第73話 マルケッタとニキータ
今回も時系列が前後していますが、仕様です。
誰かの背を追っている。
小さな背中だった。
走っているのに追いつけない。
手を伸ばすのにするりと逃げていく。
すぐそばにいるのだ。
触れられそうなくらい近くて、熱も吐息も感じられるというのに、決して手が届くことはない。
ふと、小さな背中は立ち止まった。
俺も足を止める。
背中がゆっくりと振り返った。
赤い髪の女の子。
表情が白く塗りつぶされたように見えず、どんな顔をしているのか俺にはわからなかった。
だが不思議と、少女の心の波が押し寄せてくるのはわかった。
ひどく悲しんでいる。
今にも泣くんじゃないかと思った。
しかし顔は見えないし、触れられない。
どうすればいいんだよ……。
“いまはそのときではない。いまはまだ、再会することはない”
頭に直接響いた声。
「嫌だ! いますぐ会わせろ! 俺の妹だぞ!」
俺は叫んだ。
見えない何かが嗤った。
『誰が俺の妹だって? 笑わせるなよ、それはぼくの妹だ』
その声は背後から聞こえた。
弾かれるように振り返る。
目の前にいたのは赤い髪の少年。
背丈は俺と変わらない。
俺のように赤茶ではない、燃えるような赤毛だ。
先ほどの少女と同様、顔は白く塗りつぶされている。
『おまえはいつだって誰かの持ち物を奪って生きてきた。横で寝ている奴隷の獣人も、元は他人の持ち物だった。でもそれでいい。獣のように生きればいいさ。女を奪い、自分のものにして、自分の領土を作るんだ。それでこそ姑息なおまえにはお似合いだよ』
声が頭に響いてきた。
背中に冷たいものを流し込まれたように気味が悪い。
心臓がやたらうるさく鳴り響いている。
『そんなおまえでもちゃんとわかっているはずだ。最初に奪ったものを、いつか持ち主に返さなくちゃならないって』
目の前にいる少年が誰か、頭ではわかっていた。
しかし認めたくないという思いも同時に存在している。
赤毛の少年の心の波が押し寄せてくる。ひどく楽しそうに俺を眺めている。
『――で、その日はいつだ?』
俺はパッと目が覚めた。
見慣れない家の梁が目に映った。
心臓がバクバクとうるさく、汗を大量に掻いている。核心を突かれて狼狽えている自分がいる。手のひらを見ると、ぐっしょりと汗をかいていた。そのくせ冷え切ったように寒い。
外からうっすらと日が差してきていたので、早朝なのだと分かる。
横を見ると、豊満な胸の山が見えた。
触ったら柔らかそうな膨らみ。
すーすーと優しく寝息を立てているノシオの母、ベルタだった。
目元にうっすらと皺があるが、十分すぎるほど綺麗な顔立ちをしている。彼女を跨いだ向こうに猫耳が見え、丸まって寝ていた。
彼女らを起こさないようにするりと寝室を抜けて、外に出た。
夢で見たものが何か、深く考えることはやめた。
それは自己嫌悪に襲われる類のものだった。
だがそれは、いつか向き合わなければならない事実だ。
なんでこんなときに、と思う。
そんなことは言ったところで仕方がなかった。
朝食を四人で囲って済ました後、俺はすぐに旅立つことを告げた。
「子供ふたり旅なんて何が起こるかわからねえ。おれっちも付いていこうか?」
「いえ、大丈夫です。それに、見た目よりも強いですから」
「だなあ……魔術師だもんな。だがいくら魔術師だっつっても不意打ちされれば終わりだからな」
「気を付けます」
こくりと頷くと、小男のノシオは満足そうに笑った。
ぐりぐりと頭を撫でられたが、髪が引っ張られて痛いだけだった。
ベルタにもお礼を言うと、猫ちゃんとふたり抱き締められた。
「危ないことはするんじゃないよ。いつでもおいで」
「はい」
「んにゃー」
後ろ髪を引かれるまま馬車を走らせる。
軒先にベルタとノシオが並び、小さく手を振っていた。
猫ちゃんが馬車から身を乗り出して、ぶんぶんと振り返していた。
村を抜け、さらに北へ行くつもりだった。
ミファゾ村からさらに北、ラシド村へ向かう。
さらにその上は、もう国境近くのシドレー村くらいしかない。
人攫いが横行しているというし、北の地はさらに危険が付きまとう。
さすがに修道院の面々が危険地帯までは行かないだろうと思いたい。
俺が追いかけたことによる因果関係はわからないが、その所為でリエラたちが北に連れ去られるなんて最悪の結果だ。
半日ほど馬車に揺られ、ラシド村に到着する。
結果は散々だった。
「修道院の娘っ子なんて来てねえなあ……ごほ、ごほ」
「そんなはずは……」
「修道院? 病に襲われたわしらを助けに来てくださるんかのう……」
「…………」
流行病に倒れる人たちは、良くない体で畑仕事に従事していた。
ラシド村は百に満たない小さな村だが、その半分が寝込んでいる有様だった。
死人も数人出ているらしい。
「病気のひといっぱいにゃね。アルはにゃおしてあげにゃいの?」
猫ちゃんがボールを転がしながら暢気に尋ねてくる。
もし妹ならどうするか。
そんなこと、考えなくてもわかる。
本当なら誰が死んだって構わないんだから放っておけばいい。
時間は有限なのだ。
こうしている間にも妹はどんどん遠ざかっているかもしれない。
「……ああくそ!」
妹の消息が絶たれたのだ。
ラシド村には修道院の人間は来ていない。
ついでに女戦士ふたりは見かけたか聞いても、そちらもいないと言う。
状況は理解しているつもりだ。
だというのに、面倒ごとに自分から関わろうとするなんてつくづく馬鹿だな、俺は。
本当は会えなくてもいいと思ってるんじゃないのか?
