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異世界旅行は落ち着かない  作者: 多真樹
第二部 少年時代 三章 家族捜索
132/204

第71話 奇跡の子どもたち

今回はアルとリエラの話しか書いていないという……。


 翌朝、拘束を解いた五人と目的地のドンレミ村に辿り着いた。


「世話になった……とは言わないからな。世話してやったんだ、アタシが」

「本当ですよ、まったくもう」


 サーシャはつんつんして不機嫌そうだし、メルデノは柔らかな表情だが少し怒っている気がする。


「どうもありがとうございました。また機会があればお願いします」

「……約束はまだ果たせてないからな。もっと大きく逞しくなったら、もっと良いことしてやるよ」

「ええ、そのときは楽しみです。将来に期待ですね」


 険悪かと思った雰囲気はあっという間に氷解して、気の良いお姉さんのような顔になった。

 子どもにしてやられたという口惜しさが半分、年下を可愛がりたい気持ち半分というところだ。


「元気に育てよ、チビ。いっぱい食っていっぱい寝ろよ」

「んにゃ、おっきくにゃる。ミィニャごはん大好き。寝るのも好きー」

「余計なお世話かと思いますが、探し人が見つかるといいですね」

「ん。そっちも」


 サーシャと猫ちゃん、メルデノとニニアンが言葉を交わしている。

 獅子系獣人のサーシャにぐりぐりと頭を撫でられて満更でもない猫ちゃんの様子は見ていて微笑ましい。

 獣人同士は気が合った様子だが、反対に半ドワーフとエルフは目を合わせていない。

 ニニアンの方が目を合わせないようにしている気がする。

 ドワーフは土臭くて苦手と言っていたからな。

 肌に吸い付いたけど、どこも土っぽくなかったんだけどな。

 精神的なものだろう。


 村の入り口前で彼女らと別れることになったのだが、結局、何が目的だったのかも聞くことはできなかった。

 聞いてもはぐらかされてばっかりだったし。

 そこは口の軽いサーシャでも思わず滑らせることはなかった。


「お互い詮索をされたくないんじゃないか? 獣人の小娘にエルフと旅する子どもなんて、事情が山ほどありそうじゃないか。それを誰彼構わず話せるのかよ」


 と昨夜、言われた。

 そりゃそうだ。

 もちろんできない。

 猫ちゃんのことはまだいい。

 東の大平原で奴隷から解放して傍に置いていると話せば済む。

 しかしエルフの事情は難しい。

 ニニアンが、とあるエルフを追っているのもいいとしよう。

 しかし、そこに俺たちみたいな子どもがくっついている意味が、客観的に見ても分からない。

 俺がニニアンの追うニシェル=ニシェスというエルフと知り合いだということを話せば、なぜ知り合いなのかと問われるだろう。

 どこかで言葉を濁すだろうが、一生に一度だって会えるかわからないエルフとふたりも知り合っている時点で、その背景を怪しまれるのは当然だ。


 いちばん気づかれたくないのは、ラインゴールドの生き残りだということだった。

 どこに耳があるのかもわからない。

 いまの国のトップが変わって国に変動が起きるでもないかぎり、身分を明かすのは面倒を増やすだけだ。

 まあ、サーシャやメルデノに話したところで「ふーん」で終わりそうな話だが、とにかくそんな理由から、俺はこちらの事情をなにひとつ話していなかった。

 修道院にいる妹と再会を望んでいたら、どこかの村へ向かったというから馬車で追いかけている、と話してあるだけだ。


 昨夜寝付く前に、ふたりから生い立ちを少しと、幸せな家庭を望んでいるというようなことをちらりと聞いた。

 ふたりは元は奴隷だったらしい。

 一緒に解放され、そのときの縁で今日まで行動を共にしてきたと言う。

 苦楽を共にしたことで、ふたりの絆は強く結ばれていた。

 俺とリエラも、苦痛の日々を耐え切ったことでお互いを大事に思う心が強くなった。

 この世界に来てから、双子の妹と言われてもどこか親戚の姪っ子を見るような気持だったが、いまでは身内意識を誰よりも感じている。

 逆にリエラが俺のことをちっとも気にしてなかったらどうしよう……。

 「は? 兄貴? あっしにはいらねーもんだし」とか言い始めてたらどうすればいいんだ……。


 ともかく境遇が似ている気がしないでもないので、彼女たちには親近感が涌いた。

 言葉を交わし、肌に触れてみて、彼女らに悪意はないと結論付けた。

 決して女の武器に翻弄されたわけではない。

 俺が男の武器で心酔させたったんだよとか言ったら、サーシャあたりに鼻で笑われそうなので言わないが。


「じゃあ」

「ああ」

「お元気で」


 手を振り、別れる。

 猫ちゃんは全身でぶんぶんと手を振り返していた。

 昨日はいろいろあったが、朝食を済ます頃には歳の離れた姉妹のように仲良くなった。

 サーシャは後に引きずらない性格のようで、幼いながらも自分を圧倒した猫ちゃんを認め、可愛がっていた。

 弓の扱い方を冒険者なりに伝授してもいたから、あの恨み節はなんだったのかと疑いたくなる。


 ただ、男三人はどうしても仲良くなれなかった。

 彼女らの秘匿する目的とやらのために、男らは仲良くすることを良しとしなかった。

 俺もむさいおっさんたちと仲良くするつもりはないので、変な気さえ起こさないならと放置していた。


 サーシャたちとも別れて、俺はドンレミ村を訪ねているはずの妹を探し始めた。

 荷物はこの村の村長に直接届けることになっているので、届けがてら聞いてみることにしよう。


「アル、良い匂いが向こうから漂ってくる」

「お腹ぺこぺこにゃ~」

「朝ごはんだって食べたばかりでしょ。我慢できないの?」

「無理だ」

「むり~」

「はぁ、じゃあ先に食べてきていいから。俺は商談が済んだら合流するよ」

「わかった」

「うんにゃ」

「ちゃんとフードをかぶれよー」

「わかってる」

「あーい」


 ここで「食事はアルと一緒じゃにゃいと嫌にゃー」と猫ちゃんが言ってくれれば、胸を打たれて感動に咽び泣いただろうが、現実は甘くない。

 花より団子。

 俺が差し出した銀貨銅貨の詰まった小袋をひったくるや否や、ニニアンと猫ちゃんは馭者台から飛び降りて、良い匂いを漂わせる飯屋に飛び込んでしまった。

 俺<飯。

 なんだか切なくなったのは内緒だ。




 ドンレミ村は国境の砦から大都市テオジアの間にあり、宿屋や商家も多いので宿町として栄えていた。

 周囲を小高い丘に囲まれた盆地で、村の周囲は畑が広がっている。

 五十年前までは北の巌と評されるアイアンフッド王国との主戦場になっていて、その名残か北側の丘には物々しい見張り砦が築かれている。

 要所としての機能は宿町だけではない。

 北の村々からテオジアに農作物を運び入れるとき、必ずこのドンレミ村を通るのだ。

 人口は三千人ほどで、ここいら一体で最大規模の村だった。

 鍛冶屋や衣料の作業場が一角に立ち並んでいるが、それでも大半の村民は農家である。


 ひとりになって村の様子を見て回りながら、いちばん活気のある中央通りに馬車を進める。

 すれ違う農民は馬車を操っているのが子どもだと分かると驚いたような顔をする。

 この世界の農民は多くが学のないものばかりだ。

 自分の村から一生出ることもなく、畑を耕し、種を撒き、葉を育て、実りを収穫し、税として領主に納める。

 毎年がその繰り返しで、彼らは冬を耐え、また春が来れば種を撒くサイクルができている。

 たとえ野盗に襲われ、魔物に喰われ、敵国に蹂躙され、天災により収穫が減っても、農民たちはまたどこからか村を作り畑を耕す。

 生きるために食い扶持をなんとかしなければならないから、ただただ作物を育てるしかない。

 追われるような生活を繰り返していく。


 そんな彼らは流行病、感染症、戦禍、そういったものに耐性がなかった。

 修道院から少女たちが訪れるのも、ただの慰問の効果しかない。

 少女らは病に臥せるものたちの体を拭き、わずかな食糧を配って回るのが関の山だ。

 リエラやファビエンヌのように、治癒魔術を使える人間はいままでいなかっただろう。

 それほどに治癒術師とは数少ないものだ。

 ゆえに、魔力が存在し、怪我や病をあっという間に治してしまう治癒魔術が存在したとしても、魔術に頼らない医者はいたし、農民の間では病は悪魔の手によるものと畏れられ祈ることで救いを求めた。

