第68話 鐘楼の鳥かご
夜も更けた頃、俺は修道院の近くの建物に身を潜めていた。
正攻法で入らせてもらえないなら忍び込むまで。
街が寝静まるのをじっと待っている。
道を千鳥足で歩くオヤジが、何かを喚きながら通り過ぎていく。
その足がピタリと止まり、壁際に蹲りゲロゲロとやり始めた。
ちょうど傍を通りがかった衛兵ふたりがオヤジを見つけて両側を挟み込みずるずると引きずっていった。
街は至極平和なようだ。
俺は妹に会うため、飛び出す頃合を窺っていた。
「ねー、にゃにしてるの? かくれんぼ? ミィニャもするー」
「私もする」
「君らはちょっと落ち着こうか。いやいや、でもそれは名案だ。ふたりで街を使って壮大なかくれんぼでもしてきなさいよ」
俺はついてきてしまったふたりの連れをまじまじと見つめた。
猫ちゃんは昼にぐっすりと眠ってしまったので、夜になっても一向に寝る気配がなかった。
ニニアンも昼には成功した宿待機の取引が夜には通じなくなっていた。
昼の分で満足してしまったらしい。
というわけで、どんなに宥めすかしてもついてくると言い張り、結局俺が折れる羽目になった。
「いいの? いいの? かくれんぼいいのかにゃ?」
猫ちゃんの尻尾が楽しい予感に揺れている。
「騒ぎを起こさないこと。衛兵に掴まらないこと。街を破壊しないこと。これを守ることができるなら何をしたって構わないさ」
「やったー!」
「うむ」
「ちょっとニニアン、頼むよ? テオジアが燃えてたらマジ許さないからね?」
「大丈夫だ」
「本当かなあ……」
「アルはかくれんぼする? するかにゃー?」
「用があるからまた今度。ニニアンに遊んでもらって」
「わかったー」
猫ちゃんの耳をカリカリと掻いてやると、嬉しそうに頭を擦り付けてきた。
名残惜しくぎゅっと頭を抱き締めてから離れると、猫ちゃんはニニアンの手を引っ張って闇に消えていく。
俺はそれをしばらく見送り、姿が見えなくなってから改めて修道院へと目を向けた。
猫ちゃんもいつの間にか俺からあっさり離れるようになったものだ。
寂しい。
自分から突き放しておいてなんだが。
いまなら通りを歩いている人間はいなかった。
行動に移すなら今である。
意を決して、高い壁を乗り越えた。
飛び越えた先には建物が並んでいた。
三階建ての石造りが四棟、中庭を跨いだ右手に昼間聞いた鐘の音を思い出させる鐘楼、左手に縦長で天に向けて尖った教会が建っている。
目的の師匠の魔力を辿ろうとするが、ほとんど感じない。
修道院にはいないのかと思ったが、しかし微かにだが鐘楼の方から懐かしい魔力の色を感じた。
迷うことはない。
俺は建物に隠れるようにして身を潜め、闇の中を素早く移動した。
見張りという見張りはいなかった。
巡回する修道服姿の女性を見かけるだけだ。
ここは女性ばかりを押し込めた場所なのだろう。
忍び込むには骨の折れる高さの外壁だからか、衛兵すら中にはいなかった。
鐘楼まで足音と気配を風魔術で消す。
スニーキングミッションはあまり得意ではないが、こちらが警戒されていないなら見つかることはまずないはずだ。
鐘楼の入り口に近づくが、重い門扉は堅く閉ざされていた。
窓というものはなく、木の板で塞いだものが二階の高さのところにあった。
五メートルほどの高さを飛び上がって手を引っかけ、木の板をこじ開けて潜り込んだ。
塔の中は埃っぽく、空気が淀んでいる。
そして、師匠の魔力がほんの少し強くなった。
頭上に魔力の気配はあるようだ。
円柱の階段をただひたすらに登っていく。
塔の中は寒々としていた。
こんな場所に師匠はいるのか、ここでリエラを見守っているのか。
逸る気持ちを抑えて階段を駆け上がる。
そしてついに、最後の一段を登り切った。
「し、ししょ――」
がらんとしていた。
何もない。
天井には巨大な釣鐘。
それを鳴らすための太い紐が垂れ下がり、隅には木箱や雑貨が積まれている以外に何もない。
「……くそっ」
悪態を吐いた。
部屋を見回し、そして気づく。
部屋の壁に魔力を感じる。
目に魔力を集めて凝らして視ると、文字が書かれていた。
魔力で書かれた精霊文字。
他の誰にも読み解くことはできない、俺にだけに宛てられた文字だ。
「“優秀なる弟子へ
ここへ必ず来るとわしにはわかっていた。
ソウスケが落胆することもすべてわかった上で、この文を残している。
ソウスケの妹はいま、この街にはいないじゃろう。
そして残念だが、いくら追っても会うことはできぬ。そういう運命にあるからじゃ。
あの日ソウスケと出会った日から、靄のかかっていたわしの運命は少しずつはっきりと見え始めた。
いまなら七年先まで見通すことができる。
そしてその日まで、わしらは再会することはないじゃろう。
運命は強固としてそこにある。
変えることは難しい。
しかし不可能ではない。
ソウスケの行動次第で、運命が変わることもあるだろう。
それはわしの視ている七年後すら、変えてしまうかもしれん。
わしは、わしの可愛い弟子を信じ、そしてより良い未来へ導くことを信じている。
わしの息子をよろしく頼む。
いまは娘なのだったか。
それではの。
真っ直ぐに育つことを願っている。”」
何度も、何度も何度も読み返した。
内容が上滑りする。
師匠がいまどこにいるのか、詳しいことが何も書かれていないことに気づくまでしばらくかかった。
呆然と壁を見つめていた。
足に根が張ったように動けない。
会えない? なぜ? 運命だから?
よく……わからない。
理解が追い付かない。
七年先? 師匠は自分の運命を七年先まで視たのか。
そしてそこで再会する未来を確信したのか。
それまでは、どんなに追っても会えないのだと。
何度も、何度も何度も読み返し、噛み締め、頭で理解しようと努めた。
運命は変えられると。
俺の行動如何で。
ならば出会えないという運命も変えられるのではないか。
そうでないと、この文章はおかしい。
より良い未来? それってどんな未来なんだよ?
何が悪くて何が良いのか、選択肢が出ずリセットボタンもないこの世界で、どう決めつければいいのか。
“わしの息子……いまは娘”とは誰か。
まあ、想像はつく。
やはりニニアンは師匠の……。
性別はおかしなことになっているが、師匠の身内で間違いないだろう。
俺はこの後、どうすればいい。
ニニアンだけが師匠に追いつく手がかりだとでも言うのか。
リエラのことはあまり書かれていない。
最愛の妹ともあと七年も離れ離れなのだろうか。
十六のJKになるまで妹の成長を拝めないのか。
それってヒドすぎじゃない?
あんまりだと思わない?
