第49話 ジェイドの魔宮⑨ 赤毛と細眼鏡
三階層――地底湖を抜けると、敵は一体も出てこなかった。
ジオ将軍は、深い深い疲労感に襲われる。
これでは撤退を促す口実がない。
「何も出ないではありませんの。これではつまらないですわ」
「ヴィッキー、人の生き死にがかかってるんだから、そういう不謹慎なことは言わないの」
「ですけども、不満ですわ、ゾーラ……」
「膨れないの。綺麗な顔が面白くなってるわ」
ふたりの妙齢の女性が並んで歩きながら、話をしている。
王都から付いているお荷物のこのクラウス嬢には、怖い目に遭ってから王都に送り届けたい。
もう二度と物見遊山で王都から出ることのないように、しっかりと記憶にトラウマを刻み込んでもらいたい。
こんな面倒な任務は、二度とごめんだった。
今回何事もなく帰還すれば、またお嬢様の気まぐれで駆り出されるかもしれない。
退役した軍人ならば、そのような生き方もあろう。
しかしジオ将軍は、戦って果てたいと常々思っていたのだ。
男は戦場に骨を埋めるもの。
幸いにして息子たちはすでに一端の男に育ち、娘たちはすべて嫁に出している。
こうしてゾーラという孫の連れ合いを拝むまでになった。
祖父より先に死んだ孫のことは不幸だと思うが、自らの意思で戦場に立ったのだ。
致し方あるまい。
ジオ将軍の所属する派閥からは、クラウス嬢は事故死させても構わないと言付かっている。
むしろ相手の弱みを突くチャンスであるのだから、積極的に事故死するようにとも命じられている。
しかしなんの力もない女性を見殺しにするほど、ジオ将軍は心を鬼にすることができない。
そもそも派閥の連中を好いてはいない。
胸のすくような気の良い連中は、そもそも王都で文官などやっていない。
クラウス嬢の祖父は、個人的な付き合いがあった故に頼まれ、ジオ将軍は己の心の赴くほうへ協力しているに過ぎない。
長年他国との戦争や、亜人族、魔物の討伐を行ってきたが、一度だって無力なものたちを弑逆したことはない。
軍人として、それが誇りだったからだ。
たとえ獣人だろうが、肌の色が違う人種だろうが、抵抗しないのであれば無理に命は奪わなかった。
例外的に魔物は何をしなくても襲ってくるので、返り討ちにすればよかった。
上からの命令は、そんなジオ将軍の誇りを無視し、踏みにじる行為と言っても過言ではない。
従うと思っているほうがおかしいのだ。
ジオ将軍は、ゾーラを娘のように思い、目をかけてきた。
派閥の連中にゾーラを殺せと言われても、承諾することは万にひとつもないだろう。
自分の立場を危うくしようが、受け入れがたいことは拒絶している。
それを連中はわかっていないのだ。
上から命じればなんでも実行すると思っている。
ジオ将軍には、王都の大将軍や騎士団の連中たちに勝るとも劣らない武人としての精神が確固としてあった。
今回の迷宮征伐は、元をただせば次に続く大将軍遠征のための露払いと情報収集でしかない。
それをうまく派閥争いに持ち込んだ上の連中が、相手派閥の発言力を落とすために仕組んでいるのだ。
思う通りに動いてたまるかと思う。
しかし、自分の行動ひとつで身内の立場が危うくなることもわかっていた。
だからどちらの顔も立つように振る舞わなければならないのだ。
この老骨の命が犠牲になろうが、武人の道より文官を取った息子や孫たち、嫁に出して縁故を持った方々の家の足を引っ張るわけにはいかない。
「この先は広間になっているそうよ。四階層に降りてしまうわ。結局ガーゴイルと巨大魚だけだったわね。本当につまらないわ」
「こっちはそれで済んで助かってるんだから。ヴィッキー、お願いだからもう石を投げて魔物を出さないでよ?」
「石を投げて魔物が出てくるならどんどん投げてるわよ」
「ダメだ。この子ダメだ……」
すでに四階層へと迫ろうとしている。
ジオ将軍は、三階層の階段前で軍を休めることにした。
先遣隊として何人かの斥候を階下に送り込む。
魔物が犇めいているようなら、その対応策もここで考えねばならない。
しばらくして先遣隊から報告があった。
階下の四階層入り口は、魔物が一体もいない状況だという。
壁際に山と積まれたゴーレムらしき残骸から見て、すでに戦闘後で攻略されている可能性が高い。
