第52話 ジェイドの魔宮⑫ 赤毛の叔母
四階層――ゴーレムエリア、階下階段前の広場。
琥珀色のスープを音も立てず口に運ぶ、上品なふたりの女性がいた。
「何このスープ……かび臭くてじめっとしてるこんな場所でおいしいものが食べられるなんて、びっくりだわ!」
「ふふん」
「とってもおいしいわ。これに比べたら兵士のみなさんが毎日食べている粗食は……残念ね」
「ふふふん!」
ゾーラとヴィルタリア、妙齢のふたりから大絶賛されて俺は浮かれていた。
鼻が高い。
そして褒められて、くねくねと身を捩る。
「あなた、料理人になるべきよ。こんな食材の枯渇した場所で、よくこんなおいしいものを作れるわね! 尊敬に値するわ」
特にゾーラ・ベルハイムこと、赤毛の女性が絶賛してくれている。
俺はあまり目を合わせないようにしていたが、褒められて嬉しくないわけがない。
「アルー、ミィニャも食べたい」
「もう食べたでしょ。寝る前はダメ。虫歯になるから」
猫ちゃんが袖をくいくいして、もの欲しそうな目を向けてくるが、断腸の思いで躾けを行う。
浄化を毎朝行うので虫歯にはなりようがないのだが、それはそれ、これはこれだ。
彼女らが食事を終えたところで、俺は猫ちゃんとニニアンを促して寝る支度を始めた。
「ちょっと待って! あなたたちのことを詳しく聞かせて!」
「もう夜です。ぼくらは寝る時間です。話があれば明日聞きますよ。それとも、ぼくらのやり方を否定してまで、そちらの考えを通そうとしますか?」
ローブを目深にかぶり、じっと睨んだ。
女性ふたりは顔を強張らせ、押し黙った。
イニシアチブはこちらにあるようだ。
よかった。
そんなの関係ないと捲し立てられたら、危うく押し負けていたところだ。
毛布を敷き、それにくるまると猫ちゃんも入ってくる。
ニニアンはいつも肩に毛布を掛けて座り込むだけで、横には寝そべらない。
一応女性ふたりにも毛布を一枚、予備のものを貸していた。
猫ちゃんが毛布を抱えて、よちよち歩いて渡しに行ったのだ。
赤毛のゾーラはいつ噛みつかれるのではと警戒していたが、黒毛眼鏡のヴィルタリアは嬉しそうに毛布を受け取り、猫ちゃんの頭を撫でていた。
警戒心は欠片もないようだ。
猫ちゃんやエルフに対して先入観はないみたいで、ヴィルタリアに対する俺の中の好感度が少し上がった。
「タリアは絵本、読めるかにゃ?」
「読めるわよ。ミィナは絵本が好きなのかしら?」
「んにゃ! 絵本すき!」
「読んであげましょうか?」
「うにゃ! 取ってくるにゃ!」
猫ちゃんの警戒心のなさは頭ひとつ突き抜けているな。
まあ、ゾーラの方には近づかないところを見ると、ちゃんと警戒すべき相手はわかっているのだ。
ゾーラは獣人にあまりいい感情を持っておらず、ヴィルタリアは獣人だろうがエルフだろうが関係ないといった感じだ。
猫ちゃんが絵本を抱えて戻ってくると、ヴィルタリアは膝の上をポンと叩いた。
そこに猫ちゃんがすっぽりと収まる。
ヴィルタリアは、読み慣れていないのかあまりうまくはなかったが、猫ちゃんを満足させるには十分だったようだ。
絵本を読み終える頃には、すっかりヴィルタリアに懐いてしまった。
俺はその間、彼女らの和気藹々ぶりを横目に見ながら、体に魔力を巡らせる日課を上の空でやっていた。
「猫を取られるのではないか、と思っているのか?」
「ち、ちがわい……」
「いつまで顔を隠しているんだ? 見られたくない事情でもあるのか?」
「……言いたくない。気にしない方向でお願い」
「よくわからないが、わかった」
ニニアンは相変わらず細工に勤しんでいたが、俺の様子がかなり不自然だったようだ。
自分では気づかないものだな。
迷宮に夜はない。
常にほのかに照らされているからだ。
それでも静かであれば、やがて眠りにつく。
猫ちゃんは始めから眠そうだったので、絵本を読んでもらって満足そうに戻ってくると、毛布に潜るなり俺の腕枕ですやすやと寝息を立ててしまった。
俺たちと女性ふたりの間には、念のため十メートルほどの距離が置いてあった。
こちらはニニアンがいるから、彼女たちが邪な理由で近づいてきても対処できる。
向こうはこちらが何かしないかと考えても、この距離なら一応は安心できる、だろう、たぶん。
お互いの心の平穏のためだ。
ニニアンに夜は任せ、俺も猫ちゃんの猫っ毛に鼻を埋めて眠りについた。
朝食後、ついに我慢しきれなかったのか、ゾーラが口火を切った。
「教えてほしいことがあるわ」
ゾーラはまっすぐに俺を見つめて言った。
俺は髪を見られないよう、ローブを深く目元に引き寄せた。
ヴィルタリアの足の怪我を治して以来、二度目の接近である。
「まず、なんで顔を隠すのかしら」
「照れ屋なんです。それに、見られたくない理由があるので。首に奴隷紋があったら、あまり見せたいとは思わないでしょ?」
「……それは、そうね」
