、だからこその喧嘩腰での言葉の応酬だった。
たぶん、何かのきっかけで肩を組んで笑い合う関係になるだろうな、とリエラは思うが、本人たちに言ったらこじらせるだけだろう。
分岐道である。
馭者台に座るメーテルと前方を見つめていたリエラは、シドレー村方面から林伝いにやってくる馬車に気づいた。
馬に鞭をくれて、あらんかぎりに走らせている。
荒事に慣れていないリエラですら、一目で剣呑な空気を察した。
馭者台にはフードをすっぽり被っている、線の細い女性。
幌馬車の屋根の上には女の子が中腰で、後ろに向かって弓を引いている。
馬車に並走するように少女が馬に跨っている……いや、よく見れば少女の下半身は馬体であった。
リエラはその姿にも目を丸くした。
馬車は砂煙を上げている。
後ろから男の怒声と馬蹄の音が轟いて、馬車にいまにも追いつこうとしていた。
「なにかしらね?」
「なんでしょう……」
「遊んでいるようには見えないわね」
「どう見ても追われてます!」
メーテルののほほんとした空気はこんなときにも顕在だった。
見えるだけでも六騎が馬車を追い、その手には鈍く光る剣が握られている。
追いつかれたら危ない!
リエラは血の気が引くのを感じた。
「ちょっとサリア。欲求不満の解消にちょっと運動をして来たらどう?」
「あん?」
のそりと後ろから這い上がってきたサリアが、リエラに覆い被さるように馬車から身を乗り出した。
革鎧にも熱を持っていて、しかもちょっとつんとする汗臭さ。
サリアの重さも合わさってリエラは「んぎぇ!」と、蛙が潰れたような声を上げた。
「ちょっとリエラに乗っかるな! デカブツ!」
「ああーん?」
ファビエンヌがセリアの背中をばしばしと殴っているが、そよ風のように無視している。
「へー、なんか面白そうなことやってんじゃん」
ファビエンヌをあっさりと転がし、下敷きにしたリエラを片手で引っ張り出してから、サリアは愛用の大剣を手に馬車から飛び降りた。
「じゃ、ひとつ暴れに……助けに行こうか!」
「こいつ言い直したよ、ただの野蛮人だよ!」
「ファビー、こいつって言うの良くないよ……」
サリアが姿勢を低くして駆け出した。
その姿は全身から熱気を滾らせた貪欲な獣そのものだった。
分岐道で通り過ぎる馬車を見送ると、追撃する騎馬六騎の前に立ち塞がった。
「なんだてめえ! 邪魔するなら首を刎ねっぞ!」
「いや、冒険者の女だ! 腕を二本落としてからひん剥いて慰み者にしてやるぜ!」
「ひゃっひゃ!」
先頭を駆けていた二騎が両側からサリアに剣を振り下ろす。
鞘から抜いた長剣を腰だめに構えていたサリアは、すれ違いざま風を振るった。
駆け抜けた二騎は何が起こったかわからなかっただろう。
振り向こうとした男の上半身が下半身と離れ、地面に落ちた。
リエラは思わず「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げて目を塞いだ。
隣でファビエンヌが「げー」と嫌そうな声を上げている。
恐る恐るリエラは覆いを外すと、サリアの剣技は留まらず、上段から振り下ろして一騎を馬ごと頭から断ち割ったところだった。
吹き上げる血の噴水に、今度こそリエラは目をぎゅっと閉じた。
「強いのはなんとなくわかってたけど、あれじゃあ狂戦士ね」
「うー、気分悪いよー」
「よしよし、リエラは見なくてもいいよ。あ、矢で一騎落馬した。幌馬車の屋根の女の子ね。あのデカブツが逃げようとする残りの悪党を追いかけてるからもう平気よ。あはは、デカブツを追い越して馬の女の子が残りの二騎を串刺しにして仕留めちゃった。すごいわね、飼い慣らされてるのかしら。二刀使いのケンタウロスよ」
目を閉じていてもファビエンヌが実況してくれる。
正直教えてくれなくてもいいのに。
リエラが青い顔をして目を開ける頃には、すべてが片付いていた。
リエラは青い顔をしてファビエンヌに背中をさすってもらっていた。
人死には慣れないリエラである。