そんな猜疑心すら、自分に対して感じてしまう。
しかし、ダメだ。
妹に胸張って会えるお兄ちゃんでなくてはならない。そう思ってしまった。
「この村のひと、全員助けよう」
俺は言葉にして、ようやく自分を奮い立たせる。
近くをふらふら歩いていた青白い顔をした村人を捕まえて治癒魔術を行い、この村の全員を呼ぶように伝えた。
病が治った中年男性は慌てて村の広場に走り、声を上げて村人を集め始めた。
「声をかけて回ったんだけどよぉ、信じないってやつもいて」
それならそれでいい。
生きるか死ぬかは自分の判断で行われるべきだ。
ニニアンから教わった広範囲魔術。
降り注ぐ“治癒の雨”――
その範囲は、今の俺では広場ほどの広さしか効果が及ばない。
雨は等しく病に臥せったものたちの頭上に降り注ぎ、優しく癒していった。
「泊まっていきなされ。何もしてやれないが」
「いえ、先を急ぎますので」
長居をして猫ちゃんの正体がばれて面倒になるのもごめんだった。
治せる人間は治したのだ。
俺の役目はここまでだ。
それでも村人は何が何でも引き留めようとしてきた。
彼らにとっては滅多に村を訪れることのない治癒術師。
何を置いても滞在してもらいたいのはわかる。
しかしこちらにも都合というものがある。
村人はついに諦め、代わりに馬車いっぱいにお礼の品を積んでくれた。
馬の脚が遅くなるから遠慮したかったが、「どうかまた来てください」と血走った目で押し付けられて、捨てられるわけもなかった。
「んにゃ! マルケッタ!」
村を出てしばらくしたところで、猫ちゃんが草地に飛び降りた。
また魔物かと思ったが、違った。
木々の合間に消えて、すぐに戻ってきた猫ちゃんはふたりの女性を連れていた。
ひとりはフードを目深にかぶっているが、身体のラインが女性のものだった。
もうひとりの少女の下半身は馬体で、いわゆる魔物に分類される。
「け、ケンタウロス?」
「マルケッタ!」
にゃーと元気よく鳴き、猫ちゃんがニコニコしながらケンタウロスの少女を紹介してくれる。
警戒心の強い猫ちゃんには珍しく、ケンタウロスの女の子から抱きついて離れようとしない。
ケンタウロスの少女も猫ちゃんの抱き付きを嫌がってはおらず、お互いにハグして親愛を深めている様子だった。
「猫ちゃん、いつの間にケンタウロスの女の子と仲良くなったの?」
「おっきな町で友だちににゃった!」
「やー」
ということらしい。
いつの間に交友関係を広げていたのか。
娘が自分の知らないところですくすく育っていく哀しさを覚えずにはいられない。
ちなみに「やー」と言ったのはケンタウロスの少女だ。
そういえばテオジアの宿で友だちができたとか言っていた気がする。
それがこの子か。
ケンタウロスと友だちになるとは、やはり猫ちゃんも持ってるな。
「猫ちゃん、こっちのひとは?」
「? 知らにゃい」
「えー……」
猫ちゃんに興味を持たれなかった方の、フードを目深にかぶって顔を隠した女性の方に向き直る。
彼女はケンタウロスのマルケッタにぴったり寄り添っていることから、飼い主(?)なのかもしれない。
衣服は汚れ、荷物もほとんどない。
それに衰弱しているのか足がふらふらだ。
「ニキータと申します。これはマルケッタ」
「あ、すみません。アルです。この子はミィナ」
「? ミィニャでは?」
「ミィニャだよー」
「発音が怪しいだけでミィナというらしいです」
「なるほど」
以前テオジアで会っているというのは本当らしい。
「これからどこへ行かれるんです?」
「テオジアへ急いでおります。旦那様が山賊に捕まり、助けださなくてはなりません」
「それは……大変ですね」
「すみません、先を急いでおりますので」
軽く会釈をして行こうとするが、猫ちゃんもマルケッタにくっついて離れない。
「マルケッタ、行きましょう」
「やー?」
「遊ばにゃいのー?」
「遊びません! いまがどういう状況かわからないのですか?」
余裕がないのか、言葉尻はきつい。
巻き毛のマルケッタはしょぼんとした。
猫ちゃんもつられて耳をぺたんと垂らす。
これも何かの縁か。
妹の行方が分からず急いでいるからあまり他人の相手をしたくはないのだが……しかしここまで猫ちゃんが懐いているのだ。
それに、悪意のある人たちではなさそうだ。
少女は類別すると魔物だし。
名前 / ニキータ
種族 / 人間族
性別 / 女
年齢 / 二十八歳
職業 / メイド、奴隷
技能 / 裁縫術、調理術、算術、暗器術、格闘術
女性のほうもステータスを見たが、普通の人である。
奴隷と暗器が気になったが、今の主人に買われ、主人を守るために戦う術を覚えたと考えれば不思議ではない。
ニキータという名前で、声の質から十代後半のような澄んだ印象を受けるが、思ったよりも妙齢のお歳だ。
それに旦那様と言うからには誰かに仕えているのだろう。
スキルは家事と護衛に特化したものばかりだった。