運命のばかやろう、このやろう。
「だれ?」
どれほど悔やんでいただろうか。
数時間のような気もするし、数分だったような気もする。
時間の感覚が消えた頃、背後からの声に俺の背中はビクッと震えた。
目の前の魔力文字に完全に気を取られて、後ろがお留守になっていた。
振り返ると、小さな少女が階段の傍で半身を隠して、こっちをじっと見つめていた。
一瞬ファビエンヌかと思った。
無理はない。
むかし見たファビエンヌと背格好が同じで、しかも夜目にウェーブのかかった髪が目に入ったからだ。
いつまでそうしていただろうか。
かなり時間が経ったと思う。
「だれなの?」
不意にまた声を掛けられ、鈴を鳴らすような幼い声を聴いた。
もしかしてリエラ? そんな淡い期待もあったが、声の主は年端もいかない少女だった。
声のトーンがリエラやファビエンヌよりも高く、より幼い。
目を閉じ、そして開いた。
壁の文字のことは一度宿に戻ってから、ゆっくりと頭の中を整理するとしよう。
それまではこの件について保留にする。
「……だれ? 司祭さま?」
震える声で少女は暗闇に問いかけてくる。
「おお」
言葉が漏れてしまった。
いかんいかん。
こちらからはばっちりと階段の陰に隠れる姿が見えるが、あちらはきょろきょろと暗闇に視線を彷徨わせている。
そこにいるのは声がしたことからもわかるが、どこにいるかがわからないと言った様子だ。
魔力で夜目が利くので、こちらはのぞき穴から無防備な少女を覗き込むようにまじまじと観察することができる。
犯罪臭がすることについては考えない。
よくよく見ればファビエンヌのようにウェーブのかかった髪をしているが、目元は垂れている。
ファビエンヌは少し吊り目だ。
そして性格もどちらかというと吊り目がちである。
意味がわからないだろうがニュアンスを感じ取ってほしい。
あれは絶対に男を尻に敷くタイプである。
目の前の少女はなんというか、無力な女の子という感じだ。
この塔は暖かくない。
春が近づいてきたとはいえ、夜は冷え込む。
少女は寒そうに体を擦り合わせながら、こちらに不安げな顔を向けている。
とても少女が小さく見える。
誰かの庇護になければすぐに野垂れ死にしそうな感じだ。
そんなことを考えていたら不意に大平原でひとり火事場泥棒をしていた猫ちゃんを思い出した。
たったひとりで死体から金目の物を漁り、その途中で背中に矢を受けてぱったりと倒れてしまった猫ちゃん。
うう、この世界は幼女に厳しすぎますよ……。
もっと愛されるべきです、幼女。
対称的に、ファビエンヌは烈火のようだった。
喋れば他を圧倒し、「文句ある?」と挑戦的な目を向けるような娘だ。
ああいう子が社会の荒波に溺れず力強く生きていくのだろう。
目の前の少女は、ひと波きたら「ぶくぶくぶく……」と溺れてしまいそうだ。
決して強くはない。
大海に浮かんだ花弁のように頼りなげだ。
「……ごめん」
混乱している中で、うまく言葉がまとまらなかった。
出た言葉は誰に対して謝っているのか。
自分でもわからないよ。
「ほんとうの子なの?」
「ほんとう?」
俺は繰り返していた。
本島……発音が違う。
本当?
嘘の子とかあるのだろうか。
ああ、寮みたいな建物のことを本棟と呼んでいるのか。
「あれ? ちがうの?」
少女は階段に半身を隠したまま首を傾げた。
「妹に会いに来たんだ。でも、会えなくてね」
「こんな夜に会いにくるひとがいるの?」
少女の頭が半分から七割くらい陰から出てきた。
「そんな寒いところにいないで、こっちに出てきておいで」
少女はゆっくりと階段の陰から姿を現した。
しかし視線があらぬ方を向いている。
声だけで年若い子どもだと気づいただろうが、立ち位置まではわからないようだ。
おしゃまなファビエンヌを小さくして大人しくしたような、愛くるしい少女だった。
校庭で遊んでいる姿を見かけたら、少女が帰宅するまで遠くから見守り続けたくなるほどに可愛い。
「君は誰なのかな?」
「オーフェミリア。でもミリアって言わないとダメって言われているの」
本名を隠したいのだろう。
この修道院の在り方を思えば、どこかの貴族の私生児という線が有力だな。
「そういうあなたはなんて名前なの?」
「アル」
名乗ってから、そういえば暗くて向こうはこちらが見えないのだと思い出す。
手をかざして、頭上に小さな火の玉を浮かべた。
突然現れた光源に驚いて、少女は小動物のような速さで階段に引っ込んでしまった。
しかし少し待つと、ゆっくりと頭が出てきた。
闇夜ではわからなかった髪色は、シルバーブロンド。
この世界ではブロンドも珍しくないが、白に近い色というのは初めて見た。
肌にも透明感があって、瞳は緑色をしている。
どことなく繊細さのある雰囲気だった。
ファビエンヌも見た目は妖精のように可愛いが、高貴さという点では少し弱い。
目の前の少女は紛うことなき箱入り娘。
気品が漂っている。
もしかしたらこの国の王族の隠し子か?
フラグの匂いがぷんぷんするね。
しかしステータスを視てみると、オーフェミリア・グレイコートという名前だ。
王族ならグランドーラの姓が付くはずで、残念ながら王族ではない。
「ま、魔術師さん、なの……?」
「赤魔導士のアル。いまはそう名乗ってる」
「魔術師さんなんて初めて……修道士さまではないの?」
「ぼくは外から来たんだ。高い塀を乗り越えて」
「そんなの無理よ。だってとっても高いもの」
「それが可能なのが魔術師という人種でね」
「夢を見てるのかと思っちゃう」
鈴を鳴らしたような綺麗な声をしている。
見た目はおっとりしているように見えるが、中身はそうでもないらしい。
魔術師という単語に好奇心が見え隠れしている。
殺風景な部屋に風が吹き、少女は目を細める。
俺は片手で発生させた風で、少女の目の前でふわりと浮いて見せた。
すぐに床に足を付ける。
「まあ! もしかして、幽霊さんだったの?」
「正真正銘の人間だよ。いまのは風魔術。ちなみに小人ではないよ。九歳だ」
少女の目を丸くした姿に苦笑がこぼれる。
驚き方も可愛らしい。
「あたし、五歳なの。九歳になったらあたしも飛べるようになる?」
「無理じゃないかな。だって君は魔術師じゃないよ」
「あたし、魔術師さんにはなれないわ。だって魔術師さんは悪魔なんでしょう? 司祭さまはあたしにそう教えてくれたの」
思い出したように一歩下がった。
悪魔に捕って食われると思っているのだろうか。
危険なロリコンさんなら、目の前の幼女はハァハァしてしまうほど愛らしいが。
しかしわたくしめ、紳士を名乗っておりますゆえ。
変態という名の紳士、ロリを守る愛戦士であります。
イエスロリータ、ノータッチ!
「そう怖がるものでもないよ。君と同じ、鼻があって、目があって、口がある人間だもの」
俺の冗談に、くふふと少女、ミリアは笑う。
「悪魔だって鼻があって、目があって、口があると思うわ」
「そうかもしれないね。でも魔術師は君と同じひとだ。だから怖がるものじゃないよ」
「あたしなんて簡単に燃やしてしまうわ」
「魔術師だって燃やしたい相手くらい自分で選ぶさ」
「あたしは燃やさない?」
「ぼくにはミリアを燃やす理由がないよ。本当に怖いのは魔術師じゃなくて、魔術を使う人の心なのさ」
拳銃を持っていても撃つ撃たないは持ち主次第。
そして本当に撃つかは相手の出方次第。
俺は敵対するやつには容赦しない、容赦したくない。
悪人即成敗。
言うほど簡単ではないが。
「そうなのかしら? 近寄っても大丈夫かしら?」
首を傾げる仕草があどけなくて愛らしい。
あまりに愛らしいので変な気持ちになってくる。
「おいで。何もしないから。ほぉら、アメちゃん上げるよ。はぁはぁ」
近寄ってはいけない類の人間に成り果てていた。
お巡りさんに通報しますた。
「あめちゃんてなにかしら?」
とことこと近寄ってきたちょうちょは、毒ぐもの牙にかかってしまいますた。
寒いからこっちにおいでと、壁にもたれかかった俺の足の間に、五歳の少女がすっぽりと収まっている。
シルバーブロンドの髪からは、甘い果物の匂いがする。
彼女の体を清める際に、果実で匂いをつけているのかもしれない。
いい趣味だ。
そして少女はころころと口の中でアメちゃんを転がしていた。
昼間に買ったお菓子のあまりがポケットに残っていたのだ。
猫ちゃんにはすでに五、六個あげていて、「今日はもうダメー」と食べ過ぎは体に毒の精神で一日に与える量を制限していたその残りだった。
「ところで君はこの鐘の塔で暮らしてるの?」
「うん。ずっとよ」
ミリアはこくりと素直に頷いた。
そして頭ごともたれかかってくる。
俺はよしよしと頭を撫でた。
ミリアは嬉しそうに「うふふ」と笑った。
アメ一個でデレるなんて、この世界の幼女はちょろいぜしかし。
だが、それだけではないだろう。
この塔に閉じ込められているということは、ここを訪れる人間も少ないと言うこと。
いわばコミュニケーションに飢えているのだ。
「ところでミリアに質問なんだけど、リエラとファビエンヌって名前を聞いたことはないかな?」
「あるわ。リエラは今朝もお食事を運んできてくれたわ! 少しだけお話しすることもあるの。リエラはとっても優しいの。ファビエンヌは楽しい話をいつもしてくれるわ!」
おお、リエラとファビエンヌに通じる人物に会えた。
これも運命か。
本人に会えれば言うことなしなのに。
「そのリエラっていうのがぼくの妹なんだ」
「まあ、だったらここにはいないわ。向こうにいるはずよ」
ミリアは壁の一面を指差した。
そちらの方向には、立ち並んだ本棟があるはずだ。
「そうなんだろうね。あとで行ってみるよ」
「あ……」
少女は表情を曇らせた。
