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異世界旅行は落ち着かない  作者: 多真樹
第二部 少年時代 三章 家族捜索
133/204

第72話 ノシオ親子

時系列が前後します。

仕様です。仕様ったら仕様です。


 ニニアンを追うべきか、それとも妹が向かったという疾病に冒された村へと向かうか。

 咄嗟の判断を求められた。


「ニーニャンどこに行っちゃった?」


 荷台に積んだ木箱の上に寝そべっていた猫ちゃんが聞いてくる。


「探している人を見つけたんだ。それで追いかけて……」


 そう、探していた。

 ニニアンは何よりも師匠を。

 そして俺は、師匠より妹を。

 どちらが正しいということではないのだろう。

 どちらが優先されるべきか、という感情の問題だ。

 少し迷った。

 それでも俺の中では、やっぱり答えが出ていた。


「俺たちはこのまま次の村を目指そう」

「ニーニャンは?」

「すぐ追いついてくるさ。向こうはこっちの居場所なんてまるわかりだからね」


 ついでに毎夜丸裸だけどな、と思ったが口には出さない。

 探知能力については、俺はニニアンの足元にも及ばない。

 そんな俺でも、師匠の魔力を察知したのはニニアンとほぼ同時だった。

 そのことにわずかに違和感を覚える。

 俺たちが師匠に追いついて魔力を捕捉したのではなく、まるでこちらを挑発するように魔力をちらつかせているように思えたのだ。

 魔力を捕捉した事実は変わらないにしても、そのふたつにはえらく違いがある。


「アルはどっかに行かにゃい?」

「ん?」


 するすると木箱を降りてきて、馭者台に座る俺の横に、猫ちゃんはぴたりと引っ付いた。


「ミィニャのこと、置いてかにゃい?」

「そんなことしないよ」

「にゃらいいの」


 フードの上から頭をぐしぐしと撫でてやる。

 気を良くした猫ちゃんはそのまま俺の膝を枕にごろんと寝転がった。

 猫ちゃんのぷにぷにの頬や猫っ毛の髪をいじりながら馬車は進む。

 途中、ラビット系の魔物が何体か出没したが、猫ちゃんがその度に耳をぴんと立てて制止する間もなく矢を放った。

 大抵はあらぬ方向に飛んでいったので、二矢放つことなく馬車から飛び出していった。

 猫ちゃんは仕留めたラビットを引きずって藪の中から姿を見せる。

 返り血でべったりと汚れているのに、その顔は満足そうに褒めて褒めてと詰め寄らんばかりに笑顔だった。


 半日ほど進み、日が傾きかけた頃に村に到着した。

 ざっと見た限り、百人もいなさそうな小さな村だ。

 村の傍の畑も、それほど大きくはない。

 変だなと思ったのは、村の様子を見ているときに思った。

 流行病が蔓延しているはずなのに、村人はそこそこ活力のある生活を送っている。

 病気を治してもらったにしては元気が良すぎるのだ。

 まるで流行病など蔓延していないような……。


 一瞬脳裏をよぎったのは、流行病が村を襲っていないという事実。

 しかし村長の言葉を思い返した。

 ミファゾ村の入り口はわかりにくい、ソーラジ村についてしまうかもしれない。

 嘘だろと思いつつ、村人に尋ねてみた。


「ここはソーラジ村だべよ」

「……やっぱり」

「あはは、おまえさんミファゾ村に行きたかったんか? なら取って返して右の道を進むと着くべ」

「初めてくる旅のもんはみんな間違うでなあ」

「ああでも、今日はやめた方がいいぞ。暗くてミファゾ村の道が見つかんねえかもしんねえ」

「迷いやすいことでゆうめえだかんなぁ」

「息せき切ったって見つからんときは見つからん。村のもんだってときどき迷うからのう」

「それに夜道は襲われやすいんだ」

「村で休んでいけばええ」

「んだんだ」


 くつくつと笑う村人たちに何だか腹が立った。

 一応親切にしてくれた村人にお礼を言い、馬車を引き返した。

 猫ちゃんの手を引く。


「にゃわ!」


 手を強く引っ張りすぎたのか、フードを引っかけてしまい、猫ちゃんの頭が露わになる。

 猫耳がぴょこんと飛び出て、外気にぷるぷると震えた。


「おい、獣人だべ!」

「うお、獣人じゃねーか!」


 先ほどまで優しかった村人の顔が一斉に凍り付き、徐々に敵意に変わっていく。

 俺は人族至上主義のこの国をどこかで楽観視していたのだと思う。

 都市に行けばどんな身分であれ、獣人を見かけることはあった。

 獣人がいることが当たり前になっている所為か特別混乱が起こることもないのだが、都市から外れた小規模な村では獣人の姿を見たことのない村人が大勢いた。

 そしてその大半が、獣人はかつて国を滅ぼそうとした悪魔の種族と思い込み、祖先の憎悪を何代も引き継いでいるのだった。

 猫ちゃんとふたり旅のときも、ニニアンが加入してからも、こういうことは多々あった。

 だから慣れっこだ。


 石の飛礫(つぶて)が投げつけられる。

 猫ちゃんは後ろを振り返り、山なりに飛んでくる石をぺしっと叩き落とした。

 石ころを拾って投げ返そうとする猫ちゃんを「こらこら」と押し留め、馬車に急ぐ。

 猫ちゃんは素で『目には目を歯には歯を』を実践しようとするから。

 でもこの子が石をぶつけたら、村人はザクロみたいに体を吹っ飛ばしてしまう。

 この物語は十五禁だけどスプラッタはない方向でやって行く予定なんだから。


「人族が獣人を連れて歩いてんじゃねェ!」

「化け物に食い殺されっぞ!」

「戻ってこぉい!」


 余計なお世話だ。

 こんな可愛い猫ちゃんをよりにもよって化け物とは、言葉が過ぎる。

 村人の制止を振り切って馬車を進めた。

 馬車に火を放とうとしていた村人がいたので、頭から滝のような水を叩きつけてずぶ濡れにしてやった。

 わらわらと近寄ってくる村人を火魔術で牽制し、馬車に飛び乗る。

 猫ちゃんも弓を構えて幌の上に登った。


「矢を当てちゃダメだよ」

「ミィニャまだ当たらないにゃ」

「じゃあいいや」


 俺が馬に鞭を入れて、陽の落ちた道を照らすものもなく走り出したところで、猫ちゃんが牽制の矢をびしゅっと放つ。

 その矢は狙っていた男には当たらず、その三つ横にいた丸禿げのいかめしい男の腕を貫いていた。


「ぎゃーっ!」

「猫ちゃん、当てないって言ったじゃん!」

「狙ったところに飛んでにゃいもん」

「……もう死ななきゃなんでもいいよ」