 信仰心が強いのも、彼らが災いに対して無力なためだった。

 病には何の信憑性もない民間療法が当たり前に適応されている。


 俺のいた世界だって、中世欧州では黒死病が猛威を振るったが、それに対しほとんど治療法を見つけられずにいた。

 百薬の長だと言ってワインを飲み、一角獣の角を呑めば解毒されると信じて輸入したインドサイの角を粉にして服用したらしい。

 解毒薬には、魔女の秘薬、蛇の皮、蛙の心臓、牡山羊の肝臓などなど、しまいには絞首刑で死んだ罪人の頭蓋骨に生えた苔には万能薬の効果があるとして高値で平気で取引されていたのだから、現代を生きていた俺の価値観からは遠く離れている。

 この世界の農村は、俺の理解の範疇から超えている確証のない治療法で溢れていた。

 魔力があってよかったとしみじみ思う。


 こんな実話がある。

 とある村を流行病が襲った。

 村人たちの取った行動は、彼らが神木と崇める池の中に生える木の根を取ってきて乾燥させ、粉末にして飲む行為だった。

 その木は、まったく効能のないどころか、緩やかに体を蝕む毒であった。

 ある日を境に流行病の症状が緩和する。

 これはただ単に流行病に対する免疫が体内でできただけだが、村人はその効果を神木のおかげだと地面に額を擦り付けて喜んだ。

 しかし神木の慢性的な毒が村を襲う。

 村の二割近くが流行病で亡くなり、落ち着いた頃にまた死亡者が増え始めた。

 彼らは神の奇跡を一心に信じ、毒を煽り続けることとなった。

 生まれる子どもはまともな姿をしておらず、皮膚がどろどろに溶け落ちても、それを神木の粉末の所為だとは誰も思わない。

 そうして村ひとつが死に絶えても、誰も疑うことがなかった。

 信仰とは恐ろしいものである。


 この世界には治癒魔術がある。

 しかし治癒魔術を扱えるものは、大抵が国のお抱えになることが多い。

 国のトップ、あるいは軍に治癒魔術師の多くを取られてしまい、エド神官のような巡回治癒術師は少ない。

 また治癒魔術という特効薬の所為で、病魔の解明も遅れているのが現実だった。


 この世界には七種類の人種がいるとされる。

 その中でも人族は、この世界で特に数が多く、知能が高く、繁栄の度合いも他と比べ物にならない。

 しかし残念なことに、体内の魔力を魔術として形にできるほどの力を持ったものが全体の二割ほどしかいない。

 魔術師と呼ばれる中でも、治癒魔術を扱えるものはさらに一割に満たない。

 リエラとファビエンヌの存在がどれほど貴重か、俺は思ったよりも軽視しすぎていた。

 遠くないうちに後悔することになる。


「これはこれは、若い坊やがどうしたかね?」

「テオジアから荷運びを依頼されました。これがその契約書です」


 俺は村長宅を訪れ、出てきた穏やかな顔の村長に商会で発行してもらった証書を手渡した。

 村長は証書を矯めつ眇めつ眺め、嘘が書かれていないか見破ろうとしている。


「なるほど、ふむ。誰かほかに大人はおらんのかね?」

「いえ、ぼくが代表です」

「でしたら荷をすべて下ろしてもいいかの。お支払いする代金が手元にはないんで、代わりにこの村の作物や民芸品を引き取っていただくことになるが……意味はわかるかね?」

「大丈夫です。こちらもそう伺っているので物々交換で構いません。それとひとつお聞きしたいことがありまして――」


 そこまで続けたところで、村長の後ろからひょっこりと、俺と背丈の近い男の子が顔を見せた。


「じいちゃん、馬車きた?」

「これ、話し中に入ってきてはダメじゃよ。それにまだ体力が戻っていないのだから、しっかりと寝ていなさい」

「もう大丈夫だって。おれぁもう元気だってばよ」


 少年は栗毛の髪をしていて、勝気な目を村長から俺に向けてくる。


「おまえ引っ越してきたのか?」

「違うよ、商売だよ。それと人探し」

「人探し?」

「誰をじゃ?」

「この村に修道院の女の子が訪ねていると思うんですが、いまどこにいるかわかりますか?」


 俺が少年を無視して村長に目を向けると、むっとしたのか少年はずいと間に立った。


「修道院の子たちかい? おれ知ってるよ! でもおまえみたいな生意気なやつには教えてやれないなあ」


 俺は少年の頭を掴み、ぐいっと押しのけて村長と顔を合わせた。

 まさかそんなふうに邪魔者扱いされるとは思っていなかったようで、少年は反抗心を目に燃やして掴みかかろうとしてきた。


「まあまあ、落ち着きなさい。ちゃんと話すよ」


 村長に首根っこを掴まれて少年は動けなくなるが、暴れて俺に殴りかかろうとしてくるが、とりあえず無視した。


「で? 修道院の子たちはどこにいるの」

「おまえになんか教えるかよ!」

「これ、ヘルトン、黙ってなさい」

「でもよぉ、じいちゃん!」

「邪魔をするならわしも怒らねばならん」


 穏やかだった村長の雰囲気が強烈なものになった。

 思わず俺も身構える。

 災難なのは少年だ。

 間近で圧倒されて、がくがくと震えている。

 この村長、普通に戦えるひとじゃないか。


「わ、わかったよ。ごめんなさい」

「謝る相手が違うじゃろ」

「うっ……ごめん」


 嫌そうに、不承不承といった様子で少年は頭を下げた。

 至極どうでもいいなと心の中で思いつつ、「まあ許してやろう」と尊大に頷いてやった。

 心の器は限りなく小さかった。


「それで、修道女ですけど」

「今朝、隣村に行っちまったよ。向こうではここよりも流行病が蔓延しているらしくってさ、あの奇跡の手が必要なんだと」

「そうじゃのう、ここに丸一日も留まっていかなかったのう」


 村長にもそう言われ、俺は気落ちした。

 師匠の残した言葉が思い返される。


“いくら追っても会うことはできぬ。そういう運命にあるからじゃ”


 追いかけても追いかけても、決して手の届かないところにリエラはいるらしい。

 それは運命という、強引な何かに無理やり引き離されているのか。

 阻むのが魔物なら、覚悟を決めて倒すだけだ。

 しかし目に見えない運命とやらを倒すすべはない。

 妹が病魔の蔓延する村に向かったという。

 もし病をもらって臥せっていたらどうしよう。

 ファビエンヌが何とかしているだろうが、こういうものは想像するだけでそわそわしてしまうものだ。


「すぐに出発しようかな」


 俺は颯爽と馭者台に乗り込んだ。


「待ちなさい。わざわざ運んでくだすった荷をまだ下ろしてもいないというのに、そんなに焦る必要もないじゃろう」

「なんだよ、急いでるのかよ。なにがあるってんだよ」

「うるさいな。子どもはうんちして寝てろ」

「なんだよその言い方。バカにしてんのか」

「おまえととやかくやってる暇はないんだよ」

「もう行くのかよ。じゃあさ、あの子たちに会ったら村長の孫のヘルトンがお礼を言いたいって伝えてくれよ。また会えるなら、えっと、できればまた会いたいなって。とくに髪の赤い子に……」