ファビエンヌは幼い頃から巡回神官の父に連れられて旅をした経験があるからか、割と平気そうだ。
「おぉい! ひとりで片付けさせるなよ! 誰か手伝え!」
サリアが声を上げた。
倒した男たちの死体をひとつにまとめている。
リエラは立ち上がろうとして、ファビエンヌに肩を押さえられた。
「いいから、リエラはここで休んでて。わたしが行ってくるから」
「でも……」
「そんな真っ青な顔であんな汚物見たらゲロが噴水のように止まらなくなるわよ」
「ファビー、汚いよぉ……」
ファビエンヌは冗談ぽく笑うと、ひらひらと手を振って馬車を降りた。
追われていた馬車は道の脇の草地に馬を停めていたので、メーテルも道を外れて横に着けている。
「大丈夫?」と声をかけてくるメーテルに、軽く頷くことしかできない。
もし馬車を走らせていたら、乗り物酔いと合わさってもっと気分が悪くなっていただろう。
随分前から幌馬車の屋根に乗っていた少女が、おもむろに立ち上がりぴょんと軽やかにこちらの馬車に飛び乗ってきた。
ガタッと大きく揺れたので、メーテルが「なにかしら?」と振り返る。
少女に続いて、下半身が馬の少女も馬車に乗ろうと蹄を乗せたので、馬車が大きく揺れた。
飛び乗ってきた十歳にも満たないような幼い少女は、なぜかリエラのことをじっと見つめてくる。
それから顔を突き出すように目を閉じ、フンフンと鼻を鳴らした。
リエラは近すぎる顔から逃げるように下がるが、下がった分だけ距離を詰めてくるので困ってしまった。
「あら? もしかして……」
「こ、この子をご存じなんですか?」
「ええ、少しね。でも悪い子じゃないわ」
メーテルが朗らかに笑い、馭者席から降りて、向こうの馬車に行ってしまった。
できれば助けてほしかったのだが。
少女はしきりにリエラの匂いを嗅いでおり、その行為になんだかリエラは恥ずかしくなって顔を赤らめた。
フンフンしていた少女は、何かに得心がいったのか、ビッとリエラを指差す。
「アルと似た匂いする!」
リエラは目を丸くした。
「アルっぽい匂い。んー? にゃんでー?」
「アル? アルってまさか……お兄ちゃんのこと?」
「んにゃ?」
「お兄ちゃんどこにいるの? お兄ちゃん?」
キョロキョロするリエラだが、少女は残念そうに首を振る。
「アルはいにゃいの。えっとねー、ニーニャンもいにゃくてねー、にゃんかお仕事してるのー」
「……はぅ、そうですか……」
「そうですかじゃないわよリエラ。アリィを知ってるなら聞けることは全部聞かなきゃ!」
萎れたリエラに代わり、ファビエンヌが少女の前にずいと出る。
どうやら片付けは終わったようで、腕まくりした袖を伸ばして戻している。
後からやってきたサリアが、少女の顔を見るなりニカリと笑った。
「あのときのチビ助じゃん」
「サーシャ!」
「相変わらず弓の腕は上がってないな。あんだけ撃っててヘロヘロのが一本当たるだけなんだからよ」
「弓難しいにゃ~」
「なんならヒマなときに教えてやんよ」
「ほんと? やたー!」
「そういやおまえあの小生意気な魔術師と一緒にいたんじゃないのかよ」
「いまはいにゃいー。妹探すって言ってた」
「おまえらも面倒に首突っ込んでまーよくやるぜ」
話が終わった途端、気づいたらドーンと押し倒されていた。
「リエラ!?」
ファビエンヌが上ずった声を上げるが危険はなさそうだ。
自分と同じくらいの少女はしきりに匂いを嗅いでくる。
鼻を胸元に押し付けてくるので、なんだかムズムズする。
「あなた誰よ。アリィのこと知ってるの?」
「んにゃ?」
ファビエンヌに問い質されて、少女はパッと顔を上げた。
くすぐったさがなくなってリエラは安堵した。
フード越しに頭を撫でると、手に当たる感触に首を傾げた。
「な・ま・え! あなたの名前はなんて言うのかしら!」
「ミィニャ! こっちはマルケッタ! 友だち!」
「やー」
さっきから馬車に乗ろうとして失敗を繰り返す半人半馬の女の子が、元気よく手を挙げる。
