第10話 逃避行
垂れ幕は落ち、馬車はふたたび動き出す。
剣戟が聞こえてくる。それも少しずつ遠ざかる。
やがてゴトゴトと揺れる音だけになった。
誰も何も喋らない。
リエラも不安げな暗い顔のまま、黙って大人しくしていた。
移動の間、メイドは必要最低限のことしか話さなかった。
少なからず俺たち双子はショックを受けていたので、その気遣いはありがたかった。
馬車を降り、安い宿に泊まる。
リエラは夜になると涙が止まらないらしく、俺はつきっきりで面倒を見た。
翌朝になると、安宿の飯を無理やり腹に入れて、また馬車に揺られる。
リエラは食事があまり喉を通らなかったようで、俺はそれが心配だった。
馬車に揺られていることで気持ち悪くなったのか、一度吐いてしまった。
少し休憩のために休みを取ったが、馬車はまた動き出す。
顔を真っ青にしながら、リエラはじっと耐えていた。
その日は一日中馬車で揺られ続けた所為か、腰が痛かった。
近くに宿がないらしく、野宿することになった。
メイドはどこかから冷たいパンを手に入れてきて、三人で分け合って食べた。
リエラは欠片ほどのパンを、半分も食べられなかった。
夜、毛布にくるまって馬車の中で眠る。
背中に当たる板で、寝心地は最悪だった。
それでもリエラほどに憔悴していない。
妹はすんすんと泣き続け、見ていていたたまれなかった。
俺は何もできずにいた。
リエラは普通の子だ。
突然環境が変わって滅入っているのだ。
俺は、リエラの背中を撫で続けてやることしかできなかった。
翌朝、リエラはぼそぼそしたパンを口に入れ、すぐに戻してしまった。
水だけでも飲ませようとしたが、ずっと泣き続けてそれどころではなかった。
両親が恋しいと、そればかりを訴えかけてくる。
俺は無力だと思った。
妹の憔悴すら置き去りにして、旅は続いた。
途中、リエラが熱を出した。
さすがに宿を取って、二、三日様子を見なければならなくなった。
メイドは苛立っているようだったが、口には出していない。
しかし妹を見る目が、足手まといだと暗に物語っていた。
「リエラ様はお体が弱いのね。アル様は平気そうなのに」
「リエラは疲れてるんです。わけがわからなくて、怖いだけなんです」
「泣いているだけで済むのなら私だって泣いていたいですよ」
リエラはまだ五歳なのだ。
俺の三十に届こうかという精神年齢と一緒にしちゃいけない。
もしかしたら俺と比べて、メイドはリエラをお荷物と思っているのかもしれなかった。
アルシエルは黙って耐えているのに、リエラシカは面倒ばかり起こしてくれると。
それをもしメイドの口から言われたら、俺は彼女とここで別れることも考えていた。
双子の五歳児に何ができると言うだろうが、妹を邪険に扱うようなやつと一緒にいるほうが許し難い。
俺は付きっ切りでリエラの看病をした。
ちょっとくらいの徹夜ならば、魔力をまとうことで疲労を半減することができる。
メイドは何も言わず、病人食をどこかから手に入れてきてくれた。
俺の覚悟も、思い違いだったようだ。
三日かけて何とか熱は下がり、大事を取って一日旅を遅らせた。
翌朝からまた荷馬車に揺られる旅だ。
俺は固い床板に揺れる馬車という悪環境でも、泥のように眠った。
気づけば景色は牧歌的なものに変わっていた。
季節は秋口に差し掛かったばかりで、一面を埋め尽くす緑の穂波は圧巻だった。
西洋の田舎の田園風景といった感じだ。
丘陵を埋め尽くす作物はパンの原料になる麦で、この国の主食だった。
この土地では気候的に夏は暑くない分、冬は雪に閉ざされる。
俺も五度の季節を屋敷の中から体験しているので、降り積もる雪の量もだいたいだが知っている。
