表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/22

03 私の名前


 精悍な面構えの男性と目が合う。


 言っちゃなんだが、纏う雰囲気は小物感を匂わせる義母とは雲泥の差だった。

 こちらを見下ろす双眸は冷厳としていて、気を引き締めておかなければ取って食われてしまうだろう、そんなことを思わせる風格ある佇まいに言葉が見つからない。


 ゴクリ、と生唾を飲み込んだのは私か義母か。

 水を打ったように静まり返る部屋の中、最初に口を切ったのは義母の方だった。


「た、貴之様。どうなさいましたの? こんなに早くご帰宅されるなら、連絡くらいくださっても……」


 私と二人の時はあんなに威勢が良かったのに、急に尻つぼみになる彼女。人によって大きく態度を変える義母に、どうしても妹の姿が重なって見えてしまう。


「違うの、さっきのは思わずカッとなってしまっただけで、本意じゃありませんのよ! ああどうか誤解なさらないで、わたくしの愛しいお方」


 ご、か、い、だあ?

 私を叩こうとしたのは紛れもないあんたの本心だろうが。どこに誤解があると言う!


 堪らず言下に叫びたくなったが、また逆上されても困るので、大人しく口を噤んでおいた。何より、父親にあたるだろう男の出方を窺う。


 この人は、果たして私の敵か味方か……。


「ああ、分かってるさ、すみれ。きみは日常的に暴力を振るうような人ではない。ほんの少し、齟齬が生じただけだろう?」


「え、」


 目が点になった。


 いやいや、どこから会話を聞いていたのか知らないけど、義母の態度の変わり様は目にしたはずでしょ?

 なのに、「ほんの少し齟齬が生じた」。それだけで済ませる気なのかこの男。


「そ、そうですわ! 貴之様なら分かってくださると信じておりました!」


「もちろん。今日は志穂が怪我をしたとの連絡を受けて仕事を早めに切り上げてきたんだ。だから、そのことで杏奈と話したいと思ってね」


「ま、まあ。そうでしたの。では、今すぐ志穂を呼んで参りますわ!」


「いや、その必要はない。杏奈と二人きりで話したいんだ。彼女にきちんと言って聞かせるから、きみは席を外してくれないか?」


「そういうことでしたら……」


 最後まで薄気味悪い演技を崩さずに、義母は恭しく一礼してから部屋を出て行く。

 その背中を見送ってゆっくりと扉を閉めた父親は、次の瞬間に大きな溜息を吐いた。


 「本当に、単純な女だろう」と。


 私に向って呆れ口調で。


 ………え?


「あれの相手は疲れるな。まるで地球外生命体でも相手にしているかのようだ。時々、あれの話す言語は日本語じゃないのではと疑いたくなる」


「………お、お父様?」


「なんだ? 杏奈」


 恐る恐る「お父様」と問い掛けると、彼は優しく目を細めて微笑んだ。

 それはもう、先程義母に見せた笑みなんて比じゃないくらいに柔らかく。


 ―――私の名前、杏奈って言うんだ……。


 記憶を失ってから初めて誰かに笑いかけられ名前を呼ばれたことに、目頭が熱くなった。あの明石さんでさえ今世の私の名前は口にしてくれなかったのに。今、目の前にきちんと「安曇杏奈」を見てくれている人がいるのだという事実に、胸が一杯になった。


「杏奈、私は心配したぞ。お前が志穂に手を上げたと聞き及んだからな。お前は考えなしに人に暴力を振るう子ではない。特に志穂に対しては何があっても反発しなかったではないか。それがどうした? また出生についてあれこれ言われたのか? 杏奈は自分の母親について悪く言われるのを忌み嫌うからな」