「猫ちゃん、俺はこれからシドレー村に行くけど、猫ちゃんはどうしたい?」
「マルケッタと遊ぶー」
長年保護者として猫ちゃんの面倒を見てきたが、こういう瞬間がいちばん寂しいと感じるよ。
「すみません、いまシドレー村とおっしゃいましたか?」
「ええ」
女性は遠慮がちに、しかし引き下がるまいと一歩踏み込んでくる。
「旦那様が連れ去られたのもシドレー村の近くなのです。あの辺りには人攫いが横行しているようです。進まれるのはお勧め致しません」
「それでも行かなきゃならない理由があってね」
妹が人攫いに遭っていたら平静でいられる自信がない。
もし妹がひどい目に遭っていたら、そいつら全員八つ裂きにしても収まらないかもしれない。
そのついでで旦那様とやらを助け出すのもやぶさかではないのだ。
なにせ猫ちゃんと縁を持った人たちだからな。
娘の交友関係を尊重して親同士でも親睦を深めなくちゃね。
「子どもふたりでいけば二度と帰って来られません。行ってはダメです」
「大丈夫です。実力はありますから」
「本当に危ないのです。もしかしたらシドレー村は、人攫いたちのアジトになっているかもしれません」
「……なるほど。それは想定してませんでした。でもこちらにも引けない理由があります。いまこのあたりの村を巡っている修道女のひとりに妹がいるので」
「…………ならばなおのこと、妹さんもあなたが危険に飛び込むのをよしとするでしょうか? 男性はそうやっていつもいつも無茶ばかりして、結局心配するのは女の方なんですから……」
後半は愚痴気味だったが、戦いはバカのやることだと言っているようなものだ。
何の前情報もなければ、もしかしたら不意打ちをされていたかもしれない。
それか、例え不意打ちであっても回避できるものかもしれない。
それならそもそも表立って馬車で乗り込んでいくのは賢明ではない。
うーん、どうするか。
もういっそ、彼女らに馬車を譲って、猫ちゃんとふたりでシドレー村に潜入するか。
猫ちゃんに潜入作戦は、やってできないことではないだろうが、どこかでボロが出そうだな。
……フリではないが。
もうひとつ可能性があるとすれば、猫ちゃんが信用する馬娘と一緒に行動してもらうかだが……。
「俺とふたりで村を目指すか、猫ちゃんはふたりについて安全な場所に行くか選べるけど、あ、でもやっぱり迷惑かけたら申し訳ないし、ニニアンも探さなきゃいけないしで一緒に行った方がいいよね。これまでずっと旅してきたんだもん、いまさら離れるなんて考えられないでしょ。そういえば昔はちょっと離れただけでわんわん泣いてたよね。あ、猫だからにゃーにゃーか。頭をぐりぐり押し付けてくるのも相変わらずだし、猫ちゃんはまだ子どもだから俺と」
「マルケッタと一緒がいい!」
「…………」
「マルケッタと一緒にいく!」
「……………………(がくっ)」
世界が暗転した。
「にゃんで手をついて泣いてるのー?」
「娘が男の元に走る瞬間をただ見ていることしかできない、憐れな父親の心境だからさ」
「んにゃ?」
ほろりと苦い涙が出てきた。
わからないだろうね!
そんなことはわかってますとも!
寸劇にニキータは表情を曇らせ、馬娘のマルケッタは猫ちゃんの姿を右に左にと目で追っている。
彼女も猫ちゃんのことが大好きなようで何よりだが、俺と猫ちゃんとの絆に亀裂を生んだ張本人に他ならない。
俺は地面を這いずるようにマルケッタの前に立つと、唇を噛んで手を差し出した。
「猫ちゃんをを、おぉぉお願いしますぅ!」
目から血の涙が出せそうだ。
悲壮感が全身に漂ってることだろう。
「……やー」
マルケッタは俺の顔と手を交互に見て、身を竦ませながら猫ちゃんの後ろに逃げた。
馬体を含めた身長さがあるので余裕で猫ちゃんの頭の上から顔が飛び出しているが、逃げ隠れたいという気持ちは伝わってくる。
「やーやー」
「んにゃ?」
「ややー」
「にゃはは。マルケッタ、アルのこと気持ち悪いってー」
「ぐはっ」
俺は死んだ。
真っ白に燃え尽きた。
その後、本当に猫ちゃんはマルケッタと一緒に行くことを決めたようだった。
マルケッタの背中に跨って、ふたりしてころころ笑っている。
本人曰く、
「だってアルはすぐ会えるんだもん。マルケッタと遊びたいー!」
とのこと。
しょうがないよね。
まだ九歳だもん。
子どもだもん。
「…………ぐす」
鼻の頭を擦りながら、真面目な話もしなきゃとニキータと向き合う。
「猫ちゃんをお願いします。寂しんぼなんでたまに頭を撫でてやってください。あと食いしん坊なんで、お腹いっぱいに食べさせてあげてください。それから夜はひとりで寝られないんで、傍について寝てあげてください。あと寝る前に必ず歯を磨かせてください。本人歯磨き嫌いなんで」
「じゃなくて! 馬車をすべて譲られるわけにはいかないし、あなただけシドレー村に行かせるなんてできないという話でしょう!」
「もう決めてるんで」
俺は荷物を最小限だけ荷造りして背負い込んでいる。