「ゴーレムか……」
その存在をジオ将軍は知らないわけではない。
宮廷魔術師の中に、錬金術によるゴーレム錬成が得意だった男がひとりいた。
その男以外にも、宮廷魔術師なら大抵ゴーレムを錬成できたので、それほど難しいことではないのかもしれない。
「ゴーレムかあ、私は錬金術の素養がなかったから、ゴーレム錬成もできなかったわ」
「ゴーレムと一概に言っても、魔術師によって形状が全く違う土人形を作り出すのよ。早速調べなくてはなりませんね。ジオ将軍、早く進みましょう」
クラウス嬢が喚き立てているが、休憩をあと二時間は取るつもりだ。
なので姦しい声に聴かぬふりをした。
「万全の態勢で階下へ降りますので、いまのうちにしばらくおやすみなさい」
「いいえ、いつでも行けますわよ。休むなんてここを出てからでも十分ですわ」
「兵士は休まなければ持ちませんので」
「そう……うまくいかないものですわね」
うずうずしているクラウス嬢から目を離したら、何をしでかすかわからない。
そのためにいまは開き直って、ゾーラを付けているようなものだ。
四階層のゴーレムとどう戦うか、その作戦立案を数名の幕僚と一時間以上議論した。
斥候の様子では、かなり魔力を保有したゴーレムだということだ。
残骸ですら魔力を秘めているのだから、動き回ったゴーレムはどれほどのものか。
単純な戦闘ではかなり苦戦を強いられそうだ。
ゴーレムは核を破壊しなければ機能停止しないので、その核を見つける作業が難渋するだろう。
他の魔物と同じように魔力障壁を張っていたら、元からの防御力と相まって傷つけることすら難しいかもしれない。
攻略の糸口が見えない状態だった。
各人が頭を悩ましている最中に、突然兵士が陣幕に飛び込んできた。
「将軍! クラウス様が単身で階下に降りていきました!」
「……なんだと?」
「それを追って、ベルハイム魔術師殿がひとり」
ゾーラだ。
「見張りをしていた兵士は何をしていた!」
「それが、わからないのです。見張りの兵士は訳の分からないことを呟くばかりで……」
「幻覚を視させられているのだ、すぐに引っ叩いて起こせ!」
「は、はい!」
「動ける隊から順次階下に進み、クラウス嬢の捜索、保護をしろ! 十分で陣幕を払って、全軍四階層へ降りる!」
「は!」
ジオ将軍は、眉間に青筋を浮かべた。
少し甘やかし過ぎたのかもしれない。
これで彼女が帰らぬ人になっても、それはジオ将軍の責任とは言い難い。
しかし魚のはらわたを噛み潰したみたいに、口の中に苦いものが残る結果だ。
「こちらの苦労も知らないで……」
ジオ将軍は慌ただしくなった陣幕の中、誰にも聞こえないように呟いた。
せめてゾーラが傍にいることが頼りだろう。
むしろ、見張りの兵士に幻覚を見せていた魔術こそ、ゾーラのものではないかとジオ将軍は当たりを付けた。
ゾーラが魔術師隊の規律を破ってまで、我儘なクラウス嬢に動かされたとは思いたくない。
そうなると、ジオ将軍は軍律違反を起こしたゾーラを処断しなければならないからだ。
最悪な方向へと、物事は転がり出している。
どこで堰き止めるかだ。
終わりまで行ってはならない。
それはなんとしても阻止しなければならない。
ジオ将軍は愛用の矛を握り、口の中の苦味をどうしようかと悩むのだった。
魔術師隊のエース。
白炎の魔術師の二つ名を持つ女魔術師こと、ゾーラ・ベルハイム。
お飾り軍査官ことヴィルタリア・クラウス。
このふたりが四階層へ降りたと、ジオ将軍に報告が届く一時間ほど前。
ふたりは並んで腰掛け、休憩していた。
我の強いふたりであったが、お互いを認め合い親友と呼べるまでになっていた。
「私には甥っ子と姪っ子がいたの。妹夫婦の双子の子どもなんだけどね。ちゃんと育ってたらいまは八歳か九歳くらいかな?」
「私にだって親戚はいるわ。興味がないから顔も覚えていないけど」
「子どもはいいものよ? 私は子どもを産む前に旦那が亡くなったから、機会がなかったけど」
「私には魔物がいればいいわ。私にとっては彼らがいればそれで満足なのよ」
ヴィルタリアの頑ななところを認め、ゾーラは苦笑交じりに頷いた。