 松明を掲げた村人によって浮かび上がった村が、ゆっくりと遠く離れていく。

 こんな村二度と来るかと思う。

 馬を止めて馬車を降りた。

 追って来れないように、後ろに巨大な土の壁を作ってやろうと思う。

 五メートル以上のその壁を左右に百メートルほど伸ばし、壁に穴を開けられないように頑強になるよう魔力を練っていく。

 完成したベルリンの壁、もといソーラジの壁を満足そうに見上げ、馬車を走り出した。


「アル、どこ行くの?」

「夜のうちに村に着いておきたいんだ」

「村ならあるよ?」


 猫ちゃんは後ろに置き去りにしたソーラジ村の方角を指差す。


「そっちの村じゃないんだ」

「そーにゃの?」

「ソーラジ村じゃなくて、ミファゾ村に向かいたいんだ」

「ふーんにゃ? わかったー」


 特に深く尋ねてくることもなく、猫ちゃんは弓を手に空撃ちを始めた。

 馬車の振動も馬鹿にならないのに、猫ちゃんはぴたりと弓を制止させて何かを狙っている。

 何度もびしゅんを弦を弾くが、ちゃんと狙いをつけて練習しているのがわかった。


 日は完全に沈み、俺は幌馬車に松明を括り付けて闇の森を進む。

 一寸先さえ闇に呑み込まれ、森は獣の息遣いに満ちていた。

 猫ちゃんがさっきから森を睨んでぴくりとも動かないのが気になる。


 なんとなく夜の森を眺めて、ぞっとした。

 暗く怖いからではない。

 運命が俺と妹の間に幾枚もの壁を作っている。

 そのひとつがこの圧し掛かってくるような圧迫感を与えてくる夜の森ではないのかと想像をしてしまったからだ。

 運命の壁は明確な形ではない。

 押したら抵抗を感じくらいの鈍い空気抵抗のようなものだ。

 ずんずんと奥へ行こうとするも、足に何かがまとわりついて鈍り、いずれ身動きさえ取れなくなるだろう。

 森の中にぽつんと明かりを灯して走る馬車は、まさしく大海で方向がわからなくなったヨットのように頼りなかった。


 右側に道があると言うが、藪しか見えない。

 馬車が通れる道などどこにも見当たらないのだ。

 不意に猫ちゃんの耳がぴくっと動いた。


「アル!」

「わかってる。弓を準備して」


 猫ちゃんにそれだけ言うと、俺はぐるりと辺りを見渡した。

 闇夜で視界が通るわけもなく、代わりに赤外線カメラのように魔力を探る。

 すると森の中に隠れている人影が、まるで人魂のような淡い光を輪郭にして浮き上がる。

 その数十二。

 いや、木の上にもひとり。

 合わせて十三か。


「人の臭いする~。ちょっとくちゃいにゃ~」

「そうだねえ、どう見ても追いはぎだよねえ」


 猫ちゃんがふがふがと鼻を摘まんでいる。

 気配を探るために鼻を鋭敏にした結果、不潔な連中の臭いまで嗅ぎ当ててしまったようだ。


「近づけたらもっと臭いから、馬車の傍まで来られたら俺たちの負けだ」

「負け?」

「勝つためにはどうすればいい?」

「んー? 近づけにゃければいい?」

「そう。猫ちゃんの弓の見せどころだ」

「ミィニャ頑張る~」


 むふーと意気込みを発しながら、猫ちゃんはするすると幌馬車の屋根に上って陣取った。

 俺は馬車を止める。

 少し待つと、森からゆっくりと夜盗が近づいてくる。


「――かかれ!」


 特に脅す台詞もなく、森から声が上がった。

 同時に俺は松明を消す。

 辺りが闇に覆われた。

 それでも。

 猫ちゃんには嗅覚と夜目がある。

 俺には魔力で探るという赤外線センサーのような能力がある。


 たたらを踏んだのは夜盗たちの方だった。

 松明の灯りで目が慣れていた所為か、消えた途端に速度が落ちた。

 それを見逃すほど優しくはない。

 風の魔術を生み出して、正面から迫っていた三人にカマイタチを見舞う。

 当てるだけの簡単なお仕事だ。

 さらに左右から迫る四人にも同時に攻撃。

 断末魔が重なり、闇夜に響き渡る。

 村人ではないので容赦はしない。

 猫ちゃんは攻撃してくる村人と夜盗との違いをよくわかっていないようだが、これは俺の気持ちの問題だから仕方ない。


 ときどき夜盗側から矢が飛んでくるが、それは見当違いの場所に刺さる。

 馬に当たりそうになった矢は、寸前でなんとか風の魔術で叩き落とした。

 馬が暴れたら馬車を牽いてもらうどころではないからな。

 猫ちゃんも弓矢で応戦しているが、滅多に当らない。

 そのうち焦れてきたのか弓矢を放り出し、幌馬車から軽やかに飛び降りると、自慢の猫パンチで木々の向こうまで吹っ飛ばしていた。

 猫パンチに遠慮がないので、あれでは生きていないだろう。


 猫ちゃんが四人ほど倒したところで、見張りを含めた逃げ出そうとしていた夜盗に止めを刺し終わった。

 逃げ出す方向に索敵をしたが、増援はないようだ。

 あんまり気の進まない仕事だが、夜盗たちを一か所に集めて身ぐるみを剥いでいく。

 触るのも汚いので、まずは浄化をかけてからだ。

 なんか病気持ってそうだし。

 武器とか防具とか、使えそうなものを選り分けていく。

 目ぼしいものは大抵次の町か村で売っぱらって小銭に替えるが、それらはだいたい腹ペコ娘のお腹に消えていくのだ。


 残った処分するもの(死体を含む)は、まとめて穴に落として焼いてしまう。

 燃え尽きたら埋めて大地の栄養になってもらうという一連の流れを、猫ちゃんとふたり旅を始めてからずっと繰り返してきた。

 抵抗感のようなものも次第になくなった。

 おかげで死生観には緩くなった気がする。

 町を歩くと道の隅に人が横たわっていて、生きてるのか死んでいるのかわからないのもざらだからな。

 生きていたら道の邪魔だと蹴飛ばされ、死んでいたら衛兵がどこかに引きずって行ってしまう。

 そんな光景ばかりだと、さすがに俺の中でも価値観は変化したよ。

 どこの世界にもどうしようもない人間がいて、奪うために暴力を振るってくるし。

 ならば奪われないために返り討ちにするべきだった。


 剥ぎ取った夜盗の持ち物を馬車の中に適当に突っ込み、馬車を進める。

 森を抜け、ドンレミ村への草原の道に出てしまったときは真っ暗な星空を仰いだ。

 森を出たところでさすがに猫ちゃんが寝てしまい、野営をすることにした。

 馬に水と秣を与え、馬車から外して近くの木に結んでおくと、俺も欠伸を噛み殺した。

 火は起こさず、毛布にくるまる猫ちゃんの横に潜り込み、一緒になって眠った。


 浅い眠りが続き、朝霧の漂う早朝に目を覚ました。