すでにひとりで出発できるのだ。
かわりにニキータには猫ちゃんの面倒と馬車を漏れなくプレゼント。
「あなたがどれくらい自信があるのかわかりませんが、無謀です」
「じゃあ試してみます?」
「またそんなこと言って……これだから男は……」
「わかりやすい物差しだと思いますけどね」
「いいでしょう。ならばわたしに少しでも傷を付けられたら大人しくついてきてもらいます」
「じゃあ俺は攻撃を全部避けたうえでニキータさんの背中に触れたら勝ちにしよう」
「そんな条件でよろしいのですか?」
「男に二言はない」
トントン拍子で決まり、実力勝負と相成った。
こうなれば圧倒的に有利を確信する俺である。
身体強化を使わなくても勝てるかもしれない。
もしニキータが身体強化を使っても、俺は特に魔力を込めずに戦うつもりだ。
彼女の戦い方にはなんとなく予想がついている。
「石を投げるね。それが地面に当たった音で勝負開始だ」
「ええ、いいでしょう」
二十歩ほど距離を置いて向かい合う。
暗闇が辺りの森を覆っており、馬車に掲げた松明の灯りだけが視界を得られる光源である。
マルケッタと猫ちゃんはいまいち内容を理解していないのか、お互いにじゃれ合って髪の毛をいじり合っているのが視界の端に映る。
俺は石を軽く放り投げた。
しばしの滞空時間の後、ぽとりと音がした。
次の瞬間、ニキータの手元がわずかにぶれた。
俺はその場から地面すれすれに身を屈めて、ニキータが投擲してきた暗器を避ける。
どうやら腕を掠る程度に調整されていたらしく、狙いは随分中心線から外れていた。
舐められたものである。
子ども扱いしている以上は、俺の力など大したことないと思っているに違いない。
鼻を明かしてやりたくなった。
地面に手をついて、次に飛んできた暗器は転がるように避ける。
間断なく攻め立てるように細長い果物ナイフのような刃が飛んでくる。
俺はそれを、大袈裟すぎるくらいに動いて避け、地面に手をついた。
視界の隅で猫ちゃんが首を傾げているのが見えた。
普段なら俺がこんなに動いて戦闘をすることはない。
猫ちゃんとの組手でも、俺はだいたい仁王像のように立ち塞がり、猫ちゃんを投げ飛ばすからだ。
ニキータを中心に、円を描くように移動する。
逆にニキータは俺を近づけなければいいだけだから、最初の位置から全く動かない。
暗器をどこにそんな数隠し持っているんだと呆れるほど、ニキータの手数は多かった。
腕を動かす度に刃が飛び出した。
なかなか鋭い射線だが、最初から俺の体の一部を傷つけようという思いがあるからか、少し動くだけでほとんど当たらない。
予測地点に向けて飛んでくることもあるが、俺だって先読みはできる。
逆に読み切って、寸でのところで腕を引くのだ。
「なかなか目が良いようですね。反応も悪くありません」
「そりゃどうも。こちらから言わせてもらえば、その暗器はどこにしまってあるのって話だけど」
「女の秘密を無理やり暴こうとするなんて、将来野暮と言われますよ」
「だって気になるんだもんさ」
おしゃべりしている間にニキータの周りを一周回り終えてしまった。
準備ができたので足を止める。
「そこ! ……あ!」
飛んできた暗器は手が滑ったか、俺の正中線に向かって放たれている。
このまま避けなければ致命傷だが、避ける必要もない。
「風、水、それから土魔術の並行使用」
暗器は空中に浮いた水玉に刺さり、一瞬で凍り付いて動きを止めた。
ニキータが突然きゃっと可愛らしい上ずった声を上げる。
無理もない。
突然足元が崩れて下半身がまるまる地面に埋まってしまったのだ。
胸から上だけが地面から生えている格好がどこか間抜けだった。
被っていたフードが拍子に零れ、金糸のような髪がパッと乱れる。
「え? エルフ?」
俺には見慣れた耳が生えていた。
ミステリアスに尖っている。
しかしステータスには人族とあった。
そうしている間にも這い上がろうともがいているが、見えない風の圧迫感がニキータを襲い、目を白黒させている。
エルフならこんな魔術、あっさり押し返しただろう。
逆に十倍返しで酷い目に遭っていたのは俺のほうかもしれない。
何か事情があるのだろう、ニキータのエルフ耳は俺の知っているふたりより、どこか短い気もする。
とりあえずだ。
俺は動けないニキータに近寄って、悠々と背中にタッチした。
さて出発という段階になって最後に猫ちゃんの顔でも見ておこうと顔を上げると、真顔でじっと見つめてくる当人とばっちり視線が絡んだ。
猫ちゃんが弾かれるようにマルケッタの背中から飛び降り、弾丸のようにぶつかってくる。
俺はそれを受け止めるので精いっぱいだ。
お腹に受け止めた猫ちゃんを見ると、甘えたいのかぐりぐりと頭を擦り付けてくる。
俺はよしよしと頭を撫でた。
「やっぱりミィニャ、アルと行く」
「お? お?」
「離れるのやー」
「やー?」
なんということでしょう。
最後の最後に猫ちゃんが選んだのは俺でした。