「好きなものがあるっていいことよ。私にはもう、あの子たちはいないから。私が最後に双子を見たのは、五年も前だったかしら。とっても可愛かった。こんな可愛い双子を産んだ妹が羨ましいと思ったものよ」
「羨ましいなら結婚して産めばいいじゃない」
「相手がいないわ。ヴィッキーがろくに魔物と触れ合えなくてもどかしがる気持ちと一緒よ」
「あら、一緒かしら。私は常に追い求めているけど、ゾーラはなんだか諦めているように見えるわ。そこが一緒ではないわ」
「……そうかもしれないわね」
意外に鋭い目を持っているのだと内心で驚きつつ、ゾーラは寂しげに頷いた。
「でも、あれよ、その双子を我が子のように可愛がればいいのではないかしら」
ヴィルタリアはゾーラの寂しそうな横顔を見て、励ますように言った。
普段から感情の機微に疎いヴィルタリアだが、ゾーラのことになると不思議と親身になった。
「ありがとう。でも、それも無理な話なのよ。妹夫婦と双子は三年前に亡くなったわ。実家の両親も、私の兄妹たちも、みんなこの世にはいないのよ」
「それは悲しいことだわ。えっと、私、そういうことに直面したことがないから、何と言っていいのかわからないけれど、悲しいと思う。うん」
ヴィルタリアは視線を彷徨わせた。
そして結局、ゾーラの肩を優しく撫でるに留めた。
人を励ましたことのない彼女にとっては、これが考え付く精いっぱいの慰めだった。
ゾーラの方は、別の意味でヴィルタリアに励まされていた。
ラインゴールド家の辿った末路を、ヴィルタリアは知らないのだ。
魔物一筋で生きてきたせいか、他のことには興味がなければ覚えもしない。
実家を一夜にして失った呪われた一族の生き残りを憐れむでもない、ゾーラという一個の人間の悲しみにヴィルタリアは同情してくれている。
そのことが何より嬉しかったのだ。
「ゾーラの悲しみは私にも起こりうるかもしれない。けれど私は、両親が亡くなってもそれが悲しいことだって思えないかもしれないわ」
「ヴィッキーは……いまはそうかもしれないわ。でもこの先はわからないわよ」
ゾーラはからかうように笑った。
対照的に、ヴィルタリアの鋭利な目が不機嫌そうにさらに細められた。
「どういう意味?」
「ヴィッキーに相応しい相手が見つかるかも、ってことよ」
「どうかしらね? 無理じゃないかしら。だって私、性格悪いもの」
「そんなことないわよ」
ゾーラは肩を寄せた。
ヴィルタリアはまっすぐ座っていたが、ゆっくりと体重をゾーラに預けた。
「ゾーラの方がいい人を見つけると思うわ。だって、とっても可愛げがあるもの。私には欠片もないわ」
「わからないわよ。だって運命はいつだって気まぐれじゃない。妖精が目の前に現れるように、ある日突然素敵な出会いがあるかもしれないわ」
「私たちのいい人は妖精と同じくらい希少なんだわ」
ヴィルタリアが冗談めかして笑い、ゾーラもそれにつられて笑った。
「ところでゾーラ、私さっきから落ち着かないの。だってそうでしょ? 四階層の入り口には魔物がいないのに、どうして降りてはいけないの?」
「休むにはここがいいのよ。危険が少ないという意味ではね」
「ゾーラがいれば安心よ」
「それこそ危険だらけよ。私の二つ名をご存じ? あるものすべてを燃やすしかできないんだから」
笑いながらゾーラは冗談交じりで話すが、ヴィルタリアは眉間にしわを寄せて真面目顔だ。
「ねえ、お願いよ。この軍の中で信頼できるのはゾーラだけなの」
「そう言われても……」
ゾーラは結局、ヴィルタリアの懇願を突っぱねられずに悩んだ末に頷いてしまう。
ヴィルタリアはゾーラの協力を得られなくてもひとりで突っ走ってしまう危うさがあったのだ。
それなら、自分の目の届くところにいてもらったほうがまだ安全だと、そういう気持ちになってしまったのだ。
「……しょうがないわね」
ゾーラが渋々頷くと、ヴィルタリアは子どものようにはしゃいだ。
そんな顔をされては断れない、ずるい、とゾーラは思った。
「あなたのほうが可愛げのある顔をするわ」
そう思ったが、なぜだかゾーラは口にできなかった。
話が地味ですみません。
次回、
『とうが立つ、角も立つ』
三十路ふたりの前に運命の妖精が……!?
立てたフラグを回収される日は来るのか!
(※次回は予告なく変更される場合がございます。)




