10 あんぐろどん
いつの間にいたの。
は、メー子に投げかける質問としては不適切だ。彼女は暇さえあれば私を見ていると豪語していた恐ろしい子なのである。つまりこの場合の質問はあえてそこを無視し、別の選択をするに限る。
「メー子? 恐ろしいものって、それ……」
「これは時限爆弾よ! 絶対に行っちゃいけないわ!」
行くってどこにだよ。
薔薇とカードを腹に抱えて蹲るメー子だが、いちいち行動が突飛すぎて分からない。
「じゃあ、あたしはこれで失礼するわね! おほほ、またねあーちゃんっ」
登場から退場まで、ほんの三十秒にも満たないんじゃないだろうか。
メー子の後ろ姿を見ながら思う。
彼女の意図は分からないが、まあごみ捨ての手間が省けたから良しとしよう。にしても、メー子はいつからいたんだろうなぁ。花吹さんとの会話も聞いていたのだろうか。
特に問題はないと判断したので、敢えて尋ねなかったけど。
私はそのまま昇降口に向かい、上靴に履き替える。もちろん、本日も下駄箱は使用しませんとも。
私の物が何一つ置いていないにも関わらず様々な嫌がらせが集中してくる下駄箱は先日、とうとう虫の死骸やら何やらが詰められていたらしいが、私の知ったことじゃない。そう、例え私が掃除せずとも下駄箱を使わないんだから自分には関係ないことに気づき、以降は放置だ。
担任にもきちんと言ってある。「私、下駄箱はもう使いません。だから下駄箱におかしな物が入っていたのだとしてもそれは私の責任じゃないので」と。そしたら次の日の放課後、担任が黙々と私の下駄箱を掃除してらしてなんだか申し訳なくなった。
担任のその背中がね、文句垂れ流しだったんだよ。なんで俺が……みたいな。
かと言って私が代わることもなかったけどね。うはは。
なんて思いながら上靴を履き終えると、ふと視線を感じて顔を上げる。
なんだ、メー子か? と。
その予想はあっさり裏切られたが。
「げ……」
ぼんやりくんだ。
眉間に皺を寄せて、すごい顔で睨んできてる。
最悪だなー。言葉の通じない相手は不得手なんだよ。妹のハーレム要員は一人違わずそうなんだけど、特にぼんやりくんは無理。
だっていきなり殴ってくるかもしれないじゃないか。危険極まりない!
「………」
私は敢えて澄ました顔でぼんやりくんの横を素通りする。おー、手を出すんじゃないぞ。背後から襲い掛かってくるなよ、と心の中で念じながら。
人目があれば別に襲われてもいいんだよ。いや、良くはないけどいい。ぼんやりくんの加害者ぶりを大衆に訴えることができるし。
ただ、今は周囲に人が少ないというか、まばらにしかいないからなあ。せめて殴るならもっと人の多いところでお願いします。
との私の願いが通じたのか、ぼんやりくんがこちらに手を出してくることはなかった。
ふう。ひとまず危機は乗り越えた。
―――ぼんやりくん、もとい槇文哉。
旧家の血を引く正真正銘の血統書付き。でもって姉が三人もいるらしい。女が三人集まって姦しい……。まさしくその通りな環境で育った所為か、姉たちの反動で物静かな少年に成長した。
備考は特に無し。敢えて言うなら、幼少期から習い事漬けの日々を送っており手先が異様に器用だということ。
校内に飾ってある彼の描いた油絵を拝見したが、なかなか独特で味のある……いや、私に芸術なぞ理解できないが、おそらく素晴らしい作品なのだろう。絵画コンクールで入賞したらしいし。顔に似合わず極彩色な絵だったよ。
ああ、そういやぼんやりくんは感情を表に出すのが苦手で言いたいことはすべて描くものなんかに表れるそうだ。メー子の情報では妹の絵がスケッチブック三冊分にものぼるとか。うわぁ。軽く引く。
ふとなんとなしに振り返ってみると、眉をハの字にした情けない顔と目が合った。
「!」
私の視線に気付いた途端に顔を強張らせてまた睨んでくるのだけど、なんだ。
見てはいけないものを見てしまった気分である。
「……」
何でもない。
うん、見なかったことにしよう。
さて。本日の放課後、私には用事がある。
今まで行くに行けなかった不登校中の生徒、佐野泰斗への見舞いだ。
これまでは坪田に手間取られていたが、一旦こちらは置いておくことにして佐野泰斗に話を聞くことにした。果たして私に会ってくれるのかどうかはさておき、恒常的な日々が続くのは私も良しとはしない。新しい行動を起こせば何か得られるものがあるんじゃないか、そんな期待が少なくともあった。
が、その前に。
クラスメイトたちの嫌がらせも大人な対応でスルーし、赤髪男に嫌味を言われ、お昼には猫ちゃんに癒やされて。
そうしてやっとのことで半日を乗り越えた私にさらなる試練があろうとは、誰が思うものか。
厄日だ。今世の記憶を失ってから毎日が厄日だけど、今日も今日とて絶賛厄日!