あくまで例えの話だが、効果があったようで追及はしてこなかった。
「奴隷紋があるのかしら?」
「…………」
「…………」
不躾にヴィルタリアが尋ねてきた。
俺は無視することにした。
ゾーラも察してくれたのか、話題を変える。
「では、あなたたちは三人で迷宮攻略をしているのね?」
「はい、他に仲間はいませんよ。そちらは、ふたりだけではないでしょう?」
「……ええ、そうですね」
「冒険者……ではないですよね?」
俺は逆に、彼女らに一歩踏み込む。
「冒険者ではないわ」
「王国より派遣された軍隊よ」
ゾーラは話を濁そうとしていたのだろうが、ヴィルタリアがはっきりと答えてしまう。
何も考えていないヴィルタリアの態度に、ゾーラは苦虫を噛み潰したような顔をしている。
親類かもしれないゾーラの事情は置いておいて、俺は笑い出しそうになってしまった。
これがすべて演技と見ることはないだろう。
黙っていようとするゾーラと、何が有利不利かもわかっていないヴィルタリア。
「軍隊の規模は?」
「数百人よ」
「いまは四百人くらいかしら。最初は千人近くいたのだけれどね」
「軍というと、大将は大将軍ですか?」
「将軍ですね」
「ジオ・ジェラード将軍よ。頭の固い老人だわ」
「ヴィッキー?」
「えーと、貶しているとか、そういう悪い意味ではないわよ?」
ゾーラが先制を打って答えるが、ヴィルタリアはさらに詳細な答えを吐き出している。
軍隊の行軍速度やいままの状況を鑑みるに、嘘はないだろう。
「魔術師隊がいるでしょう?」
「ええ、まあ……」
「二百人だったけど、いまは百五十人くらいかしら。ゾーラは魔術師隊のエースなのよ」
「目標は迷宮の攻略ですか? それとも調査ですか?」
「どっちでもあるわ」
「攻略よ。最深部の魔物を見るまで帰れないわ」
「部隊が危険になったら撤退するわ。最深部まで行くことが究極の目的ではないもの」
「私は見たいわ」
「そう思っているのはヴィッキーだけよ」
ゾーラとヴィルタリアが見交わし合う。
目的が統一できていないようだが、おそらくヴィルタリアの個人的な目的なのだろう。
「それは置いておいて、こちらも聞きたいことがあるわ」
「いまはっきりさせたいわ。最深部に――」と喚いているヴィルタリアをゾーラは取り合わないことに決めたようだ。
「三人の目的は迷宮攻略なの?」
「もちろん最深部に行くことです」
「たった三人で?」
「エルフがいますから」
「幼いあなたたちがゴーレムを倒すのを見たわ。決してエルフに任せっきりでないのは、治癒魔術の腕や、昨夜からの様子を見ていてわかったわ。あなた、幼いけど相当な魔術師ね」
「そんなことはないです。エルフの師匠がすごかったんですよ」
「この方が師匠?」
ゾーラはニニアンを見やる。
「いえ、別のエルフです」
「エルフは聖域からほとんど出てこないという話だけど、ふたりも知り合いがいるのね」
ゾーラは感心している様子だった。
魔術を齧るものなら、エルフの底知れなさというものが理解できるのだろう。
同時に羨ましさに似た眼差しも感じた。
「いまおいくつなの?」
「ニニアンは五十七歳です。これでも若い方らしいです」
「そうなのね。でも私はあなたの歳を聞いているのよ?」
まっすぐに見つめられる。
その目は、俺のひた隠している部分を覗こうとしているような薄気味悪さを感じる。
もしかしたら、俺が彼女をママセラの血縁だと疑っているように、何かしらの引っ掛かるものを感じているのかもしれない。
やはりゾーラと会話を続けるべきではなかったのかもしれない。
自分の不利な状況にじわじわ近づかれているので、何とかして切り上げたい。
「……九歳です」
「どこの生まれなの?」
「ここから東のオリエンス王国です。大平原で育ちました」
「ご両親は、生きているの?」
「死別しました。ずっと昔です」
ほぼ尋問だった。
俺に向けられる威圧感に、ヴィルタリアも不審に思っている……かと思いきや、猫ちゃんを膝の上に乗せて、耳を弄繰り回していた。
「人耳はなくて、頭に獣耳が付いてるのね、ふむふむ……」と、研究者さながらに没頭している。
「その髪、赤い色よね? 昨日ちょっとだけ見えたわ。髪だけでいいの。見せてはくれないかしら」
ゾーラが踏み込んだ一言を投げかけてくる。
これはもう決定的だ。
疑いがあるなら晴らしておこうと考えているのかもしれない。
「いや……です……」
要するに、ゾーラ・ベルハイムは俺の親類と思って間違いない。
ベルハイムは母方の姓か、あるいは嫁ぎ先の家名であるのだろう。
それならベルハイムという姓になんらおかしいところはない。
なにより真摯に向けてくる眼差しが、ママセラを思い起こさせて心臓が高鳴った。
違うところを挙げるとすれば、ちょっと唇の厚みが薄い気がするし、胸も少し薄い。
ママセラの髪はゆったりとしたウェーブがかかっていたが、ゾーラの髪は少しストレート寄りだ。