 顔を染めて俯く少年を見て、察しないほど鈍感ではない。

 俺は馭者台から飛び降り、少年ことヘルトンに詰め寄った。


「うちの妹にちょっかい掛けたらはっ倒すぞガキが」

「わ、わっ、な、なんだよ、おまえの妹なのかよ! 全然似てないな!」

「似てないわけないだろ、双子だぞ。ちょっと髪の色が違って、性別が違くて、性格が正反対なだけだろうが」

「それもうほとんど他人じゃん!」

「なんだと! うちの可愛い可愛いリエラに色目使うなガキが」

「お、おまえもガキだろ!」

「ちんちんに毛も生えてないガキのくせに!」

「おお、おまえだって生えてないだろうがっ!」

「ふん、俺は昨日お姉さんふたりと裸でチョメチョメしたもんね。ふふん、ママのおっぱいが恋しい甘ちゃんとは違うのだよ」

「ちょ、チョメチョメだって……!」


 少年は目を見開いた。

 そして己の分の悪さを感じて歯を食いしばった。

 俺は優越感を覚えた。

 鼻高々だ。

 心の器がいまはポークビッツ並みに小さくなっている。


「お、お姉さんって、どんなお姉さんだよ」

「二十代後半の美女ふたりだ。どーだ、羨ましかろう?」


 「二十代後半!」少年はくわっと刮目した。

 そして続けざまに言った。


「ばばあじゃん!」

「おいおまえ世界中の女性の七割を敵に回したぞ」

「なんだよそれー。驚いて損したぜ」


 興味を失ったと言わんばかりに少年は足元の石ころを蹴飛ばした。


「バカ、おまえバカ。二十代後半の良さがわからないとか、いっぺんママのお腹からやり直してきなさいよ」

「だって母ちゃんと同じくらいじゃん」

「…………」

「俺の母ちゃん、いま三十だぞ。同じくらいだろ」

「……言われてみればそうなるな」


 目の前の少年の歳なら、二十代の母親だって十分あり得るだろう。

 むしろここは異世界なのだ。

 普通に平均年齢が低いし、医療もろくに確立されていないために寿命が短い。

 六十も生きれれば長寿になってしまうような世界だ。

 十代で子どもを産むなんてざらにある。

 むしろ二十で結婚できないと行き遅れと後ろ指さされるくらいだ。


 かくいうパパジャンとママセラは結婚が遅い方で、えーっと、俺が九歳で、俺たちを産んだのが確か二十一歳だった気がするから、だいたいいまは三十路くらいか?

 なんてこった。

 衝撃を受ける。

 考えてみればわかりそうなものだが、俺は自分の母親と近い歳の美女に性教育されたのか。

 背徳感で興奮してしまう。


 そしてこのヘルトン少年にとっては、魅力的な女性とは年齢の近い女の子のことを示すのだろう。

 ひとの妹に気がある素振りを見せるし、早めに始末した方がいいだろうか?

 まあまだ若い。

 気変わりなんていくらでもするだろう。

 リエラは神々しすぎて自分に相応しくないと思い知る日が来るはずだ。


 そして非常に残念なことに、俺が二十歳になる頃には二十後半の美女ふたりは四十前になってしまう。

 それでも綺麗だろうな、サーシャとメルデノ。

 亜人は人族より長生きだと言うし、老いも遅いと言う。

 五十を超えても十代後半のような瑞々しいエルフもいるくらいだ。

 自分たちとは時間の経過が違う亜人だからこそ、人族は恐れるのだろう。

 もったいない。


「……積み荷を降ろしてもいいかね?」


 黙ってなりゆきを見守っていた村長が口を挟んできて、ようやく冷静になれた気がした。

 それに、いくら遠ざかっても、最愛の妹を目指す旅の目的は変わらない。

 今朝と言うことは、たった半日の距離にいるということだ。

 どうせ急いだところで会えない可能性の方が高かった。

 要は、妹の足取りをちゃんと追えていればいいのだ。

 修道女の集団は嫌でも目立つから、追うに困らない。


「こちらの積み荷はすぐに用意させよう。夕方までには集まるじゃろ」


 そう言って村長は、ヘルトン少年を家の中に遣いにやった。

 用を頼まれたヘルトン少年は、まるで王命を賜った騎士のように胸を張って、急いで駆け込んでいった。

 きっと積み荷は家人の誰かが用意するのだろう。

 村長と話していると、村人が駆け込んできた。


「村長! 村長――っ!」

「どうしたというのじゃ、息を切らせて」

「ベルフのとこのガキが流行病に罹ってやべえんだ。全身に紫の斑点が浮いてる!」

「なんじゃと? なぜ昨日治療に来なかったんじゃ」

「あそこのばあちゃんが魔術を毛嫌いしているのは知ってるだろ。なんとか自分たちだけで治そうと祈祷やらまじないで手は尽くしたみたいなんだが……もう一刻の猶予もねえよ」


 祈りで怪我が治るなら治癒術師はいらない。

 思い込みの力も快復の助けとなるだろうが、根本的な治療にはならないだろう。

 古い人間は盲目的で、迷信を当たり前のように正しいと信じているからな。

 俺はどこか遠くの出来事のようにふたりの会話を聞いていた。


「修道女たちはもう次の村に行ってしまったぞ」

「なんとか連れ戻すわけにはいかないんですか、村長! 子どもが死ぬなんて、オラぁ見たくねえよ」

「それはわしだって同じ思いじゃ……だが、この村以上に流行病が蔓延している村もある。いまにも何十人と死にそうなところに治癒術が使える彼女らが行かんでどうする。たったひとりの子どものために連れ戻すことはわしにはできんのじゃよ」