「どうしたの?」
「ごめんなさい。いまはいないわ。リエラが言っていたもの、何日か近くの村を回るから、明日から食事を運んでこれないんだって」
小さいのに話し方がしっかりしている。
不思議な子だった。
「そうか……」
俺はミリアが指差した寮の方を、もう一度見つめた。
師匠の魔力を感じないのも道理だ。
このテオジアにリエラはいない。
師匠ならリエラの後ろを付かず離れず見守ってくれているはずだ。
そうすると、このテオジアには滞在する意味があまりなくなってしまった。
「もう行っちゃう?」
ミリアの方に向き直ると、幼女は寂しそうな顔をしていた。
「……もう少しミリアとお話ししようかな」
ミリアの顔がぱぁっと明るくなった。
幼女に弱いんだぜ、紳士という生き物は。
「でも見つかったら大変よ。司祭さまは夜に外を歩くなんてお許しにならないもの」
一転、難しい顔をしてミリアは言う。
「怒られてしまうわ。だってあたしがここを出たいって言うと、司祭さまはとても怒るもの」
「大丈夫。魔術師をなんだと思ってるのさ。見つからないように姿だって消せるんだ」
「ほんとう! すごいわ!」
ミリアの目がキラキラと輝いていた。
はい、嘘だと言えなくなりました。
このまま無垢な幼女を騙し続けるとしよう。
こうして男は十字架を背負うんだなと思った。
「でも、本当にリエラのお兄さんなの?」
「そうだよ。双子の兄妹なんだ」
「うそよ、髪の色が少し違うわ。リエラの髪はもっと赤いもの」
「うっ……それは、あれだ、遺伝だ」
「いでん?」
ミリアが小首を傾げる。
遺伝というか、あまり赤くしないように魔力を通して、長い時間を掛けて赤茶色にしたのだ。
ママセラやゾーラ、リエラは燃えるような赤毛をしている。
この世界でも純粋な赤毛は珍しい部類だ。
そこからすぐに血縁者だとばれてしまうかもしれない。
だから俺は成長に合わせて髪色を少しいじった。
もともと目の色や髪の色というのは、成長していくにつれて変わることが多いんだそうな。
最初は綺麗なブロンドでも、大人になったらくすんだ亜麻色になっていたなんてよくある話だ。
だから魔力で働きかける分には、あまり難しくなかった。
背丈を伸ばすとか顔の造形をいじくるとなると、もっと魔力が多大に掛かってしまうし途端に難しくなる。
しかし敢えて言おう。
俺はイケメンになる。
偉大な魔力を如何なく発揮しよう。
整形って言ったやつ帰って良し。
「お父さんお母さんの髪の色が違うから、ぼくら双子も違うんだよ」
「あたし、お母さまの髪の色と一緒よ! お父さまの髪の色は知らないけど」
「ミリアの髪は白くて綺麗な色だよね」
「お母さまと一緒の髪であたし大好きなの」
ニコニコと年相応に笑う無邪気さが、なんだか眩しかった。
心に邪なものを抱いている俺を浄化していくようだ。
幼女の髪をいじくるのも忘れない。
さらさらとしているが、ニニアンの髪よりは重みがある。
将来美人さんになるなあと思わずにはいられない。
「ミリアはいつからここにいるんだ?」
「うぅんと……わからないわ。生まれたときからここにいるの」
少しは寂しそうな顔をすればいいのにと思った。
昨日のごはんを思い出すようになんてことのないように言うから、こっちがドキリとしてしまう。
少女は当たり前にここで生き、ここで死ぬ運命にあるのだとしたら、可哀想だなと思った。
本人はまだ物を知らない五歳児。
外へ出たいという欲求が今はないのかもしれない。
外は怖いものだと刷り込まれて、外へ出ようという意思すら恣意的に摘まれているような気がする。
しばらくミリアと話してから、俺は当初の目的だった妹探しを思い出した。
師匠の置手紙? には七年先まで会えないとあるが、それを鵜呑みにできるほど簡単なことではない。
本棟を探りに行くことにする。
「また来る?」
そう聞かれて、「うん」と答えないわけにはいかなかった。
「リエラに会うことがあれば、ぼくのことを話してくれないかな」
「自分で会えばいいと思うわ」
「それができるなら、それに越したことはないんだけどね」
自嘲してから、幼女をぎゅっと後ろから抱き締めた。
小さい子は可愛い。
正義である。
それが西洋系の顔立ちで妖精のような女の子ならなおさらだ。
「もう夜も遅いから、今日はここらでお暇するよ」
「もう帰っちゃうのね?」
「うん、妹によろしく」
「うん……って、やあっ!」
ミリアの体をお姫様抱っこで抱え上げると、素頓狂な声を上げた。
少女の足は冷えて氷のように冷たくなっている。
裸足で塔を上がってきたのだ。
柔らかい足裏が痛むのを見ていられない。
「なに? 何なの?」
「お部屋まで連れていくよ」
「でも……きっとお部屋の場所を知らないわ」
「わかるんだな。だって魔術師だから」
「ほんとう? 抱っこされたの初めて」
ミリアはくふふとくすぐったそうに笑った。
俺って紳士の鑑やで。
ミリアの部屋は一階の隅にあった。
寒々としてベッドも冷え切っていたので、彼女の部屋を暖かくしてベッドもひと肌くらいに温めてから少女をベッドに寝かせた。
毛布を掛けてやると、また「くふふ」とはにかんだ。
むかしの幼いリエラを見ているようだ。
「絵本があったら読んであげられるのにね」
「えほん?」
「リエラに聞いてごらん。昔はよく、眠れないリエラに絵本を読んで聞かせたんだ。寝かせるために読んでるのに、続きが気になってずっと起きていたんだよ。本末転倒だったね」
「あたしもえほん読みたいなあ」
「それもリエラに聞いてみるといいよ。ぼくも機会があったら持ってきてあげる」
「ほんとう!」
がばっと起き上がったミリアの頭をそっと撫でた。
「自分の意思を強く持って生きてね」
前髪をかき上げ、その額に口づけを残した。
ぽかんと額に触れるミリアを置いて、鐘の塔から抜け出した。
――籠の中の鳥。
いつか自分の羽で籠を飛び出す日は来るのだろうか。
それとも飛び方を知らず、籠の中で生涯を終えるか。
この籠から小鳥を逃がしてあげることは簡単だろう。
しかし俺には、幽閉された少女の一生を支えるほどの覚悟もない。
精々が獣人村に連れて帰って、面倒を誰かに押し付けるのがオチだ。
それではこの塔にいることと大差はない。
後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、鐘楼に背を向けた。
鐘楼を出ると、今度は寮のような本棟に忍び込んだ。
聴力を魔力で研ぎ澄ますと、寝息がそこら中から聞こえてくる。
リエラがいないことを聞いても、やはり寄って確かめないわけにはいかなかった。
妹が長く過ごした場所だ。
兄として妹の匂いを追ってお部屋をチェックするのは義務である。
お巡りさんに通報されますた。
木枠のネームプレートを順に辿っていくと、リエラとファビエンヌの名前が書かれた六人部屋を見つけた。
鍵はついていない。
ゆっくりと扉を開け、中に侵入する。
抜き足差し足である。
今の俺、あかん、完全に変質者やで。
病室のような広さだった。
壁も床も天井もすべて石造りなので、中世の一室である。
左右の壁を頭に、六つのベッドが並んでいる。
しかしベッドの上はがらんとしていて、一応触れてみたが冷たかった。
毛布も綺麗に折り畳まれている。
夜中にどこかへ出掛けたというわけではなく、最初から部屋には戻ってきていないのだ。
部屋を見回すと、壁の窪みに見たことのある石の彫像が置かれていた。
リエラとファビエンヌに昔プレゼントしたウガルルムとラビットの石像だった。
並んで置かれているの見つめ、やっぱりここでふたりが寝起きしているんだなあとしみじみと思った。
ふと思いつき、何か書くものを探した。
しかし筆も墨もない。
別のところから持って来よう。
部屋を出て、寮を探索した。
おそらく修道女か修道士が筆記用具を持っているだろう。
一階を探っていると、どこからか声が漏れてきていた。
奥の部屋から漏れ聞こえてくる。
「うひひ……騎士エルメルダはわたくしの蜜をすすりながら言うの。『お嬢様の蜜はわたしの舌で味わったどんな甘味よりも濃厚で美味です』と。サラサラの金の髪にわたくしは指を通して、『いけないわ、エルメルダ様、こんなこと』と拒むのだけど、『アガサ、愛しのアガサ。わたしは貴女の潤いを飲み下すだけで胸がいっぱいになる。あんな男とは金輪際縁を切って私だけを愛してください』って言われて拒絶なんかできないわ! もっともっと、言葉とは裏腹にわたくしはエルメルダ様の唇を気持ちのいいところに押し付けるの……うひひ……」
恋愛小説をベッドに寝転がって読み、身悶えている乙女がいた。
見なければよかったと思った。
どう見ても四十前の女性である。
そんな大人が妄想の産物のロマンス小説に胸ときめかせている。
この部屋の主の名前はプレートで確認したがアガサだった。
シスター・アガサ。
行き遅れの哀れな修道女……。
きっと今日まで春が来なかったんだな。
そりゃそうだよな。
修道院だもん。
純潔を守って貞淑に生き、ここまで来てしまったんだ。
そりゃ、妄想では逞しい騎士に奉仕されたくもなるわ。
悲しいかな、六十を前にしてぴちぴち肌のどこかのエルフとは違うのだ。
遠い目になった。
悶えている横をこっそりとすり抜け、机の上からいくつかある羽ペンと、詰まれた墨壺のひとつを拝借する。
小説は自筆なのかもしれない。
彼女の妄想小説を生み出す道具を少しの間お借りしよう。
気づかれないよう忍び足で部屋を抜けて、寮の一階エントランスに出た。
巡回の修道女をやり過ごし、貼り紙がいくつも貼ってある掲示板の前で足を止めた。
その中のひとつに近隣の村を回って奉仕活動をするという内容のものがあった。
奉仕活動!