 冷気が漂っているので、自分たちの周りだけ温度調節をして熱風を生み出す。

 毛布から抜け出て、草原の草いきれを鼻腔いっぱいに吸い込みながら、コチコチになった体を伸ばして解していく。


 馬の様子を見てから火を熾し、干し肉にしていたものを炙っていると、匂いにつられて猫ちゃんが馬車の中から顔を出した。

 ニニアンがここにいないのが変な感じだ。

 彼女はエルフの性質上あまり睡眠を取る必要がなく、夜は見張りに立つか人肌を恋しがってくっついていた。

 なんだか物足りなさを感じつつ、ふたりして簡単に食事を摂ってから、また森に入った。

 猫ちゃんはニニアンがいなかろうが、いつもと変わらない。

 ときどき、「ニーニャン遅いねえ」と呑気に漏らすくらいだ。

 ニニアンはちょっと散歩に行っているくらいにしか思ってないのだろう。


 朝霧の晴れてきた頃、道が窪んだところが妙に気になって馬車を止めた。

 木々が生い茂ってそうとはわからなかったが、藪に隠れるようにして踏み固められた道が見つかった。

 道の両側の木々が一層濃くなっている場所に分岐があったのだが、来た道や夜道では発見しにくい入り組んだ場所にあったのだ。

 ――致命的な時間のロス。


「こんなところに道があったなんて……」

「ミィニャ見つけてたよ?」

「…………」


 ここで怒ったら精神年齢が大人の俺は負けを認めるようなものだ。

 よし、前向きに考えよう。

 リエラたちの移動速度はどんなに頑張っても馬車の速度を超えることはない。

 つまり、半日以上距離は空いているが、所詮はその程度。

 村で休まないわけもないから、確実に手が届くところにいるのだ、焦る必要はない。


 すでに師匠やニニアンの魔力が感じられない中、分岐の道からさらに半日ほど進む。

 道中は魔物が出たら臭いを嗅ぎつけ猫ちゃんが出動。

 俺は黙々と馬車を走らせるだけでよかった。

 途中馬を休めるために休憩した以外、足を止めることはなかった。

 そして日が傾き森の向こうが燃えるような夕日に照らされる頃、ようやく目的地のミファゾ村に辿り着く。


「ここがミファゾ村か」


 夕暮れの中、足を引きずるように畑から返ってくる幽鬼のような青白い男たちを見て、この村が流行病に冒されていた村だと確信した。

 人口二百人くらいの普通の村だが、どんよりと空気が重くのしかかっているように感じる。


「着いた?」


 猫ちゃんがひょっこり積み荷の間から顔を出す。

 頭に器用に手製のボールを乗せているところを見ると、ひとりで遊んでいたようだ。


「着いたよ。でもまだ馬車から出ないで」

「わかったー」


 猫ちゃんの頭は積み荷の向こうに引っ込んだ。

 零れ落ちていたフードを被り直してやる。

 馬車を広場の隅に止めると、ひとが近づいてきた。

 背中を丸めた小男だ。

 元々が色白なようで、他の人間よりは血色が良さそうだ。


「おめえ、子どもひとりで何しに村にやってきた」

「電話一本でどこでもお届け、安心安全赤マント商会です」

「はぁ?」

「嘘です。行商代行です。それとは別にここにセンテスタ修道院の少女たちがいると聞いてやってきたんですが」


 修道院の名を持ち出すなり、警戒心も露わだった小男は表情を緩めた。


「なんだ、おめえさんのところも流行病を治療する治癒術師を探してんのか?」

「……ええ、まあ、そんなところです」

「そりゃ残念だったな」


 ああ、なんとなくこの答えを予想できた。


「尼さんたちは半日前に出発しちまったよ」


 やっぱり。


「女のふたり組が尼さんらを連れて行っちまったよ。一応この辺では信頼のおけるやつらしくってな。村長が許しちまいやがった。そいつら、女戦士みたいな恰好だったな」


 サーシャとメルデノのふたりを思い浮かべた。

 だが、リエラたちに用があるのだろうか?

 治癒術師を必要とする理由はひとつしかないが、驚くべきは俺よりも早くミファゾ村に着いていた事実だ。

 ドンレミ村から馬を買ったのだろうか。

 結局は何の目的を持って動いているのだろう。

 リエラたちを害するような目的でなければいいが……。

 いや、そもそもあのふたりだと決まったわけではない。


「なんか獣みたいな女だったなぁ。目つきが獲物を狙う目でおっかねえのさ。もうひとりは、こう、豊満な女でよぉ、あれは良い体だった」

「…………」


 九分九厘サーシャとメルデノだった。


「そのふたりと修道女たちはどこへ向かったかわかりますか?」

「ここから北のラシド村だな。なんでも流行病は北からやってきたらしくてな、そっちの治療もするんだと」


 この世界に、治癒術師は驚くほど少ない。

 たったひとりいるだけで全滅する間際の村人二百人を救えてしまう。

 まさに救世主である。

 魔術適性があるか。

 いくつかある魔術系統の中でも治癒系統を使えるか。

 世界の常として、生み出すより壊すほうが容易い。

 治すより破壊する魔術が広く一般的で、想像する魔術は驚くほど狭小だった。


 魔術にはセンスがいる、というのが一般的な考え方だった。

 だが俺はそうは思っていない。

 魔力がどういうものかを理解し、魔力槽を日々底上げし、魔力を操ることに血反吐を吐けば、大抵の人間は魔術を扱うことができる。

 実際、リエラは短い間に治癒魔術を習得することができた。

 そこにセンスは要らない。

 努力を怠らなかった結果だけがある。


 ということはだ。

 この世界では魔術師になるための方法を、ごく一般的に広めていないのだ。

 ――魔術は秘術。

 限られたものだけが行使できる奇跡の所業。

 そう思わせておけば、魔術師には権力と優越感が手に入るわけで。


 俺はそんな考え方は嫌いだ。

 必要なら教え、増やせばいいと思う。

 それが争いの種になることもあるだろうが、そんなものは使う人間の心持ち次第だ。

 教えた人間に責任はない。


 かといって、村人のひとりに治癒術を伝授するほどの時間の余裕もないのだが。


「この村の流行病はどうなりました?」

「どうなったもなにも、全部尼さんたちが治してくれたんだよ。ああ、ありがてえ。おれっちのお袋も死ぬのをただ待つだけだったが、彼女らのおかげで快方に向かってんだ。ああ、嬉しいねえ。まだ十歳にもならない小さな女の子ふたりがよぉ。まったく、こんなクソみたいな世界でも聖女はいるもんだねえ」