「そんな……」


 修道女と聞いて、耳がぴくりと動いた。

 そうか、リエラたちはこの村で治療を行っていたんだった。

 リエラとファビエンヌのふたりがたくさん助けた命なのに、俺が見捨てるのもおかしな話だ。


「だったら俺が治してあげるよ」

「なんじゃと?」

「おまえが?」


 村長と男から訝しげな眼を向けられたが、まあしょうがない。


「とにかく案内してよ。やばそうなひとをひとまとめで治してみせるから」

「そんなに簡単に治せるものじゃないんじゃ。大人だって手立てがないんじゃからな」

「こんな子どもの言うことを真に受けるもんじゃないです、村長。子どもは嘘しか言わねえ。それよりも商都に人を使わすしか……」

「わしの息子が商都に行ったがダメじゃったよ。入れ違いに修道女様方がやってきたおかげで孫は一命を取り留めたがの」


 どうやら子ども扱いして聞く耳を持たないらしい。

 それなら放っておけばいいのだが、やはり侮られたままでは癪に障る。

 商都で足元に金貨を投げつけてきた貴族のときにも思ったが、自分、かなり負けず嫌いだ。


 魔力を探る。

 病に臥せっている人間と言うのは、決まって体内の魔力がうまく循環していない。

 範囲を広げて魔力に異常がある人間を探す。


「……げぇ」


 思わず蛙を潰したような声が喉奥から出た。

 なんだなんだと村長と男が顔を向けてくる。


「病気を発症して寝込んでる人間が十人以上いる……それから、まだ発症してないだけで数日後に倒れる見込みの人間が百人……いや、二百人ちょいも」

「適当なことを言うな!」

「……それが本当なら一大事だがの」


 どうやら流行病は生命力が強いようだ。ちょっとしたことで感染し、瞬く間に人間の生活圏を脅かしている。

 これではリエラたちの手に負えないだろう。

 大繁殖したネズミを一匹一匹殺すようなものだ。

 巣穴を潰さなければいくらでも湧き出てくるだろう。

 そして増える量は殺す分をはるかに上回る。

 これは広範囲な殺鼠剤を撒く必要があるな。

 俺の魔力で足りるだろうか。


「じゃあ証拠に寝込んでる人を治して回りましょうか。リエラの兄だってところをがつんと見せてやりますよ」

「や、お手柔らかに頼みますぞ」


 正直、非効率すぎて笑えてくるが、信用を勝ち得るためだ。

 早速村長と男を引き連れ手近な家に押し入った。

 家主は青白い顔をして不審感を露わにしていたが、村長を見てなんとか文句を飲み込んだ。

 というかこの男もすでに病気持ちだった。

 男に向けて無詠唱で【ヒーリング】をかける。

 温かな風が吹き抜けていき、男の顔色に少しだけ赤みが差した。

 男の喜ぶ顔などどうでもいいので、すたすたと脇を通り抜ける。


 奥の部屋に行くと、体中に紫の斑点が浮いた妻が熱に浮かされて、薄い布団に寝かされていた。

 すぐ横に屈みこみ、すぐさま【ヒーリング】をかけて体内の病魔を殺し魔力の流れを正常に戻してやる。

 処置時間は一分くらいだ。

 俺の魔力はほとんど減っていない。

 病原菌を殺して体調を快復させてやっているだけだからそんなに魔力コストはかからないのだろう。

 進行具合もそれほどひどくはなかった。

 体細胞が変質してドロドロに溶け皮膚を破って出血となると、治療に魔力を喰うことになる。


「おお、斑点が消えてる!」

「本当に治癒魔術を使えるのじゃな……」


 ふたりが感心している前で立ち上がり、部屋を出た。


「次の病人のところに行くよ」

「あ、ああ!」

「わしは夢でも見ているんじゃろうか……」

「ありがとうございます! 妻を救ってくださり、感謝の言葉もございません」


 泣いて喜ぶ家主にひらひらと手を振り、次の家に押し込みをかける。

 治して次の家へ。

 移動の間にも通りすがりの感染者を癒して回ったが、こんなことをしても局所的な効果しかない。

 一度治した人間には抵抗力がつくから、二度の感染の心配はないだろうが、それでもこの村には三千人近い予備軍がいるわけで……。


 三件目で村長宅に駆け込んできた男の知り合いの子どもを治し、老婆に「悪魔の子」やら「魔導師の手先」と散々罵倒された挙句物まで投げつけられるというアクシデントはあったものの、村長たちの考えは百八十度変わったようだった。

 いまは方針を変え、ひとりでも多く俺に治癒させようか太鼓持ちのように賛辞を浴びせかけていた。

 調子がいいとは言うまい。

 見た目が九歳の少年に初めからすべてを託すような大人の方が頭はおかしいのだ。


 六件ぐらい回った頃だろうか。

 屋台で串焼きを頬張っていたふたりのツレを発見した。

 即座に捕獲する。

 捕まえなくても向こうからやってきただろうが。


「にゃに~? あそぶ? あそぶ~?」

「なんだ、積極的だな」


 猫ちゃんは嬉しそうにぐりぐり頭を擦り付けてくるし、ニニアンは腰に回した腕を何と勘違いしたのか、俺の肩や背中をべたべたと触ってくる。


「ニニアンさ、ちょっと手伝ってよ。その有り余ってる性欲……もとい魔力を発散させるいい機会を与えてあげるから」

「ベッドでか?」

「ハッハッ、このお嬢さんは冗談が好きだなあ。いまそんな話してないよね? 場の空気を読もうか」

「何を読むんだ? 何も書いていないが?」


 キョロキョロするニニアンの目には、どうやら村長と村人は目に映っていないらしい。

 完全にモブ扱いだ。

 そういう俺にしろ彼らの顔と名前を覚える気はないのだが。


「この村で流行している病気をいっぺんに治癒したいんだ。ニニアンならできるでしょ?」

「できないことはない。だがやる意味もない」


 ニニアンは素気無い。

 基本的に0か100の極端な性格だから、自分と関係ないものは目に入れようともしない。


「お姉ちゃん、お願い?」

「よし任せろ」

「チョロっ! チョロイン!」


 正確にはヒロインではないが、俺は声を大にして言わずにはいられなかった。

 ニニアンは極端な性格ゆえに、執着する相手から甘えられるときつい財布の紐も途端に緩もうというものだ。

 お姉ちゃんにベタ甘え作戦は特に有効である。


「じゃあさっさとやっちゃう?」

「面倒事は早く片付けるに限る。腹も満たされている」

「俺も何か手伝える?」

「広範囲治癒魔術を使う。たぶん、アルの知らない魔術。覚えるといい。私に続いて詠唱を重ねて」

「任せろ」


 ニニアンがこくりと頷くと、大通りの真ん中だというのに目を閉じて詠唱を始めた。

 俺もそれに重ねて、詠唱を一拍遅れで続く。

 無詠唱ができるというのに詠唱をあえてするということは、あらかじめ決まった効力の魔術を行使する場合である。

 魔力はもちろん馬鹿食いするが、ちまちまとひとりふたり治すよりも効果的と判断したのだ。

 猫ちゃんを背中に引っ付けたまま、二分にも及ぶ詠唱を完成させる。

 足元に魔術陣が浮き上がり、ふたりの体を潜り抜けて空へと昇って行った。


 そしてこの日、村を覆うように雪のようなひらひらとした光が降り注いだ。

 窯の火を睨み続けて視力が霞んでいた職人も、かつて賊に襲われて腕を悪くしていた商人も、流行病によって人知れず倒れていた夫婦も、村にいる怪我人、病人がほぼ同時に体に行き渡る温かな光を感じていた。

 そして体がぽかぽかしてきたと思ったら、重石のように体に纏わりついていた病がストンと落ちていることに気づいた。

 奇跡が起きたと誰しもが思った。

 治らないと一度でも診断された人間からすれば、奇跡の光は神の慈悲に他ならなかった。

 ドンレミの奇跡日。

 以後、毎年ドンレミ村では、この日から数日間を祝祭として定め、宴を開く習慣が生まれる。

 祭りの主要となる人物は三人。

 修道女の格好をした赤髪の少女。

 そして冒険者の格好をした少年。

 最後に弓を持つ獣人の少女。

 その三人を村の子どもが模して祝われるが、それはまた別のお話だ。

 ちなみにニニアンの功績が大きいのだが、少年少女の活躍が目立ったため最初からいないことにされたという裏話。


「今日はわしの家に泊まっていきなさい。うちの孫が世話になった赤髪の修道女さんの身内というのもあるが、この村を流行病どころか、怪我や病から救ってくだすった功労者を安宿に押し込むわけにもいきますまいて」


