第肆章
「逃げねえのか?」
「どうして俺を逃がそうとしてくれたんだ?」
金蔵は赫々と燃え盛る炎が渦巻く窯の前に膝を着いて座り、秀丸はその近くに歩み寄る。
激しい熱風が吹き付け、秀丸の肌をジリジリと焼いて秀丸は思わず後ずさる。
逃げ腰の秀丸の腕を、金蔵は掴んだ。
「兄者にとって、お前さんは危険因子だからだ。せっかく機会をやったのに、何で逃げなかった?」
妖でもないのに隠し身の術を繰る秀丸と、異常な執着を見せ始めた隠形を共に置くことは、金蔵にとっても、秀丸にとっても多様な意味で危険だった。
「…金蔵殿は、悪い奴には見えないから」
秀丸にとっては、金蔵が鬼と言われても、悪いようには思えなかった。
「馬鹿だなぁ、お前さん。鬼相手にそんな台詞」
一瞬、間をおいて、厳つい顔を歯痒そうに歪めた金蔵は、顎にある無精ひげを撫でる。
「なあ秀丸。お前さんが妖に狙われる理由はなんだ?良けりゃあ、わしに話してみねえか?」
「…理由なんて、俺を食べる為だろ…」
「食べる?」
「この間の新月の夜に、村にでっかい蜘蛛の化け物が襲ってきたんだ。それで、村の皆が喰われて…俺も食われそうになったけど、じっちゃんが身を盾にして守ってくれたから、俺は何とか逃げられた…だけど、その時に、次の満月にお前を迎えに行くって…大蜘蛛がそう言ってた」
「…大蜘蛛ね…そいつ、一体で来たか?」
「うん。一匹だけ」
「お前の村、若い女はいたか?」
「ううん。俺以外は皆、年寄だ…十五年前にも、番の大蜘蛛に襲われて、子供は俺以外、食われたって、じっちゃんが言ってた」
「で、その腕の痣はあいつにつけられたのか?」
「わからない。気付いた時にはあったし…どんどん広がってるんだ。でも、これを目印に来たって…大蜘蛛がそう言ってた…」
「…その蜘蛛のバケモンは、次の満月に迎えに来るって言ったんだな?」
確認するように金蔵に問われ、秀丸は頷く。
金蔵は苦虫を潰したような顔をした。
「秀丸、お前、面倒なもんに見染められたな?」
「は?」
「その大蜘蛛は、土蜘蛛だ。しかも、番のないあぶれた雄蜘蛛。大方、十五年前、お前の村は発情した土蜘蛛に襲われたんだろう」
「…発情?って何?」
首を傾げた秀丸に、金蔵は答えに詰まった。
「…子供を作る時期に入ったってことだ」
「そうなると、どうかなるのか?」
「雌は卵を孕むために多くの栄養を求める。その為に人間…とりわけ若い奴を多く食らうんだ」
「じゃあ、今回はどうして?雌は十五年前に陰陽師が殺したのに」
「雌が死んだから、その代りを奪いに来たんだろう」
「代わり?」
「その腕に付いた呪は、所有印だ。お前さんは自分の物だって言うな」
瞬く間に、秀丸の顔色が青ざめていく。
「それじゃあ俺…」
「蜘蛛に孕まされて、内側から無数の子蜘蛛に食い破られて殺される」
「いやだぁーーーーーっ!」
思わず想像してしまった秀丸は、悲鳴を上げて金蔵に飛びついた。
「そんなの絶対やだっ!」
「お、おい、秀丸!?」
ギュッとしがみつく小さな体に、金蔵はどうしてよいのか分からず、宙で彷徨う自分の腕と秀丸を見て溜息をもらす。
怯えて震える秀丸の背に大きな掌を当てて、宥めるようにポンポンと叩く。
「あー、年ごろの娘がそう簡単に男に抱きつくな。…作ってやっから。お前さん仕様で、物の怪ぶった切れる刀を作ってやるから、離れろ」
「…本当か?」
半べそ状態の秀丸が顔を上げてそう尋ねると、金蔵のは秀丸の体をひょいと抱き上げて体を引きはがして隣に据える。
「俺を誰だと思ってんだ?刀匠、金蔵だぞ」