皺が寄るほど歳は重ねていないだろうが、迷宮攻略が続いて肌のハリはあまりない。
しかしそれ以外の、顔立ちや目の色が、補って余りあるほどママセラを想起させる。
「ちょっとでいいの。お願い」
「ねえゾーラ、何がそんなに気になるの?」
「私にもわからない。けど、昨日から胸騒ぎがするの。それはきっと、この子と関係あるんだと思う」
俺を見つめて、ゾーラは言う。
勘弁してほしい。
彼女に身分を打ち明けたところで両親が戻ってくる保障はあるのか。
むしろ自分とリエラの生存が知られて、暗殺者を向けられるのではないか。
危険の方が強い以上、俺は何としても白を切り通すつもりだった。
「ちょっと待って……何かが引っ掛かってたけど……赤毛に……アル……魔術師で……九歳……でも、そんなまさか……」
赤毛の女性がぶつぶつと呟いている。
「やっぱりそうよ。アルって、アルシエルよね?」
名前を呼ばれて、ビクッとしてしまった。
それは痛恨のミスだと、直後に思った。
今の反応で確信を深めたのか、ゾーラは眉根を寄せて、叱るときのママセラと似たような顔つきになった。
「アルシエルなのね?」
「あなた方は先を歩いていたぼくらの後ろをついてきたに過ぎないんです。それがわかったなら、ここらで引き返しましょう。ぼくらにだってゴーレムは手に負えません。だから――」
「アルシエル! 私の目を見なさい!」
言葉を遮るようにゾーラは叫んだ。
「失礼ですが、ぼくの名前はアルです。アルシエルなんて名前じゃありません」
声が震えないように、努めなければならなかった。
「私よ。ゾーラ・ベルハイムよ。旧姓はゾーラ・レッドローズ。セラ・レッドローズ……いえ、セラ・ラインゴールドの名前、貴方なら知っているでしょう? 私はセラの姉よ。ねえ、アルシエル? わからないかしら?」
確信し切った目で、問い質すように見つめてきた。
「ぼくは赤魔導士のアルです、マダム」
「嘘よ! その赤毛に、はしばみ色の瞳、口元はジャンにそっくりじゃない! リエラシカはどうしたの? 一緒にいないの?」
俺はヴィルタリアに目を向けた。
彼女の方も何が何やらわかっていない様子で、戸惑った顔をしている。
「ヴィルタリアさん。彼女はぼくが生き別れの息子だと勘違いされているのですか?」
「いえ……そうではないけど……」
ヴィルタリアもラインゴールド家の事情を知っているっぽい。
双子の存在も知っていそうだ。
だが、行方知れずとなっている双子の片割れとこんな迷宮で出会えるはずなどないのだ。
「アルシエル、貴方は幼かったから知らないかもしれないけど、貴方の名前はアルシエル・ラインゴールドよ。魔術師の父を持ち、剣士の母に育てられた、私の自慢の甥っ子なんだから!」
「知らないも何も、ぼくの生まれは大平原の向こうですよ? 知っていますか? オリエンス王国を。この猫ちゃんは、ぼくが幼い頃に与えられたペットです。エルフは、旅の途中で知り合いました。貴女はオリエンスの生まれですか?」
「いえ、違うわ」
俺の心の天秤は、すでに決まった方に傾いていた。
アルシエルとリエラシカの双子は死んだのだ。
あの日、両親と別れた日に。
もし双子が生きていたとするなら、それは生き別れた両親が見つかり、ふたりが再会を果たしたときだけだ。
「なあ、なぜ嘘をつく」
いままで黙っていたニニアンが、ずっと黙っていればいいのに悪いタイミングでそんなことを言った。
「嘘? やっぱり嘘なのね? アルシエルなのよね? 貴方たちの行方はずっと探していたのよ!」
それが本当なら、なぜウィート村に捜索の手を伸ばさなかったのか。
両親が逃げようとした先を考えれば、西の端の村は行き着いてもおかしくない。
もっとも大人の、それも親族の庇護を必要としていた時期だったのに。
奴隷として頼る相手もなく、ひたすらに耐え忍んでいた日々に現れない彼女が悪い。
いまはもう、誰の庇護も必要としていない。
俺には仲間がいる。
リエラには最高に頼れるエルフと地位のある神官父娘が付いている。
薄情な話だが、すでにお呼びではないのだ。
「見つけてもらったなら喜ぶべきだろう。母親なのだろう?」
「ニニアン、口を挟まないで。それと母親じゃないから。貴方だって師匠との因縁をあれこれと詮索されたくないはずだ」
「そう、だな。黙っていよう」
ニニアンはむっとして、おとなしく口を閉じた。
猫ちゃんはヴィルタリアと一緒になって、ことの成り行きを眺めていた。
「そうですね、嘘をつきました。本当のことを話します。本当は未来の妻なんです。まだ婚姻は結んでいませんけどね」
「そのことじゃない!」
ゾーラが声を荒げる。
机があったら拳を叩きつけていそうだ。
壁があったらドンしているだろう。
話題を意図的に逸らしていることも、ばれているようだ。
「私と結婚するつもりなのか……」
ニニアンが衝撃を受けていた。
いや、違うからね?