「……」
「……」
うわ、と口からポロリと出てた露骨な言葉。慌てて取り繕うがばっちり相手には聞こえてしまっただろう。
仕方がない。この男と人のいない資料室で相見えることになるなど、予想外もいいところだ。
くそぅ。担任め、謀ったな。
なぁにが内申書のためにも教材の持ち運びを手伝ってくれませんか、だ。珍しく積極的に私に関わってくるなと思えばこういうことか。
資料室の扉を開けた先には、養護教諭の穂崎先生……いやもう呼び捨てで結構だろう、穂崎が立っていた。
以前に呼び出しを断ってから、神経をすり減らして接触を避けていたのに、まさかこういう手段に出るとは。油断ならぬ。
「ああ先生、いらしたんですね。養護教諭が資料室に何の用かは想像もつきませんけど、私も用事が済めば早々に出ていきますので、どうぞお構いなく」
穂崎が何か言う前に畳み掛けてやった。
私を説得させに来たのか罵りに来たのか不明だが、どうせ水掛け論にしかならないのだから話し合いなど不要。それよりも何か仕掛けてくるのではないのかと内心バクバクだ。
俺の女を傷つけた報いだ! とか? うわ、めちゃくちゃ言いそう……。
ある意味でこの養護教諭、少女漫画のヒーロー役できそうだしな。
「安曇」
だから話しかけてくるなって!
何!? 暴力か!?
私が身構えて振り返ると、穂崎は逆に驚いた様子でこちらを見ていた。
「……なんですか?」
妙な反応だな。
警戒する私を、何故かあちらも警戒している。
「お前に、一つ。忠告しに来た」
「忠告?」
「そうだ」
思わず眉間に皺が寄った。
穂崎は一歩下がって敵意はないとでも言いたげに両手を挙げたが、それでも訝しむ私に打つ手なしと判断したらしい。ぽつぽつと話し始めた。
「お前、この前の保健室で俺に言っただろ。俺のことは教師として認めたくない、と」
「……はあ」
なんだ。訂正しろってこと? 随分とみみっちい男である。
「あれ、意外に堪えたんだよな。それで頭が少しだけ冷えた。し……安曇志穂とのことは、確かに俺の方が平等性に欠いていた。なんていうか、ほら、お前は負のイメージだらけだろ? 前にも言ったように俺はお前のことを嫌いじゃなかったんだが、成績優秀品行方正、加えて友達の多い安曇志穂と比べると、“どちらが正しい主張なのか”を考えるまでもないと無意識に判断していた」
「……免罪符ですか?」
「は?」
「あ、いえ、何でもないです。続けてください」
まずい。養護教諭が真剣に反省しているのかどうか分からないのに、ついつい穿った見方をしてしまう。
私の呟きは聞き取れなかったようで、穂崎は続けた。
「養護教諭とは言え生徒を啓蒙すべき教師であることに変わりはない。にも関わらずお前に取り付く島も与えなかったこと、悪かったと思ってる。一度、先入観を取り払い考えてみた。お前の人となりにも目を瞑って、だ」
あれ。この人反省してるのか? 事実だけども私、若干貶されてる気がするぞ。
「安曇志穂が誰かに叩かれたのは間違いない。本人はお前にやられたと言っているが、お前は叩いた人物は別にいると言う。矛盾した証言だ。安曇志穂を連れてきた真宮も犯人はお前だと断言していたものの、その実現場を目撃したわけじゃない。ともすれば、真実を知るのはお前たちの二人。どちらかが嘘をついていることになる」
「……先入観を取り払って考えてみて、結局嘘をついているのは誰という答えに帰結したんですか」
「教師らしく答えると、生徒は疑いたくない、だな。俺はどちらも正しい主張をしていると思ってる」
あ゛?