幼い少女たちの奉仕!
『痒いところはないですか~』
裸で泡だらけのご奉仕!
あかん、この想像は完全に間違っている!
奉仕活動に出る少女たちの名前が列記されている。
その中にリエラとファビエンヌの名もあった。
出発日は今日の昼前。
俺たちが街に入った頃、街を出て村に向かったのだ。
運命の悪戯か。
師匠もリエラに付いてテオジアの街を出たはずだ。
じゃなければ今頃ニニアンが街のどこかで師匠を追い詰めているだろう。
そして街を半分消し去っていたはずだ。
その張り紙を破り取り、ポケットに押し込める。
ついでに適当な貼り紙を破り取り、その裏にさらさらとメッセージを書く。
リエラとファビエンヌに一枚ずつ宛てて、少女たちの部屋に取って返す。
ふたりの枕元にそっと手紙を置いて、ちょっと考えた後、ポケットから櫛を取り出した。
猫ちゃんたちの土産に買ったとき、赤い石と黄色の石が嵌った櫛も購入していた。
妹と幼馴染の少女たちへ直接プレゼントするつもりだった。
それも手紙の上に置いて、修道院を後にした。
まだ再会を諦めたわけではない。
この街にそもそもいないことがわかったのだから、明日追いかけるだけだ。
手紙は、念のためにすぎない。
帰りはニニアンの魔力を探して合流した。
屋根の上で街を望んでいるところだった。
「猫ちゃんは一緒じゃないの?」
と尋ねると、
「魔力が弱くて追うのが大変」
と、返ってきた。
この広い街でかくれんぼするのになかなか苦労しているようだ。
俺からしてみれば、この広い街の中から猫ちゃんの魔力を探し当てるなんて不可能だと思ってしまう。
猫ちゃんも俺との訓練でそこそこ魔力が上がり、並の人族をブッ千切っているはずだ。
が、猫ちゃんと同格の魔力を持つ稀有な人間は確かにいるのだ。
たとえば伯母で魔術師のゾーラとは同じくらいの魔力だった。
「先に帰ってくれて構わない」
「猫ちゃんが見つからないようなら一緒に探すけど?」
「いや、何カ所か当てがある。そこを探せば見つかる」
「そう? じゃあ騒ぎにならない程度にお願いね」
「大丈夫。アルには迷惑はかけない」
なぜか抱き付かれて、ぎゅっとされたあとに唇を奪われたが、ニニアンの突発的な行動に口を出すだけ無意味だ。
舌を差し込まれて掻き回されるのを、黙って受け入れる。
だって気持ちいいんだもん。
ニニアンのむせるような甘い体臭を吸い込み、恍惚となる。
そこらを歩いているおっさんがニニアンとすれ違えば股間を膨らませて腰を引いてしまうことだろう。
俺はニニアンに鐘楼の中で見た師匠の残した文について何も話さなかった。
話すとすれば、もう少し整理がついてからだろう。
踝を返し、収穫があったのか、それともなかったのかを考えつつ、微妙な気持ちを引きずりながら宿に戻ってベッドに倒れ込んだ。
そこそこいい宿を選んだからか、シーツはお日様の匂いがした。
それと、猫ちゃんの匂いもする。
明日にはテオジアを発って、近隣の村々を回るつもりだ。
師匠からの置手紙? だけであっさりと諦めたりなんかしない。
妹に会いたい。
その気持ちだけが、どうしようもなく胸に募る。
すぐ目と鼻の先まで来ているのだ。
会って、いろんな話をしたい。
リエラが経験したことも、一言も漏らさずに聞いてあげたい。
双子という間柄に生まれついたリエラシカとアルシエル。
その兄の体を俺は乗っ取ったようなものだが、それでもリエラには妹に対する愛情を感じている。
この世界で数少ない身内なのだ。
大事にしない方がおかしい。
塔に閉じ込められたミリアを見て、幼い頃のリエラを思い出してしまった。
「また、絵本、読んであげたいな……」
控えめに喜ぶリエラの顔を思い出し、俺は自然と笑っていた。
明日。
明日こそは。
そう改めて決意する。
そして脱力する。
気を抜くと、体からどっと力が抜けてしまった。
ベッドに沈み込むように張っていた気を解き、目を閉じるとあっさりと意識を手放していた。
○○○○○○○○○○○○○○○○
「やー!」
マルケッタの切羽詰まった悲鳴が聞こえてきて、クェンティンは慌てた。
喋ることのできないマルケッタだが、声が出ないわけではない。
出立の準備をして馬車を見回っていたクェンティンは急いで声のする方に向かった。
「マルケッタ! 何があったんだい!」
声を張り上げて物陰に顔を出すと、マルケッタがいた。
そして大事な娘の背中に、見たこともない少女が乗っかっていた。
マルケッタは振り落とそうと飛び跳ねて暴れるが、少女はうまくバランスを取って落ちる気配がない。
「やー! やーやー!」
マルケッタは叫んでいるが、少女はどこ吹く風でマルケッタに縋りついて暴れる様子を眺めていた。
一応は大事ないことを見て取って、クェンティンは息を吐いた。
「君、わたしの娘に乱暴をしないでくれるかな?」
近づいて行って手にした明かりをかざすと、少女の姿が映し出される。
猫の耳と尻尾の生えた獣人の少女だった。
身なりは清潔なようで、旅装である。
このあたりの貴族の奴隷が逃げ出したわけではないようだ。
「魔物にゃの? 人にゃの? どっちー?」
獣人の少女はまじまじとマルケッタを眺めていた。
マルケッタの上半分は人の上半身で、ちゃんと衣類を着ている。
下半分は馬体で、クェンティンが特注したスカートで覆っているが、馬脚はさすがに隠せない。
「とりあえずわたしの娘から降りてもらえないかな?」
「うーん……」
獣人の少女は迷っている様子だった。
よく見ると、マルケッタの腕を取って拘束している。
だから暴れてもこの少女を振りほどけないのだ。
「魔物じゃないよ。わたしの娘だ。だから安心してほしい」
こういう疑念は慣れっこだった。
マルケッタがいくら愛くるしい少女の顔立ちをしていても、下半身を見るなりひとはあっさりと手のひらを返したように怯えだす。
「そうにゃの? わかったー」
獣人少女は聞き分けがいいようで、すぐさまマルケッタの背中から飛び降りた。
マルケッタは獣人少女を怖がって、クェンティンの後ろに逃げてきた。
ぎゅっと袖を掴んできたマルケッタの頭を優しく撫でた。
「どうして足が馬にゃの?」
「ケンタウロスの子どもだからだよ」
尋ねながら獣人少女は好奇心いっぱいの目でマルケッタを追ってクェンティンの後ろに顔を覗かせる。
マルケッタは「ひゃっ」と可愛らしく声を上げてクェンティンを中心に獣人少女から逃げ回った。
それを追いかけて、獣人少女もくるくると回り出す。
クェンティンはただの棒と化した。
「ケンタウロスは魔物じゃにゃいの?」
「魔物だけど、マルケッタは人を襲うような危険な魔物とは違うよ」
「うんにゃ?」
よくわからないと言った様子で顔を上げ、首を傾げる動きに合わせて尻尾がゆらりと揺れた。
獣人少女が足を留めたので、彼女から逃げていたマルケッタが背中にぶつかった。
獣人少女は倒れ込み、マルケッタもその上に被さるように倒れ込む。
「おおっと、大丈夫かい?」
「だいじょうぶー」
獣人少女はマルケッタが退くのを待ってから、軽やかな身のこなしで立ち上がった。
立ち上がるなりマルケッタの傍に近寄っていく。
マルケッタはぶつかって倒してしまった負い目があるのか、縮こまりながらも逃げなかった。
頭ひとつ分違うマルケッタの顔を見上げ、獣人少女は好奇心を丸出しにしてふんふんと鼻を鳴らした。
「君のお名前は?」
「ミィニャ」
「そうかい、ミィニャというのかい。わたしはクェンティン・トレイド。そしてこの娘がマルケッタだ」
クェンティンはマルケッタの肩に手を置き、頭を撫でた。