 村長の好意でタダで宿を得ることができた。

 別に路銀には困っていないが、歓待してくれると言うのなら断る理由もない。

 この村を出発するのは明朝になりそうだ。




 猫ちゃんは日々成長している。

 ちょっと前までは置いていかれるとビービー泣き出す甘ったれだったが、それも過去のこと。

 いまではかなり自由に動き回っている。

 たぶん、力を付け魔力が増えたことで、テオジアという巨大な街であろうが俺やニニアンをあっさりと見つけてしまうまでに鍛えられたからだ。

 昼前にドンレミ村に到着したが、俺やニニアンが村の大人たちと難しい話をしているのを見ると、ひとりでふらふら~と遊びに出掛けた。

 魔力を鍛えたことで嗅覚が鋭くなり、俺やニニアンの居場所をドンレミ村くらいの規模ならいつでも捕捉する自信があるようだった。


 べったり甘えてくることもあるが、基本的には気の向くままに遊ぶことが好きな子だ。

 村をうろうろしていると畑の隅で泥遊びをする三人の子どもたちに出くわし、なんとなく近寄っていって土をこねくり回した。

 「おねえちゃんもあそぶ?」と声をかけられ、猫ちゃんは頷いて三人の輪に混ざった。

 黙々と山を作り、立ち上がって腰に届く高さまで盛ると、次は麓から穴を開けて掘り進めていく。

 腕を全部突っ込んで土を掻き出しているうちに、反対側を掘り進めていた子の指が穴の奥でぶつかった。

 顔を上げて、村の子どもとにやりと笑い合う。


 子どもの母親のひとりが遣いの仕事を任せるために現れたので、子どもたちはお開きにすることにした。

 山の上にひとり、またひとりと飛び乗って崩し、壊していく。

 猫ちゃんもまた飛び乗って山を壊すと、子どもたちとけらけらと笑った。


 猫ちゃんを見た母親がフードから飛び出した猫耳を見つけ、顔を引き攣らせた。

 子どもたちの手を引いて慌てて村に帰って行く。

 猫ちゃんは子どもたちに手を振ると、親に引っ張られながらも手を振り返してくれた。


 猫ちゃんは村を外れて、村を囲う柵をあっさりと飛び越えると森に入った。

 村の子どもは魔物が出ると近づかせてもらえないが、猫ちゃんにそんなルールなど通用するはずもない。

 猫ちゃんは陽の差し込む森を、尻尾をふりふりしながら適当に歩く。

 ときどきしゃがみ込んで、石の下にいる虫を引っ張り出したり、鼻をひくひくさせたかと思うと、藪に飛び込んで小動物を捕まえたりした。


 ふと足を止めた。

 耳をぴくぴくさせて周囲を窺う。

 樹を的に見立て、背中の弓を前に持ってくる。

 矢を番えてびしゅんびしゅんと射始めた。


「んにゃ~……」


 腰の矢筒からすべてを打ち切った後の猫ちゃんの顔は冴えない。

 案の定、矢は一本も樹に刺さらず、的の手前かあらぬ方向に飛んでいる。


「むぅ!」


 矢を面倒くさそうに拾い集め、折れてないか、曲がってないかを確認すると、また樹から一定の距離を置いて撃ち始める。

 ぎゅっと弦を引き絞ると、迷わず撃つ。

 何度も撃つ。

 矢に力が伝わっているのか、真っ直ぐには飛ぶが、狙いは下手くそでまったく的に当たらない。

 何度続けただろう。

 そのうち飽きて、その場にこてんと寝転がった。


「ふわぁ……」


 欠伸をひとつ漏らすと、ごろごろしながらしばらく眠った。

 十分、二十分か、耳をぴくぴくさせてむくりと起きる。

 最初に目についたのが手前の弓矢。

 無造作に手を伸ばし、矢を番えて構えた。

 特に狙いを定めたわけでなく、気楽に放つ。

 スコンと、今日イチの良い音が鳴った。

 猫ちゃんの手には、しっくりときた感触があった。

 力むことなく自然な動作で射ることができた。


 きゅぅっと、鳴き声が聞こえた。

 声のした方を見つめると、一抱えもある一角兎の体に矢羽が突き立っていた。

 眠そうだった目が、途端に輝いた。





 猫ちゃんが出掛けている間にボールを一個作った。

 木で骨組みを作り、皮を何重にも張り合わせた後にニニアンが補強の細工を施した頑丈なボールだ。

 うちの気まぐれな子猫が戻ってきたのは夕暮れ時。

 ローブを泥で汚しながら、一角兎を狩りの成果として高々と掲げていた。

 どこに行ってきたのか尋ねると、村の子どもと泥遊びをしてから、ひとりで森に入って弓矢の練習をしていたという。

 フードがめくれそうになっていたので整えた。

 その上で頭をポンポンと優しく叩いて土を払う。


「これで遊ぼうと思ったんだけど」


 後ろ手に隠していた手製のボールを差し出すと、猫ちゃんの顔がぱあっと明るくなった。


「ぼーるだっ! 遊ぶ遊ぶっ!」


 目をキラキラさせてその場で飛び跳ねる。

 すごい食いつきだった。

 そんなに跳ねたらフードがめくれちゃうよ。


「もうご飯の時間だけどなー。そんなに時間はないんだけどなー」

「ええ? 遊ばないの? あぅぅ……」


 猫ちゃんの耳がしゅんと垂れる。


「でもちょっとだけなら大丈夫かな」

「!」


 猫ちゃんの耳が嬉しそうにピンと立った。

 コロコロと変わる猫ちゃんの表情に、意地悪するのはここまでにしようと思った。

 日が暮れるまでの短い間、野原を駆け回ったのだが、猫ちゃんの身体能力は以前よりも上がっていた。

 親は子どもと遊ぶにも体力がいるというが、猫ちゃんの俊敏な動きを上回ってボールを確保するのに俺のほうが振り回されている。

 超高等なボール遊び(奪い合い)に興じていると、村長の孫、ヘルトンが加わりたそうな顔をしてぽつんと立っていた。

 遊ぶひとが増えることに異議はない。

 ただ彼が参加したところで野生児と化した猫ちゃんからボールを奪うことは叶うまい。


 ならばルールを変えよう。

 等間隔で距離を置き、キャッチボールすることにした。

 ただ投げて遊ぶだけでも十分に楽しい。

 猫ちゃんが時折超人的な動きで空中のボールを捕え、その度にヘルトンは目を丸くしていた。


「おまえら、いいもん持ってるんだな」

「ボール遊びはしたことないの?」

「あるわけねーじゃん」


 と真顔で返されてしまった。

 子どもは大人の手伝いをするか、自分より年下の子どもの面倒を見るのが普通らしい。

 小動物を棒で追いかけた回したり、泥遊びをするくらいしかしたことがないと言う。

 村長の孫ということで強制的に働かされることはないが、かといって遊び呆けているということもないようだ。

 俺は彼に手作りボールを進呈した。

 いらねーよと口では拒んでいたが、突き返す素振りもなく受け取ったのでこの少年をツンデレ認定した。


「父親とは遊ばないの?」


 ヘルトン少年は心底嫌そうな顔をした。


「父ちゃんなんて嫌いだ。おれが病気してる間、ずっと家にいなかったんだ。それに狩りに連れてってくれるって約束してたのに、破ったんだ。おれ、ずっと楽しみにしてたんだ。それなのに今になってだめだって怒鳴られた。父ちゃんなんか許してやるもんか」