ついつい顔がにやけてしまう。
マルケッタがパカパカと足音を鳴らし、顔を埋めた猫ちゃんを左右から覗き込んでいる。
「やー?」
「うー」
「やーやー」
「うーうー!」
まるでちびっこの会話だ。
猫ちゃんは顔を埋めながら首を横にいやいやと振っている。
そもそも会話になってるのかね? このふたりは。
マルケッタがしょぼんと落ち込み、項垂れて馬車の御者台に座るニキータの元に引き返していく。
結局俺に負けたニキータは潔く俺からすべてを受け取り、馬車を走らせてとりあえずドンレミ村を目指すそうだ。
彼女はエルフと人族のクォータで、両親は見た目が人族なので隔世遺伝ということらしい。
それが災いして奴隷として高値で売られて、いまの持ち主に落ち着いたそうな。
人に歴史ありだね。
ま、掘り返したくない暗黒史もあるよな。
俺なんかほとんどが黒歴史だ。
三歳の頃は異世界でハーレムを作ろうとかマジで思っていたからな。
猫ちゃんが顔を上げた。
マルケッタの背中を潤んだ目で見つめている。
俺はよしよしと頭を撫で、ついでに猫耳をもみもみと揉んだ。
「猫ちゃん、行っておいで。仲良くなった友だちと楽しんでおいで」
「……いいの?」
潤んだ目で見上げてくる猫ちゃんが愛らしくて死にそうだ。
「ねえ猫ちゃん、友だちを大切にしなくちゃいけないことはわかるよね?」
「うんにゃー」
「じゃあどうして大切にしなくちゃいけないの?」
「えっとー……うんとにゃー……にゃんでー?」
「それは自分ひとりじゃできないことも、ひとりよりふたり、ふたりより三人集まればできるからだよ。友だちは自分が困っているとき力になってくれるし、困ってる友だちの力になってあげることができるんだよ」
「それならわかるにゃー」
コクコクと真面目に頷く猫ちゃん。
「いまマルケッタは困ってる。ニキータさんとふたりだけだと心細い。でもそこに猫ちゃんが加われば、悪い人が襲ってきても撃退できるでしょう?」
「うん、ミィニャやっつけるよ!」
「俺は猫ちゃんが誰かの役に立つような立派な女の子になってくれたら嬉しい」
「アルも嬉しいの?」
「うん」
じっと目を見つめてくる猫ちゃんから、俺は目を逸らさない。
松明の灯りで、きらきらと揺れ動く。
やがて猫ちゃんがぎゅっとしがみ付いてきた。
顔を上げると、その顔は決意に彩られていた。
「ミィニャ、友だちの力ににゃるよ!」
「よっし、いってこーい!」
背中を押すと弾かれるように飛び出した。
項垂れて歩いているマルケッタの背中に飛び乗り、首に抱き付いた。
「ややー!」
「んにゃー!」
「やーやー?」
「みゃう」
猫ちゃんがこちらを振り返り、満面の笑みでぶいサインを送ってきた。
なんだか涙が出てきた。
娘を送り出す父親の心境で笑えた。
笑い泣きしながら手を振って、馬車を走らせる彼女らの背中を見送った。
そして俺も頭を切り替える。
目つきが鋭くなっただろうが、咎める仲間は誰もいない。
森の匂いが急に鼻についた気がする。
○○○○○○○○○○○○○○○○
「んー……」
クェンティンは首をひねった。
人に捕まった豚みたいに、両腕両足を丸太に括られ吊るされながら。
ふたりがかりで丸太を運ぶのは、最近何かと話題の人攫いの連中だ。
「おまえ、ちょっとは金を持ってる商人なんだろ? 身代金はたんまりと積んでくれるんだろうなあ?」
「うーん、たぶん言い値で用意してくれると思うよー」
「マジか、こりゃいい品物を手に入れたぜ」
交換条件にあんたらの死体の山を積むことになるだろうけどー、とは言わないでおこう。
せいぜい皮算用してくれればいい。
しかし、なんでこうなったんだろうね。
十分に注意はしていたはずなのに。
あれか、やっぱりあれか。
足手まといがひとりいたからか。
ニキータとマルケッタの足を引っ張ったのは、何を隠そう自分だ、とクェンティンは悪びれずに思う。
そんなの最初からわかっていたことだ。
しかしそんな自分にも男気はあったようで、クェンティンが捕まる代わりにふたりを逃がすことができた。
クェンティンはいま、国境近くのシドレー村近辺にいるはずだった。
最初はドンレミ村、次にミファゾ村、そして最後にシドレー村で、この短い旅行の目的は終わるはずだった。
しかしシドレーまでの道中、待ち伏せに遭ってしまい、この体たらくであった。
馬車まで人攫いたちに奪われ、結果的には命まで奪われなかったことを感謝するしかない。
クェンティンはここまでの経緯を振り返る。
たぶんまだまだ移動に時間がかかるからだ。
頭に血が上ってきたが、何を言ったところで体勢が楽になることはないだろう。
テオジアを出発して早速道を間違え、一晩夜営しその翌日にドンレミ村に到着。
勇んで村長宅を訪ねたが何やら取り込み中の様子。
あとで知ったが、村長の孫が北からやってきた熱病にかかり、命の危険もあったのだと言う。
ちょうどクェンティンより先に村を訪れていた修道女たちが昨日治癒して事なきを得たそうな。