震えているが、それはマルケッタが人見知りの所為でもある。
逆にミィニャは人見知りとは無縁なようで、尻尾を揺らしながらケンタウロスの子どもであるマルケッタに怯えることなく近づいてくる。
「ミィニャはどこから迷い込んだんだい?」
「ニーニャンとかくれんぼしてるのー」
「そうだったのかい。この広い街でかくれんぼとは、実に壮大だね」
獣人なら臭いで追えるのかとか、なぜこんな夜中に遊んでいるのだろうとか、つらつらと疑問に思ったが、まあいい。
それよりもマルケッタに対して悪感情を持っていなさそうなことに、クェンティンは関心を持った。
「マルケッタのことを気に入ったのかい?」
「魔物じゃにゃい魔物、ミィニャ見たことあるよ。ゴーレムー」
「魔物だったらどうしたんだい?」
「ん? ミィニャ倒すよ」
シュッシュッと拳を空中に繰り出すミィニャ。
驚くべきことに、小さな少女ながら侮れない腕を持つことが分かった。
遺憾ながら、運動神経のないクェンティンには拳の速さがまったく見えなかったのだ。
「問答無用で倒されなくてよかった」
「アルが暴れちゃダメって言うからミィニャ守ったのー」
けらけらと笑うミィニャ。
その無邪気さにマルケッタも少しだけ警戒心を解いたようだ。
その一瞬の隙を突いてミィニャはマルケッタの背中に跨った。
今度は腕を極めることはなかった。
ただ単純に乗り物としてマルケッタの背に乗りたかったようだ。
「やー! やーやー!」
またマルケッタが暴れるのを、暴れ馬よろしく振り落とされないようにミィニャはしっかりと太ももを締めていた。
馬術の心得でもあるのだろうか。
まだ成体ではないマルケッタと、小さな獣人の女の子はなんとなくしっくりとくる絵面だった。
しかしそれはあくまでクェンティンの感想。
当人たちの心のありようは違ったようだ。
マルケッタは涙して駆け回り、ミィニャはマルケッタが跳ね回るたびに喜んでしがみ付いている。
そのうち疲れたマルケッタがへなへなとしゃがみ込み、ミィニャが顔を覗き込んでも俯いたままになった。
いままでクェンティンと身の回りの世話をさせているニキータ以外、マルケッタが深く関わる人物はいなかった。
それゆえか獣人の少女との接し方がわからないようだ。
ミィニャは動かないマルケッタの頬を突いている。
「ミィニャはしばらくここにいるのかい?」
「うーん……ニーニャンに見つかるまでー」
「じゃあその間、マルケッタを任せていいかな。明日の朝にはマルケッタと街の外に出掛けるのだが、準備ができるまでもうちょっと時間がかかってね、一緒に遊んでくれると助かるよ」
「いいよー!」
ミィニャの元気な声に、クェンティンは笑みをこぼした。
どこからか迷い込んだ獣人少女。
彼女がどこの誰かは知らないが、少なくとも意図して危害を加える類の人物ではないだろう。
マルケッタはそのあたりの勘が鋭く、ミィニャがもし本心を偽って接触してきているのだとしたら、もっと敵意を見せてもおかしくない。
クェンティンにとっても、マルケッタは相手を知ることにひと役買ってくれている。
しかしそんな大人の都合を抜きに、マルケッタがただミィニャの勢いに押されて困惑している様子は、年相応の表情を覗かせているようで保護者を名乗るクェンティンからしてみれば嬉しいことだった。
獣人少女がどこから来たのかは気になるが、いますぐ解明する必要もないだろう。
クェンティンの足は商会へ向いていた。
商会でちょうどよくフィルマークのメイドである褐色肌の娘を捕まえられたので、夜だが彼を訪ねてもいいか使いに出した。
ニキータを使えればよかったのだが、彼女には明日朝出発の強行軍のために準備に走ってもらっている。
南部から戻ってきて仕事が溜まっていたが、クェンティンが抱えていた案件は、午後を丸ごと使って片付けてしまった。
というより、承認印を押したり仕事を割り振ったり、面会の申し出を三か月先まで先送りにするだけであった。
クェンティンはいわゆる砂糖商人である。
砂糖の生産から加工・運搬・販売まで一手に面倒を見ている所為で雑多な仕事も多いが、懇意にしている菓子職人が新作を作ったと言って差し入れてくれるのは素直に嬉しい。
マルケッタは砂糖菓子が好きだし、ニキータも表情を変えないようにしているが、生菓子を口に入れてやると口の中でとろけるふわふわの食感と甘味に思わず一文字に結ばれた口元が緩むのだった。
どうやら会うのに問題はないらしく、ナルシェの先導でフィルマークの執務室を訪ねた。
商会で自分の執務室を持つ人間は多いが、一階の小部屋ではない、二階の応接室を持つ商人は他の都では大商人としてやっていける連中ばかりだ。
フィルマークは間違いなく商会でも五本の指に入る商才の持ち主である。
ナルシェによって部屋に通される途中、廊下で意外な人物とすれ違う。
「おやおや? こんなところで未来の大商会長に会うとは思わなかった」
「テラディン殿ではないですか。おひさしぶりです」
俺は元宮廷魔術師のジェイドに頭を下げる。
彼はこの廊下の先の父チェチーリオの部屋から帰る途中だと思われる。
ジェイドとは数年前から付き合いがあった。
宮廷魔術師をやっている頃から必要な物資をトレイド商会を経由して注文していたのだ。
王都の宮廷魔術師と懇意になるために、商人として近づくのは当然の行動だった。
彼が急に宮廷魔術師の座から抜けてただの魔術師として活動を始めてからも変わらずトレイド商会経由で買い付けに来るので、上級顧客として認知されている。
「こんな夜更けまで父のところですか?」
「テオジアで動くには商会長に話を通しておいた方が潤滑だからねえ。逆に商会長に反発するようなことをすれば、いくらぼくだって消されちゃうからなあ」
嘘か真かもわからないような冗談を、飄々とした顔でこぼす。
この青白い青年とは歳が近いはずだが、なぜか底知れなさを感じている。
何を考えているのかわからず、何をもって行動しているかも読めないのだ。
「ではこれで。ちょっとぼくも忙しいんだ」
「ええ、また時間があれば旅の話を聞かせてください」
ジェイドを見送り、待たせていたナルシェの後に付いてフィルマークの部屋に向かった。
部屋を訪ねると、フィルマークは席から立ち上がって迎えた。
「南部ではお疲れ様でした、坊ちゃん。夜更けにわざわざ訪ねてくるほど面白いものなにも用意していませんよ?」
「そうなのかい? フィルならぼくを驚かせる異国の品を見せてくれると思ったんだけどな」
「坊ちゃんがこのテオジアを出たことのない歳の頃ならば驚かせて差し上げられたでしょうが、いまでは随分と行動範囲を広げられましたからな。私の方が驚かされるかもしれません」
世界一頑強と言われる北方のドワーフ製の武具も、世にも珍しい東方の白毛の虎獣人も、魔物を次々と取り出す南方の摩訶不思議な壺も、そのすべてをフィルマークから面白おかしく教えてもらったクェンティンとしては、いつまでもこの部屋は特別な場所であった。
それでもクェンティンは成長して一人前の商人になった。
口ではからかう癖に、フィルマークはもうクェンティンを子どもとして見ていない。
「今日はちょっと欲しいものがあって都合してもらおうと思って来たんだ」
「ほう、なんですかな? 相場より少し高めに売って差し上げましょう」
「意地悪は相変わらずだな……治癒系の魔術符が欲しくてね」
フィルマークは一瞬だけ顔をしかめた。
その顔にわずかによぎったのは、純粋な驚き、直後にこちらの真意を探るような疑心、それから目まぐるしく何かを考えるような顔。