釜に入れられた鉄製の柄杓を金蔵が灼熱の中から引き出せば、杓の中には紅蓮色の輝きを放つ粘性の液体が入っている。
それを秀丸の前に金蔵が見せるように差し出す。
紅蓮に混じり、黄金の煌きが波打つ液体に見え隠れする。
皮膚を焼き尽くすような熱が、秀丸の肌を突き刺すので、彼女は思わず身を一歩引く。
「…金蔵殿、それは何だ?」
「鉄だ。これに俺の血を混ぜて、妖刀を作る」
「でも、鉄は陰陽師しか作れないんじゃ?」
「別に、鉄練成はあいつらだけの専売特許じゃねぇ。俺の妖力を含んだ血で練成したこの鉄は、やつらの物より強力だぜ」
「本当か」
驚きと喜びに、秀丸のその声が上ずる。
だが、それを諌めるように、金蔵は言葉を続ける。
「あぁ。だが、他の妖刀と同様、人間が持てば妖力が持ち主の命を食い尽くす。妖力が高ければ持ち手の負担は大きいって代物だ」
「つまり…死ぬかもしれないって事か?」
杓子を釜の炎へと戻した金蔵は、険しい表情で頷く。
「仮にお前さんがこれを持っても、良くて相打ち、悪けりゃ倒す前に妖力に食い殺される」
「…そんな危ないもの、駄目」
いつの間にか、秀丸の足元に膝丈くらいの小さな妖が居た。
赤子のような姿をし、腰巻布一つだけのその童子は、秀丸の着物の裾を握る。
「魑…」
びくびくと怯える魑を抱き上げた秀丸は、魑をじっと見る金蔵を見た。
「ずいぶんと貧弱な物の怪だな。お前の式か?」
「式?魑は友達だ。いつも一緒なんだ。な?」
秀丸がにこりと笑いかければ、魑は秀丸に抱きついたまま小さく頷く。
「秀丸、駄目だよ…そんな危ないもの使ったら、命がなくなっちゃうよ」
「けど、何もしなくてもあいつに食われる…それならいっそ、足掻いて妖刀に命取られた方がまだましだよ」
「そう言う気概の奴は、嫌いじゃねえよ。けど、馬鹿げた真似だな」
金蔵は近くにあった、掌ほどの杯を手に取り、その場に胡坐をかいて座る。
そして、杯を地面に置き、左の人差し指の肉を歯で噛み傷を付ける。
滲み上がり指を伝って滴り落ちる血を、杯に落としながら金蔵は秀丸を見た。
「勝ちたいなら、簡単に命を投げ出すな。生きることに執着して足掻いて諦めんな。それが勝つ為の最後の武器だ」
「…うん。覚えておく」
鬼と言うより人にしか見えない金蔵の言葉に、秀丸は素直に頷いた。
「素直な奴は嫌いじゃねえ」
金蔵はニヤリと笑って、杯が真紅の液体に半分ほど満たされたのを確認してから、自分の傷付いた指をべろりと舐めた。
「んじゃ、お前さんの血も一滴出しな」
脈絡なくいわれ、秀丸は不思議そうな顔をして首を傾げる。
「お前さんの血を鉄に覚えさせる。これで、出来上がった妖刀をお前が振るっても、妖刀はお前さんの命を奪わねえ」
「そんな事できるのか?」
「大っぴらには言えねえが、禁術だからな」
「禁術?そんなの使って、金蔵殿は大丈夫なのか?」
よりによって、鬼の自分の心配をした秀丸に、金蔵は思わず大きな声を上げて笑う。
「なに、心配はいらねえ。同族殺しの刃を人間が自由に振れるようにするって意味で、禁術なだけだ。けどまあ、お前さん限定の術だからな、他の人間が持てば容赦なく命を奪う。お前さんみたいな馬鹿正直じゃ、普通に生きたって長生きも出来ねえだろ?」
「…それ、褒めてんの?貶してんの?」
「馬鹿な奴ほど可愛いだろ?…生きにくいだろうが、死ぬまでそのまま変わってくれるなよ」
茶化した後に続いた言葉には、切望にも似た響きがあった。
相手の真意を測りかねていると、金蔵の無骨で大きな手が、秀丸に伸びる。
先刻、隠形に噛みつかれた耳朶に堅い指の腹が触れ、瘡蓋を痛みなく剥いで手は離れた。