その修道女たちはクェンティンと入れ違いで村を出ており見かけてはいない。
ドンレミ村では村長に会うことがいちばんの目的である。
一度訪問して会えないと分かると、ドンレミ村の宿を一晩取ってから、荷物を置いてニキータとマルケッタを連れて商会に顔を見せる。
そこで何人かと話し込んだ後、昼食を済まして宿でマルケッタの馬体をブラシで丁寧に磨いた。
これはクェンティンの趣味である。
そんなときだ。
頭上から優しい光が村全体に降り注いだ。
ニキータはその光によって、不思議と肩凝りが消えてると驚いていたが、特に悪いところのないクェンティンは何も実感することはなかった。
どうやら治癒系統の広範囲魔術が使用されたらしい。
夕方頃になって、クェンティンは再度ひとりで村長宅を訪問すると、今度は会うことができた。
昼間の光が村に修道女を追ってやってきたふたりの魔術師の手によるものだと村長から世間話のついでに聞く。
クェンティンはそのときのことを思い出す。
あれは忘れてはならないことだ。
クェンティンの要望をすべて聞き届けてから、村長はひとつ頷いた。
「わしがむかし冒険者だった頃、一度だけその迷宮の噂を聞いたことがあります」
「じいちゃんは強い戦士だったんだぜ。それに比べて父ちゃんはただの狩人なんだ。おれもじいちゃんみたいに冒険者になりたい!」
どこから聞いていたのか、臥せっていたという孫が横から元気に口を挟むが、村長は目を細めて頭を撫でた。
「奥には精霊がいて、そこまで辿り着いた冒険者に祝福をくださるとか」
「その祝福とは?」
「願い事をひとつだけ叶えてくださるんですよ」
「すげー! いいなーいいなー! じいちゃんみたいに冒険者になりてーよ」
「これこれ、いま大事な話し中じゃ。外へ行ってなさい」
「ちぇー」
村長の孫は冒険譚に心浮かれているようだが、クェンティンはよりいっそう真剣な顔になった。
「場所は? 大平原のどのあたりでしょう?」
「大平原のどこか、としか。その迷宮を運よく見つけられたものは、たった一度の機会に最奥まで辿りつかなければならず、再び挑戦しようにも二度と迷宮の場所を見つけ出せないとありましてな」
「方位磁針や太陽、あるいは星の位置を見ればある程度の位置を示すことができるのではないですか?」
「それが迷宮に近づけば近づくほど磁石は狂い、それまで快晴だった空も雲に覆われるみたいなのです。場所の特定をしようとすると、なぜだか道具が狂ってしまう不思議な迷宮なのです」
「……なるほど。まるで何者かの意思が働いているようですね。貴重なお話ありがとうございます」
「これは聞くべきでないのかもしれません。ですが老いた冒険者の愚かな好奇心と思って教えていただきたい。迷宮の噂を聞いてどうなさるおつもりか? なにか叶えたいことでもあるのでしょうか?」
「はは、それほど大した願望があるわけではありませんよ。ぼくがちょっと変わった人間だからかもしれない。ただ魔物と話せる力がほしいんですよ」
「ほほ、それは変わった願いもあるものですな。地位も名誉もほしいままにできるという精霊の祝福だと言いますのに」
「地位や名誉はこれから努力すればいくらでも手に入ります。ですが、努力しても手に入らないものはどうしようもないんです。だから奇跡に賭けたい」
「道半ばで倒れぬことを願います。あとは強い仲間を集めなされ。ひとりでは手に入らぬものもあるのです」
「心にしかと刻みましょう。これは興味からなのですが、村長殿はどんなパーティで臨むのが理想だと思われますか? お恥ずかしながら、ぼくは武芸にはからきしでして」
「そうですな。差し当たって治癒術師でしょうな。大金を積んでも彼らはひとり欲しいところです」
村長の顔つきが、冒険者から好々爺の目つきに変わっていた。
目がきらりと光りを帯び、子どものように楽しげだった。
そして、後進に役に立つような助言を与えてくれようとしている。
「治癒術師ですか。危険な迷宮に付いてきてくれる治癒術師を探すのもひと苦労ですね」
「戦士や魔術師は仲間に入れようと思えば苦労はしませんが、傷を一瞬で治す治癒術師は戦士千人分の価値がございます」
「戦士を千人迷宮に投入するのが安いか、治癒術師ひとりに千人分の金を積むのが安いかですね」
「数が多ければいいと思うでしょうが、わしならば治癒術師を選びますな」
「ためになります」
「当てはありますかな?」
「ええ、少しは」
と言っても、知り合いにはいない。
知り合いの知り合いに修道院に関係を持つものがいる。
治癒術師でありながら国の様々な町や村を回って傷を癒す巡業神官の男にも面識はある。
確か風の噂で、娘が修道院に入っていたはずだ。
あるいは昨日この村を訪れた修道女の中のひとりかもしれない。
それか、先だってこの村の頭上に治癒の雨を降らせた魔術師ふたり組にも興味があった。