 小男は目の端に涙をにじませながら、それをごしごしと汚れた袖で拭い、嬉しそうに語っていた。

 この男は自らをノシオと名乗り、冒険者だと答えた。

 身なりは酷いが、目は澄んでいる。


「あの尼さんたちのためならおらぁ命を張っても惜しくねえ。そう思える可愛い子たちだったんだ」


 そう語るノシオに一瞬ロリコンの疑いを抱いたが、清々しいその顔には野卑たものは感じられなかった。

 心から感動している様子だ。


「いま出発したら夜になっちまう。ラシド村に着くまでに野営しなきゃならんだろ。うちに泊まっていけよ」


 小男は見た目や顔つきから、善行を行う類の人間には見えない。

 どちらかというと、後ろ暗い行いに手を染めているような人間だ。


「ああ、疑っちまうのも無理はねえわな。いつものおれっちだったら赤の他人を家に泊めてやろうなんて思わねえ。でもな、おまえはガキだ。ガキだから面倒を見てやる。おれっちのお袋はおまえさんのようなちみっこい聖女様に救われたのよ。受けた恩は返す。こんな当たり前のことをおれっちはいままでやってこなかったんだ。でもいまはちげえよ。返せる恩なら返してえ」


 涙を袖で拭き、目を輝かせながら語る。

 俺がその娘の双子の兄だなんて思いも寄らないだろう。

 なんのことはない、妹の足跡は確かに感じられることが俺には嬉しかった。


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 そういうと心から嬉しそうにノシオは笑った。

 積み荷を売り捌きたいというと、村の広場で物を広げればいいと言われた。

 積み荷から猫ちゃんと一緒に食糧の木箱を下ろしている間に、村人がわらわらと集まった。

 日持ちする食料があっという間になくなり、武器の類も叩き売りをした結果、あっさりと捌けた。

 人攫いの噂はミファゾ村にまで届いているようで、護身のための武具は喉から手が出るほどほしいのだろう。


 物々交換によって、家々で溜め込んでいたらしい毛皮や皮革が集まった。

 俺たちが訪れる前にテオジアの軍がこの村を通り、食糧を強引に徴収していったと言うのだ。

 そのために食べるものがほとんど底を尽きかけていたという。

 それならと、猫ちゃんが道すがら狩っていた動物の肉もすべて売り捌き、俺たちが食べる分の食糧の木箱をひとつ残してほとんどが嵩張る生活雑貨に変わった。

 俺が運び込んだものでは人口二百人の口を精々三食を糊するのにやっとだったが、それでもありがたがられた。

 特に猫ちゃんが道中仕留めた魔物の肉は、狩りに出られなかった村人から大いに喜ばれた。

 フードの下でふんすと胸を張っているのが可愛かった。


「おれっちは冒険者と名乗ってはいるが、実際のところ腕はからっきしだからな。その分足や頭を使っていろいろ情報を集めんのよ。テオジアではそういう仕事を専門に受けていてよ、少し暇をもらったんでこうして村に里帰りしてんのさ」


 帰ってみたら流行病に冒され、村一個なくなる寸前だったと笑いながら語った。

 それは大袈裟だろうが、時が過ぎればそうなっていても不思議はなかった。

 ノシオは久しぶりに帰郷したのだと、聞いてもいないのに話し始めた。

 テオジアでの仕事がひと段落してミファゾ村に戻ってみると、床に伏せって身動きの取れなくなっている母親を見つけた。

 一日帰るのが遅かったら誰にも看取られずに息を引き取ったかもしれないと思うと、ぞっとしたと言う。


「だからぴんぴんしているおれっちがよう、近くの村にダメ元で医者を呼びに行ったんだ。ここらだとドンレミ村がでけー村だからよぉ、そこに医者はいないかってよ。するとそこに村長の孫を治した聖女様がいるじゃねえか。おれっち頭を下げてこの村に連れてきたんさ」


 なるほど、このノシオが余計なことをしてくれたおかげで妹に会えない状態が続いているというわけか。

 と思ってみるが、これも運命とやらの仕業なのだろう。

 こんな目に見える形で翻弄されるなら、むしろ開き直って笑ってしまう。


 喋りながら案内されたノシオの家は、お世辞にも住みやすいとは言えなかった。

 端的に言えばボロ屋で強い風が吹けば倒壊しそうなほどみすぼらしかった。

 猫ちゃんが「馬小屋?」と、失礼なことを至極真面目な顔で言うものだから参った。

 苦笑いになって、ノシオには聞こえていませんように、と願った。

 幸いノシオには聞こえなかったみたいで、音痴な鼻歌を口ずさみながらあばら家に入っていく。


 中は饐えた臭いがした。

 ノシオは慣れた様子だ。

 ドンレミ村の村長宅とは雲泥の差だが、あえて口にすることでもない。

 まあ、生活水準が低ければこうなるだろう。

 彼の家はそもそもが村のはずれにあり、平均より下なのは察していたが。


 ノシオの家は部屋がふたつしかなった。

 入ってすぐに炉を囲む殺風景なガラクタの転がる居間があり、隣部屋はまだ寝たきりの母とノシオの寝所であるようだ。

 よくこんな家に泊まるように誘ったな! とは口が裂けても言ってはいけない。

 善人には優しくしなければ。

 というかこのノシオという男、見た目は醜悪で性根もねじ曲がってそうだが、案外心根が良くて驚いた。

 これまで顔面格差でさぞ苦労しただろうに。


 俺が内心で憐れんでいることも知らず、ノシオの口は良く滑った。

 自分がいままでどんな仕事をしてきたかを自慢げに語り、それがどんなに重要性の高い仕事かを胸を張って口にしていた。

 最近迷宮が現れて荒れた西端の地方を探ってきたというノシオは、そこでの領主たちの動きや勢いづいた魔物たちの出現場所についてたったひとりで調べ上げ、それは内心驚くほどで、俺の持つ情報とほぼ一致していた。