「猫っぽい子に魔物の女の子とか、アリィの趣味が透けて見えるじゃないの……」
ファビエンヌは愕然として、ちょっぴり声が震えていた。
彼女がいま何を考えているのか、リエラは手に取るようにわかる。
そのとき頭をぐりぐり押し付けていたミィニャのフードから、ぽろりと猫耳が露わになった。
ファビエンヌはくわっと目を見開いた。
「獣人! やっぱりアリィの趣味よ!」
「獣人さんだったんだ……」
フードの上から手に当たる感触は猫耳だったようだ。
しっとりした黒目に小首を傾げる仕草は、確かに兄の好きそうな守ってあげたい女の子のオーラ出していた。
獣人に対する偏見はないが、兄の性癖には少々困ってしまう。
「どうせわたしのような普通の子どもは相手にもしてもらえないんだ! わたしが獣人じゃないから」
「そ、そんなことないと思うよ? ファビーは十分可愛いもん」
「そんな同情はいらーん!」
急にメソメソし出したファビエンヌに、リエラはおろおろする。
「ねーねー、おまえ誰にゃの? アルと同じ匂いする」
「あたしはリエラ。アルはあたしのお兄ちゃんだよ」
「お兄ちゃん? …………」
ミィニャと名乗った少女は目を丸くして瞬かせていたが、何かに気づいたようにはっとなった。
そしてずいずいとリエラの腕を引っ張り出した。
「なになに?」と慌てふためくリエラだ。
「アルが探してた! 妹が近くにいるって言ってた! 本当にいた!」
「お兄ちゃんが……あたしを探してる?」
「連れてく! アルが喜ぶ!」
ずいずいと引っ張られる。
リエラの心臓がどくんと高鳴った。
兄の顔を思い浮かべるだけで、顔が熱くなって心臓がやたらうるさくなる。
「ちょっと待ちなさい」
「んにゃ?」
声はすぐそばから聞こえてきた。
彼女たちを乗せてやってきたフードを被って顔を半分隠した女性が声を上げたのだ。
「いまから戻るわけには参りません。テオジアまで向かって、そこであなたの大事な人を待ちましょう」
「でもでも、妹がいたよ? アルが喜ぶよ?」
「物事には順序というものがあります。あの場所にいまから向かうなんて絶対に許しません。あの子ほどの腕があっても私は危険と判断しました。これ以上、余計な犠牲を増やしてはいけません」
「お兄ちゃん、いまどこにいるの?」
「……シドレー村です」
「あたし行かなきゃ!」
今度はミィニャを引っ張るようにリエラがずんずんと前を進んだ。
ファビエンヌが慌てて追いかけてきて、リエラを羽交い絞めにする。
「待って待って、リエラ! あそこはいま危険だってあのサリア(バカ)だって言ってたでしょ!」
「でもでも、お兄ちゃんが! お兄ちゃんが!」「バカってなんだ!」
「あの変態魔術師が簡単にくたばるわけないでしょうが! そんなのリエラがいちばんよく知ってるでしょ!」
「……そうだけどお……」「アタシはバカじゃなかっただろうが!」
ぽろぽろと涙が零れだした。
いままでどこにいるかもわからない不安があったが、目と鼻の先に兄が現れたのだ。
溢れ出す感情が大きすぎて、自分でも平静を保てなくなっていると思う。
もどかしさで体がどうにかなってしまいそうだ。
「だいじょうぶ?」
涙を流すリエラを見て、ミィニャがぽんぽんと肩を叩いてくれたが、もどかしさは消えてはくれない。
大人の女性三人がなんとなく顔を合わせていた。
ひとりは火を熾し、ひとりは食材を調理し、ひとりは馬車に背を預けてぼんやりと青空を見上げている。
「どこかで見たことのある顔だと思いましたが、やはりサーシャとメルデノだったのですね」
「どおりで嗅いだことのある臭いがすると思ったぜ。なんだっけ、名前」
「ニキータさんよ。ごめんなさいね。いまはサリアとメーテルと名乗っているの」
「おう、そうだった。忘れてたわ。ガハハ」
「あなたはそういう人です。別に怒ったりはしません」
クォータエルフのニキータ、半ドワーフのメルデノ、獅子系獣人のサーシャは、懐かしむ様子もなく淡々と言葉を交わしている。