「ならばよろしいのですが。昨日この村に修道院の方々が参りまして、病に寝込んでいたわしの孫を救ってくだされた。まだ十にも満たない歳の頃だというのに治癒魔術を使い、懸命になって村のものたちを癒してくだされた。わしはそれに感銘を受けましての。彼女たちはまるで聖女のようでした」
やはり、その修道女が巡業神官の娘かもしれない。
親娘ともに治癒術師だという有名なふたりだ。
これは会ってみてもいいかもしれない。
「ぼくの知っている治癒術師も巡業神官をやっていまして。もしかしたら昨日来られたという修道院の方々の中に巡業神官の娘さんがいたのかもしれない」
「その可能性は高いでしょうな。しかし彼女たちを連れて行くのはやめてくだされ」
村長の顔が険しくなった。
治癒術師の割合は少なく、年端もいかない娘ですら無理やり引き抜こうとする悪い連中がいてもおかしくはない。
「そんな健気な子たちをどうして迷宮に連れて行けましょうか。ですのでいまはとりあえず顔を繋いでおきたいと思いましてね。それに、類は友を呼ぶものです。ぼくの知らない優秀な人材を紹介してくれるかもしれない」
「なるほど、あなたはやはり根っからの商人のようだ」
村長は膝を叩いて笑った。
胡坐を掻く村長の膝にいつの間にか潜り込んでいた孫は、何が楽しいのかよくわからないようで首を傾げていた。
――陽炎の迷宮窟。
大平原のどこかに存在するという場所を特定できない不思議な迷宮だ。
挑戦できるのは人生でたった一回だという。
二度目の挑戦者がいると、何百人で大平原を探そうがどこにも見つからないことから、一期の迷宮とも呼ばれている。
村長宅を後にする際、少年とすれ違う。
赤茶髪の冒険者風の少年だった。
横に同じくらいの背丈の女の子を連れている。
クェンティンは微笑ましくて笑いかけたが、少年はじっと見つめてくるばかりで、とりあえず会釈を返してきた。
すれ違ったあの子がもしや魔術師か? と思ったのは宿に到着してからだった。
『迷宮について詳しく知りたいのなら、ミファゾ村の村長を訪ねなされ。彼もまた冒険者としてわしと肩を並べて戦った戦友ですからの。わしとは違った視点を持っているでしょう』
助言を丁重に受け取り、宿に戻ると日暮れながら出発した。
目指すはミファゾ村。
途中にソーラジ村とミファゾ村に続く分かれ道がある。
気を抜くとソーラジ村に着いてしまうので、気を付けねばならない。
「また道間違えないでくださいよ、ご主人様」
「それ言う!? 道間違えたの馭者台に乗ったニキータだよね! マルケッタが教えてくれなかったら東のベレノア領まで行くところだったよ! 知らない道だとすぐ迷う癖何とかしようよ!」
「ならば馭者台にご主人様が座ればいいと思います。私、後ろで不貞寝しますので」
「それはそれで罪悪感だからなあ。まあ代わるけどさ」
そんな話をしつつ、ミファゾ村を訪ねた。
そこでも村長から話を聞くことができた。
彼からは陽炎の迷宮窟に出てくる魔物について話を教わった。
砂の魔物、火を纏ったトカゲ、壁を這って近寄ってくる蜘蛛など、対策を考えるのに有用な情報を得た。
「男は迷宮と聞くと目を輝かせます。バカばかりです。自ら死にに行くことを喜ぶなんて」
「これはロマンだからなー。こればっかりはわかってもらえないかもなー。マルケッタはわかるかい?」
「やー?」
「わかんないよねー、おおよしよし」
マルケッタの柔らかい髪を撫でつつこんな会話をしながら宿を取り、翌朝ミファゾ村を出発した。
シドレー村にいる村長が同じパーティの最後のひとりで、彼こそ斥候として迷宮の地図から周辺環境の調査まで一手に引き受けていた銘打ての冒険者だった。
他ふたりの村長たちが絶賛する男だ。
彼から聞けることは多いに違いない。
クェンティンはシドレー村の道行きを急がせた。
女にはわからないロマンが胸中を躍っていたのだ。
だからと言うわけではない。
道の途中、野盗に襲われた。
ニキータがどこかから暗器を出して飛ばす。
実はこの三人の中でいちばん戦闘力が高いのがマルケッタだ。
「マルケッタ、両刃剣二本だ。怪我しないように頑張れ」
「やー!」
二刀を渡された途端、心持ちやる気を見せるマルケッタ。
この子は血なまぐさい世界を見せたくないなあと思って傭兵を雇ったこともあったが、信用がならなかったために長く続かなかった。
マルケッタに試しに剣を持たせると、これを初めて触ったとは思えないくらいうまく使った。
ニキータもマルケッタを護衛として育てることに賛同し、暇ならマルケッタに武器の扱いを教える始末だ。
「ややー!」
「ぐへー!」
「ぎゃー!」
「ぐわっ!」
マルケッタが駆け回ると、そこに血飛沫が上がった。
撃退し、息のあるひとりを抑え込んでニキータが尋問すると、呆気なく彼らが噂の人攫いだと吐いてくれた。
集団で襲い掛かって捕まえ、アジトに運ぶ手口は常套手段だと言う。
「人の尊厳をなんだと思ってるんですか」と、元奴隷のニキータは頭に血が上り、ちょっと刃先が前に出過ぎたために野盗の生存者はいなくなってしまった。