そこまでしかクェンティンには読めなかった。
同時に、フィルマークは一瞬でも内心を見せてしまったことに苦いものを感じているようだ。
「……見計らったように都合よく現れますな」
探るような目。
フィルマークは、クェンティンを疑っている自分の姿をあからさまに見せている。
そうやってこちらの反応から意図を引き出そうというのだ。
しかし本当に何もない。
「なんのことだい?」
裏はないのだ。
だから肩を竦めてみせると、フィルマークは張りつめていた緊張を解いた。
「……いえ、こちらの話です。治癒系の魔術符は注文があって先ほど大目に仕入れましたんで、数枚でよければお譲りしますよ」
「それはよかった。明日の朝にでも北の村へ出発しようと思っていてね、流行病が蔓延しているというから是非欲しかったんだ」
「お役に立てたようで何よりです」
商談の内容は基本的に口外禁止だ。
商人は口の堅さも売っている。
信頼が欲しければ無闇に商談の内容を話したりはしない。
だから、クェンティンはなぜフィルマークが治癒系魔術符を仕入れたのか、その目的は聞かない。
こちらを疑ってかかるということは、大なり小なり明かしたくない理由があるからだ。
フィルマークを見ていると、表面上は気安く話の通じる男だが、なんだか裏で動いている気がしてならなかった。
商人なら言えないことのひとつやふたつあって当たり前だと思う。
しかしフィルマークの隠し事は、ベッドの上では女を鞭攻めにするのが好きだとか、なんだかそんな浅いものではない気がした。
フィルマークには、ベッドでは年増を攻め殺すほどに夜通し欲望の丈をぶつけるという噂がある。
そう言ったひとにあって当たり前の人間臭さがあると、不思議と聞く人間は笑って安心するものだ。
だがフィルマークの場合、安心させるために流している噂のような気がしてならない。
誰が聞いても苦笑するくらいに収まる噂だけで済んでいるところが、逆に怪しく思えてしまうのだ。
長年の付き合いがある分、隠し事をされるのは寂しくもある。
おそらくだが、父チェチーリオはフィルマークの隠し事を知っている。
一介の商会長であるはずの父は、なぜかテオジアで起こるすべての出来事に精通しているのだ。
地獄耳では済まない、あれはもう魔物だ。
「北は人攫い組織があるそうですな。それに領軍もうろつく中、流行病が蔓延しているだろう北部の村に向かうのはなぜですかな? 賢明ではありませんよ」
「その面倒に巻き込まれる前に戻ってくるつもりだよ。なに、ドンレミ村に用があるだけだから」
「そうですか。くれぐれもご注意を」
「うん、ありがとう」
治癒系魔術符を三枚ほど譲ってもらうのに取引契約書に署名し、クェンティンはマルケッタの元に戻ることにした。
獣人少女とその後、どうなっているか気になっている。
途中でニキータに捕まって、最後のチェックをさせられた。
どうせ北に向かうのだからと、いくつか輸送物を預かっているのだ。
その確認だった。
隊商の準備を済ませてから戻ると、愛しの娘のマルケッタに髪を梳かさせているミィニャがいた。
子どもはすぐに仲良くなるが、獣人とケンタウロスの子どもでも例外ではないらしい。
櫛はマルケッタが持っているものではなかった。
なんでもアルという人物からもらったミィニャの宝物だと胸を張って言われた。
随分とアルという人物が好きなようだ。
かくれんぼをしているニーニャンとやらはこの広い街の中、いまもなお当てもなく獣人少女を探しているだろうに。
そういえば、マルケッタには櫛とかそういった女性的な贈り物をあげたことがなかったなと思う。
時間を見繕ってなにかマルケッタに似合いそうな飾り物でも贈ってみようか。
母親譲りのウェーブのかかった髪に合う花飾りの髪留めがいいか。
それとも髪をまとめるリボンがいいか。
「ふたりとも、仲良くやってるようだね」
マルケッタの頭を撫でると嬉しそうに表情を崩した。
「やー」
「にゃー」
マルケッタが声を出すと、つられるようにミィニャも鳴いた。
別に鳴かなくても喋れるだろうに。
ミィニャが立ち上がって、マルケッタに頭を擦り付けた。
猫獣人特有の親愛の証だ。
マルケッタは抱き留めて、ミィニャの体に腕を回してぎゅっと抱き締めた。
クェンティンはマルケッタの母親に抱き締められたときのことを思い出した。
ケンタウロスの親愛の証。
たった一度の抱擁。
それだけを心に刻みマルケッタを育ててきた。
彼女の娘が面影を残していてよかった。
こういう仕草のひとつひとつに、愛した女性の面影を感じるのがクェンテインの楽しみのひとつだった。
しかし残念ながら、まだマルケッタから抱きしめてもらったことはない。
クェンティンのほうから抱きしめる回数は途方もないというのに。
それからしばらく、ふたりの少女はじゃれていた。
背中にもたれかかるミィニャを、あのマルケッタが嫌がらずに受け入れている。
逆にマルケッタの方がミィニャの三角の耳やゆらゆら揺れる尻尾を興味深げにいじくっている。
ミィニャはいじられるままに身を委ねているという、なんとも微笑ましい光景だ。
終わりは唐突にやってきた。
ミィニャを連れ帰りにかくれんぼ中のニーニャンが現れたのだが、その姿を見てクェンティンは驚いてしまった。
それはもう美しい、耳長の美少女エルフだったからだ。
エルフの面貌はニキータで見慣れているはずなのに、闇からゆっくりと現れたエルフは高貴さを纏っている気がした。
ニキータは隔世遺伝で耳が長いだけの、中身は人族である。
目の前に現れた耳長エルフは純粋培養のエルフなのだとわかった。
美しさが常軌を逸している。
今まで見た女性の中でも最高峰の美しさだった。
それでもクェンティンがいちばんに惚れているのは、いまは亡きマルケッタの母親である時点で自分の価値観は終わっているなと思う。
「猫、見つけた。魔力が弱いと探すのが難しい」
「あーニーニャン! ねえねえ、ミィニャともだちできた」
「友達?」
表情が溶け落ちたような顔のエルフは、小首を傾げる。
「マルケッタって言うのー。魔物だけど、魔物じゃにゃいの!」
「ケンタウロス。魔物の中では頭のいい、温厚な種族」
マルケッタを見て、エルフは興味深そうな目になった。
騒がれるかと思ったが、本場のエルフは街中に魔物がいても動じないようだ。
「エルフ族の方ですよね? わたしはクェンティン・トレイドと申しまして――」
「そろそろ帰る。アルがさっき呼びに来た。今日は終わり」
クェンティンの自己紹介はあっさりとスルーされた。
それよりも傷つくのは一瞥もされないことだ。
「じゃあ帰るー。マルケッター、またねー」
ミィニャはマルケッタと抱擁をすると、エルフと並び手を振って闇夜に消えていった。
マルケッタは見えなくなるまで手を振っていた。
初めてできた友だちと別れるのがなんだか寂しそうだ。
その横で、まったく存在を無視されたのはマルケッタの母親、ウィステリアと最初に出会ったとき以来だなとクェンティンは感慨深げに思った。
○○○○○○○○○○○○○○○○
クェンティンが部屋を訪ねてきた。
何かと思ったら魔術符を譲ってほしいとのことで、フィルマークはタイミングの良さにさすがに訝しんだが、どうやら彼に裏はなかったようだ。
明早朝から北の村を訪ねると言っていたから、このテオジアで何かをする気もないようだし。
「ナルシェ、おまえは先に上がってくれ」
「かしこまりました、それでは失礼いたします」