「あれから十二年ぶりね。あなたはいまでもあの優しい商人の下で尽くしているのかしら?」
「わたしはいまの主人に満足しています。生涯奉仕を続けていくつもりです」
「かー、忠義の鑑だねえ。十二年前のあのときアタシらたまたま奴隷の館に集められただけの縁だけどよ、それでもこうして無事で顔を合わせると懐かしく思っちまうもんだぜ」
「そういうあなたはわたしの名前、忘れてましたけどね」
実は根に持つニキータだ。
「ところでふたりはいま何を? 修道女のふたりを連れて行先は同じようですが」
「ちょっとしたお祭りさ。それに裏方として参加してるんだ」
「詳しくは話せないの。でもニキータさん、私たちの思いはあの頃から何ひとつ変わっていませんよ」
「……そう、ですか。それを聞いて安心したような、心苦しいような気持ちです。あなたがたと一緒に歩む道もあったのでしょうから」
「いいんじゃねえか? 今の自分に満足ならよぉ。アタシにメイドは似合わねえ。メルデノなら卒なくこなしそうだが、腹黒いからどうせボロが出ちまう。おめーみたいな嘘がつけない真面目女にちょうどいい仕事じゃねーか」
「サーシャの口が汚いのは相変わらずですね」
「それは私も思っていたのだけど、生まれつきだから諦めてるわ」
「んだと?」
三人の間に緊張感はなかった。
奴隷の館でお仕着せを着せられて客の前で愛想を振り撒くよう強要された十二年前から、思ってもみなかった今があっただけの話である。
三人が三人とも、奴隷の頃に比べて、いまの生き方に満足がいっているのだ。
ここにはいないふたり。
奴隷の館で同じように陳列させられた残りふたりの同輩はいま、どこで何をしているだろうか。
「あのトカゲと小鬼は故郷に帰って楽しく殺し合ってんじゃねえの?」
「ふふ、案外そのとおりかもしれませんね」
「……一理ありそうです」
竜人族と鬼人族。
ここから遥か南の大陸に住むふたつの種族は、隣人であるにも関わらず千年以上の殺し合いを続けている。
いまやかの大陸は荒廃して、ろくに生き物が住めなくなったという噂もある。
戦闘力だけで見れば、サーシャやメルデノ、ニキータではまったく敵わないほどの強さ。
それが竜人族と鬼人族だった。
それをどのようにして奴隷にしたのか謎だった。
しかし経緯はどうであれ集められた五人には、十二年前、共通した思い出がある。
「あの商人は一緒ではないの?」
「ああ、それアタシも気になった。奉仕してるんなら一緒じゃなきゃおかしいだろ」
「それが……わたしたちを逃がすため、主が身を挺して人攫いに捕まりました」
「それはただ事ではないですね」
「ああん? なんで主が捕まるんだ。普通従者が身を張るところだろ」
「そんなこと……わかっております。ですが自分が犠牲になることを選ぶのがご主人様ですから」
屈辱なのか、ニキータは唇を噛んだ。
つっと、血が伝ったが拭おうともしない。
「……まあ、あの方ならそうでしょうね。小さい頃から真っ直ぐなところがありましたし」
「変わってないのは嬉しいことだが、追い返せないようじゃ意味がねえな」
サーシャとメルデノの飴と鞭の応酬に、ニキータは俯いてしまう。
「ならさっさと助けねえとな」
「そうです。お腹いっぱいにしてから道を急ぎましょう」
ニキータが顔を上げると、ふたりは優しい顔で笑っていた。
十二年前と変わらない面倒見の良さがそこにあって、鉄面皮と言われたニキータの瞳が少し潤んでいた。
「ちなみにさ、猫さん? わたしのことはアリィ何か言ってなかった? ほら、リエラとファビエンヌを探してる、とか言ってたりしたでしょ? ずっとリエラと一緒にいるんだもん。わたしのことだって探してたに決まってるわよね? だって幼馴染だもん、わたしのことも心配になって当然でしょ」
「探してにゃいよ?」
「うそだ――――っ!!!」
頭を抱えて青空を仰ぎ、「くそー!」と嘆くファビエンヌ。