襲撃が失敗したとなれば第二陣が必ず現れる。
襲われた生存者が村に駆け込むだけで、人攫いの組織は途端に身動きが取れなくなるからな。
「よし、逃げよう」
「それも難しいようです」
「やー」
ニキータとマルケッタが警戒の色を帯びる。
馬車は囲まれており、その数三十ほどだという。
ちょっと早すぎるんじゃないかなーとクェンティンなんかは思うが、どうやら第一陣で戦いに参加せず、すぐさま援軍を呼びに行った頭の回る組織員がいたようだ。
たった三人である。
それも戦えないクェンティンが含まれている以上、戦闘に勝利することは望めない。
「これは無理だ」
「馬車を走らせて逃げましょう。最悪、私たちが戦って時間を稼ぎます」
「やぁー!」
クェンティンは早々に白旗を上げるつもりだったが、ニキータは逃げることを諦めず、マルケッタの方は気が高ぶっているのかまだまだやる気。
すぐに馬を出すが、行く手の道に木々がなぎ倒されて馬の脚を停められてしまった。
「最悪です。でも安心してそこで寝転がっていてください。ご主人様だけでも逃がします」
「ややー!」
「ぼくだけが逃げてふたりが死んじゃうなんて嫌なんだけど」
「死にませんよ。死にたくありませんし。ただ、職務内容にご主人様を身を挺して護る事項があるので、ご主人様の行動次第では呆気なく死んでしまうかもしれません。そのときには枕元に立たせていただきますので」
「やーやや!」
ニキータは至極真面目な顔をしていうものだから、冗談か本気かのライン引きが難しい。
しかしこれは本気っぽいなとなんとなく思った。
馬車を中心に距離を詰めてくる人の気配。
ニキータが馬を走らせる。
マルケッタも馬車と並走して駆ける。
しかし草原から火矢が何本も飛んできた。
半数ほど馬車に命中し、すぐに燃え広がる。
クェンティンだって役に立とうと、布を腕に丸めて馬車に上がった火を消そうとするも、かなり分が悪い。
革の盾を頭から被って震えていると、急に馬車が揺れた。
どうやら馬をやられたようだ。
馬車の足が止まる。
途端にマルケッタが弾かれたように飛び出し、しばし草原に男の悲鳴が上がる。
それも束の間だった。
馭者台のニキータが暗器を投げていたが、腕を矢で射抜かれて地面に倒れ、マルケッタも数人を血祭りにあげたが六人ほどに囲まれ身動きが取れない状態に。
剣の腕はいくらかあるが、さすがに斬られればそこは年相応の少女の腕。
あっさりと切り落とされてしまうかもしれなかった。
クェンティンは覚悟を決めた。
「聞けい諸君! ここにあるのはテオジアでも限られた者しか手にできない金貨がある! ぼくは今からこれを撒く! いいか! 君らの仲間が金貨を拾い集めている間に、女子どもを切り刻むだけでいいのか? 目の前の女子どもは金貨よりも価値があるのか? ほうら、言ってる傍からぼくは金貨をここに撒くよ!」
それは今回の旅費と、行く先々で商談を行っていたために手にした財産であった。
それを惜しみなく、馬車の周りに撒く。
群がってきた男たちは、ニキータやマルケッタに目もくれない。
現金だなあと思いつつ、落ちた金貨(大半は銅貨や銀貨だったが)を拾い集める地を這う犬と化す人攫いたち。
クェンティンは銭を撒く手を休めず、荷物から治癒術符を取り出してニキータとマルケッタに向ける。
荷物の中にあったのは、自分の分とマルケッタの分。
ニキータの分は自分で持っているはずだ。
「“我の望むものの傷を癒せ”、術符発動!」
マルケッタとニキータの体が淡く優しい光に包まれた。
「ニキータ、マルケッタ! 逃げろ! ここはぼくに任せて、速く!」
ニキータは最後までその場を動かなかった。
奴隷から解放して、傍仕えとして雇ってから、初めて命令に反していた。
「マルケッタ! ニキータと一緒に逃げて!」
金貨を投げた。
それに反応して汚い男どもが我先に群がってくる。
マルケッタに目配せすると、おろおろし出した。
手を振ってニキータを連れて行くように指示を出すと、それが最優先の事項であると頭で理解したのかマルケッタは両手の武器を捨てて一直線に駆けた。
ニキータが治癒術符で回復し、立ち上がったところに後ろから飛びかかって背中に乗せる。
ニキータは大人の女性で、マルケッタはまだ成長途中の子ども。
それでも魔物だった。
力の強さは人の杓子定規で測るべきではなかった。
マルケッタはニキータを乗せると、いつもより少しだけ動きにくそうに駆けて草原を突っ切った。
馬車は火をかけられて燃え出していた。
金貨を拾い終えると、クェンティンは用済みだった。
「あはは……ぼく殺されるのかな?」
「てめえは金のなる木だ。たくさん金を生み出してくれる」
汚い男どもの目がドルマーク($∀$)になっていた。
こうしてクェンティンは豚のように丸太に括られ、人攫い組織に連れ去れらる羽目になったとさ。