いろんなところを間違っているからね?
俺は嘆息した。
感情的になった女性は特に苦手である。
気をしっかり持たないとペースを持って行かれそうになる。
ちょっと年上ならいいが、三十代の女性は扱いが難しい。
ヘソを曲げられたらおしまいである。
すでにヒステリック気味だが、まだなんとか、話し合いをしようという意思は感じられた。
こちらには話したら話した分だけボロが出る可能性があるので、早々に切り上げさせてもらおう。
「仮に、ぼくが貴女の甥っ子なら気が済むんですか? これは感動の再会なのですか? 涙を流せば満足してくれますか?」
「そんなことを言いたいんじゃないのよ!」
怒らせている自覚はある。
嫌な人間を演じるのもきついな。
しかし、妹と再会できていないうちから、生存の事実を王国に知られたくない。
北の都市テレジアの修道院にいるという妹の身に危険が及ぶかもしれないのだ。
「ぼくたちは行きます。あなた方もお気をつけて」
「ちょっと、ねぇ! まだ話は終わってないわ!」
「貴女がぼくの叔母だと言うなら、両親を連れてきてください。話はそれからではないんですか?」
「何を言ってるの? 私と一緒に来なさい。甥っ子をいつまでも危険な場所に置いてはおけないわ!」
「なんだか怒らせてしまったみたいですね。すみません、ぼくたちはもう行くことにします。猫ちゃん、ニニアン、行こう」
「待って!」
立ち上がって背を向け、歩き出そうとしたところで、ガシッと肩を掴まれた。
伯母はまだ引き留めようというらしい。
振り返った。
眼鏡をかけたきつい目つきの女性が、猫ちゃんを腕に抱えながら俺の肩をしっかりと掴んでいた。
ゾーラではなかったことに、ちょっとたじろぐ。
「行くなら私も連れて行ってくださらないかしら。最下層まで、貴方なら行けるのでしょう?」
「え?」
「え? ヴィッキー?」
さっきまでの話を聞いていたのだろうか。
ゾーラも言葉を失っている。
「なんで貴女がここでしゃしゃり出るの? 違うわよね? いま身内の大事な話の最中よね?」と言った様子だ。
俺もそれには至極同意だ。
「私は誰も見たことのない魔物をこの目で見てみたいのよ」
「じ、自分の身を守れないような足手まといを連れて行くつもりはありませんから」
「ねえ、お願い……」
真剣な目を向けられても、気持ちは変わらない。
ちょっと動揺したのは、ゾーラに引きとめられると思っていたからだ。
そのゾーラはというと、横槍を入れられて完全に二の足を踏んでいた。
「あなたの目的は、魔物を見るだけですか? それは本当ですか?」
「誓って本当よ。将軍様は別の思惑があるみたいだけど、私はただ魔物を見たいだけ。叶うなら触れてみたいけど、私には魔物をなんとかする力はないから」
悔しそうに眼鏡の女性は顔をしかめた。
ふむ。
この女性のことは、この短い間でも十分に知ることができた。
この年の女性の多くは言葉と内心が一致しないものだが(※アル君の偏見です)、まるで子どものようにヴィルタリアには裏表がない。
亜人族に対する差別もなく、魔物に対する怯えもない。
この女性には恩を売っておくのもいいかもしれないと思い、少し思案した。
三十代の女性って色気があっていいと思います。
免罪符? いいえ、本音ですよ?