本当はファビエンヌのことも気にかけているアルだが、猫ちゃんに面と向かって言ったことがなかったために、巡り巡って本人を落胆させる結果になったのだが、誰も知る由はない。
○○○○○○○○○○○○
「はっはっ……はっはっ……!」
必死の形相で、夜の森を男は走った。
裸足に丸腰、おおよそ夜の森を行くのに相応しくない格好だが、彼が人攫いの拠点から脱出してきたと考えれば納得がいく身なりであった。
後ろを恐れるように振り返っては、息を切らしてひた走る。
その顔は絶望と不安とで青ざめている。
彼の前に、突然狼の魔物が現れた。
数は四。
八つ目を爛々と光らせ、男が間合いに入る瞬間を狙い澄ましていた。
得物を持たない丸腰の男には絶体絶命に思われた。
しかし前門の狼より、後門の“何か”のほうがよほど恐ろしいのか、男は狼の群れを見ても表情を変えない。
むしろ目を鋭くして、姿勢を低く、貫手の構えをとって狼とすれ違った。
悲鳴をあげたのは狼の方であった。
喉を抉られた狼が二匹、首を振り回してのたうち回ると、残りの二匹が恐れるように身構える。
男は怯んだ狼を二度と目に映すことなく、足元の悪い森を全速力で駆け抜けた。
そしてついに、男は森を抜け、轍に踏み固められた街道に出た。
一瞬の気の緩みか、男の口元にわずかばかりの笑みが浮かぶ。
「何がそんなに嬉しいのか知らんが、ここから先には一切進めないんだぜ?」
男は左の耳元で聞こえた声に、身体を硬直させることなく、貫手で応じた。
しかし槍のような腕は空を切り、声は右の耳元でさらに囁かれ続ける。
「脱走は死だ。従順でない奴隷はいらねえ。女でもなければ殺しちまう」
右背後に突き刺した貫手は、またも感触を得られない。
踏ん張りが悪かったのか、体が一回転して地面に転がった。
慌てて立とうとするが、なぜか立ち上がれない。
「気づかねえのか? お前の足はもうないぜ?」
声の主がすうっと音もなく目の前に姿を現した。
どこにも隠れようのない巨漢だった。
しかし存在感が、恐ろしく薄い。
この巨漢こそ、男が恐れた“何か”そのものに他ならない。
姿を現した巨漢は、手に太い棒のようなものを持っていた。
関節があるのか、揺らすと真ん中と先端の細くなったところがカクカクと折れる。
男は目を見開く。
目を疑ったが、それは間違いなく自分の足だった。
そして地面に、もうひとつ自分の足が千切れ飛んでいることにも気づいた。
訳が分からず、そして突然襲う激痛に男は悲鳴をあげた。
「オレが最後までどこにいるのか気づかなかっただろう? おまえのすぐ横にぴったりと張り付いていたんだぜ。おまえの気の緩む瞬間を楽しみに待ちながらよう」
「あ……あぁ……俺の、足、返せ……!」
「おいおい、それでもこの国の上級兵長様のお言葉かよ? もっと驚いてくれよ。種明かししたのに面白くねえだろ、ガハハ」
「おれ……おれの……あしぃ……」
「次生まれ変わったら、もっと楽しい鬼ごっこをしようぜぇ。じゃあ止めだ」
男が最期に見たのは、頭に振り下ろされる巨斧の刃先だった。
男が骸になった後、ヴォラグの周囲に部下が十人集まってきた。
「今日もお頭が仕留めちまって、おれたちゃなんも楽しくねぇですわ」
「あたりめえだ、この処刑はオレの趣味だからなぁ」
「お頭、おれ、撃たずに我慢した」
「ガハハ、ボッカス、それでいい。てめえの弓の腕はオレァ何よりも頼りにしてるんだ」
「お、おれ、お頭の望むこと、やる」
「それでいい、ガハハ! おい、転がった足もちゃんと拾っとけよ!」
「お、オレ、持つ……」
残りの部下が死体を引きずり、全員森へと溶け込んで行った。
狩りはもう何度も行われ、森は人の血をその度に吸っている……。
後半パートが思いのほか長くなりすぎました。
アルとクェンティンの掛け合いは書いてて楽しいです。
女の子だけの話も書いてて楽しいです。
だから本筋がどんどんないがしろに……。
サーシャ・メルデノ・ニキータの大人三人の過去話はいつかアップしようと思ってちみちみ進めている外伝です。