「……」


「なんでも言ってみろ、私が慰めてやろう。でなければ、仕事を放り出してまで帰ってくるはずもない。さあ杏奈、私の可愛い娘。何があったんだ?」


 私の頭を撫でる温かい手のひらに、この人になら前世を思い出したことで今世の記憶を失ったという突飛な話をしてもいいんじゃないかと思った。今までなんとなく誰にも相談してはいけない気がして言えなかったけど、私を心から心配してくれるこの人になら……。

 信じてくれるかもしれない。そんな、淡い期待が胸を過った。


「あ、あの」


 意を決し、私は言葉を発する。


「もし、もしですよ。私が記憶喪失になったと言ったら、お父様はどう思いますか」


 言った。言ってしまった。もう後戻りはできない。

 最悪、信じてくれなくてもいいんだ。ただ私の話を聞いてくれるだけでも。信用できる誰かとこのことを共有できるなら、それでいい。


「―――杏奈、それは……」


 父様が怪訝な表情で私を見る。顎に手を添えて、何かを考えている様子だ。胸がドキドキした。


「それは、あの約束を反故にしたい、ということか?」


 ……あの約束?


 予想だにしない返答だった。どう言い返せばいいのか分からず目を泳がせる私に、父様は少し困ったような苦笑いをくれた。


「いや、もともとお前には不利な条件だった。耐え切れなくなったとしても何ら不思議ではない。……だが、そうだな。こうして中途半端に慰めに来た私が悪いのやもしれん。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすと言う。私もそれくらいの心構えで臨まねばならなかったということか」


 温もりが離れてゆく。

 なんで? どうして? 訳が分からない。でも一つだけ言える確かなことは、父様は私が記憶喪失だと信じていないこと。

 言い方が悪かったのかもしれない。どう思いますかなんて回りくどい聞き方ではなく、単刀直入に私は記憶喪失なのだと告げれば良かった。

 急いで次の言葉を探す。


「お父様、私」


 しかし、二の句を紡ごうとしても、父様はそれを許してくれなかった。


「杏奈。約束は約束だ。制約が無効になるのはお前が敗れた時か、約束が果たされた時のみ。途中棄権など柄にもないことをするな」


「そうじゃなくて……」


「お前が言い出したことだぞ。私のすべてを受け継ぐ覚悟と資格のある人間になりたいと。そのためにあの女狐母娘を好き勝手させているのではないか」


「……」


 仮に今また改めて私の身の上話をしたとして、父様は歯牙にも掛けないような気がした。おそらく約束とやらをたがえるための言い訳にしか聞こえないのだろう。

 何も言えずに俯く私の肩に、父様の大きな手が添えられる。


「私は愛娘が虐げられてる様をいつまでも遠巻きに指をくわえて見ていられるほど、鉄の心を持っているつもりはない。もし、次の季節が終わるまでにこの状況を打破できなければ、遠慮なく行動させてもらおう。もちろん、約束の方はなかったことにするがな」


「約束……」


「しばらく静観に徹するが、これでもお前の手腕には期待してるんだ」


 ズキズキと痛み出す頭。

 直感的に分かった。「安曇杏奈」の記憶が呼応しているのだと。

 何かを思い出せそうなのだ。

 父様との会話に既視感を覚えたから、もしかしたら私が記憶を失う以前にも似たような会話をしていたのかもしれない。


 そう。あれは確か、父様が………。


 ぼやけた記憶がゆっくりと鮮明になり始めた時。



 ――――ぐるるるぅ。



「………」


「………」


「………」


 た、タイミングぅ……っ!!


 なんてタイミングの悪さだろう。おかげであと少しで思い出せそうだった『何か』の記憶がはるか彼方にすっ飛んでってしまった。


 言い訳をするなら、お昼ご飯を食べ損なったせいである。だって昼放課に食堂に行ったらめちゃくちゃ居心地悪くて、あんな中で食べたってご飯の味も分からないだろうと慌てて引き返したのだ。

 その後は猫ちゃんに会ったり色々ごたついててすっかり忘れてたけど、今更になって腹の虫が喚き出すとは思わなかった。それも、このシリアス的雰囲気の中で!