 優秀な諜報員なのは話を聞いていてすぐにわかった。

 相手が子どもだからと言って話し過ぎな気がしたが、それでも重要な価値を持つ迷宮の情報や依頼主についてはうまく伏せていた。

 俺も当事者だけあって依頼主については気になったが、それとなく探りを入れてものらりくらりと躱した。

 俺がなんとなく依頼主について興味を持っていることを察すると、話題自体を自然に変えてしまうくらいには頭も回るようだ。


 寝所には、藁の上に動物の毛皮を敷いただけの布団が二組あった。

 ノシオの母は整った顔の美熟女だった。

 尋常ではないやつれ方をしているが、女としての色香は失っていない。


 ふと思った。

 ノシオは冒険者、この村に長くいるわけではない。

 そしてノシオの母は女ひとりでこの暮らしを維持していかねばならない。

 地震が来たら真っ先に倒壊しそうなこの家も、立地から見れば村の中心から外れている。

 女ひとり。

 周囲には民家もなく、ちょっとくらい声を張り上げたところで誰にも聞かれない。


「…………」


 まあ邪推だろう。

 これ以上は想像するのも失礼に当たる。

 泊めてもらう身でとやかく言えることではないので詮索はやめておこう。


「ベルタと申します。何もなく、お構いもできなくてごめんなさいね……」


 身を起こしたノシオの母ベルタが、申し訳なさそうに言った。

 流行病は治したというが、まだ体調が悪そうである。


「ちょっと失礼しますね」


 部屋に入った瞬間、臭気は居間の比ではなかった。

 何の臭いと断定するのが難しいほど、いろんな臭いが混ざり合っている。

 こんな汚れた場所で病気にならない方がおかしいのかもしれない。

 酸っぱかったり、むわっとしたり、呼吸ができなくなりそうだ。


 まず、部屋全体に浄化をかけた。

 汚れという汚れが一塊になり、宙に浮く。

 ノシオもベルタも、驚いていた。

 彼らの反応に構わず、その汚れを外に出し、穴を掘って地中深くに埋めた。

 魔力で部屋全体を探ったが、敷き藁は腐り、動物の毛皮には黴菌が生えて、まさに雑菌の温床だった。

 他にも埃や泥といったものもあちこちに混ざっていた。


「おまえさん、魔術師だったのか……」

「病気を治してくれた小さな子たちにも驚いたけど、いまも人生で五本の指に入るくらい驚いたわ」


 俺は適当にほほ笑んで誤魔化し、ベルタの前にしゃがみこんだ。

 髪は油でてかりごわごわして、むっとする体臭が鼻を突いてくる。

 目元の皺が深く、目やにがこびりついているが、それでも顔立ちは綺麗なのだ。

 背筋もしっかりしている。

 俺は彼女に浄化を掛けた。

 一瞬ベルタの全身に水がかかり、熟女は少女のように声を上げて目を閉じた。

 「なにすんだよ!」とノシオが声を荒げたが、彼の手が伸びる前に、先程部屋にやってみせたように、汚れを球体にして浮かべた。

 ベルタの髪は艶を取り戻し、臭いも清潔なものとなった。

 今度こそノシオは口をあんぐりと開けた。

 小口を「まあ」と開いて上品に驚くベルタと彼を交互に見比べるが、どうにも親子とは思えないくらい似ていない。


「お袋がきれいになっちまいやがった……」

「体の痒さが消えたわ。嘘みたい……」


 彼女の掛けている毛布にはダニが大量にいたので、それも浄化の際に熱風で殺している。

 彼女の体の一部が皮膚病で覆われていたのだが、表面だけは浄化で消すことができた。


「これが最後の仕上げです」


 ベルタの手を取ると、ほっそりして冷たかった。

 手を取られたことに驚いていたが、嫌がる素振りはない。

 もし美女に手を振り払われたら、俺は生涯立ち直れないくらいの心の傷を負うだろう。

 チキンハート万歳。


 最後に彼女の身体全体に治癒魔術をかける。

 腕を生やすことはできなくとも、身体のどこかがしょっちゅう怪我して戻ってくる猫ちゃんを一瞬で治してしまえるくらいの腕はある。

 病気に対しても、どこに原因があるかさえわかっていれば、治癒はできる。


 ただし、治せない病は確かに存在する。

 命を喰う病だ。

 これはどんな治癒魔術でも治せないとニニアンも言っていた。

 体の機能が低下し過ぎているために、治療して健康になってもその体を維持する力がすでにないとかな。


 幸いベルタは死に至る病を患っているわけではなかった。

 発症して間もない性病。

 それと劣悪な環境に寄る皮膚病だ。

 肺やその他の内臓器官もそれぞれの病に冒されかかっていた。

 何も問うまい。

 女が生きるためには、望む望まぬに関わらず身体を汚さねばならないこともある。


「嘘……どこも痛くない……」


 ベルタは痩せぎすな自分の体をまさぐって、どこも悪くないか調子を確かめていた。

 腰を捩じったり、胸元に手を這わしたりと、その様子がなんだか色気に溢れていたので俺はつつっと目を逸らした。


 その日の夕食は、家の備蓄では足りないというので、ノシオは村を方々走り回って食べ物を掻き集めてきた。

 俺たちの方からも食糧を出そうかと提案したが、「そんなことされちまったらもうおれっちは自分が恥ずかしくて生きていけねえよ」と声を上げ、頑なに固辞された。

 親子ふたりは代わる代わる頭を下げていたが、泊めてもらうのに十分すぎるくらいだと俺は思っていた。

 外で野営するのなら、馬車の積み荷の間に体を押し込んでふたりで毛布にくるまって寝るだけだ。

 それでも別に構わないのだが、夜襲の危険が多少なりとも減るのだから、ありがたい申し出だ。


 家の横に繋いでいた馬二頭とじゃれる猫ちゃんを家に引っ張り込み、居間の木床でさあ寝ようかというところで、ふらつくベルタが寝所から顔を覗かせた。

 いつものように猫ちゃんとふたりしてひとつの毛布にくるまっていたが、「そんなところで寝かせられない」とベルタは俺たちを寝所まで引っ張っていった。

 彼女は病気を患っていた所為で痩せてはいたが、女性の柔らかさと立ち上る色香は失っていなかった。

 治癒して健康になり、その上浄化で汚れを落としたことで、むせ返るような匂いを漂わせていた。


 俺と猫ちゃんを両側に置き、腕を背中に回して抱き寄せてくれる。