「理由はちゃんとあると思うけどねえ」


 事情は分からないにしても、特に病気が蔓延していたことと、北で人攫いの噂があることを考えれば、それどころではなかったのかもしれない。


「約束破った父ちゃんが悪いんだ!」


 ヘルトンは喚き散らすと、ボールを宙高く投げて走っていってしまった。

 猫ちゃんが三メートル以上跳躍してボールをキャッチしていたが、見なかったことにしよう。


 夜になって村長の家に行くと、村長の家からひとりの青年が出ていくところにすれ違った。

 ひと目でイケメンとわかる柔和な顔立ちは貴族としても通じそうだが、格好は貴族のごてごてしたものでなく、ましてや冒険者のような無骨なものでもなかった。

 ゆったりした服装は商人を思わせた。

 金色のくしゃっとした柔らかそうな髪が風で揺れる。

 人好きするような笑顔で会釈をして、すれ違って行った。


 俺たちは村長に夕食に招かれ、ご相伴に預かることとなった。

 村長の家族のほか、なぜか村の人間も何かしらの手土産を持ち寄って宴会になった。

 どうやら病魔を追い出したことを村を上げて祝いたいようだ。

 じわじわと蔓延する病に怯えなくてもよくなったのだと、笑って確認したいのだ。

 村長宅に十人、二十人と人が増え、酒が行き渡ると、あっという間にバカ騒ぎになった。

 村の気さくな空気は嫌いではないが、猫ちゃんとニニアンには煩わしそうだ。

 しかしまあ、料理は満足いくらしく、がむしゃらに喰らい付いていた。


 何人もの大人たちが俺たちの前にやってきた。

 俺の隣には村長がぴったりとくっついて、逃がすつもりもないようだ。

 何人も俺に紹介してくれるが覚える気はまったくないんだけど……。


 逆に質問もされた。

 なぜそんなに若いのに魔術を使えるのか。

 あるいは修道女の娘と双子だと言うが、どちらも治癒術を使えるわけは?と。


「師匠が良かったんです。巡回神官のエドガール・マリーズです」


 と適当なことを述べておいた。

 知っているものは大きく頷き、知らないものも今日覚えることになっただろう。

 彼には恩があるので、名声を上げて高い位になってもらったほうが都合がいい。


 あとは猫ちゃんとニニアンがずっとフードを被っている理由を聞かれたが、首元を差しておくに留めた。

 村長や大人たちは察してそれ以上聞いてこなかったが、無知でおバカな村長の孫ヘルトンはしきりに猫ちゃんのフードの下を覗き込もうとしていた。

 奴隷の存在はどこでも認知されているようで、その存在があまり良いものとして受け入れられていないのは、俺に対して明らかに不愉快な顔をするものの表情を見ればわかった。


 ところで村長は八人家族だった。

 村長とその妻、村長の息子夫婦とその子供のヘルトンに、娘夫婦とその子どもの赤ちゃんだ。

 村長夫婦は温厚で、ヘルトンの父は笑わない寡黙な偉丈夫だった。

 反してヘルトンの母は村長夫婦と似た雰囲気がある。

 娘夫婦もニコニコと笑みを絶やさない。


「どう? お口に合うかしら」

「ぜんぶおいしいにゃ」

「にゃ?」


 猫ちゃんに微笑んでいたヘルトンの母がおっとりと首を傾げた。

 ヘルトンは隙あらば猫ちゃんのフードをめくってやろうと考えていそうな目をしている。

 それに気づいた猫ちゃんは、やるならば受けて立とうと、ふふんと鼻を鳴らす。

 まさか正面から笑われると思っていなかったのか、ヘルトンは面食らい、そしてフードの下でぴくぴく動く耳を見た。


「頭が動いた!」

「ヘルトン、あんまり騒ぐな」

「うるさいな! 静かにしてるだろ!」


 ヘルトンの父はバリトンボイスで思わず従ってしまいそうな声だが、ヘルトンはあえて反抗しているように見えた。

 先ほど聞いた父に対する反抗心がそのまま剥き出しになっている。


「ヘル、ごはんのときはうるさくしないの」

「だって頭が動いてんだもん! 母ちゃんには見えてないのかよ!」

「だから~、片付かないからさっさとお食べと言ってるでしょ?」


 ヘルトンの母は穏やかそうに微笑むが、その笑顔の裏に確かに鬼を見た。

 震え上がったヘルトンはその怖さを知っているのか、コクコク頷いて目の前の皿を片付けることに集中した。


 食事が終わり、与えられた部屋に入る。

 体を拭くならお湯を沸かすと言われ、俺は辞退した。

 むしろ桶だけ用意してもらい、水魔術で水を生み出し、一瞬でお湯に変えて見せた。

 ヘルトンの母親は「まあ」と口に手を当てて、のほほんと驚いていた。

 可愛らしい母親だ。


「なんならお風呂を沸かしましょうか?」

「お風呂?」


 途中から勢いに乗って、庭に風呂を作ってしまった。

 下で薪を燃やすタイプのドラム缶風呂である。

 家の中ではまだ宴会が続いているが、家の反対にある中庭はひっそりとしたものだ。


「ふぃぃ~……生き返るのぉ」

「湯加減はいかがですか~? ぬるくないですか~?」

「いやぁ、ちょうどいいい湯加減ですわ」


 そしてなぜか村長を接待している。

 皺くちゃな顔をさらに皺くちゃにしながら、嬉しそうに粗布で顔を拭いている。


「…………」

「…………」

「……見たところ子どもふたりに女ひとり。彼女たちは顔を見せられない事情があるようだ。たった三人で行商を続けているのですかのぉ?」

「いえ、行商は物のついでで、人探しをしてるんです」

「修道院の妹さんのことですか。テオジアの修道院で待っているという手もあったんじゃありませんかのう」


 正論過ぎて何も言い返せない。

 しかし一分一秒でもじっとしていられなかったのだ。

 それは合理的とかそんなものではなく、感情で動いてしまったことだ。


「最近は人攫いが頻発しておりましてな、あんまり北に行きすぎては巻き込まれることもありますぞ」

「ならなおさらじっとしていられませんよ。妹は別の村にいるんだから」

「ふむ、考えればそうですのお」


 村長は顎を擦りながら頷いている。


「それより、なんだか親子の仲が良くないように見えましたけど」

「これはこれは、恥ずかしいところを見せてしまいましたのぅ。倅は無口で言葉足らずでして。そんなだから孫にもうまく事情を伝えられないでああなっておりまして」


 ヘルトンという少年は父親と喧嘩中だ。

 ヘルトンは祖父に懐いているようだが、無口な父親に対してだけはむすっとしている。

 それは一方的なもので、ヘルトンの態度を父親は怒るでもなく、なんだか申し訳なさそうに少しだけ眉を下げていたのを見た。


「森に狩りに行く約束をしていたんですよ」


 村長は遠い目をしながら語り出した。

 父と狩りに行く約束をしたヘルトンは喜んだ。

 いつもは危険だという理由で連れて行ってもらえないからなおのことだ。

 狩りに同行することは、自分を一人前の男を認めてもらうことに等しい。

 ヘルトン少年はその日を待ち侘びて、とても興奮していた。

 喜んだのも束の間、村では人攫いの噂が広がった。

 ドンレミ村では被害に遭っていないが、北の村の子どもが人攫いに遭ったのだという。

 村でも大人たちが毎日のように村長宅の寄合所に集まり、村の子どもが攫われないように気を付けることを話し合っていた。

 そしてタイミング悪く、約束した狩りの一週間前からヘルトンは病にかかってしまう。

 熱にうなされ、身体に紫の斑点が薄っすらと浮き始める。

 見たこともない病気だったこともあり、村の医者は役に立たなかった。

 他にもヘルトンと同じような病気を発症した人間が報告され、村長は息子をテオジアに向かわせ、治癒できる人間を連れてくるように命じた。

 結果、ヘルトンはテオジアの修道院からやってきたリエラに病を治してもらい、ヘルトンの父親は治癒術師を連れてくることができなかった。

 村でかき集めた金で治癒術符を買う話もあったのに、どこも品切れで一枚も買えなかった。

 そして治った後も父親はヘルトンを狩りに連れていくことを許可しなかった。

 悪いことが重なったために、ヘルトンは父親が無能だと誤解している。

 結局いろいろあって約束を見送ったのだが、その事情を受け止められない少年は父親を恨んでしまったということだ。


 青いな、と思った。

 しかし子どもにとっては、たったひとつの約束が小さな小さな世界の大半埋め尽くしていたりする。

 心待ちにしていた遠足当日、熱を出して寝込んでしまってそれでも行こうとしたら母親に止められて「くそばばあ!」と母親を罵りながら悔し泣く子どもと同じだ。

 母親とそんなやりとりが昔あったなあ、となんだか懐かしんでしまった。

 子どもほど論理とかけ離れた生き物はいないだろう。

 その行動は“どうすべきか”ではなく、“どうしたいか”で決まるからだ。

 猫ちゃんを見ればお察しのとおり、たいていは本能七割・感情三割で行動してる。

 理性が一割もないね。


 まあ獣人族と人族の差はあれ、子どもが常識とかルールに縛られるにはまだ早い。

 俺が風呂の支度をしている間にも、ニニアンを人気のない野原に引っ張って行って、明かりのない星空の下でボール遊びに熱中している子猫ちゃんの姿のどこに常識やルールが感じられるだろうか。