 今なら軽く死ねるような気がするよ、うん。



「……ふ、ははっ! ははは! なんだ、杏奈。腹が減ってるのか」


 父様が盛大に笑い出した。

 メイドさんの時はせめて笑ってくれたならまだしもとか思ったけど、笑われるのもダメだね。恥ずかしい。


「い、色々ありまして、昼食を食べてないんです」


 咄嗟の弁解。いや、事実だけど。


「ほう、つまり腹が減ってるんだな?」


「………まあ」


「よし杏奈。久しぶりに父と二人で食事に行くか」


 二人でですか?


 そう聞き返す暇なく、父様は私を連れて家を飛び出した。驚いた様子の使用人たちの制止を口八丁に振り切り、不満顔の義母を言いくるめ。有無を言わせぬものだったけど、相手に不快感を与えない手練手管は流石である。

 すごいな、と思った。私にはそんな芸当できない。敵意には敵意しか返せないし、義母の件がいい例だ。私は感情的になって義母の怒りを煽ることしか言えなかった。


 ………もっと、深く考えて行動するべきかもしれない。


 父様の背中にそれを学ばされた気がした。







 「学校はどうだ」と、父様が聞いた。


 私たちが夕食を食べにやって来たのは、父様には似つかわしくない居酒屋だった。お酒の飲めない私を連れてくるところじゃないような、と思いつつ、つくねが美味しいのでこれも有りかと満足だ。父様はつくねを頬張る私に、「杏奈は昔からつくねばかりだな」って苦笑してて、以前の私と好みが変わらないことにほっこり安心した。


「どう……どうですかね」


 そして突然の学校の話題。

 普通の親子なら他愛ない日常会話かもしれないが、私は学校一の嫌われ者だ。当然、正直に答えていいのか躊躇う。


「志穂の取り巻きは相変わらずか?」


「ぶっ!!」


 妹の取り巻きって……ハーレム要員たちのことだよね?

 父様は妹が逆ハーレムを築いていることを知ってるのか。思わず飲みかけの水を吐き出しそうになってしまった。


「どうした杏奈。今日は少し、様子がおかしいな」


「そんなことありません、いつも通りですよ父様。妹の取り巻き連中も、(多分)変わりないです」


「そうか」


 父様は軽く頷いて、次の話題に移った。それほど不信感を持たれていないみたいで安堵する。


 こっわいなぁ……。どこに落とし穴があるか分からない。


 それからは本当に何でもない会話をして、家に帰った。私からすればちぐはぐな受け答えしかできなかったけど、父様にとっては大したことではなかったようだ。店を出る際に時間を確認すれば、来店から二時間も経っていたので驚きである。

 久しぶりに会話の通じる相手だったからかなぁ。そのつもりはなかったのに、結果的には長居していたみたいだ。


 父様の話は勉強になる内容の濃いものばかりだった。おかげで半日分の疲れも忘れてたいへん有意義な時間を過ごせ、実に充実したものだった。

 また行きたいなと思ったが、父様は最後に「しばらくお預けだな」と肩をすくめていたので、当分その機会は巡ってこないのだろう。残念でならない。


 帰宅が遅くなったために義母が厭味ったらしく色々言ってきたが、父様がにっこり笑顔で解決してくれた。優しさ溢れる笑顔で義母を宥め賺している姿はとても義母に対して冷たい人だとは思えない。

 うん、やっぱりこの人すごい。





 ―――で、今日のことを纏めると。


 「安曇杏奈」は、妹含むたくさんの生徒たちから嫌われている性格の悪い女の子。

 でも父様の話からして、甘んじてその状況を受け入れているようにも感じた。

 父様との“約束”を果たすために。

 その約束が何なのかは、調査する必要がありそうだ。



 結論はまだ出せない。

 私は「私」のことを信じてるけど、それがすべてとは限らないから。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