 薄い服の上から押し上げられた乳房が顔の横に当たり、思わず股間が膨らむ。

 咄嗟に腰を引いたが、わずかにベルタの腿に当たってしまった。


「こんなに小さいのに立派だわ。ふたりで旅をしているの?」


 俺はニニアンという同行者がいたこと、妹を探して村の近隣を訪ねて回っていることを話した。

 もちろんニニアンがエルフだとか、妹と生き別れた理由についてはぼかした。


「わたしのふたりの恩人はなんと双子だったってことなのね。早く会えるといいわねえ。近くにいるはずだから、絶対に会えるよ」


 よしよしと頭を撫でてくれる。

 俺は素直に甘えることにした。


「なんだろうね、アルくんからはとっても良い匂いがするよ」

「ベルタさんだって甘い匂いがしますよ」


 お互いに目を閉じ、鼻を近づけて匂いを嗅ぐふりをする。


「こんなおばさんで申し訳ないけど、母親だと思っていいのよ?」


 暗闇の中、ベルタの目線が俺を通り越してノシオへと向けられた気がした。

 ノシオは軽い鼾を掻いて眠りこけている。

 眠りが深いようで、朝まで起きることはないだろう。


「そんなこと言われたら我慢できなくなります」

「こっちの女の子は我慢なんかしてないけど?」


 ベルタの豊満な胸を跨いだ向こうで、猫ちゃんは柔らかい豊乳に顔を押し付けてすやすやと眠っていた。

 俺とニニアンでは猫ちゃんに母親の愛情を与えてやれないからな。

 何の不安もないような安らかな顔をする猫ちゃんを見て思った。

 獅子系獣人のサーシャのときもそうだったが、猫ちゃんは大人の女性によく懐いた。


 そういえば獣人の耳が出ているが、ベルタは些細なことだと気にしていない。

 ノシオも猫ちゃんに対して獣人だからと態度を変えることはなかった。

 むしろ積極的に「食え食え」と肉片とか与えていた気がする。


「それではお言葉に甘えて」

「いらっしゃい」


 目を閉じて包まれるようなぬくもりに身を預けた。

 誰かに心を預けるってどうしてこうも気持ちがいいんだろうね。

 ベルタを通して、俺はマリノアやファビエンヌ、それからナルシェの姿を思い出していた。




○○○○○○○○○○○○○○○○




 閉じた目元が震えた。

 ゆっくりと開いた瞼の奥に、きらりと光る紺碧の瞳があった。

 素直に綺麗だとリエラは思ったが、口にするとなんだか自分がその綺麗な色に穢れを塗ってしまう気がして口を噤んだ。

 震える睫毛の奥でだんだんと理性の光が戻ってきて、その目は隅でおろおろするノシオに焦点が結ばれた。


「……ノシオ」

「おふくろぉ……」


 おんおんと泣き出したノシオを見て、母親は弱々しく微笑んだ。

 その場に蹲ってしまうノシオを呼びつけ、卑下するようにやってきた息子の背中に母親は優しく腕を回した。

 ノシオの泣きにさらに拍車がかかり、大の男とは思えないほどべそを掻く。

 それを見たリエラは、ああ、このふたりは親子なんだな、としみじみ思った。


 母親の意識が戻り、疾病が抜けていることがわかると、後は修道女の本来の役目だった。

 リエラは休んでなさいと引率の修道女に言われ、仕方なく足の踏み場もない居間を適当に片した。

 その間に他の修道女仲間は、動けない母親の体を拭いて清め、栄養のある温かいものをてきぱきと用意して食べさせてやっている。

 しきりに礼を言う彼女と鼻を垂らしたノシオを見て、やはり善人だなとリエラは思った。


 リエラとファビエンヌには他にも仕事が与えられた。

 村長のもとに連れて行かれ、面通しすると、ドンレミ村でやったように行列を作る村人に治癒をかけていくという仕事だ。

 魔力がまだ回復していないのか、ファビエンヌは十人くらいで早々に倒れてしまい、額に濡れ布巾を当てながらだるそうに寝そべっていた。

 リエラも最初の方は患者の顔を見て治癒魔術を詠唱していたが、そのうち作業のようになり、あまり顔を見なくなった。


 何十人と診察を終えて、リエラはふらふらと休憩のためにノシオの家を目指した。

 そこには他の修道女もいるはずだと思ったからだ。


「何をしてるの! やめて! 離れなさい!」


 女の沈痛な声が、ノシオの家から聞こえてきた。

 母親の声ではなく、もっと若い声だ。

 修道女の誰かかもしれないと、疲れた足に鞭を打ってリエラは走った。


 今には背の高いチェルシーが立って、寝室の前に立っていた。

 何なのだろうと脇から覗いてみれば、部屋には肌着を剥かれたベルタと、彼女に跨ろうとする村の男の姿があった。

 ベルタは乳を片方露わにしていて、リエラはすぐにこれは見てはいけないものだと思った。

 しかしチェルシーは怯むことなく部屋に入っていき、男の前で怒鳴る。


「そのひとに酷いことしないで!」

「なんだぁ? キーキーうっせえなあ。ガキは外に行ってろよ」

「このひとはさっきまで病気だったの! あなたがやろうとしていることは最低なことよ!」

「うるせえなあ。これから何するか本当にわかってんのかあ?」


 男は最初こそ怒声に怯んでいたが、チェルシーの切羽詰まった様子を見て逆ににやにやと笑い出した。

 そしてベルタの垂れているがずしりと重そうな乳を持ち上げて揉み始める。


「こういうことをするんだよお」

「ぅん……お願い、いまはやめて……子どもたちに見せないで……」

「うっせえ! おめえは金貰って男を楽しませるのが仕事だろうが! 村の男が誰もおまえで遊ばなったら明日からどうやって生きるってんだ? あぁっ!」

「最っ低、クズ野郎……」

「んだとコラッ!」


 吐き捨てるように言ったチェルシーの態度に逆上し、男が襲い掛かろうとした。


「やめて! その子に乱暴はしないで! わたしなら、わたしになら何をしてもいいから!」

「おまえは黙ってろ!」

「きゃっ」


 男の足に縋りついたベルタが蹴飛ばされて布団の上に倒れ込むのを見るなり、チェルシーは烈火のごとく男に殴りかかった。

 しかしその手は寸前で止まった。

 リエラが慌てて両腕を抑えたこともあったが、そんなものは五歳も年上のチェルシーにとって一瞬の抵抗でしかない。