少し嬉しそうに頭を下げて、執務室からナルシェが退出した。
そういえば、結局彼女にもラインゴールドの双子の生き残りについて教えることはなかった。
ナルシェはアルシエルにかなり入れ込んでおり、双子を亡くしたのも自分の所為だと自責の念に駆られていた娘だ。
もし生きていることを告げれば、何も言わず迷宮のある西部地方へ向かってしまうかもしれない危うさがある。
普段から感情の起伏をあまり見せないから一見するとそうとはわからないが、思いつめて爆発するのは目に見えていた。
なにせ、双子が峠の土砂崩れに巻き込まれてラインゴールド家のメイドともども土の下に埋まってしまった報告を受けたとき、ナルシェは刃物を厨房から盗み出し手首を切って死のうとしたのだ。
計算高く明晰な少女だが、感情に左右されて突発的な行動を起こすところもある。
しばらくラインゴールド家の話は、信頼できるものに調査させて自分の胸にしまっておく必要があった。
「……ふぅ」
思わずと言った感じで、ため息を吐いてしまう。
面倒を背負いすぎている自覚はある。
もし自分が何者かに拉致され、拷問と自白を強要され何もかも洗いざらい喋ってしまったら、この国を二分してしまいかねないほどの真実が白日の下に晒されることになる。
だから自分の周囲は影のものたちに護らせていた。
ナルシェとふたり外出したときも、そうとはわからないような護衛が二十人以上いる。
表立っての護衛を付けないのは、そういうことである。
フィルマークは立ち上がり、部屋を出て商会長の部屋に向かった。
夜になっても商会長の部屋から明かりが落ちることはない。
部屋をノックすると、中から歓迎する声が聞こえてきた。
部屋に入ると書類の山がうず高く積み上げられ、中央の応接セット以外、壁際や机の周囲は書類や雑多な書留で溢れ返っていた。
商会長は顔を上げることなくペンを走らせている。
手の動きは早く、一瞬たりとも淀みがない。
「よく来てくれた、アセイジオ。夜に報告に来るように言ったこと、忘れてなかったようだな」
「商会長のお達しですからな。約束を守らねば商人としての面子が立ちませんよ」
「嬉しいことだ。では早速報告を」
フィルマークは頷き、机の前に立つ。
商会長が許してもいないのにソファに腰掛けることはない。
フィルマークは今日までの商談の話を簡潔に話し、その都度商会長から助言をいただく。
自分では穴のないと思っていた商談に少しばかりの綻びやどうとでも解釈できる曖昧な契約がなされていたことを指摘されるので、未熟な自分に気づかされることが多い。
フィルマークは生涯かかってもこのチェチーリオ・トレイドに敵わないことを思い知るのだ。
「商い事はこれでいいだろう。それでは最近の動きについて話そうか」
「いろいろ耳にすることが多いですな。領主弟の出征に人攫い組織、テオジア北部での流行病。王国内に話を広げれば、西部地方での混乱、南部戦争のごたごた、東部では大平原を巡る各国の軍派遣がありますし」
「私の耳にもそれは入ってきている。領主弟の出征はかなり急な話だった」
「ええ、私のところに貴族の方が何人も用利きにいらっしゃいましたね。突然の招聘に下級貴族は上を下への大騒ぎで出征費用の捻出に駆けずり回っていたと思いますよ」
「成功すれば何も問題はないのだがね」
「私にはなんとも言えませんな。商人は赤字にならないよう計らうだけです」
「血も涙もない、ある意味商人らしいセリフだな」
「借用書に従い、彼ら貴族が亡くなった場合の貸付金の回収はつつがなく済むことでしょう」
「ひどい男だ。支払えない下級貴族から娘を取り上げて奴隷にするなんて」
商会長はからかうように言った。
「戦捷次第でしょうな。私としても取引相手が減るのは困りますから、五体満足で帰ってきてもらいたいものです。目先の欲より長い目で見ることにしておりますのでね。ですが私も慈善家ではない。貸し付けた分は必ず回収しますよ」
「私はね、思うのだよ。領主の弟は何者かによって引っ張りだされたんじゃないかとね。狙い撃ちってやつだ」
背中に冷たい汗を感じるが、フィルマークは努めて平静を装った。
「狙い撃ち? その何者か、とはなんです?」
「貴方ならすでに見当が付いていると思っていたがね」
ちらっと商会長は目を上げた。
彫りの深い目元に、爛々と輝く瞳がフィルマークを射抜いてくる。
この目に見つめられると、どうにも落ち着かなくなる。
「買いかぶりすぎですよ。テオジアでいちばんの商会長に買ってもらえるならそれだけで自慢にはなりますがね」
「そうなのか? 残念だ。噂によると、領主弟の愛人が人攫いに遭ったそうだ。これに居ても立ってもいられなくなった彼は無理やり軍を動かした。急なことで準備も整わないから、君のところへ金の無心に来るものもいた。そんなところかな」
「ほう、やはりこの度の出征には裏があったというわけですか。しかし、それほど高尚な理由ではないようですな。領主弟が自ら軍を率いたことはこれまでに一度もありませんし」
「この話のオチは、その愛人というのが実は男、というところかな。世間に自分の愛人が男なんて公言するわけにはいかないから、人攫い組織の壊滅のために軍を起こしたんだと。笑えるな」
商会長は微笑を浮かべるが、それは何か含みを持っていた。
「……ずいぶんと俗物的な趣味があることで。冒険者上がりの私には理解できませんな」
「アセイジオは、噂では女を三人並べて抱いているそうじゃないか」
「そんなことしませんよ。これでも一途ですから。ひとりを夜通し攻め抜きます」
「ふふ、そういえば君はまだ独身だったな。妻帯するのは早いうちがいい。子どもが育つのを見るのは私の密かな楽しみでもある」
「クェンティン殿は才知に長け、頭の回転も速いですからな。よい息子をお持ちだ」
「それだけではダメなんだがね。もっと先を見据えて考えられるようにならなければ、私の後継は務まらないからな」
フィルマークは先程部屋を訪ねてきた、美青年のクェンティンの将来を憐れんだ。
こんな怪物のような男の息子なのだ。
要求に応えるだけでも精いっぱいだろう。
少なくとも凡人の自分は、商会長チェチーリオの望む結果は出せない。
そして早々に見限られる自信があった。
「ああ、そうそう、アセイジオ。君にひとつ忠告をしておこうと思っていてな。忘れていた」
「……なんです?」
商会長のチェチーリオは顔を上げ、ペンの手も止めた。
そしてまっすぐ射抜くように、俺の目を見つめてくる。
それはあまりにも身震いがするもので、深い海の底を思わせる瞳の奥から心を覗き込まれているような錯覚を起こした。
「君の背負いすぎたもののことだ。あまり君はこのテオジアから動かない方がいいだろう。それによって滞ることも多い。ひとを使いなさい。持てる人脈のすべてを使いなさい。君は司令塔であるときがもっとも本領を発揮できるのだから。話はそれだけだ。下がってよろしい」
一方的に言われて、考える暇もなく退出を余儀なくされた。
今のは何だったのか。
フィルマークが何を隠しているのか、それは商会長にとってすべて見抜いていることなのだろうか。
それなら空恐ろしい。
どこかに情報が漏れることがあったのか。
そんなはずはないのに、疑念が次から次へと涌いてきた。
フィルマークは商会長の言葉を反芻しながら、段々と嫌な想像に囚われ始めた。
考え事をしながら進んでいた所為か、フィルマークは商会前の待たせていた馬車に乗り、気づいたら自宅の屋敷へ戻っていた。
屋敷で使用人に迎えられる。