「女を傷つけるのは好かねえから、まあ、こいつでいい」
指に付いた瘡蓋を見せ、金蔵はそれを血の満ちた杯の中へ落とす。
ジュッっと、激しく蒸発するような音と共に、霞がかるほど勢いよく湯気が立ち上り、血が焼け焦げる匂いが秀丸の鼻梁をついた。
「後はこれを鉄に混ぜて打てば良い。三日三晩、呪をかけて錬成しながら打ち上げる。此処に泊まるもよし、四日後、此処に取りに来るもよし。好きに待ってな」
「…此処に泊まっても良いか?食事の用意くらいするから」
「良いぞ。但し、兄者には自分から近づくな。わしは刀造りに専念すると周りが見えなくなる。お前さんに何かあっても、助けることは出来ない」
「…あの鬼、弓で射っても死なないか?」
「俺も兄者も皮膚が頑丈だからな…傷付けるのも無理じゃねえか?」
「…わかった。気をつける。それじゃあ、陽が落ちないうちに夕餉用の肉狩ってくる」
恐らく避けても、相手の方から近づくであろうが、それをあえて金蔵は言わなかった。
それを悟った秀丸は、複雑な表情で頷いて陽が傾き始めた外へと出て行った。
それを見届けた金蔵は、火窯の方に視線を向ける。
「…兄者の為に秀丸をここに繋ぎ止めたわけじゃねえからな。秀丸に手を出すなよ?」
「これは、随分と情が移ったものだな」
不機嫌さを隠さない声が、誰も居なかった其処に響き、場が陽炎のように揺らいで隠形が姿を現す。
衣が夥しい血で汚れた隠形の姿が見えた瞬間、部屋の中に生々しい血の匂いが噎せ返るほど漂い、金蔵は複雑な表情を浮かべる。
「あの短時間で、どんだけ人間喰ってきたんだよ」
「まだ三人。本来の力を取り戻すには到底、足りぬ」
呆れたように弟分が呟けば、隠形は何でも無い事のようにつぶやく。
頬はまだこけているが、その顔には生気が宿り始めていた。
「最近、厄介な陰陽師が都に台頭している。兄者も用心したほうが良い」
金蔵は窯の中から、どろどろに溶けた鉄を掬いだした。
そこに、己の血と秀丸のそれが混じったものを落として火箸で混ぜれば、鉄は青白い炎を上げて生き物のようにうねり鼓動を刻む。
「そなた、日和見な思想になったものだな。陰陽師など食らえばよかろう?」
「本調子じゃねえんだから、無茶すんなって意味だよ」
「そなたこそ、何を悠長に鉄など打とうとしている」
「童子切りを抜いたら、そのままやると秀丸に約束したからだ。兄者が童子切りに宿る以上、代替えの刀がいるだろ」
顎でしゃくって、隠形の腰に携えられた妖刀を示せば、隠形は鼻で笑う。
「律儀な事よ」
「わしは、口にした約束は守る」
「果たしてそれだけか?…妖に魅入られた娘、誰かに似た状況よな?」
刹那、金蔵の瞳が鋭さを増して、わずかに赤みを帯びて爛々と輝く。同時に、短い髪がざわりと逆立つ。
触れて欲しくない過去に触れられて、金蔵は明らかに苛立っていた。
「まどろっこしい言い回しで、わしに喧嘩を売るつもりか、兄者」
「要らぬ感傷で人を助けるのは、そなたの悪い癖よ」
「兄者こそ、秀丸を身代りにするな。それに、秀丸は土蜘蛛に所有の印を付けられている」
「それがどうした?欲しいものは奪う。それが我の流儀」
酷薄な笑みを浮かべ、隠形はまた姿を消した。
「あぁ、またか…」
人に干渉してしまうのが金蔵の悪い癖ならば、僅かであろうと戦天女に関わる事象に執着するのが隠形の悪い癖。
何度もそれで痛い目を見たはずなのに、改める事が出来ない厄介な衝動。
「昔ならいざ知らず、獰猛な土蜘蛛と、今の妖力で張り合おうなんて無謀だろうよ…」
隠形の気配の消えたそこで、金蔵は先を予見して深いため息を漏らした。