 すぐさま振り払って殴りかかれたはずだが、いままで実は隅っこで蹲っていたノシオがチェルシーの前に立って、男と真正面から向き合ったからだ。


「出て行ってくれ」

「んだよノシオ、てめえまで邪魔するって言うのか? おれが村に言い触らせばおまえらこの村に居られなくなるんだぞ!」

「出て行ってくれ! うちのお袋に手を出すのは今後一切やめてくれ! 村の男全員だ! もう二度とお袋に関わらないでくれ!」


 ノシオが大声を上げて男に掴みかかった。

 小柄な彼では畑仕事で鍛えた壮年の男を前に比べるのも申し訳ないほど貧相だったが、足元の毛布で足を滑らせた男にノシオは馬乗りになった。


「もうお袋にひどいことをしないでくれよ、無茶言ってることくらいわかってるけどよぉ、おれっちのたったひとりのお袋なんだよ……大事にしてぇんだよ。おまえらの所為で苦しむお袋を見たくねえんだよ! ああわかってるよ! 村のやつらに縋らないと生きていけねえことくらいよぉ……でも、でもよぉ、おれっちが頑張ってお袋を支えるからよぉ、もうやめてくれよぉ……」


 男の上でぼろぼろと泣き始めたノシオを見て、ベルタが口を押さえて涙を流した。

 チェルシーも怒りと悲しみで頬が濡れていたし、人一倍感情移入の強いリエラももらい泣きしてしまった。

 なんだか状況がわからないが、村の男の人が悪者だと言うことはわかった。


 リエラは冷静にこの状況を観察し、そして何かしなきゃと思った。

 リエラだって、この村人の男はなんとなく雰囲気が嫌いだ。

 ノシオの母親に乱暴しようとしている時点で、敵として認識している。

 いますぐに出て行ってほしい。

 でも男を逆上させて大切な友だちであるチェルシーやノシオ、彼の母親が殴られるなんてことはあってはならない。

 だからリエラは、自分だけでもなんとか冷静でいようと努めていた。

 そして、おもむろに口を開く。


「あたし、村長さんに言います!」


 四人の目がリエラに集まった。

 何を言っているんだ? という目をされる。


「あたし、ノシオさんとお母さんに酷いことをするひとの怪我は治しませんから!」

「リエラ……あんたはいいんだよ。何もしなくていいから」


 チェルシーが肩を押さえて部屋から追い出そうとして来るが、リエラはその場に踏み止まった。


「おじさんの家族が病気になってもあたしとファビーは治しませんから! 村長さんや他の人に、ここで起こったことを話して、治さないことを認めてもらいますから!」

「そんなことができんのかよ……」


 村の男は青褪めていた。

 もとより自信があるほうではないのかもしれない。

 周りには弱った母と、小男のノシオ、それから未成年の少女がふたりしかいないのだ。

 それでもこの村に影響のある人間がリエラの一言で動き、村の男にとっては非情な裁可を下すかもしれない。

 その可能性を少しでも見てしまったら、無理に乱暴はできなくなる。


「……どけよ」


 男は低い声で乱暴に言い捨てると、ノシオをあっさりと突き飛ばした。

 ひっくり返ったノシオに目も向けず、男は立ち上がりベルタを睨む。


「てめえら、この村で生きていけると思うなよ」

「その言葉もそっくりそのまま村長に伝えるんだからな!」

「ちっ」


 男は吐き捨てると、チェルシーとリエラを順繰りに睨み付けて出て行った。

 危険が去ったと感じるまで、誰ひとり言葉を発しなかった。

 息子を抱き締め震える母親の小さな背中だけが、妙にリエラの印象に残った。





 その後チェルシーは誰とも口を聞くことなく、畑の石垣に座り込んで、夕暮れを過ぎても耕したばかりの畑をじっと睨んでいた。

 リエラは遅れてやってきたファビエンヌと顔を見合わせると、チェルシーの横にふたりして陣取った。

 それでもチェルシーはこちらに目を向けない。

 ファビエンヌは事情をかいつまんで聞いたとは言え、何か言葉を掛けてあげられそうになかった。

 リエラはチェルシーの手を強引に握って、言葉を掛けた。


「大丈夫だよ、チェルシー」


 こう見えてチェルシーは背が高い癖に臆病だ。

 さっきだって男の前に立って震えているのが腕を掴んで止めようとするリエラには伝わってきていた。


「……ありがとう、リエラ。あと、ファビーも。うん、大丈夫、わたしは大丈夫だから」

「それはよかった」


 ファビエンヌがあっさりと頷くが、まだよくはないと思う。

 なんだか直感だが、そう思う。

 チェルシーの様子を見れば、それが言葉だけだとわかる。

 なぜチェルシーがあんなにも男に食ってかかったのか。

 それはきっと、チェルシーが商人と妾の間に生まれた子どもで、母親にあっさりと捨てられ父親によってこの修道院に厄介払いされたことが原因だろう。

 夫でもない男からお金をもらって、背信的な行為をしようとすることがチェルシーには許せなかったのだろう。


「ベルタさんね、チェルシーにありがとうって、お礼を言いたいって」

「……うん」

「ノシオさんもチェルシーが言ってくれなかったら自分も変われなかったって。感謝してるって」

「……うん。ぐす」


 鼻声になったチェルシーは、またぐずぐずと泣き出してしまった。

 リエラがチェルシーの手を握っているので、ファビエンヌはチェルシーの背中をさすっていた。


「リエラの手はこんなに小っちゃいのにね。迷惑かけてごめん。わたしがいちばんお姉さんでしっかりしなきゃなのに」

「チェルシーはすごかったよ。大人のひとに悪いことはダメって言えたんだから」

「そうよ。リエラと一緒になって村の男を追い払ったんでしょ? 誰に何を謝ることがあるのよ」


 ファビエンヌの慰めの言葉はチェルシーの表情を逆に険しくした。

 そして俯いて、拒むように首を横に振る。


「ちがうの……そうじゃないの……わたし自分のことしか考えてなかった。あのひとがどうなるかってことより、自分が許せなかったから。それだけなの。たぶん止めに入らなかったらわたしあのひとのことも軽蔑してた。ううん、もうしてる。そんなふうに思いたくないのに、どうしようもないことだってわかってるのに、それなのに許して受け入れてあげられない自分が嫌なの」