「親孝行、したい時に親はなし……まあヘルトンには早いかもですが」

「苦労されてきたのだのう。最初に会ったときから目の色が普通の子どもとは違うと思っていたんじゃ」

「苦労になんて思ったことありません。そうしなければならないからそうしてきただけです。それに、疲れたと思ったら、もう立ち上がれなくなりますから」

「…………そろそろ出るとするかのう。のぼせてしまいそうだ」


 村長は顔を拭い、湯船から立ち上がった。

 思ったよりも鍛えられた体をしていた。

 しかしそんなことよりも、村長は何か喉まで出かかった言葉を、ぐっと飲み込んだように見えたのが気になった。





 三人でひと部屋を借りたがふたつのベッドしかなく、俺と猫ちゃんがひとつのベッドを使えば問題ない。

 問題があるとすれば。


「私も一緒に寝る」


 そう言って夜、ベッドに潜り込んでくるエルフの存在か。

 俺を真ん中にして川の字になる。

 元気いっぱいに今日一日の出来事を話していた猫ちゃんが話し疲れて丸くなり、すやすや寝つくと、ニニアンは途端に抱き付いて足を搦めてくる。

 エルフは体質であまり睡眠を必要としないせいか、夜になっても疲れを見せない。

 おかげでいつも俺は寝不足だ。


「今日もあいつはいなかった」

「……そうだね」

「魔力を感じたらいつでも飛んでいくのに」

「ニニアンはどのくらいの距離まで探れる?」

「村から見渡せる距離全部。近くの森は全部わかる」

「俺は見渡せるところまでだな。視界が届かないとあんまりわからない。師匠の魔力はどこにもないよ」

「大丈夫。私が見つける」


 ニニアンに優しく頭を撫でられ、平らかな胸元に引き寄せられた。

 発情していないからか、女の子の優しい匂いに包まれる。

 俺もニニアンの背中に腕を回す。

 余計な肉がまったく付いていない華奢な肩だ。

 そのくせ柔らかい。

 細い首に鼻を当てると、甘えられるのが嬉しいのか回した腕に力がこもる。


「可愛いなあ、アルは」


 ぎゅっと抱き締められる力がさらに増していく。

 枕をタップした。

 俺の首が締まっているのだ。





 翌朝、荷台に村からの荷を詰め込んだ。

 いまは冬明けの春だ。

 持ち込まれる食糧はあっても、食糧を持ち出す余裕はどこの村にもない。

 下ろした荷は半分ほどだが、その倍の量の荷が積まれた。

 内訳は、冬の間に鞣した皮革・薬草・秣・種子である。

 食糧の物価は高く、積み込んだそれらの生活用品の価格はあまり高くないからだ。

 種子は根菜のもので、村長が周りに呼びかけて余剰分を積み込んだらしい。


「いただいたものと吊り合ってはおらんですがのお」

「あ、俺は別に商人じゃないから構わないです」

「それを言っちゃあおしまいだよなー」


 頭の後ろで腕を組みながら、荷が馬車に積まれる様子を呑気にヘルトンが眺めていた。


「ミファゾ村に向かうのじゃな。あの村へは、少し入り口がわかりにくい。間違ってソーラジ村に行かないように、道行は気を付けなされよ」

「はい、ご心配には及びません」

「髪の赤い子に会ったらよろしくな!」

「うっせえクソガキ!」

「なんだと!」

「帰りにまたこの村に寄りなさい。そのときも泊まっていくといい」

「ありがとうございます」


 ドンレミ村の村長家族と、手を振って別れた。

 ヘルトンだけがあっかんべーしていたが、無視した。

 あんな生意気なガキに妹をくれてたまるか。


 村を出ようとしたところで、俺とニニアンは打たれたように体を硬直させた。

 猫ちゃんは気づかない。

 それもそのはずだ。

 俺とニニアンを打った何かは、ほんのわずかな魔力だった。

 猫ちゃんではまだ感じることのできない細々としたものだ。

 俺が何かを言う前に、ニニアンが馬車を飛び降りていた。


「ニニアン!」

「…………」


 振り返らず、ニニアンが風のように道を外れ、林に飛び込んだ。

 俺も追うべきか迷う。

 振り返ると、猫ちゃんと目が合った。

 ダメだ、置いていけない。

 それに、魔力を感じている方向とは若干違うが、俺にも目的地がある。


「急に何なんだよ、そうやって俺を惑わすのはやめてくれよ、師匠……」


 ニニアンが追っている魔力。

 間違えるはずがない。

 師匠、ニシェル=ニシェスの気配だった。



○○○○○○○○○○○○



 先頭を老馬に跨りながら案内する小男の名前――ノシオという名を、リエラは今さっき知った。

 なんで知ったかと言えば、リエラとファビエンヌが馭者台に座り込み、前を行くあまり余裕のないノシオから質問攻めをして聞き出したのだ。

 同じく馭者台で二頭立ての馬を操る素朴な青年はなぜかピンと背筋を伸ばして沈黙し、護衛の傭兵さんは馭者台から追われた結果、幌馬車の屋根にしがみ付いている。

 リエラは気にしないのだが、余った傭兵さんは他の修道女からブーイングがあって馬車の中には入れてもらえなかったようだ。

 ファビエンヌが外の空気を吸いたいと駄々をこねた結果、こうなった。

 リエラは別に「そこまでしなくても……」と言ったのだが、「いいのよ別に」とファビエンヌが強引に押し切った形だ。

 ドンレミ村での活躍を機に、誰もファビエンヌの我儘を止めることはできなかった。

 そしてファビエンヌとリエラに挟まれた青年は、やっぱり緊張からか背筋をピンと伸ばして手綱を握っていた。


「……聞く限りだと、お母様はかなり危ないところにいる気がするわ」


 したり顔でファビエンヌが言った。

 無論、ノシオがドンレミ村から修道女を連れ出した最大の理由――彼の母親の容体の話だ。

 ノシオは目を忙しなく動かしながら、「そんなことはねえ」と自分に言い聞かせるように呟いた。


「たったひとりのお袋なんだよ、お袋が死んじまったらおれっちはどうしたらいいのかこれっぽちもわからねえよ」


 縋るような悲しげな声を出すノシオに、リエラは同情的だった。

 なにぶん格好が襤褸で、脂ぎって額に張り付いた髪や、垢に塗れた爪を見ると、さすがに旅慣れたファビエンヌであっても顔をしかめるほどであった。

 見た目に頓着しないのは、たとえ身なりを清潔に保ったとしても、曲がった背骨や鷲鼻、媚を売るように見上げる目つきがすべてを台無しにして余りあった。

 それに、離れていても鼻につく汚れた臭いも心証を更に悪くしている。

 修道女の半数が彼の傍に近寄りたがらないこともあって、もっぱらノシオと話すのはファビエンヌかリエラだった。

 リエラだって臭いのが我慢できるだけで、本当なら嗅ぎたい臭いではない。

 しかしこのノシオと言う男、見た目は醜悪だが、心は純粋である。

 リエラにしてみればそれで十分で、ドンレミ村を出ることを即決したのは、ファビエンヌではなくリエラであった。


「なんとか治してあげたいね? 間に合うかなあ……ねえ、馭者さん。間に合う?」

「え、えっと! これでも順調な方だから、日が暮れる前には着くんじゃねえかな!」

「それじゃあ遅いわよ。もっと急ぎなさいよ」

「ムリ言わないでくだせえ……」


 馭者の青年を困らせつつ、馬車は進む。

 途中、林から雑魚魔物が出たが、幌馬車から飛び出した傭兵さんがいち早く倒した。

 ひとりでも相手取るのに問題ないのか、バッサバッサと腰の両刃剣で斬り捨てていた。

 村が近づいてきたのか、ノシオが老馬を駆り立てて馬車を置き去りにしていく。


「馭者さん馭者さん! 追いかけて! 見失っちゃう!」

「そんなこと言われてもこれが精いっぱいでさあ。それに道なりに行けば着きますんで」

「気持ちの問題よね。一刻を争うんだから急ぎたくもなるわ」


 ファビエンヌの落ち着きからすると、間に合わなくてもしょうがないと思っている様子だった。

 運が良ければ助けられる。

 しかし、手遅れの可能性だってある。