フィルマークはその足で地下に向かった。
地下の螺旋階段に松明がかかり、下りていくことができる。
階段の果てに門があり、そこには番兵がいる。
黙ったまま直立し、フィルマークを通した。
長い長い通路。
しかしそこを人力車で走る。
人力車を動かすのは、獣人の奴隷ふたりだった。
地下には張り巡らせたいくつもの道がある。
これはフィルマークが作らせたものではなく、テオジアの建設から五百年の間に作られていったいわば歴史の跡であった。
「おい、フィル。相変わらず難しい顔をしてるが、その偏屈顔を拝むのも今日で最後だぜ」
「……サーシャか。護衛ご苦労だったな」
人力車の席の横に、いつの間にか女が座っていた。
頭部に生えた獣耳。
毛並みの良い尻尾を膝の上に持ってきてしごいている。
豪快な笑みを浮かべ、またそれに負けないくらい豪快な性格をした獅子系獣人の女偉丈夫であった。
金色の鬣のような髪を肩まで伸ばしている。
「こんばんは、フィルさん。サーシャがうるさくてごめんなさい。ちょっと欲求不満なの」
「いや、いつものことだ。気にしない」
「なにぃ?」
フィルマークの横に、もうひとり女が同乗していた。
サーシャとは性格が正反対のメルデノ。
黒髪に、ふくよかな体型。
一見すれば気の良いお姉さんだが、その耳先にはドワーフ特有の毛が生えており、彼女もまた人族でないことを物語っている。
彼女たちふたりは今日までフィルマークの護衛をやっていた。
亜人の特徴的な部分は、帽子や服の下に隠すなりして、人込みに紛れていたのだ。
「今日付けで護衛を離れます、フィルさん。明日からの護衛は別のものに任せますが引継ぎは終わっていますので」
「こんな面倒な仕事は二度とごめんだ。アタシはやっぱり外に出て暴れるのが性に合ってるわ、ほんと。商人とか食えない生き物見ててストレスしか溜まんないわ、マジで」
「サーシャは久しぶりの外だから気が立っているんです、この子。今日は眠れないかもしれません」
「目が冴えちまってんだから仕方ないだろ。ちょっくら闘技場でひと暴れでもして騒ぐ血を抑えるしかねえな」
血気盛んなサーシャだが、彼女を満足させるのは難しそうだ。
元は地下闘技場の比類なき戦士であった。
半時間も進んだだろうか、そこにも門があり、番兵が立っていた。
人力車を降り、門を潜る。
もちろんふたりの亜人も付いてくる。
しばらく進むと熱気と怒声が押し寄せてきた。
地下闘技場。
それを眼下に見下ろし、中央の明かりに照らされた円形の舞台でふたりの男が殺し合いを繰り広げている。
片方は俊敏な狼人族。
もう片方は強靭な肉体を持つ鬼人族だった。
手数と敏捷で翻弄する狼人族を、一撃必殺の鬼人族の拳が捉えようとして幾度も空を切っている。
非合法にしてトレイド商会の管理下にある地下組織。
テオジアには裏組織の派閥がいくつもあるが、そのいずれにもトレイド商会が関わっていた。
奴隷売買に闘技場管理、娼婦斡旋に賭博場経営……表の人間が眉をひそめるような犯罪だが、それも経営側に立って操ってしまえば無秩序になることはない。
人間の内に潜むどうしようもない欲望を理解し、トレイド家は代々、裏業界の管理も行ってきた。
フィルマークが手を付けることになったのも、闘技場という死闘の場であった。
できれば奴隷売買の方に手を付けたいのだが、そちらにはすでに古参の商人が独占してしまっているので入り込む余地はなかった。
それでも闘技場で戦わせる戦闘奴隷を斡旋してもらうために、いくらか食い込むことができたのは僥倖か。
フィルマークは必要悪というものを否定しなかった。
「それでは、フィルさん。私たちは夜には出発しますので」
「ああ、やつのことは任せたぞ」
「はい、アスヌフィーヌさんのことは任せてください」
「けっ、あのカマ野郎のことなんかどうでもいいぜ。領主軍が動いてるんだろ? だったらちょっとくらい手を出しても問題ないわけだ」
「問題大有りですってば」
サーシャとメルデノはふたりして別の通路を進んでいった。
地下闘技場への道なので、本当に一戦していくらしい。
フィルマークは闘技場を後にする。
ここはただの通過点に過ぎない。
そして地下闘技場から幾分と離れていない通路の先へ足を運んだ。
番兵が立ち、訪いを告げる。
扉が開くと、ナルシェが出迎えてくれた。
その腕に小さな赤ん坊を抱きながら。
ホールに入ると、ナルシェの先導で奥の部屋に通された。
次の部屋には暖炉があり、赤くぱちぱちと爆ぜる薪が室内を暖めている。
柔らかな絨毯の上に座り心地の良さそうな安楽椅子が置かれている。
部屋にはふたりの男女が笑い合って喋っていた。
フィルマークに気づくと笑顔をそのまま向けてくる。
「よぉ、フィル」
「いらっしゃい、フィル」
「久しぶりだな、ジャン、セラ。地下暮らしで腐ってないか?」
「早くお日様の光を浴びられる身分になりたいもんだぜ。俺はまだしも、ふたりの子どもにゃ地下暮らしはちときつい」
闊達に笑い、目を爛々と輝かせた男、ジャン・ラインゴールドだ。
「良くしてくれてありがとう、フィル。おかげであの子たちもちゃんと育ってるわ」
赤髪の女性が柔和に笑う。
十年前、冒険者をしているときには想像もできなかった母性のある笑みを浮かべるセラ。
その柔らかな物腰は、剣を手に大立ち回りする剣姫の名前がどこか遠くにかすんでしまうのを感じるくらいには母親になっている。
「奥様、リナレット様がお休みになられました。ベッドへお連れ致しますね」
「お願いね、ナルシェ。いつもありがとう」
「はい、アンセルム様も寝つきが良く、手がかかりませんので」
ナルシェは商会にいたときより表情のある柔らかい笑みを浮かべる。
ナルシェが抱いているすやすやと眠る赤ん坊は、リナレット。
まだ一歳にも満たない乳飲み子で、ジャンとセラの娘だ。
そしてここにはいないが、もうひとりの息子、アンセルムは二歳だった。
どちらもセラに似た赤毛で、ジャンのくすんだ髪色には似ていない。
「ジャン、セラ……」
フィルマークは名前を呼び、そして口を閉ざした。
彼らふたりに言うべきことがあった。
しかし、何と切り出してよいのかわからない。
子どもふたりを産んだセラ。
双子ではないが、赤毛の兄妹であった。
それは双子を失って失意に沈むセラをなんとか救うために、ジャンが取った行動の結果だった。
いまこのふたりと、それからナルシェは幸せの渦中にいる。
息苦しい地下生活が続いているし、外に出ることはできない。
偽装した家の二階を使わせているが、バルコニーに出ることすらできないのだ。
それでもふたりは満ち足りた笑顔だった。
そこに愛する子どもがふたりいて、夫婦の心を生き甲斐となっているからだ。
「ん? どうした、フィル?」
「何でもない。相変わらずの親馬鹿だよな、おまえらは」
「子どもはいいもんだぞ、フィル。手がかかるが何より可愛い」
結局、フィルマークは何も言えなかった。
どうして残酷なことを伝えることができようか。
ようやく落ち着いた心の波を今更荒立てることもない。
彼らには、いま欠けているものがないのだ。
そこに昔失ったピースを嵌め込むことに意味はない。
双子の生存は、彼ら夫婦にとって知らない方がいいことのように思えてくる。
ナルシェにしてもそうだった。
フィルマークだって人の子だ。
幸せをぶち壊すことに躊躇いはあるのだ。
だからか、心の奥底にしまい込むしかなかった。
面倒事はすべて背負い込む運命なのだろう。
商会長の言葉を思い出したが、すぐに頭を振って忘れようとした。