「それは許さなきゃいけないことなのかな。チェルシーの中で許しちゃいけないと思ってることなら、あたしはそのままの方がいいと思う。受け入れられないなら受け入れられないなりに考えていくしかないと思うな。きっと考えることを止めることこそ、許しちゃいけないんだと思うよ」


 リエラには正直こんがらがって把握しづらかったことだが、チェルシーには伝わるものがあったようだ。

 膝を抱えたまま、「ありがと」と小さく呟いた。





 帰り道、橙色に染める小道をリエラはファビエンヌやチェルシーの間に挟まれ、手を振って歩いた。

 楽しかった。

 チェルシーの顔には泣き腫らした痕があったけれど、顔は晴れ晴れとしていた。


「チェルシーって実は泣き虫だよね」

「うっさいなあ。そういうファビエンヌだって死人みたいな顔してるだろ」

「これはただの魔力切れの副作用ですー」

「わたしだって武者震いしてただけだもん」

「あははー」

「「リエラ笑うなー!」」

「あははははっ!」


 苦しいことがあった。

 悲しいこともあった。

 それでも笑うことができる。

 横には苦楽を共にする友だちがいた。

 それで十分だった。

 あと欲を言えば、お兄ちゃんと一緒なら言うことはないのだ。


 横道からふたり組が現れ、三人の前に出て道を塞いだ。

 ふたりともフードを被って旅装姿だが、服の上の凹凸から女性だと分かる。

 ファビエンヌはすばやく手を離し、太ももに仕込んだ短剣を抜いた。

 チェルシーも動き、リエラを守るように立った。


「ちっ……人攫いかしら? 村から外れてるから、声を上げても助けが来るかわからないわね……」

「ファビエンヌ、わたしが時間を稼ぐから、そのうちに人を呼びに走って」

「チェルシーって戦う力なんてあったっけ?」

「こんなときのために、妹分を守る気概だけは持ってる」

「……いい姉貴分よね」


 ファビエンヌがずいと前に出る。

 短剣を構える姿は、それなりに様になっている。

 修道院の中では一度も抜かなかったが、ファビエンヌが旅を続けていた頃は危険なんて向こうからやってきたと呆れながら話してくれたこともある。

 だが、相手を見る。

 武装しており、しかも男に負けない大柄な体躯だ。

 日に焼けて野性味溢れる女性と、その横に鎧の重装備の槌を肩に担いだ豊満な女性。


「あなたたち、一体何の用があって道を塞ぐの!」


 ファビエンヌが牽制の声を張り上げる。

 近くに人がいれば、怪しんで駆けつけてきてくれるかもしれない。


「いやあ、悪い。おまえさん方、修道院の格好をしてるってことは、村々を訪問してる修道女だよな? もしかして三人のうち誰か治癒魔術を使えるかい? 捜してんだよ」

「ええ、わたしとリエラは中級が使えるわ」

「中級ってことは、怪我のほかに病気も治せるのか?」

「ええ、切り傷骨折、病気から体の異常にはだいたい対応しているわ」


 警戒しているから端的に話しているつもりなのだろうが、ファビエンヌの言い方がなんだか商売人ぽいなとリエラは思った。


「そりゃ助かるぜ。ツレがこのあたりの流行病に当たっちまってよ、動けないんだ」

「それは大変ね。すごい熱でうなされているはずよ。お大事に。最期くらい仲間が看取ってあげたらいいわ」

「そりゃないぜ。頼むよ、こっちも余裕がないんだ」


 野性味溢れる長身の女が剣を地面に突き刺し、丸腰であることを手を開いて見せてくる。

 しかし腕を広げたときに見えた筋骨隆々の腕は、細首の自分たちをあっさりくびり殺してしまいそうだ。

 そのために油断はできない。


「チェルシー、ファビー、待って」

「リエラ?」

「あの……その人は危ないんですか?」

「……ああ、身体中に紫のぶちぶちができて、寝込んで起きないんだ。苦しそうだし、いまにも死んじまいそうなんだよ」

「それはまずいです。危ないところだと思います」

「マジか。アタシの説明でもわかるのか。じゃあかなりやべえな。おいメル――」

「メーテルよ。よろしく」

「あ! あー、アタシはサー……サリア! よろしくな!」

「メーテルさん、サーサリアさん、急ぎましょう! ファビーも!」

「いや、サリアな?」

「はぁ……わかったわよ。どこの村? 馬車に乗って半日で着けるかしら」

「いや、それには及ばねえよ。よっこいしょ」

「え?」

「ええ?」


 ファビエンヌとリエラは間の抜けた声を上げる。

 それもそのはず、フードをかぶって目元まで隠した巨躯な女性に、両脇にあっさりと抱えられてしまったのだ。

 抵抗する間もなかった。


「アタシの足ですぐに連れてってやる」

「ちょっと待って! わたしたち修道女のみんなと一緒に来てて――」

「固いことは言いっこなしだよお嬢ちゃん。今大事なのが何か考えたら、迷ってる暇なんかねえよ」

「それはそうかもしれないけど、それ、貴女のセリフじゃないわ! こっちから言うべきセリフよ!」

「こまけえなあ。そんなことじゃあ男に煙たがられるぜ」


「む……」と、ファビエンヌは言葉を……呑み込まなかった。「って、なんであんたに男のことまでとやかく言われなきゃいけないのよ! いいから下ろしなさいよ! バカ! 巨人! 汗臭いのよ!」

 脇に抱えられながら見上げたファビエンヌは、フードの奥の目が一瞬きらりと獣じみた光を発したように見え、少し怯えた。

 瞳孔が縦に割れている。

 心なしか、汗の臭いに混じって獣の臭いもする。


「貴女、もしかして獣人?」

「おっと……それ以上は口を開くな。察しが良すぎても長生きできないぜ。というわけで特急で行くぜ。目を回さないように気を付けてくれよ」

「人の話を聞きなさいよ!」


 フードの女が駆け出すと、景色は風のように通り過ぎて行った。

 あまりに豪快な人攫いに、チェルシーはぽかんと口を開けて、声を上げることも忘れている始末だった。


「そこの嬢ちゃん、追いかけてくるならシドレー村に来るといいぜ!」


 駆け出す獣人女?の後に、地面から剣を引き抜き肩に担いだメーテルもついていく。


「ちょ、ちょっとぉー!」

「チェルシー! あとお願いー!」


 リエラはチェルシーにぶんぶんとちぎれるくらい手を振った。

 ファビエンヌは「なんでわたしまで……」と、疲れた顔を一層青くして項垂れていた。

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