庭に積もった雪に歓喜してリエラとアルシエルはよく駆け回っていたが、いまの彼女に無邪気さは見られない。
リエラはずっと心を閉ざしたままだ。
馬車が止まる。
スピカの村に到着したと、メイドが教えてくれた。
屋敷を夜逃げのように脱出してからひと月と少し、俺たちは目的地に着いたのだ。
あとは両親と合流するだけだった。
それから二週間が過ぎた。
何の音沙汰もない。
便りがないのは元気な証拠、とはこの状況には当てはまらないだろう。
真っ先に顔を見せろと言いたい。
でないと、リエラが立ち直れない。
メイドの方は顔には出さないが苛ついていた。
こちらに当たられても困るので、極力リエラを近づけないようにした。
向こうも俺たちに構っている余裕はないようだが。
食事は別に摂ることが多かった。
俺は食欲不振なリエラになんとかしてご飯を食べさせる努力を続けていた。
メイドとは同じ部屋だが、彼女は夜遅くまで帰ってこないことが多かった。
そのうち、酔って帰ってくるようになった。
訳の分からないことを喚き散らし、リエラを怯えさせながらベッドで鼾を掻く。
大人がそんなにもだらしなくてどうする。
勘弁してほしい。
俺はリエラの頭を何度も撫でてやり、怖くないよと声を掛けてやり、添い寝してやった。
それでもリエラの睡眠は浅く、いつまでも緊張状態が解けていないのだとわかる。
メイドは、朝まで帰ってこない日が増えた。
俺たちは極力顔を合わせないようにした。
それが互いの心を保つ唯一の方法なのだ。
どちらともなく、最悪の結果を考えないようにしている。
もしも迎えに来なかったら?
リエラには聞かせられない。
後戻りできないところまで心を閉ざしてしまう可能性があった。
メイドにしても、俺たちふたりを預けられて何の音沙汰もないのでは不安になる。
酒に逃げるなり、男に走るなり、それが彼女なりの心の落ち着け方なのだ。
さらに二週間が過ぎた。
事態はこれ以上ないほど最悪だが、さらに最悪は待ち詫びて口を広げているものだ。
「資金が底を尽きました」
メイドの淡々とした口調。
だからどうしましょう、という提案ではない。
事実をありのままに口にしているに過ぎない。
彼女ももはや限界だった。
酒におぼれた金はどこから出たのかと突き詰めるのは野暮だろう。
期日を過ぎても迎えに来ない両親のほうに非があるのだから。
それにいまの彼女は、身持ちを崩して疲れ果てた女のような姿だった。
彼女を責めるにはいたたまれなさ過ぎた。
それから三日、彼女は何の言伝もなく姿を消した。
俺は置いて行かれたのだと思った。
そうなる予感はあったので、ショックは受けていない。
いや、正直に言おう。
俺は参ってしまっていた。
リエラがこんな状態で、頼りになるはずの大人まで逃げ出してしまったのだ。
五歳児がふたり、どうやってこの世界を生き抜けと言うのだ。
いくら記憶があると言っても、五歳の体では働くこともできない。
幸いにも宿代はあと一日分支払いを済ませている。
明日の朝戻ってこないようならここを出て、自分たちの身の振り方を考えなければならないと思った。
メイドは夕暮れに濡れ鼠になって戻ってきた。
外は雨が降り始めており、彼女は目深に被っていたローブを持ち上げた。
青白い顔で俺たちの前にやってくる。
いままでろくに顔を見てこなかったが、メイドの顔は悲壮に満ちていた。
目元の隈は濃く、頬は落ち窪んでいた。
「アルシエル様、リエラシカ様、移動しますよ」
冷たい声だった。
断れずに、俺たちは付き従うしかない。
もっと深く考えてやればよかった。
このメイドは疲れてしまっていたことに。
俺たちは外に用意された馬車に乗り込んだ。
「どこに連れていくの?」
聞いてみても、メイドは何も答えなかった。