何言っちゃってんの、この人。
教師らしくって何。ドラマの中の熱血教師を参考にしてるのか? あれはフィクションならではなのだと知らないのか。
「例えば、どちらかが事実でないことをあくまで事実だと思い込んでいる場合――」
「私が妹を叩いたのに叩いてないと思い込んでいると? 生憎ですが、その様な精神疾患に罹った覚えはありませんけど」
「いや……この場合、し、安曇志穂の方が可能性としては高いだろう。そう考えれば納得がいくんだ」
彼女は。
そこまで言って穂崎は口を真一文字に結んだ。
その先を話す気はないらしい。どうにも引っ掛かる言い方をするものだ。何故納得がいくのか、もしや彼女の虚言癖を知っているのか。数々の疑問が頭を過ぎる。
だがそれよりも、妹が意図的に嘘をついているとは考えないのだろうか。
そこのところが盲目的だな。妹を純粋で、無垢な少女だと思っているのだとしたらとんだ――
「……あんぐろどん」
暗愚魯鈍、だ。
「あんぐ……?」
「いえ、大した事ではないので」
「……安曇。聞くか聞かないかはお前の自由だが、俺から忠告だ。明後日の学園主催の創立記念パーティーには注意しろ。時枝たちが何か企んでる」
時枝。一瞬誰のことかと思ったけど、そういえば腐れ眼鏡がそんな名前だった。
この学園の“王様”でありハーレム要員の中心的人物である俺様男、真宮透たちと言わなかったことに少しの違和感を覚える。穂崎は必ずハーレム要員たちを指す言葉として「真宮たち」を使うのに。
というか、日常が殺伐としすぎていて明後日に控えているらしい学園のパーティーなんてすっかり頭から抜け落ちていた。担任から色々と聞かされていたが、正直そこまで重要視していなかった。
何か企んでるって、どうせろくでもないことなんだろうなあ。
「わざわざ、どうして私にそれを?」
「俺個人の私情はさて置き、お前が学園の生徒であることに変わりないからな。俺はお前が改心してくれることを祈ってる。できれば、妹とも仲良くしてやってほしいんだ」
「……」
無理だろう。
一言そう思った。
私は何食わぬ顔で日々を過ごしているように見えて、その裏ではイジメに対してかなり参ってる。人から悪意や敵意を向けられて、すべてを相談できるような相手すらいない状態。唯一心の拠り所となり得る父様ともあの日から一度も顔を合わせていないのだから、気が滅入るのもさもありなん。
で、私にそうなるよう仕向けた相手と仲良く? 平和脳もいい加減にしてくれ。
少なくとも今の状況下で“仲良く”だなんて言葉が出てくる養護教諭に驚愕だ。
「そうですね。自分の致した事に心から反省してくれたら……。
それこそ、恥も外聞も捨てて地に頭をつけて土下座してくれたら――考えてみますけど」
養護教諭が目を見開いたのが分かった。
私も驚いた。
だってそれは、私が発した言葉ではなかったから。
奥底に眠る、今世の「私」の言葉だ――。