 ちょっぴり辛辣で、冷たいかもしれないが(修道女の中にはファビエンヌを冷たい子と思っているものもいるが)、助けられる命を見捨てたりするような性格でもなかった。

 まっすぐに命と向き合っているのだと思った。

 リエラは人が死ねば悲しくなって、涙が出てしまう。

 でもファビエンヌだけは、次に人が死なないように行動できる、尊敬する親友であった。


 村はドンレミ村に比べ、静かではるかに小規模だった。

 数百人くらいの小集落だろう。

 これを村と呼ぶのだ。

 ドンレミ村は村と言うより、小さな町であった。

 最寄りの都市がテオジアなので、どうしても人口が膨れ上がるのだろう。


「ノシオさんいなくなっちゃったね?」

「いいえ、戻ってきたわ」


 ファビエンヌが馭者台から指差す方向、獣除けの柵が張り巡らされた村の隅から馬を急がせてやってくる。


「ここがおれっちの村、ミファゾ村だ。お袋はまだ生きてんだ、頼む、急いでくれよ!」


 リエラは馭者台から飛び降り、ちょっとつんのめったが持ち直して、先導するノシオの馬の尻を追っかけて走った。

 「危ないよ!」と馭者の青年が叫ぶが、リエラは振り返らない。

 その目は使命感に燃えており、他に聞く耳を持っていなかった。


「ちょっとリエラ! 待ちなさいよ! わたしと一緒に行かないとダメなんだから! ちょっと聞いてんの! リエラ!」


 ファビエンヌも飛び降りたらしく、背中の方から声が追ってくる。

 ノシオの馬は村を外れ、丘の先の寂れた草の生える場所にぽつんと建った屋根の傾いたあばら家に到着した。

 ノシオが馬から飛び降り、家に駆け込んでいく。

 リエラも続いたが、家屋に入るなり、むっとする臭いに当てられて思わず足を止めた。

 呼吸ができない。

 苦しい。

 酸っぱいようなむわっとする臭い。

 つんとする突き刺す刺激。

 香ばしくて吐き気を催す淀んだ空気。

 それらを混ぜ込んだ部屋内に、それ以上踏み込めなかった。


「わ、くっさ!」


 追いついてきたファビエンヌが頭を家に突っ込むなり、忌憚ない感想を述べた。


「いや、無理だって! どんなゲロを煮込んだらこんな臭いになるのよ!」


 ゲロを煮込んだことはないが、言いたいことはなんとなくわかった。

 進退窮まったために、目に涙を溜めて家を出る。

 ノシオが悲しげな眼をして家から顔を覗かせた。

 意を決するに十分な、弱々しい顔だった。

“これから出会うであろうすべての人間を、忘れず友のように接することじゃ”

 あの美人なエルフ、ニシェル=ニシェスの言葉が蘇る。

 この出会いは細い糸で、やがて太く強く、頑丈になって兄との間を結んでくれる。


「ちょっと待ちなさいよ」


 一歩足を出そうとしたところをファビエンヌに捕まる。

 ファビエンヌがずいと横からリエラを追い抜き、家の中に手を広げた。


「“豊穣なる風よ、渦巻いてこのものを運び去れ”」


 ファビエンヌが弱い風魔術を詠唱した。

 こう言っては失礼だが、掃き溜めのような空間の空気だけを取り替えた。

 臭いは気にならなくなった。

 おそらくしばらくすれば、家のものにしみついた臭いがじゅっと胞子のように溢れてくるだろう。

 時間とも戦わければならないのだと、なんとなく理解した。


 リエラの親友には治癒魔術のほかに、水と風の魔術の才能がある。

 自分には治癒魔術しかなく、癒し手としてでしか役に立つことができないと思っている。

 水と風の魔術ができるファビエンヌを、心底羨ましいと思う。

 ないものねだり。

 努力はした。

 しかし今日まで、習得することはなかった。


 部屋に踏み込む。

 乱雑に散らばるゴミに類するものが床を埋め尽くしている。

 木の食器や革袋、衣服に古道具。

 奥の部屋にノシオが消えた。

 例によって鼻を突く臭い。

 もう一度、ファビエンヌの魔術が冴えを見せた。


「風魔術なんか余計に二回使ったから、魔力が減ったー」


 魔力量は体の疲労感で感覚的にわかるものだが、ファビエンヌは貯蔵量がそれほど多くないために連発は彼女の端正な顔を青くする。


「大丈夫?」

「これくらいなら平気よ。昨日は死ぬかと思ったけどね」


 昨日は魔力切れでぶっ倒れたのだ。

 二十人近く治癒魔術を使って、それが彼女の限界だった。

 そしていま目の前には、うつろに落ち窪んだ顔をし、全身を紫に冒された女性が、薄い寝床で浅い呼吸を繰り返している。

 死んではいない。

 だが、それもいつまで続くのかわからない。


「治癒はリエラに任せていい?」

「うん」

「わたし、他の子を連れてくる。ちゃんと食事を摂って、身体を綺麗にしないと意味ないから」

「うん」


 修道女の仕事は癒しを与えることだ。

 体を拭い、身を清め、栄養のあるものを与える。

 たとえその場限りの奉仕だとしても、やらないわけにはいかない。

 正常に生きてほしい。

 生きて何かを為してほしい。

 できれば、与えられた分を、何倍にも膨らませて次の人へ。

 そんな思いから奉仕は始まっている。


 ノシオの母親は、一見すると老婆のようにやつれていたが、元は美人だったのを思わせる顎の線をしていた。

 胸元も盛り上がって女性的魅力に事欠かないようだが、薄い掛布団から零れ落ちた手首はノシオと同じく枯れ枝を思わせる。

 紫の斑点から皮膚が爛れ、赤く滲みだしてきている。

 皮が破れはじめると、体中がぐずぐずになってしまい、治癒も追いつかなくなる。

 だから、本当に一歩手前で間に合うことができたのだ。


 ノシオはリエラが寝たきりの母親に近づくと、邪魔をしては悪いと思ったのか、部屋の隅に飛び退いて息を殺した。

 まるで自分が何かの拍子に治癒を妨害してしまうと思っているかのようだった。


「はぁ……ふぅ」


 リエラは深呼吸を繰り返した。

 緊張ではないが、なかなかに病の深い相手だ。

 治癒魔術自体はいつもと同じ詠唱だが、一回では治らないだろう。

 一回目……わずかに紫の斑点が薄くなった。身体に七割以上侵食している。

 二回目……身体の中心部の病は取れないが、腕や首の斑点がさらに薄くなった。

 三回目、四回目……。

 十回を超えたあたりで呼吸が苦しくなった。

 昨日は百回治癒魔術をかけてようやく疲労感を覚えたというのに、たったひとりの病を癒すために百人以上の治癒の疲労を感じているのだ。


「はぁはぁ……!」


 肩で息をしつつ、治癒を更にかけていく。

 二十回目にしてようやく、ノシオの母親の顔から痛ましいものが消え去った。

 リエラはだらりと腕を下げ、呼吸だけでいっぱいいっぱいになっていた。


「お袋、助かったのか……?」

「……うん」

「うぁ……ありがとうなぁ、本当に……っ、ありがとうなぁ……」


 ノシオがその場に蹲って涙した。

 リエラは押し寄せる感情の波に当てられ、自らも目を潤ませた。


「こちらこそありがとう……生きていてくれてありがとう……」

「そんなこたぁねえよ。あんたは聖女だぁ、ほんもんの聖女だぁ……うあぁ……」

「ううん、あたしなんて全然なにもできないから……この力だってお兄ちゃんに教わったものだから……」

「そんなことねえよぉ……おれっちなんてチリ紙ほどの役にも立たねえ阿呆だからよぉ……こんなおれっちのお袋を助けてくれるなんていくら感謝してもしたりねぇ……」

「そんなことないよぉ……うぇぇ……」

「うぅぅ……」

「……で、なにこれ?」


 修道女仲間を引き連れたファビエンヌは、半目にして部屋の様子を見ていたという。

一応推敲はしていますが、見落としたところや粗があるかもなので、指摘いただけましたら適宜修正いたします。

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